2018年10月02日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その38

  「『アウト』の探求」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 今、マイルス・デイビスのアルバム『Kind of Blue』を聴きながら記事を書いています。
 以前、春日さんの記事「JAZZYな、太極拳を。」で紹介されて以来、時折思い出したようにマイルス・デイビスを聴くようになりました。

 以前、稽古中に師父が何度か、マイルス・デイビスの音楽と太極拳の関連性について言及されることがありました。

『君たちの太極拳は ”アウト” じゃない…。それでは太極拳のスピリットはわからないよ』

「アウト」じゃない…??

 太極武藝館で伝承されている太極拳といえば、真伝の纏絲勁が脈々と継承されている、いわばホンモノ、音楽でいえば古典的なクラシックにでも該当するような内容とでも言えるはずです。
 では、そこから外れると言わんばかりの『アウト』なスピリットがなければ、太極拳がわからないとは一体どういうことなのでしょう?
 その時の僕には、欠片も理解することが出来ず、うーんとうなるばかりでした。

 そこで、春日さんの記事で紹介されていた、マイルス・デイビスの2枚のアルバムを聴いてみました。そして、たしかに衝撃を受けます。
 それは、自分の抱いていたジャズに対するイメージを払拭するには十分な音楽に思われました。それからいくつか、マイルスの音楽を聴いていると、その中におススメのアルバムとして、『Kind of Blue』が含まれており、それを聴いて、おや、と疑問に思いました。

 『Kind of Blue』は、紹介されていた『Decoy』とは少し毛色が違い、オーソドックスなジャズといった音楽で、聴き慣れたような、非常に心地のいい音色が響きます。

 そうなのです。聴き慣れた音楽なのです。ここで自分はわからなくなりました。
 『Decoy』を聴けば、わからないまでも「アウトなのか」と考えさせられるものですが、
『Kind of Blue』は、何をもってしてアウトというのかわからなかったのです。
  このことは、「太極拳がアウトである」と言われながらも、自分にはピンと来ていないことに重なるような気がして、僕は少し調べてみることにしました。
 そして、このアルバムもまた、『アウト』な作品だと言えるのではないかと思うようになったのです。

 『Kind of Blue』は、それまで、ジャズの手法として定番だったコード(和音)中心の技法を、モード(旋律)主体のモードジャズとして確立させた、記念碑的作品だそうです。
  このアルバムによってジャズの世界に新しい地平が切り拓かれ、モードジャズというジャンルは、以降多くの人々によって演奏されることとなりました。それによっていまの我々の耳には、心地よい聴き慣れた音楽として届くことになったのです。


 このアルバムの録音の際、デイビスは演奏者たちに「このスケール(音階)で演奏するように」と指示した短いメロディーを渡し、テスト演奏やトレーニング、ミーティングを一切させなかったそうです。
 ジョン・コルトレーンやビル・エヴァンスといった名だたるプレイヤーたちも参加したというその録音現場は、一体どのような風景だったのでしょうか。

 たとえプロであろうと、それまで自身の経験したことのないものをするには、自分自身と向かい合う必要性が生じるはずです。
 特に、ジャズで行われる同じフレーズを繰り返すリフ(リフレインの略)演奏という技法は、同じ物事に取り組みながらも、立ち現れてくるものと向き合い、自分自身に問いかけ、それそのものの本質と向き合うことではないでしょうか。
 それは繰り返し行われる、自分自身の再創造であり、絶えず続く学習の過程であるともいえるのではないでしょうか。
 それは、音楽と武術、ジャンルは違えど、我々が毎回の稽古で求められている姿勢と、同じものなのではないか、という気がしたのです。

