2019年02月07日

練拳Diary #83「スピード」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花



 前回の練拳ダイアリーでは「非日常」に着目し、それが、自分から遠くかけ離れたところにあるものではないことを私の視点から述べ、そこから師父の日常の所作一つ一つが非日常的であることをご紹介させて頂きました。
 普段はあまり語られることのない師父の日常の所作については、多くの方が興味を持たれたようで、記事を出した後は師父が作られる料理などについても、訊かれる機会が増えました。

 さて、今回はタイトルの通り「スピード」について、考えてみたいと思います。
 スピード、つまり「速さ」について考えるきっかけとなったのは、あるとき師父が、

 『君らに全く足りていないのはスピードだ。高度な武藝としての戦闘技術をトータルに修得したいなら、早急にスピードという事を理解する必要がある』

 ・・と、仰ったことです。
 単純に、戦闘に必要な動きとしてのスピードを身につけるだけなら、”スピードを理解する必要がある”とは言われないはずです。ここで指摘されている「スピード」とは何であるのか、またそれを理解することで何が変わるのでしょうか。

 スピードについて考えたとき、やはり最も厳しい規律で統制されている「軍隊」のことが思い浮かびます。
 規律とは、改めて言うまでもなく、物事の正しい順序や人の行為の基準として定められたものを指しますが、軍隊でのそれが厳しい理由は、一言で言えば命の危険を伴う仕事だからです。
 何かを守ること、そのために命を賭して戦うことは当然リスクが高く、ともすれば人生を失うことになります。どうすれば危機を回避できるのか、或いはリスクを低減できるのかを考えてみれば、結局のところ、自分勝手な解釈や判断をせずに、物事がどうなっているのかを冷静に見極めること、それに尽きるのだと思えます。
 危機とは、往々にして自分の浅はかな考えやちっぽけな想像の範囲など遥かに超えていることを思えば、厳しい規律は、自分勝手な解釈や判断を戒め、正しい判断力を養うという点において、とても役に立ちます。
 規律というものには「細かく」「窮屈」で「不自由な感覚」と言ったイメージもありますが、これを反対に考えてみて、「大雑把」「安楽」「自由な感覚」でも良いとされたなら、規律なしで一体何が身につくのか、自分は何を守れるのか、誰でも疑問に思うところではないでしょうか。

 さて、その軍隊で、一般社会から参入した私が真っ先に受けた洗礼とは、まさに「速さ」でした。最初に所属したところでは、集合は決められた時間の2分前には完了していなければならず、装具の着脱は無論最速で行い教官より早いことが当たり前、武器その他の点検も最速確実が要求されますし、報告などは短く要領よく、食事は長くて15分、お風呂も実質15分、洗面、洗濯、アイロン、靴磨きは、数少ない道具を大勢で効率よく時間内に回さなくてはならない・・などなど、訓練中に求められる動作から隊舎生活の全てにまで「速さ」が要求されます。
 最初は、何か説明をする教官の言葉も速くて聞き取れないほどでしたが、やがて、そこで要求される速さの中でなんとか合わせようとしていると、”どのようにすれば間に合うのか”という、一つの法則が見えてきました。その法則こそが、「ただよく見て、ただよく聞くこと」だったのです。なんとシンプルなことでしょうか。
 よく見てさえいれば、教官が次に何をしたいのかが分かり、視野も広くなるため、様々なことに対して心の準備が整います。よく聞いてさえいれば、次に何を指示されるかが分かるのです。
 それは、あらかじめヤマを張って備えているのとは違い、瞬間瞬間に合わせ続けることで見えてくるものです。ヤマを張っていると、外れた時に大幅に遅れますが、合わせ続けていれば外れることはありません。
そしてもう一つ大事なことは、要求される速さの中では、自分勝手に考えたり動いたりする余裕が微塵も入らないということです。つまり、先ほど述べた最も危機に対応できると思われる「自分勝手な考えが入らない状態」が養われるのです。

