2019年02月19日

門人随想 「日の出」

                  by 拝師正式門人  西 川 敦 玄



 平成31年が始まりました。平成最後の年で新しい年号が始まる年です。筆を走らせている今、いささか時期を逸しているのですが、歳の瀬から年始にかけての風景を眺めてみます。

 毎年年が明けると清々しい気持ちになります。家族、親族、人によっては友人と、あるいは一人で夜半を過ごし、歳を越し、翌朝には初日の出を拝みます(私は実際には上がってしまった日を拝んでいるのですが)。一年の区切りをつけて、新しい一年に向けて思いを新たにします。では、お正月とは特別な一日なのでしょうか。

 日の出という現象は、ご存知のように地球の自転によって太陽光が東より差し込む現象です。地球を俯瞰する視点に立てば、日が出るとの表現は正確ではありません。日が出る(昇る)というのは、自分という視点から入光を表現したものです。初日の出とは北半球において考えると、地軸が太陽と遠ざかるように最大限に傾いた太陽と地球の関係(冬至)から、地球が9回ほど自転した時期において、ある時点での太陽光の照射開始時とでも言えば良いでしょうか。こうしてみると、太陽暦の1月1日に天文学的視点で特別な意味はなさそうです。
 それでも、私たちは地球が太陽のまわりを一周回った記念のひとして、次の公転にむけて気持ちを新たにしているわけです。
 一方で、文化的な側面に向けてみれば、1月1日が特別な日であることに異論を唱える人は少ないはずです。 日の出は日常で繰り返される現象ですが、大晦日から正月にかけてのそれは、世界中で非日常的な一日として過ごすことが多いのではないでしょうか。
 しかし、10年、20年と月日が経てば、幼少期には非日常の風景であったものが、年中行事として予定された行事、日常のイベントの一つとなります。一生を考えると何十回となく経験するわけですし、同じ民族でいえば、何百回となく経験してきている日常の風景とも言えます。
 お正月の行事、初日の出、初詣が非日常ではないとすると、日常や非日常といった考え方も簡単には捉えられないものと思ったほうが良いでしょう。

 では、反対に日常の生活を決まったように送るということは、日常的なのでしょうか。
ここで、いささか極端な例を思いだしました。
 ドイツの哲学者にカントという人がいます。著作はあまり読んだことが無いのですが、学術的業績のほかに、規則正しい生活習慣で知られた人です。
 有名な逸話だと思いますが、彼の日常は細部まで日々同じように送り、散歩の道まで決まっていたそうです。そして、散歩の道沿いに住んでいる人はその姿をみて時計の狂いを直したと言われているエピソードがあります。
 日常の生活が日々を決まったように過ごすことと仮定するならば、これなどは、もっとも毎日を日常的に生きていると言えると思います。しかし、これを誰も真似できませんし、私達の生活では規則正しく毎日物事が進むことはありえない訳です。
 このようにカントの如く日常を過ごすことは、私たちにとっては非日常と言えると思います。しかし、強制的に時間を整えることに鍵があるわけではないでしょう。そこを非日常の要点とみると、日常性と非日常を取り違えそうです。
 それでは、何が日常を非日常たらしめているのでしょうか。そこには、意志の力、積極的に自己を日常に関わらせていく力の働きがあるのだと思います。そして、面白いことに、まるで型にはまるような日常性のなかでの意志の発露こそが、非日常性を発揮する要点のようにみえます。

 では、私たちの日常生活はどのようなことで成り立っているのでしょう? 、日々の生活では、立ったり座ったり、歩いたり、走ったりすることがあります。
 ・・ん?!、 もしかして、以下のように言いかえても不自然ではないかもしれません。
 私たちの稽古では、立ったり座ったり、歩いたり、走ったりすることがあります。そうです。いつもの稽古です。私達が四苦八苦している、あの稽古です。
 元日をお正月の特別な一日として過ごすことをしてみても非日常とはならないように、稽古を特別なイベントとして行っても、非日常にはならないでしょう。つまり、稽古に出たときに(平日に対するお正月のように)、特別な歩き方をすることが非日常の歩き方ではないと思います。先ほど見たように、そこに意志の発露があることで、非日常性を発揮するのだと思います。
 しかし、如何に意志の力の発露が大事とはいえ、稽古にでている特別な環境が、意識を非日常に向かわせてくれることに変わりはありません。また、一年の節目になる日も同様に特別な環境です。

 今年も例年と同じように年が明けて、新しい年が始まりました。
 平成最後の歳の始まりを、私は新鮮な気分で、厳かに、希望をもって迎え、前に進んでいきたいと思っています。