 「じゃあお前にマイルス・デイビスの何が分かるの?」と聞かれれば、「ぜんぜんわからない」と答えるしかありません。
 マイルス自身「俺の言ってることが全て理解できるなら、俺になれ!」と言っています。
 彼の残した言葉は、その音楽の中にこそ込められているはずです。もし、マイルスについて何かを知りたいのだとしたら、彼の音楽を聞くことの中にしかないはずです。
 その上で、マイルスのやってきたことを知ると、ジャズという世界で彼がどんな存在だったか、全体の構図がおぼろげながらも浮かんできます。
 それによって、マイルス・デイビスがなぜ『アウト』なのか、アウトサイダーな音楽であるジャズの中でも、より異端な、帝王として存在しているのかが、より際立って浮かんでくる気がします。何よりも、マイルス・デイビスの音楽を聞いているのは非常に心地いい体験です。
 そのスタイルを否定し、刷新し続けていくスタイルは、今も古びることなく、常に新しいものとして自分の中に流れ込んできます。

 なぜジャズの話を書いたかというと、僕自身にとって、マイルス・デイビスがひとつの新しい出会いであったからです。それほど多くを聞き込んだわけではないですが、ブログで紹介されて、それまで知識として知っていた程度のものから、「聴いてみよう」と思うようになり、ちょっとずつ聴いてみるようになったのです。
 その過程では、「よし、太極拳にアウトが必要なら聴いてみよう!」というモチベーションが、もちろんないわけではありませんでしたが、それよりもマイルスのジャズが良い音楽で、純粋に音楽として聴きたいと思うようになったからです。
 紹介して頂いた春日さんと、さらに興味を持たせて頂いた師父には感謝しています。

 マイルス・デイビスの音楽が、以前の自分のスタイルを常に刷新し続けること、それによって『アウト』で有り続ける、それがジャズの「スピリット」だとしたら、それは自分が思っていたアウトサイダーのイメージとも、また異なっているものでした。
 アウトサイダーというと、どうしてももっと破壊的で横暴で、自分自身の力で周りの世界をどんどんと書き換えていってしまうようなもの、とくに芸術に関してはそういうものだ、とどこかで思っていました。

 マイルス・デイビスの逸話しかり、日本の芸術家で言えば、岡本太郎などがそうでしょうか。しかし、気になって改めて岡本太郎の本をパラパラと読み返してみると、彼の書いている文章は大胆な情熱を持ちながら、実際にはものすごく繊細であり、普通の人では見逃してしまうようなことへの感性があることに気付かされます。

 先日、野外訓練が行われた際、師父の行動がものすごく丁寧で、ゆっくりなのだということに改めて気付かされました。ゆっくりなのですが、それが遅いのかというとそうではなく、ものすごく早いのです。
 仕草があまりに丁寧なので、そして目に見えない速さなどではないのでゆっくりに見えるのですが、行動ひとつひとつの繋がりが途切れなく、全体で観るととても早いのです。

 それは、何かの手順を覚えたから何も考えなくても動ける早さではなく、ひとつひとつ何が起きているかをしっかりと認識しながら、手順を絶えず確認でき、間違いがなく、そして滞りがないために出てくる早さなのではないかと思いました。
 ただ勢いでやってしまうものとは、異質の早さです。

 普段の師父の立ち振る舞いを見ても、いつも、丁寧に見えるのです。いつもやっているから、とか、これはこうだから、といったことで省略してしまうことのない動きに思えます。

 太極拳は『アウト』であるとおっしゃっている事と、この丁寧な物腰は、一体どこで重なるというのでしょうか。
 悩んだ末に、あるひとつのことが自分の中で結びつきました。
 マイルス・デイビスは、それまであったジャズをぶっ壊したアウトサイダーな人ですが、そこにあったのは、実は謙虚な姿勢だったのではないかと思います。
 マイルスは、自身のジャズのことを「俺のジャズはこうなんだよ」と、固定してしまうことは決してありませんでした。それまであった音楽を、「自分の」ジャズで壊していったのではありません。
 自分の中にあった音楽を、内省し、疑いを持ち、それを更新し続けていくことで、新しいことを創造していきました。その結果、それまであったジャズとは違う、新しいものが生まれていきました。そこにあるのは、自分を通す横暴さではなくて、自分を変え続けていく謙虚さではないでしょうか。
 その姿勢があったからこそ、マイルス・デイビスはジャズを新しくし続け、本物のジャズの魂を持ち続けられたのではないでしょうか。もし、ただマイルスのジャズの模倣に走ってしまったら、それは「ジャズってのはこうなんだよ」と定義づけてしまうことであり、横暴さの現れではないかと思います。
 それは、マイルスが持っていた本当のジャズの味にはならないのだと思います。