 私たちが道場で学んでいることは、高度な戦闘理論と技術を修得することであり、高度であるが故にその過程では自分を律することが必要とされ、それに伴って人間性や精神性が養われていきます。
 「自分を律する」とは、例えばピアノの調律と同様に、ある秩序に順って自分を整えていくことです。それが武藝修得に必要なことであるために、道場で学ぶにあたっての規約が厳密に定められているわけです。
しかし、どういうワケか人は言われたことをやりたくない、守りたくないという面を持ち合わせています。学生の頃、出された宿題に対して「これは自分に必要な、大事なことだから」と、せっせと取り組んだ人がどれほど居るでしょうか。
 よく考えてみれば、「やりたくない、守りたくない」と思っていることに対して、それをやるように指示されると、人は「延期」します。期限の定められていないことは無期限に、期限が定められているものは期限ギリギリに、という具合に、自分で再設定してしまうのです。
 その理由は?と問えば、余りにもありきたりな「やろうとはしているけれど、中々出来ない」というものが殆どではないでしょうか。
 誰でも、言われたこと全てに対してスムーズにこなせるかと言えば、決してそんなことはなく、誰もが皆必死に、新しい課題をこなそうとしているのです。ただし「やろうとはしているけれど・・」という、まるで自分を肯定するかのような理由を持ち続けていると、当然いつまで経っても出来ません。まずは、「自分はそれをやりたくないのだ」と、はっきり認めることが必要だと思います。

 本来は、自分が「課題」として与えられたことに対して、「やりたい、やりたくない、やろうとしている」ということを挟む余地は一切ないのです。与えられたなら、それは、その時その瞬間に必要なこととして存在するわけですから、その場で直ぐに取り組み始められなければなりません。
 ちょうど、私たちの稽古がそれにあたります。
 稽古で示される、師匠との動きの違いや対練での相手への影響の相違など、「これを理解する必要がある」と言われた時に、その場で分からなかったものは、家に帰ってからも、やはり分からないのです。
 これも「スピード」として考えることができますが、その時に生じている問題に、その場で取り組めるか、ということです。
その際に、「自分はやろうとはしている」という先ほどの言葉を持ってきたらどうでしょうか。或いは、自分や家族が生命の危機に直面している時、果たして同じように「努力はしているつもりだ」と言っている暇があるでしょうか。
 つまり、それを言える間は「余裕」であり、自分にとっては今すぐ何とかしなければならない重要な問題ではない、ということなのです。
この事実を、人はとにかく避けたがる傾向にあります。私自身も、例えば ”ゴミを片付ける” というようなささやかなことでさえ、「後で」と延期し、そしてそれは長いことそのままになってしまいます。
問題は、それがささやかな事柄だから仕方なく、大きな事柄にはきちんと取り組めるのかというと、そうでもないところです。小さなことにきちんと取り組めないと、大きなことにも取り組めず、そして反対に、小さなことにきちんと取り組める人は、大きなことに対しても、自分を何も変えることなく同じ姿勢で取り組むことができるのです。ここに見られる法則は、何を表しているのでしょうか。

 「戦闘」という、まさに危機と隣り合わせであることを稽古として学び、自己成長に繋げたい、という選択をした私たちは、「スピード」ということに対して今一度考えてみる必要があると思います。
 そして先ほども述べたように、「延期」をしてしまうことに対して「自分は本当はやりたくないのだ」という認識と、「課題とは、自分の好むと好まざるに関わらず取り組むべきものである」という二つの認識を、きちんと持つべきだと思います。
 なぜなら、自分の人生における課題はそもそも誰かが与えてくれるものではなく、自分で気がつき、受け取り、理解していかなければならないものだと思えるからです。
 せめて、同じ道を歩む師匠や仲間が自分に分かりやすく出してくれた課題に対しては、誠実に向き合いたいものです。
それができなければ、自分は一体この人生で何を学んでいこうというのか、それ自体が不確かなものになってしまう気がします。

