2018年11月26日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その39

   「備えよ、常に」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 9月の終わり、台風24号の直撃により、静岡県の西部では大規模な停電の被害が発生しました。日本列島全体を見てみれば、最近の台風によって多くの場所で様々な被害が発生していましたが、静岡県にはそれほどの被害がなかったため、台風24号は、どこかで「大丈夫だろう」と油断していたときに来たようにも感じられました。

 特に、停電が起きたことによって、我々現代人の生活がいかに電気を使ったものに依存しているかを、改めて感じさせられたものです。
 あって当たり前だと思っていたものがなくなると、途端に人間は、どうしたらいいかわからなくなるものです。

 市内でも、電気が使えなく、携帯電話の充電ができない市民が、市役所に設置された充電スペースに殺到したといいます。当然のことながら、それにも限界があるので、最終的には自分自身の手でどうにか問題を解決していかなければならないことになります。

 幸いにして自分の場合は、第一回のCQC特別講習会を受けたこと、そしてその前に起きた北海道での地震の被害を伝え聞くことで、「これではいけない」と反省し、少しずつではあるものの災害に対する備えを進めていたところでした。
 食料、水、そのほか必要な装備を持ち出せるようにしておくこと。
 当然のこととして、誰しもが備えておいてしかるべきもののはずです。
 ですが、本当は一番肝心な、「何があっても対応する」という心の準備こそが、実際に自分の身に降りかかってくるまで、足りていなかったことに気づいていなかったと思います。
 それこそが本当は最も持つべき用意であり、いつでも「使える」ようにしておかなければならないものではないか、と思います。

 このことは、自然災害に限らず、あらゆる場面、日々の生活や非日常である闘争の場においても必要なことではないか、と考えさせられます。
 それは言い換えれば、居着かない状態といえるのかもしれません。

 たとえどれだけ体を鍛え、技を鍛え、相手の攻撃にはどう対応する、こちらからどのように攻撃するといったような、格闘技的なメニューをこなしているだけでは、一番大切な部分は本当の意味では身につかないのではないかと思います。
 もちろん、ルールの決められた試合の中では、数を重ねた分だけ技巧は増すでしょうし、対応できる場面は増えるかと思います。
 ですが、一度そのルールから離れてしまった時、果たして自分がどのように動けるのか、と考えると、疑問に思わざるを得ません。

 太極武藝館の稽古体系を考えてみると、そのような考え方とは一線を画した発想において組み立てられていると感じます。
 それはルールのある、ルールに守られた戦いで勝つことを目的としたものではなく、自分の身は自分で守らなければならない、もっと強大な力と対峙する必要のある状況で生き延びるために考え尽くされたものではないでしょうか。

 もちろん体は鍛えるに越したことはありません。自由に動ける体は何にも増して生き残る機会を与えてくれるはずです。
 ですが、どれだけ体を鍛えたとしても、大規模な地震の前では人間の力では打ち勝つことはできませんし、台風の大風では、人間を超える大きさのものがいとも簡単に飛ばされていってしまいます。
 そこで必要なのは、生き残るための考え方なのだと、道場の内外問わず、あらゆる機会を使って師父は我々に示して下さっています。

 ちょっとした傷を負うだけで人間は行動できなくなってしまいます。
 災害時、手を怪我しないようにグローブをするために持ち歩く。ほんの小さな考え方によって、自分が生き残る可能性は大きく変わってきます。それによって、周りの人にも手を貸せるようになるかもしれません。
 ところが、その単純な発想を、現代人は忘れてしまっているように思います。
 危険を察知するセンサーが鈍ってしまっているのです。

 多くの人が「どうしよう」と途方にくれている間、我々、太極武藝館の門人は、考えることをやめず、的確に動くための訓練を受けさせていただいています。
 これは非常時に身を守ることにも当然なりますし、日常の生活の中においても、それまでは気づけなかった危険に気づき、問題が起こる前に対処できるようにセンサーを働かせることにも繋がっていると、強く感じます。

 現在、世界中で「交通戦争」と揶揄されるほど、交通事故による怪我や死者の数は多いです。その数は、いわゆる戦争による被害者の数とは比べものにならないほどのものです。
 ある意味ではそれほど危険に満ちた生活を我々は送っているはずなのですが、実際に街に出て外を見渡してみると、果たしてどれほどの人が、実際に危機感を持って車の運転をしているでしょうか。
 車という凶器は、自分を被害者にも加害者にもする可能性を秘めています。もちろん、車を使うななどという過激はことは言いませんが、その可能性を頭に入れておくのとそうでないのでは、安全に対する気配りに大きな違いがあるのではないでしょうか。