                                  (了)


disciples at 21:09コメント(23)門人随想  

コメント一覧

1. Posted by もりそば   2019年02月20日 00:01
道場での稽古で最も有難いと感じることは意識の訓練が学べることが挙げられるでしょう(昨今は安易なセミナーが多いので道場という形態自体が貴重です)。そして日常生活においても積極的に意識的であれとも師父より指導を受けます。意識的に日常を送るという姿勢は人生の大部分の時間を占める日常を稽古に変えることが可能なのです。それこそ移動のための歩行、信号待ちの時間、食器の片付けなど全てが稽古になるというのはまさに秘伝でしょう。 有限の時間の使い方としてやり方を学ぶのではなく在り方を学べるよう合わせ方を高めてゆきたいものです。
 
2. Posted by 太郎冠者   2019年02月20日 01:31
毎日同じスケジュールで過ごす作家の話は、私も何人か聞いたことがあります。
もちろん、カントほど厳格ではなかったでしょうが、同じ行動の中で創造的な作品を作り上げていくのは、
さしずめ、型としての稽古の中で新たな発見をしていくのと重なるのかもしれません。

そう考えると、果たして自分の生活はどうでしょうか。
なんとなく同じような毎日を、仕事と稽古の狭間で過ごしてしまっているようにも感じます。
ある時は気が抜けているけど、あるときは気をつけようとする。
そんな自分にとって都合のいい行動が、意識的なものにつながっていくわけがないですね。
改めて、自身の生活と、稽古の中身を見直して反省しようと思います。
ありがとうございます。
 
3. Posted by 松久宗玄   2019年02月20日 01:36
ブログ初執筆ですね。勉強をさせて頂きます。

私は今年は偶さかに初日の出を拝むことが出来ました。
前回が記憶にないくらいだったので、やはり特別には感じられ、
その瞬間は日常を離れ、改めて心機一転の念を抱きました。

稽古において非日常を求められますが、
それは日常の延長に出口が無いからですよね。
日常=自分だから、非日常=非自分でしょうか?
自分を落とすにも、自分を見る強い意志が必要で、難しい所です。
その機微を捉えられるセンスを磨きたいと思います。
 
4. Posted by 川山継玄   2019年02月21日 01:33
この記事を拝読し、私の視界がいつもと違うものになったような気がします。
意志を持って、積極的に自己を日常に関わらせていく…このような発想は自分には無く、とても心に響き、今朝から一つ一つの行動を丁寧に、自分の身体を周りの空気と一体化させるような気持ちで過ごしました。

先日、師父から「継玄、バックパックのファスナーは、中央で揃えて閉めるといいよ。そうすれば、暗闇でも困ることがない。」とご指導いただきました。私は、時にどこかのファスナーが空いていたり、左角で揃えてみたり、右角で揃えてみたりと、締まりのない管理をしていました。

その時以来、私は、稽古でも、普段の生活でも、この事に気を付けるようになりました。
丁寧にファスナーを中心で合わせることは、まるで自分の心をその度に整えるようで、とても気持ちが良いものです。また、その合わせ方によって、その時の自分の状態が良くわかります。

新たな年を迎える時、一年の節目として大切に過ごせていなかったので、これからは、この特別な日に丁寧に関わって、自らを見つめ、新たな課題を発見し、一日一日の自身の成長に繋げていきたいと思いました。
 
5. Posted by 佐藤玄空   2019年02月21日 10:55
日常、非日常はなかなか難しい問題ですね。
どんな奇抜なことも習慣になってしまうと日常になってしまうし、「歩く」という日常も工夫で非日常になりうる。
そういう中で西川師兄もコラムは一つの回答として目から鱗でした。
たしかに普段何気なくしている呼吸も意志でコントロールすることにより体と心を変化させることが出来るくらいですから。
常に意志をもって物事行うということは万事が非日常なりうるということになります。
まさに「用意」ですね。
 
6. Posted by 円山玄花   2019年02月21日 23:20
視点が新しくなるような、良い記事をありがとうございます。
今後も楽しみにしています。

非日常の場として整えられた道場と、それ以外の自分を取り巻く日常の環境の差こそは、私たちに「日常と非日常」の相違を語らずして教えてくれている気がします。そしてその「差」に目を向けるには自分が意識的でなければ見えず、単に「道場は非日常である」として日常から稽古に通っていても、そこに存在する意味には永遠に気がつけないのだと思います。

非日常の場である道場が、自分の日常に。そして自分の日常が道場のように非日常になれば、日常も非日常も消えて、その間を行き来していた自分もなくなるのではないでしょうか。私は、その状態こそが何かを学べる唯一の状態であるように思います。学んでいきたいですね。
 