 では、それは武術、太極拳に当てはめて考えてみたらどうなるでしょうか。
 まず、自分の中に、勝手に思い込んでいる武術のイメージがあることに気付かされます。それは自分が傲慢にも思い込んだものです。
 そして、それがあるからこそ、たとえ目の前で本当の事が示されていても、全てを透明な目でみることが出来ず、壁にぶち当たってしまうのではないでしょうか。
 自分自身、稽古中にどれだけ師父の動きが見えずに、苦い思いをしているか数えればきりがありません。
 まずは、そこから外れる、自分自身の枷から『アウト』になることが必要なのだ、と師父はおっしゃっていたのではないか、そう思うようになりました。
 そのためには、たとえ何かに気づいたとしても気づかなかったとしても、自分の考えに固執せず、本当に言われていることを徹底して追求していける謙虚な姿勢が必要なのではないかと思います。
 追求していく対象そのものに対するリスペクトは当然必要ですが、マイルス・デイビスの例でも書いたとおり、それによって何か、たとえばジャズの世界などを変えていく、という思いで自分の考えを貫こうとするのは、少し間違った形なのではないかと思います。

 絶えず謙虚さを持ち、自身を省みることと、物事を再考し、新しいアプローチで取り組んでいくこと。そのためには目標を明確に定め、何よりも情熱を忘れないことが大事なのではないかと思います。
 音楽や武術のみならず、日常生活の中での、普段の立ち振る舞いまで含めた姿が大切になってくるのではないかと思います。つまり、きちんと生きていくために大事にしなければならないことが、どこでも大事になってくるということなのかもしれません。

 そのために、道場での稽古とは省みるところ、自身のあり方を磨くことにつながってくるのかもしれません。

                                  (了)





 *次回「今日も稽古で日が暮れる/ その39」の掲載は、11月22日(木)の予定です


disciples at 22:40コメント(12)今日も稽古で日が暮れる  

コメント一覧

1. Posted by 西川 敦玄   2018年10月03日 15:20
太郎冠者さんのおっしゃる通り、太極拳を行う私たちには、それぞれ武術のイメージがあります。それが、邪魔をするのですね。しかし、武術のイメージがないと、そもそも太極武藝館に入門してないのも事実。おそらくJAZZ奏者もあんなJAZZ演奏してみたいと思うことなくて、JAZZを志すこともないのではないかしらと思います。師父みたいになりたい!!?と、私たちもイメージをもって入門したわけです。
それだけ強い思いをもって入門しているわけでもあるし、自分で決めた、太郎冠者さんの言うところ枷ですが、なくすことは非常に難しいと実感しています。ただ、毎日枷の認識を変化させ続けることは、なんとかできます。枷の形は変えることができ、変えていくことで、一歩一歩踏み出していくこともできるのではと思っています。
 
2. Posted by 佐藤玄空   2018年10月03日 17:08
人間は理解を超えると否定したくなります。
ベートーベンはキーボードクラッシャー的な扱いでしたし、リストなんかも指のサーカスを観に行く人が多かったとか。
マイルスやコルトレーンも過激派てきに言われていましたものね。
それは本質を深く掘り下げた結果としての表現であったわけでして、お決まりの「音楽とは」「ジャズとは」と既成概念で固められ頭で音楽を聴く人には人には響かなかったということです。
チャイコフスキーのピアノ協奏曲は「つまんね」といわれて大失敗だったとか。