 師父に示していただくまで、平和ボケ現代人の代表でもある自分は、「危険なものはどこか遠くの出来事」と思っていましたし、それが全て抜けたなどということは、今でも全くありません。相変わらず平和ボケはしてますし、鈍ったセンサーでしか物事を見ることはできていません。
 ですが、「そうではないのだ」と根気強く示していただいたお陰で、鈍りきった自分にもようやく何かがおかしいぞ・・・?と、思えるようにはなってきたように感じます。

 そうして見ると、太極拳の稽古もまた、これまでと違った見方で見ることができるような気がします。なんのために立つ稽古をするのか。体を鍛えるのなら、もっと効率のいいやり方はあるのかもしれません。ですが、それでは真の意味での、あらゆる状況に対応できる体は出来ないのだということが、以前よりは感じられます。

 稽古で歩法ばかりに多くの時間が割かれることにウンザリし、つい「一体いつまでコレをやるんですか?」とこぼした門人が居たという話を聞いたことがありますが、おそらく、それを本当に理解できるまでは続けなければいけないのではないかと思います。

 先日行われた野外訓練では、様々な発見がありました。
 特に、物事を「訓練」として取り組むことの奥深さを味わったように思います。
 野外訓練に向けて、我々研究会のメンバーは特に念入りにロープワークの特訓を行ったのですが、ただ漠然とやるのではなく、それを訓練として行うように、師父に工夫して頂いたのだと思います。

 それまでのキャンプでは、自分で覚えた(つもりになっていた)ロープワークを使ってやっていました。一応、形にはなり用は成すものの、ただそれだけともいえます。
 ですが、今回のロープワークは、自分の手の動き方、完成した状態、明らかにそれまでとは別ものとなっていました。もちろん覚えるべきものはまだまだたくさんあるのですが、訓練による効果をしっかりと体感できたことは、今後の大きな励みになるように思いました。

 ここには、先ほど述べた「備え」というものに通じるものがあるように感じます。
 道具は、以前使ったロープやタープ、ペグと同じものでした。
 変わったものといえば、自分の準備です。
 同じものを使っても、これだけ違うのです。

 このことは、普段の生活や、特に稽古の中でも大きな意味があることだと思います。ただ漠然と、日々の稽古をメニューとしてこなすのでは、意識的に練られた訓練との差は、いざ実際に使う段になって初めて大きなものとして出てくるのではないかと思います。

 これは恐ろしいことでもあり、ものすごく楽しみなことではないでしょうか。
与えられたチャンスを生かすも殺すも本当は自分次第であって、自分が大きく変わる機会もちゃんとあるということなのですから。

 何もないように思える日々の生活の中でも本当は人は問題に直面し、解決するチャンス、そして自分が変われるチャンスもあるのだと思います。
 そのことに気づけなくなってしまっている、センサーの鈍さこそが最大の問題であると、師父は常日頃から指導をして下さっています。
 それを生かせるかどうかは自分の心掛け次第だと思いますし、それだけのヒントを与えられてなお、何もしないのはただの怠慢でしかありません。

 まだ愚鈍な日常を完全に脱却は出来ていませんが、日々目の前に現れるものとしっかりと対面し、自らを肥やす土壌として活用していけたらと思います。

                                 (了)





 *次回「今日も稽古で日が暮れる/ その40」の掲載は、12月下旬の予定です

noriko630 at 22:22コメント(13)今日も稽古で日が暮れる  

コメント一覧

1. Posted by 川山継玄   2018年11月27日 15:09
私の地域でも、台風24号で26時間ほど停電がありました。その際は心構えもままならず、これが何日も続いたら、消耗しきってしまうであろうと、ぞっとしました。第一回CQC特別講習会で学んだにも関わらず、まだまだ平和ボケは抜けきらないと、反省しました。

今回第2回CQC特別講習会や研究会で、ロープワークや降下訓練などを学ぶことによって、生活と稽古や訓練のつながりをようやく感じることができるようになったと感じます。