                                 (了)

xuanhua at 07:01コメント(23)練拳 Diary | *#81〜#90 

コメント一覧

1. Posted by 西川 敦玄   2019年02月07日 12:34
速さについて、今回記事を読みながら気付いたことがあります。
主に仕事などでの経験の話です。

私も日常的な課題を先送りにしがちで、重要なことでも先送りにして、後悔の中で過ごすことが多くあります。一方で、現場では所謂、イレギュラーな緊急を要する出来事があります。この場合には、体内に湧き上がるアドレナリンとともに段取りの優先順位をつけてこなしていく必要があります。こちらに、ついては平均点以上で行えていると思っています(本当はどうだか?)。

所謂日常の課題を先送りにせずこなすタイプの人でも、緊急時に動けない人もいます。また、緊急時の動きは迅速に動ける人が、日常の課題については先送りしがちな人もいます。意外と双方のことを高レベルに行えているひとは少ないと思っています。

特に武術を志している中では、双方のスピードの意識を高め融合させていく必要があるのだろうと思いました。私も、日々の課題を肝に銘じていきたいと改めて思いました。
 
2. Posted by 太郎冠者   2019年02月07日 21:58
先日の稽古で、一度もやったことのないことをして、まるで自分がドタバタ喜劇のようにしか動けないことを体感させて頂きました。

今回の記事を読んで、訓練として習熟していくこと、そうすることによって得られる速さ、
それらが、軍隊においては日常生活の中にも染み渡っているのだと考えさせられました。
ただ決まりや規律によって厳しいというわけではなく、生活そのものを訓練としている点が、
一般的な日常生活との大きな違いかと思います。

ただ物事を早く片付けられればいいかというと、そうではなくて、物事は物事としてきちっとこなしつつ、無駄な遠回りをしない。
そうすることで生まれる速さとは、まさに武術で必要な速さ、スピードということでしょうか。
もっと日常生活の中での見直しができそうです。
 
3. Posted by 松久宗玄   2019年02月08日 00:09
師父からスピードについての課題を頂き、
その後、取り組みの中で幾つかの気付きを得られました。

先ず自分を変える必要があるとの認識はありますが、
実はその変えるスピードを「変える」ことには、
自分の中にとても抵抗があるという事。

その抵抗の奥には、
常に自分がレディな状態ではないという不都合な事実があって、
その為に準備や遅延が発生しているという事。

それ故、自分を律し、整える、
その継続的な働きかけが必要との原点に立ち返る事になりました。

スピードの中を生きられるという事は、
動き続けられる事、生き残れる事に繋がっていて、
深いなと思います。
 
4. Posted by 川山継玄   2019年02月08日 01:31
「携帯を忘れたので、遅刻の連絡ができませんでした。」
これが、私が先日の稽古の折に恥ずかしげもなく言った言い訳です。家を出る段階で、既に遅れることはわかっていたのだから、その場で連絡を取ろうとしていれば、携帯が無い事にも、気付けたはずでした。
…私は、遅刻の連絡をしたくなかったのです。遅れるような自分を認めたくありませんでした。

何度も同じことを繰り返し、それでもまだ、誤魔化したい気持ちは後を絶ちません。

大勢の人と関わりながら生活する中で、決まり事を大切にし、常に守る事、いたってシンプルのようですがなかなか守れません。

約束を守れない未熟な自分にもきちんと目を向ける事、認める事が、問題を解決する第一歩。師が示してくださる流れの中で、そのことをし続けることで、自分では到底解決できないと思ってあきらめていた事でも、解決に向けて歩みを進め、成長し続けられるのだと思います。
 
5. Posted by マルコビッチ   2019年02月08日 01:53
スピードについて考えた時、まず頭に浮かんだ事が「自分を挟まないこと!」でした。
物事を物事として捉えようとすると、自然に周りが見えるようになり、頭が機能し、身体が動くように思います。

言われたことに対してすぐに返事が出来るか、与えられた課題にすぐに向かい合えるか・・・そう考えると、私にはまだその辺りのゆるさがあると認識できます。
日常生活のなかで、やりたくないこと、苦手なことを後回しにしている自分をほったらかしにしています。
物事に対してさえ、優劣をつけ、好き嫌いで判断している愚かさにピリオドを打つ為にも、「自分を律する」ことにもっと本気になっていかなければなりません。
さあ、やろう!!
 