7. Posted by 清水龍玄   2019年02月21日 23:29
同じことをするのにも、ただ漫然と行うか、たとえ少しでも、それを注意して行ってみるかで、随分と違ってくると思います。
注意して行えば、勘違いも多々ありますが、気がつく事や問題点が見えてきたりします。
そして、それを改善していくことが、有意義な人生を送ることに繋がるのではないかと、今になって思います。

先ず必要になるのは、そのどちらを選ぶかであって、自分はどうしていきたいのかという思いが、一つの原動力になるのではないかと今、思っています。
 
8. Posted by マルコビッチ   2019年02月23日 14:28
日常と非日常について、もう少し深く考えさせて頂く機会となりました。
ありがとうございました。

例えば、昔の農村で暮らす人々にとって繰り返される日々の生活の中で、悩み、我慢、疲労を爆発させる特別な場は「お祭り」だったと聞いたことがあります。
神様の力を借りて、日常の自分を解放することができる唯一の場ではなかったのかと思われます。
現代は他にたくさん日常のマンネリから抜け出す方法はありますが、それが非日常かと言うと、この記事で敦玄師兄が書いて下さっているように、私たちが捉えようとしている非日常とはちょっと違うように思います。
「奇跡のリンゴ」の木村さんなどは、本を読む限りでは常に思い詰めるほどリンゴのことを考えていて、どこが非日常なのか感じられません。
何かを探求している人にとっては、境目がないのか、飛び越えているのかもしれません。
私たちが学んでいることは探求していくべきことであり、日常生活の諸事を自分の意志と意識で非日常に変換出来る数少ないことなのだと思います。
日々の中で、心して注意深くありたいと思います。
 
11. Posted by 田舎の神主   2019年02月23日 18:27
 「日常と非日常」についてですが、武術の稽古をする迄は、民俗学創始者の柳田國男のいうところの「ハレとケ」くらいにしか思っていませんでした。「ケ」は、慎みをもった日常生活。「ハレ」は、晴れの舞台とか祭りや神事という非日常。この「ハレ」という非日常では、興奮してテンションが上がった状態でも、決まりきった型や作法があるため、それを守れば滅茶苦茶にならずに、傍から見れば落ち着いた状態に見えると思います。すなわち、神道(日本人の宗教哲学)では、非日常にこそ守らなければならない型や作法があります。

 私は、武術性を高めるためには、自分の教わったことや分かったことを、日々の習慣となるように継続していきたいと思っていました。しかし、「日常を非日常たらしめているのは、意志の力、積極的に自己を日常に関わらせていく力の働き」という認識をあらためて考えると、自分はまだまだ認識が甘く、日常生活の中に、もっと意を用いてみようと思いました。
 
9. Posted by スーパードライ   2019年02月23日 21:04
―稽古は意識を非日常に向かわせてくれる。
まさに意識の訓練によって、考え方や動きが変化し日常も変わっていくと思います。
ただ、なかなかそれを維持することができい私にとって、敦玄師兄の云われる意識の発露がたりなかったなと思いしらされます。


こちらでは21日にまた地震があり、日常に緊張が走り、家族、ストーブ、電気、水、家と確認作業に意識が働きました。
二回目とはいえ、やはり気持ちは焦り、恐ろしさを感じました。
今までも日常では、家が揺れ続ける事は考えられませんが二回目ともなると三回目に対する意識が働きます。
三回目は来ないことを祈りつつ、次に備えて日常に対して意識の発露をしていきたいと思います。
 
10. Posted by ハイネケン   2019年02月24日 00:41
学生時分、カントの日常生活の話を聞いた時に「変人」であると言う自分勝手なインプットだけをし、そのままの認識でおりました。今思えば先生はその様にエピソードを扱った訳ではなかった様な気がします。
普段いかに自分の古い先入観やフィルタの掛かった目で見てしまっているのでしょう。
非日常であると言われているのに、その言葉の言わんとする事を「特別な事」としてしか認識していないのでは新たな理解が入ってこない訳です。
先日の本部稽古中に感じた、一切の無駄のない、整えられた機能美の様な緊張感を今一度、大切に噛み締めたいと思います。
 