先日行われた野外特別訓練では、事前に「きちんと寛げる椅子を用意するように」と念を押されました。玄花后嗣がその自己管理の必要性を丁寧に説明してくださいました。
以前の私を振り返ると、我慢すれば、座れれば、睡眠時間を削れば、ほぐさなくても、今じゃなくても…「れば」や「ても」を並べ挙げて、何とかなる、とその場をしのげる方法を選んでいたました。けれども、実際にロープワークや降下訓練を行ってみると、そのようなことを言っていると、自分の身を守れない、あっという間に谷底へ落ちてしまうということがわかってきました。
訓練をするたびに認識が鮮明になっていき、危機感が心身に浸透していきます。それは、何もしていなかった、何も知らなかったときに感じた「焦り」とは違っています。
ご指導いただく一つ一つの事に、自分の考えを挟んでいては間に合いませんし、本質の理解ができなくなると実感できます。
 
2. Posted by 川山継玄   2018年11月27日 15:11
装備などの準備は基本として、「何があっても対応する」という心の準備こそが重要であるとおっしゃる太郎冠者さんに、大きく頷きました。
この「心の準備」をするために、師父があらゆる角度からのアプローチで、ご指導くださる事に感謝が溢れます。
それを共に切磋琢磨し合える門人の皆様がいる事も本当に有難いです。皆さんのおかげで、一人では気付けない事、あきらめていた事、などに挑戦し、歩き続けることができるのだと思います。

これからも、精神の軸を立てて、一門人として恥ずかしくないよう、精進したいと思います。
 
3. Posted by 佐藤玄空   2018年11月27日 16:12
この現代に本当にブラックアウトなんて実在するんだと再認識した北海道の地震でした。
またあの地震が真冬であったならと考えるとその被害はとてつもなく甚大であっただろうと思います。
我が家も3日間ほど停電や断水になりましたが15年ほど使っていなかったキャンプ道具を引っ張り出して比較的楽に乗り越えることができました。
キャンプなどもサバイバルとブッシュクラフトという考え方がありますができればどんな時にも楽しく生き残ればそれに越したことはありません。
そのために身一つで放り投げられても平気なように備えは必要だと。

改めてキャンプ道具を手入れしていたらコールマンの508ストーブがジェネレーターが詰まってダメになっておりました。悲しい。
 
4. Posted by 西川敦玄   2018年11月28日 00:28
まさに、太郎冠者さんの言われる通りだと思います。今回の野外訓練では、課題を与えられながら、しかも、それぞれが主体的に考えて行動していくことを学んだと思います。人がみている世界は、自分の見たいと思う世界です。まずは、知らないことを知らないと認識していくことから、世界が広がると思います。危機に対する備えは、自分がみたくない危機に対する知識を増やす事で、見える世界が広がること。訓練とはそのような事かもしれません。
 
5. Posted by マルコビッチ   2018年11月28日 00:45
実は少し前に、小さな事故をおこしてしまいました。
小さなといっても事故は事故で、車を運転していた私の過失です。
生まれて初めての事でした。
台風による停電も、この事故も、何も起こっていないときの方が「何かあったらどうしよう・・・」と心配していた私ですが、実際に突然のアクシデントに遭遇しても、意外に落ち着いて行動している自分がいました。
野外訓練の際も、何日も前から「私に出来るのかな・・ちゃんとこなせるかな・・」と心配ばかりしていました。
ところが、いざとなったら自然に考え行動していました。
道場で練習してきたロープワークも、躊躇する事なく実践として使う事が出来ました。
些細な事ではありますが、これは訓練で培ってきたこと(心の準備)の表れなのかなと思っています。
今回の経験は、乗り越える事によってさらに、具体的な備えと心の備えへの意識を高めていける機会になったと思います。
 
6. Posted by 松久宗玄   2018年11月28日 01:09
今回のCQC野外訓練は、いわゆる講習とは一線を画する内容でした。
訓練というものは、そもそも「目的」が「生き残る為」に行われるもので、
その始まりからして違うものなのだと実感されました。

訓練で実感された、想定によっては生き残れないかもしれない、との危機感は、
普段の生活では相当に薄まってしまったと感じます。
現代社会の危機感とは、仕事を首になって路頭に迷うかも、位ですが、
それでも首になって直ぐに生命の危機に陥る訳ではなく、
リアルな危機感は実感し難いですね。