6. Posted by 清水龍玄   2019年02月09日 18:16
決まり事を守るということは、改めて、大変なことなのだと思います。
時間にしても、自分次第であっという間に過ぎていき、全く足りなくなるということがでてきます。
そこで慌てても、ただ堂々巡りになってしまいます。

自分を律することが大変なことであるということを実感します。
 
11. Posted by 田舎の神主   2019年02月10日 02:10
天皇即位記念の雅楽演奏会が近づいているため、しばらく弾いてなかった琵琶を一昨日奏でてみました。いつもでしたら、まるで認知症かと思うほど弾き方を忘れてしまっていて、表を見ながらおぼつかない手つきで始めるのですが、其の時は全く違い普通に弾けたので自分でも驚きました。もしかしたら、降下訓練や次の訓練により、能力が開発されたのかもしれない(脳細胞が少し繋がった)と思いました。

 20年以上昔の話になりますが、私は、雅楽の講習時に集団一酸化炭素中毒患者の一人となりました。サリン事件の後だったことと、場所が渋谷、また、炭火を使っていたのは、バーべキューではなく、訳の分からない楽器を集団で炙っていたということで、変な宗教かと面白がられ大げさに報道されました。病院に送られた人数が多かったので救急車は重傷者を運び、私は複数の人と一緒に金網のついた護送車で搬送されました。三時間の酸素吸入を終へ宿に帰ると、今まで経験したことのない頭痛が寝付くまでずっと続きました。たぶん、そのときに脳細胞が少し死滅したのではないかと思います。(元から少なかった可能性もあります)

 思い起こせば、私も修行の始めの頃に速さが要求された事がありました。寮に入っていた時、朝の起床は、大太鼓でたたき起こされ、布団をたたみ所定の場所へ、洗面等仕度後、白衣白袴に着替え、隊列を整え行進して神前に到着。清掃がすむと朝のお勤めの日供祭参列と祭祀奉仕。
 
12. Posted by 田舎の神主   2019年02月10日 02:11
(#2)
朝食は白飯と具の無い一汁のみ。夜勤宿営勤務者だけが生卵を頂くことが出来、その生卵を少し欲しいとねだったこともありました。その行動一つ一つに速さと正確さが要求され、少しでも不備があると全体責任となり、正座をして説教数時間が課せられました。やはり、よく見てよく聞く事は大事なことでした。そして自分勝手に考え動く余裕は全くありませんでした。ところが、せっかく修行をしても、その行動に慣れたり、時が経つと自分の好き勝手になっていきました。

 神道の祭式作法の中に、進下 退上 起下 座上 ・ 進左 退右 起右 座左という決まった足の運びがあります。下郎立ちといわれるように、下位の役の者が上位の者より作法をすばやく行ないます。上位の役の者は作法をゆっくりと丁寧に行ないますが、傍から見ると「もたもた」や「のろのろ」行なっているように見える人もいます。しかし、そのように見える場合は、作法の中に余分な動作が入っていたり、最短距離を通っていなかったりします。すなわち、ゆっくり丁寧に行なうという事は、決まった作法(手順)で、なおかつ正確に速く動ける方法を知っていないと、ただの「もたもた」「のろのろ」となってしまうのではないかと思います。   