12. Posted by 西川敦玄   2019年02月27日 12:40
☆皆様
皆さま、コメントありがとうございました。
本当に様々な意見や感想があって驚きました。未熟な私の拙い文章を読んでいただき反応していただけることに感謝です。また、文章が各人に読まれることで、ある意味別のものに転換や昇華されることを実感しました。このことは投稿するまでは実感できない得難い経験でした。
その中でいくつか私も(再)発見しました。
まず、言葉の定義ですが、非常に単純な意味で言葉を使いました。例えば、意識とは自分が現在認識してることとして使用し、ここでは、それ以上でも以下でもありません。
スルーされるように書いたのですが、記事の導入で、初日の出を地球を俯瞰する視点から見てみて、日常的な風景と説明しました。果たして地球を俯瞰して意識されるそれは、日常的といえるでしょうか?
また、お気付きの方もあるかと思いますが、意識と意志は異なりますよね。今回の場合、日常という意識、非日常という意識と言い換えられると思います。今回はそこに向かっていく姿勢を書いたつもりでした。例えば靴を脱いだことに対して意識的になるいうことはどういうことか?行動に注意するということは意識でなくて意志である筈です。ここで気付いたのは、意識的になるための意志が「行動に注意する」という、ちっぽけで限定された意志で良いのだろうかという疑問です。
改めて私はもう一度自分に問いかけたいと思いました。
今後ともよろしくお願いします。
 
13. Posted by 西川敦玄   2019年02月27日 12:41
☆もりそばさん
コメントされているように、私も道場に行って稽古する中で意識の訓練を学ぶことができることは、得難いことであると思っています。
日常がすべて、稽古になるかどうか。道場で指摘されたことをまず行ってみることから、始まっていくことがあると思います。
 
14. Posted by 西川敦玄   2019年02月27日 12:42
☆太郎冠者さん
ある時は気が抜けているけど、ある時は気をつけようとする。私もそのような状況でしたし、今もそんな状況だと思います。それで良いとは思いませんが、悲しいかなそんな状況にいる事からなかなか抜けられないとも思います。意識とは自分が現在認識していることだと思いますので、気が抜けていることを、その時に認識していれば、気が抜けている状態だと意識できているのだと思います。でも、それで良いわけはありませんよね。一緒に精進しましょう。
 
15. Posted by 西川敦玄   2019年02月27日 12:48
☆松久宗玄さん
初日の出を拝まれたのですね。私は怠惰にも初日の出拝もうという意志すら持っていませんでした。
そして、ごめんなさい m(_ _)m。コメントの意味がよく分からず、返せない……。コメント私でも分かるように書いてくださいね。
 
16. Posted by 西川敦玄   2019年02月27日 12:49
☆川山継玄さん
丁寧なコメントありがとうございます。ファスナーの合わせ方で自分の状態がわかるなど、とても良いですね。
私も同様に課題を見つめながら、共に成長していきたいと思います。よろしくお願いします。
 
17. Posted by 西川敦玄   2019年02月27日 12:50
☆佐藤玄空さん
日常をどのように過ごしているか? また、日常とは別に、平常心という言葉もあります。また、訓練とは想定外を想定して通常の精神状態で対処できるようにする事でもあるかも知れません。まさに、様々なことは玄空さんのおっしゃられるように、用意ということだと思います。
 
18. Posted by 西川敦玄   2019年02月27日 12:52
☆円山玄花さん
コメントありがとうございます。そうですね。玄花さんの言われることは、まさにその通りだと思います。そして、最後に一歩踏み込んだ視点を気付かせてくれて感謝です。
 
19. Posted by 西川敦玄   2019年02月27日 12:53
☆清水龍玄さん
龍玄さんの言われるように、自分がどうしていきたいのかという思いが大切だと思います。そして、私は、どちらを選ぶというよりも、先ずは思いや意志を、血管に流れる血潮の如くに躍動させることが大事だと思っています。
 
20. Posted by 西川敦玄   2019年02月27日 12:53
☆マルコビッチさん
提示された祭りなども、ある意味では非日常とも言えます。その意味では学生の頃の文化祭や体育祭も非日常ですね。日常生活での我慢を発散させるといえば、その通りでしょうが、おそらく、一般論では正しいのですが、今回の日常性ということの指しているものをとり違えているような気がします。
 
21. Posted by 西川敦玄   2019年02月27日 12:55
☆スーパードライさん
この季節に地震が再度起こり、北海道の皆様は大変だったと思います。そんな中コメントくださりありがとうございます。

北海道の皆様の日常が落ち着き、ますます精進されますことを祈っています。
 
22. Posted by 西川敦玄   2019年02月27日 12:55
☆ハイネケンさん
そうですね。確かにカントは変人かもしれません。私には事実が分からないのでエピソードから勝手に思いついたことを書いています。ですので、気にしないでくださいね。本部道場での経験をしっかり意識してお互いに稽古していきましょう。
 
23. Posted by 西川敦玄   2019年02月27日 13:04
☆田舎の神主さん
ハレの日の意識について、ならではの視点からのコメントをありがとうございます。私たちの日常の意識は、「ハレとケ」という概念とすこし違うことだと思います。

今回のコメントを呼んでの相互のコミュニケーションが、生命力あふれる意志を(私も含めて)確認する機会になればと思っています。
また、よろしくお願いしますね。
 

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