先の台風による停電に際しても、
私はその時には直ぐに復旧する「だろう」とのバイアスに捕らわれ、
一晩様子を見るに留まり、直ぐに対策に動く事が出来た訳ではありませんでした。

現代社会も、自分も、実は脆弱であるとの前提に立って物事を見直すと、
常に備えなければならない、自分を鍛え直さないといけないと、
危機感に背を押される気持ちが強まります。
そして、その生きる為に真剣である事は、自らの軸を立てる意識を高め、
ぼんやりした日常の輪郭をシャープに研ぎ直す良い機会となりました。
 
9. Posted by 田舎の神主   2018年11月28日 16:10
(#1)
強大な力と対峙する必要のある状況でも生き延びる。何があっても対応する。生き残るための考え方。考えることをやめず、的確に動く。これらの言葉は、まさにそうだという出来事がありました。
それは、7年前の3,11からずっと絶え間なく続いた災害のため、土砂災害の法律が新たに作られたことによりおこりました。 以前は「がけ条令」というものがあり、山(がけ)の高さや土質により、法切りの角度やコンクリート壁やブロックを積み、土砂の流出を防いで建物を建てることが出来る。ものでしたが、今回の法律は、がけ条令をクリアして、県の認可を受け施行した物件をまるで無効とするような、「危険区域の指定」でした。
それにより、私の奉仕する神社は、土砂災害危険区域の指定を受け、これまでの流れから推測すれば、これからは、その場所に神社を建て直すことは出来ない。ことと考えられます。 田舎の特色の無い神社は終わるという事を意識はしていたのですが、まさかこのような終わり方をするとは、昨年1300年祭を行ったのに・・・まさにその手があったか。という状態です。しかし、これで物事は終わりではなく、神社の所有する山も指定を受けたのです。

12年前に神社山林の南側に新興住宅が50軒程でき、がけ条令をクリアするために、神社の山の木を伐採して山裾を法切りするよう、頼まれて仕方なくさせたことであり、県の認可を受けて施行した業者の事業、それも、法の部分の土地は無償譲与なのに・・・県の説明は、災害が起きる、山が崩れる、住宅は壊れる、人は死ぬ(非難して助かる)、民地の山は持ち主の責任です。だそうです。もし災害が起これば、もはやこれまで。夜逃げ、自殺、一家離散や一家心中という道しか無いのか。とおもってしまいました。
 
10. Posted by 田舎の神主   2018年11月28日 16:11
(#2)
しかし、県土木事務所の説明会では、自分でも驚くほど緊張や興奮もなく、冷静に意見を言うことができ、これから行なうことが冷静に考えられ、自分の出来そうなことから始めて努力しようという気持ちになりました。 まさに、生き残るための考え方。考えることをやめず、的確に動く。です。武藝館での稽古や訓練のおかげだと思いました。

早速、山の下の住民が災害時に不安に思っている、山の朽木の除去から始めました。遠くから見ると朽木でも、近くに行くと大木です。近くに行くにも斜面がきつく、つるが絡み、転びながら進みます。直径50センチの朽木でも、山仕事のブランクのある私には、チェーンソーで倒すまで20分もかかりました。それも、違う方角に倒れたため大変な思いをしました。見渡すと、まだ、直径1メートル以上の大木が10本余もあるため、すぐに断念しプロに任せることにしました。

私は、昭和20年以前のもの、伝統、文化、地域の慣習、宗教もしくは宗教的なもの、冠婚葬祭などは、日本らしさや、日本人の生活に必要だったものと思います。しかし、これらのものは、ただの経済効果や生活に必要のない滑稽なものに、いつのまにか変えられてしまったのではないかと思います。「田舎の神主」も、今以上滑稽なものにならないよう『訓練・備え』をしたいと思います。
 
7. Posted by 円山玄花   2018年11月28日 17:22
道場の稽古から離れて、一般の方の集団に入ると、如何に普通の人が危機感を持たずに危機に晒されているかが分かります。たとえ軍人の集団であっても、きちんと危機管理を意識的に行なっているのは約1割です。