 言われたことや課題を、「延期」「ギリギリ」に、自分で再設定してしまう。それらを是正するには、「本当はやりたくない」という認識を持つこと。また、「課題は自分の好むと好まざるに関わらず取り組むべきもの」これらの言葉は、稽古以外の日常生活でも当てはまるものが多くあり、早速取り組み、実行しなければと思いました。
 
7. Posted by ハイネケン   2019年02月10日 09:14
先日の稽古で「もっと…見てください」との指摘をされとても戸惑いました。
それまで気になって見ていた部分があり、無意識にそこの部分だけを見ていた事に指摘されたずっと「後から」気がつくのです。
よく稽古は目まぐるしく変化し捉えどころのないものになり、私はキリモミ飛行の様な精神状態になります。
その不安定な状態で真似し続けると時々「その方向で」と指摘されます。すると余計に混乱し自問してしまうのです「何がその方向なんだろう?」
普段から自分勝手な考えを挟み込む事をどれ程繰り返していのるでしょう?
スピード感すら感じられません。

想像ですが整理整頓・準備・後片付けの行き届いた隊舎生活を思うと今居るここは部屋ごと捨ててしまいたくなる様な有様です。
「まず隗より始めよ」
 
8. Posted by スーパードライ   2019年02月10日 12:05
今回のブログで自分を律し整える重要性を実感しました。
私が初めて本部道場での稽古の時ですが、荷物の置き方を注意されたときに自分のことを考えるきっかけとなりました。
その時の自分は、想定外の出来事に焦りすぐに直しましたが、改めて道場ではいつでも稽古であり、何事もきちんと行動しようと意識することを心掛けるようになりました。 
(以前の自分よりです。汗)
その心掛けは、日常の仕事の心構えも変化が生じ、判断や行動に良い影響が起こり、稽古のおかげだと感謝しております。

今回のブログは、動けるとは、動くスピードではなく迷わない、慌てない、見えた状態でその目的のために動ける速さであり、そのためには、自分を律し整えていくことが必要であること、どんな小さな事でも同じ姿勢で取り組むことが重要であることを教えて頂きました。
 

スピードの意味を日常でも意識して、もう一度自分の行動を注視し取り組む姿勢を整えていきたいと思います。 
そして太極拳の学べる受容が培われるように精進して参ります。
 
9. Posted by 佐藤玄空   2019年02月10日 21:40
「スピード」は自分の課題の中で最優先させなければならないと思っています。しかし心のどこかで「まあゆっくり考えてからにしよう」とする今までの自分もいます。
「ついこの前」と思っていたものがすでに数年たち、それを今になって愕然としてしまう。
下手な考え休むに似たり、いっそのこと考えないでとにかく行動しなければ。
今回のブログは刺さりました。ありがとうございます。
 
10. Posted by もりそば   2019年02月10日 23:49
自分がしたくないことに向き合うといろいろ言い訳を挟みたくなる自分のエゴと戦うことも稽古ですよね。それにしてもなぜ人は言い訳をするのでしょうか?課題の解決より延期による省エネを好んで選びがちなのが人の性なようなので十分注意したいところです。言い訳はあくまで自分の幼稚な基準でしかないので早めに捨て去って高級な基準を選択できるよう己の質を高めてゆきたいです。
 
13. Posted by 円山玄花   2019年02月11日 20:18
☆西川敦玄さん

スピードに関わる現象が、緊急と日常で2種類観察される、というのも面白いことですね。
推測するに、双方に見られる問題点を解決するカギは、いかなる状況でも「平常心」を持って対応できるかということと、いかにして自分の実力の100%以上をキープできるかとということになりそうですが、それを自分のものにするには、やはり訓練しかないと思います。
自分の場合は、緊急と日常を分けて考えてしまうような心があると、課題に対しても「今」と「後」に分けてしまう気がします。
 