自分自身、思い込みで稽古をしているといつの間にか袋小路に入っています。
頭の枷を外すには枷自体を分析し自分で外すしかありません。
がんばれ俺。
 
3. Posted by たそがれの単身赴任者   2018年10月04日 09:30
太郎冠者様のウンチクと掘り下げ、心にしみます。唐突ですが、浜松市において10/20-28第27回ハママツ・ジャズ・ウィークが開催されるそうです。ちょっとのぞけたらなんて考えていますが、なんとなく聞き流しているだけの私のような人間には全く想像すらできない世界をマイルス・デイヴィスたち音楽の天才はみているのですね。私は昭和49年ごろの劇画男組で太極拳をみて育った?世代なのでそのしみついた勝手なイメージ、思い込み、妄想がなかなか外れません。稽古においてCQCで脂汗を流して悪戦苦闘し、そのガチガチのイメージとガチガチの体を解体して再構築するしかありません。日々の日常では、ガチガチが深まり強化されるばかりです。非日常の時間において、ガチガチの自分との対決です。
 
4. Posted by 円山玄花   2018年10月04日 17:35
私も、いつも師父の所作に魅入ってしまいます。
師父は、何をされるときにも・・車の運転でも、フライパンを振っても、六弦を奏でるときにも、物腰の柔らかな整った美しい感覚を受けます。その同じ感覚で殴られるのですから、相手はたまったものじゃありません(笑)
それを「謙虚な姿勢」と改めて表現されると、なるほどと納得します。

師父が何事に対しても同じ姿勢で向かわれているので、私たちは日々の自分の所作や諸々に意識的になれるし、「自分はこれで太極拳が取れるのか?」と自問することができます。
けれども、もし私たちが「謙虚さ」をやろうとしたなら、それはすでに謙虚ではないし、逃してしまうことでしょう。

以前に師父から『不要の要』を課題として与えられました。
10代の私に師父は、
「自分が道を歩くときに、必要なのは足が置かれたそのスペースだけだけれども、最初からそのスペースしかない状態だったら、お前は歩くことができないだろう」と、仰ったのです。
とても衝撃を受け、その理解が太極拳の理解に繋がるのだと直感しました。
師父は恐らく謙虚にしようとされたのではなく、道を追求される中で滲み出てきた結果なのだと思います。ならば当然、私たちが師匠から滲み出たエキスを有難く頂いても身につくはずはなく、せいぜい一時の味わいと感動が通過するだけです。

自分からは何が滲み出ているのか。
師匠が歩いた足元に”謙虚さ”があるなら、不要の要には何があるのか。
太郎冠者さんの記事を読んで、そのようなことを考えました。
 
5. Posted by マルコビッチ   2018年10月04日 20:54
思い込みが強い人は、自分の思いを通したい傾向があるので、他人の話を聞けません。ですから、おのずと新しいものは入っては来ませんよね。
ですが、誰でもちょっとした小さな思い込みを繰り返します。
「思い込みというマジック」でしょうか!
反対に、太郎冠者さんのように「春日さんの記事で紹介された・・・師父の仰った言葉・・・」によって、マイルス・デイビスを聴くようになり、新しいジャズの世界が広がっていった。
何かを純粋に知ろう、聞こうとすることによって、自分の思い込みに気付く事が出来るかもしれません。
私も「なるほど、なるほど!」とひとりでガッテンしてそのままにしていることがあるなと思い当たります。
マイルス・デイビスの音楽にしても然りで、太郎冠者さんの記事を読んで、追求していく事の大切さを感じてドキリとしました。

私も師父の立ち居振る舞いは、丁寧で美しいと思います。
丁寧でゆっくりなのに早い!
それはやはり余分な事がないということで、凄い事だなと改めて思います。
 
6. Posted by 松久宗玄   2018年10月06日 01:51
師父の仰る「アウト」については、私も捉えられずに悩んでいた所でした。
今回の太郎冠者さんの記事で、成程と納得する所がありました。
ある意味で守破離の破と離に通じる概念なのかもしれないと。