太郎冠者さんが言われるように、一定のルールの中で上を目指すことは比較的易しいですが、そのルールが無くなった時こそが、自分の本当の実力であると思います。
道場には、たくさんのルールがあります。それらは全て自己鍛錬と自己成長のため、自身の修練を助けるために設けられたものですが、ひとたび道場から離れた時に、つまり、一見ルールが適用されないと思える状況に置かれた時に、自分がどのように向き合えるのかで、自分の本当の実力がわかるはずです。
道場でも、日常でも、ルールの有無に関係なく人生そのものを自己修練の場として捉えられれば、「ルール」よりも遥かに大きな「法則」が見えてくるのだと思います。
その「法則」を実感し、認識するためにこそ、稽古も野外訓練も、そして日常もあるのだと思えば、ぼやぼやしてはいられませんね。
 
8. Posted by 清水龍玄   2018年11月28日 23:46
先日の野外訓練で作ったシェルターは、タープとパラコード、そして教わったロープワークのみでできていて、とても感動しました。
同じロープワークを学んでも、そこまでの工夫や発想を持てるのか、いや、そもそも、それだけの工夫の必要性を感じて生活を送っているのかなどと考えさせられました。
どれだけ素晴らしいものを学ぶ機会に恵まれても、受け取る側の意識次第で発展性のあるものになるか、それとも、結び目を作っただけで終わるか、同様に、普段の生活においても、そこで経験したものが身になるのかどうか、自分の意識次第で全く変わってしまうと、考えさせられます。
 
11. Posted by スーパードライ   2018年11月29日 17:31
今年は、初めての大地震を体験をしました。
地震が起きている時は、家が壊れるのでは、家族の安否や職場の状況、周りはどうなっているのかと考えながら必死に床と壁を抑えながら地面の揺れに耐えていました。
私のところは、幸いに断水にはなりませんが停電が長く続きました。
もし、冬の猛吹雪の冷え込みが強い状況であったら、断水にならなくても水道の凍結も予測され、家の窓ガラスなども割れていたら雪は家の中に吹き込み、停電になれば当然ストーブも使えなくなるなど間違いなく、何も備えがなければ最悪な状況に陥ることになります。
備えることの重要さを身体で認識しました。

また、今年の本部道場の降下訓練でも、降下するまでの手順がいかに安全に降下する備えになるかを実感させて頂きました。

太郎冠者さんが言われる「何があっても対応する」という心の準備、居つかない状態であるという準備は、太極拳の稽古の取り組み方にまた一つ気づき与えて頂いたように思います。
 
12. Posted by もりそば   2018年11月29日 23:16
危機管理の話題なので先日の台風で驚いたことを書いてみます。停電時に例のごとく人々がコンビニに殺到して何を買い求めたかと思えばなんと乾電池(あとカップ麺)を求めていたことでした。この大地震が起きると予想されている静岡県においてたかが数百円の乾電池さえも備蓄してない人が大勢いるという事実は日本人は本当に異常な精神状態で暮らしているのだと思い知らされました。これからは異常な気象だけでなく世界秩序の矛盾解消のための局地的な紛争もあり得ます。米国と中国の確執が表面化し日本も空母部隊を準備する時代に突入しましたね。このような変化の激しい時代において平和ボケでいるというのはある意味無責任と言っても良いでしょう。
自分も平和ボケ世代ですが武藝館に所属し自ら観て求てめ考えて行動する訓練をする機会に恵まれている幸運に感謝します。有事の際には人々の支えになれるようなマシな人間になれるよう一層励みたいと思います。
 
13. Posted by ハイネケン   2018年11月30日 00:18
「鈍いセンサー」を持ち「なんのために立つ稽古をするのか」が分かっていないと感じていた私としては自分を省み、いつもながら汗を掻きつつ読ませて頂きました。
震災の時、住宅が被災していなければ家族だけなら1週間程度、自給自足が可能な備えがありましたが、太郎冠者さんの仰る「グローブ」や「雨具」などは散らばっていました。
持ち出し準備が出来ておらず、緊急避難が必要なら手遅れです。
たまたま今回、災害のレベルが避難を必要としない、自宅での準備だけで対応出来ただけでした。想定した範囲内というのは「ルール内である」のと同じです。
被害が大きかった地域では自宅が倒壊した被災者がより酷い被災者を助ける状態でしたし、会社の同僚から回ったSNSからの情報はいくつかのデマも混ざっていました(後で分かったのですが・・・)

何があっても対応しようとする心構えを「その時」だけではなく「問題が起こる前」から巡らせ、日々の生活の中で出来る準備の数々を改めて思い返しました。
毎日何をしていたのだろう、今から何を用意して行こうか、と。
まずは整理整頓をしています。
 

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