14. Posted by 円山玄花   2019年02月11日 22:13
☆太郎冠者さん

いかに道場で高度な稽古を行おうとも、家に帰り一週間もすれば、悲しいかなアタマも体もすっかり元の人に戻ってしまいます。軍人は、そういうわけにはいきませんし、その様では訓練を受ける意味もなく、大事なものを守れるはずもないと直感的に分かるので、必然的に生活そのものが訓練になるのだと思います。規律はその助けとなるにすぎません。
そして訓練では、物事をこなせる速さが問題になるのではなく、「速さ」そのものをもっと理解する必要があるのだと思います。
 
15. Posted by 円山玄花   2019年02月11日 22:18
☆松久宗玄さん

>常に自分がレディな状態ではないという不都合な事実

まさに、「スピード」で問題とされることの一つに、これが入っていると思います。
物事をこなす速さではなく、常に対応できる速さの状態。
また次回、書いていきたいと思いますので、よろしくお願いします。
 
16. Posted by 円山玄花   2019年02月11日 22:32
☆川山継玄さん

「自分を認めたくない」「誤魔化したい」という気持ちは、しぶとく、簡単に解決できないものですね。ただ、以前に師父が「無人島にたった一人流れ着いたとして、同じこと(自分を認めない、誤魔化す)ができるか?」と問われ、衝撃を受けたことがあります。

今、自分がたった一人なら、そんなことをする必要がありませんし、そんなことをしている余裕はないのです。状況を把握し、水と食料、住まいを確保し、様々なことを山ほど考えなければなりません。ならばなぜ、今の自分はそのような生きるために必要のないことをわざわざ選択して、さらにそのことに対して悩むのか、とても興味深いと思いました。

まずは自分を知ること、それが敵を知ることにもなり、生き残れることでもあるのだと思います。
 
17. Posted by 円山玄花   2019年02月11日 22:42
☆マルコビッチさん

>苦手なことを後回しにしている自分をほったらかしにして

苦手なことは本当に嫌なものですよね。自分もそうです。なぜかというと、苦手ゆえに悩んでいる時間が多くなって、なかなか先に進まないからです。でも、ある時ふと思ったのです、「悩んでいるだけで考えていなかったな」と。
それはまるで、ピーマンが苦手だからといって、ただ食卓に出されたピーマンを食べあぐねているようなもので、ちょっと考えたら違う味をつけるなりなんなりして、いくらでも食べるための工夫をできるようなものです。・・例えが悪かったでしょうか。

「自分を律する」とは、そのようなことも含まれていると思うのです。
つまり、好き嫌いで判断をせず自分の頭で考えて工夫する。そうしたら、今この瞬間よりはその問題を乗り越えられるような気がします。
 
18. Posted by 円山玄花   2019年02月11日 22:53
☆清水龍玄さん

マルコビッチさんにもピーマンの例えで書きましたが、誤解を恐れずに言えば、「決まりごとを守らなきゃいけないけど、守れない」ということと、「ピーマンを食べなければいけないけど、食べれない」ということは、そこに在る問題としては同じだと私は思います。

龍玄さん自身が仰っているように、時間は長くもなれば短くもなり、それは自分次第です。ならば、自分の何によってそれは変化するのか。それが理解できれば、堂々巡りに終止符が打てるような気がします。
 
19. Posted by 円山玄花   2019年02月11日 23:08
☆田舎の神主さん

修行というものは、どの分野であっても内容こそ違ってもそこで要求される中身は、変わらないのですね。

>上位の役の者は作法をゆっくりと丁寧に行ないますが、傍から見ると「もたもた」や
>「のろのろ」行なっているように見える人もいます。しかし、そのように見える場合は、
>作法の中に余分な動作が入っていたり、最短距離を通っていなかったりします。

コメントを拝見して、まさにガンハンドリングの訓練が想起されました。
素早く動いても雑なだけで狙いはつかず、狙うためにゆっくり動けば、余分な動作で相手に丸見えとなります。どちらにしても、戦地で要求される心身の状態には程遠いのですが、それらの使い物にならない動きを制御し、整える役割となるのが「ルール、決まり」ではないかと思います。
その基準に沿って動けるよう、自分を制御していくこと。それは自分をさらなる高みへと導くものであるはずです。
 
20. Posted by 円山玄花   2019年02月12日 18:29
☆ハイネケンさん

>「その方向で」
>「何がその方向なんだろう?」

もうお気づきのことと思いますが、これが「稽古にならない取り組み方」の一つですね。
なぜなら、「何がその方向なんだろう」と思考した時点で「その方向」ではないからです。
さらに、その思考は勝手に生じたのではなく、自分がそのように思考したい精神状態であることを意味しますので、その時点で本来は稽古に向かえる状態ではないと言えます。

稽古に向かうとは、様々に表現されますが、私は例えば馬に跨って全力疾走している状態だと考えることがあります。師匠と、大勢の仲間と、荒野を土煙を上げながら全力疾走しています。手綱を握り、馬と対話し、師匠の出す指示に耳を傾けています。
その時、師匠が仰います。『その方向で!』・・・。
そこで、何がその方向なのかを考える必要も、分かる必要もないと思います。
考えられる状態とは、馬で全力疾走するチームをテレビで眺めているようなものだとも、言えるかもしれません。
 
21. Posted by 円山玄花   2019年02月13日 17:28
☆スーパードライさん

以前に師父からお伺いしたお話ですが、
ある雨の降る日に、禅のマスターに教えを受けるために、マスターの家を訪問した一人の弟子が、部屋に入ると、「お前は、自分のさしてきた傘を、入り口のどちら側に置いたか」と問われます。
さて、それに答えられなかったその弟子は、「お前はまだ学ぶ準備ができていない」と言われ、帰されてしまいました。

私は、このお話がとても深く心に残っています。
今日はどのようなことを教えてもらえるのか、心待ちにして行った師匠の家では、さしてきた傘をどれだけ綺麗に畳めたか、人の邪魔にならないように置けたかが問題にはされず、自分がその傘を置いたことに対して意識的であったか、それだけが問われたのです。

今、私たちは「意識的であること」がいかに武術的であることと深く関わっているか、それを日々実感させられています。
精進したいですね。
 
22. Posted by 円山玄花   2019年02月14日 22:12
☆佐藤玄空さん

人は、自分に必要なことしか見えないし、聞こえない、ということを聞いたことがあります。
もしそうなら、「考えていられる」だけの状態は、本当は自分にとって取り組む必要がないと判断しているのだとも言えます。
人生でも、道場でも、家庭でも、一体私たちはどれほどのことが見えていて、聞こえているのでしょうか。「もっとよく見る、もっと耳を傾ける」とは、今より高みを目指す人にとっては、必要不可欠な理解されるべきことなのだと思います。
 
23. Posted by 円山玄花   2019年02月14日 23:15
☆もりそばさん

私が思うに、人が言い訳をするのは、ダメな自分や出来なかった自分を正当化し、少しでも良く思われたいためではないでしょうか。

指摘されたことや生じた問題に対する自分の言い訳は、本当にはそれらに対して何の関係もないことであり、その関係ないことを相手に述べることに躍起になっているために、人が自分に何を指摘しているのか、何が問題となっているのかは全くわからず、ましてや相手が何のためにそれを伝えてくれているのか、何が原因でその問題が生じているかなど、理解できるはずもないのです。

他人からの指摘、意見、注意、罵倒など、自分に与えられた全てのことに対して、言い訳をすることをやめてみると、驚くほどたくさんのことが見えてきます。
私など、もちろん最初は、身に覚えのないことに対しては、やりきれなさや煮え切らない思いによる葛藤で気がおかしくなるのではないかと思いましたが、自分が言い訳をしていたために見えなかったこと、分からなかったことに気がついたら、それもなくなりました。
言い訳をしたくなる自分は居ますが、しかしそれが認識できます。

道場とは、自分が「言い訳」を持ち込めない貴重な場所だと思います。
 

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