真面目にコツコツと取り組むも、
守の段階に拘り、留まる事を良しとする姿勢では、
先に進む発展性は出てこない事でしょう。

太極拳は活きた学問で、
変化し続ける事が本質と問われているのですから、
守が充ちたなら、そこからアウトして先に進まないといけませんよね。

師父の佇まいの端正は、
守が身に付いた上での自由な表現と感じられます。
 
7. Posted by 川山継玄   2018年10月06日 02:31
「アウト」と聞いて、ただ「外へ」「離れて」という意味を思い浮かべたので、太極拳は「immovable」だと言われた事と、どのようにつながるのだろうと思いつつそのままになっていました。
今回、太郎冠者さんがご自身の疑問について調べ、掘り下げて整理し、わかりやすく記事にして私たちに共有してくださったので、本当に有難かったです。

研究会の稽古で、非常事態に直面した時パニックになり、いとも簡単に基本を忘れ、自分勝手な行動をとるかを、身を持って体験しました。
基本をいかに甘く見ていたかを痛感した瞬間でした。
その稽古の真の意味や、繰り返し稽古することの意味の大切さが実感できていなかった為に、というよりは、その真の意味をわかろうとし、その大切さを実感するまでやり込んでいなかった為に、実際に使えない事態につながったのだと思います。

「out」には実にたくさんの意味があり、その中に「最後まで,すっかり;完全に,徹底的に,もう十分すぎるほど」という訳がありました。

毎回毎回を、毎瞬毎瞬を基本と照らし合わせて、

一内省し、疑いを持ち、それを更新し続けていく
一自分の考えに固執せず、本当に言われていることを徹底して追求していける謙虚な姿勢

で生きていかなくてはいけないなと気を引き締めました。

また、「out」は他の単語と組み合わされて更に様々な意味を成します。
デイビスのCDを聴きながら、様々なミュージシャン・楽器・聴衆を大切にしながら音を奏でる彼の繊細さ、寛大さ、奥深さ、躍動感を感じるとともに、自らに対する厳しさを感じました。
そしてそれは、師父のお姿と重なりました。

日常は、危険と隣り合わせでもあるし、まだまだ知らない魅力や美しさにあふれるものだとも思います。そのような様々な事を見落とさないセンサーを持つためにも、師父が示してくださる事全て、そのものをとりたいと改めて思います。
 
8. Posted by もりそば   2018年10月06日 18:44
なぜ太極拳は音楽や絵画と関連して議論されるのかと思いを巡らすと単なる古典的武術という範疇を超えて創造的な武術であることを求められているのかなあと最近思ってます。きめられた型、技法をなぞっているだけでは既知の古典の練習に過ぎない。しかし古典を超えた新しい技術を導入することで相手の意表を突くことができるしまた相手に何をやっているかを悟られることもない。また相手は常にいろんな人がいるのである手段が通用しなかったら別の手立てを講じなければならないしその場で次善の策を創造しなければならない。

このような脳の使い方を道場で学んでいるように音楽や絵画からも学ぶことができる・・・・ようになりたいです。最近そういうのに触れてないなあ。日常生活に埋もれることが太極拳の最大の敵ですね。

9. Posted by スーパードライ   2018年10月07日 12:07
「JAZZYな、太極拳を」からジャズを意識して聞くようになりました。
自分の好きな曲しかまだ入り込めないのですが、心地いいなと感じながら聞いています。
ジャズをその程度しか聞けない状況でいる中、太極拳はアウトでなければ、スピリットが分からなくなるという内容に困惑しました。
しかし、読み進めていくうちにジャズを武術に視点を置いて説明して頂いて、自分の武術のイメージが如何に枷だらけの状態であるかと考えされらます。まだまだ、太極拳、武術に関して既成概念から外れるのには稽古が足りないことと、やはり取り組み方を変えていかなければいけないと反省しました。


―絶えず謙虚さを持ち、自身を省みることと、物事を再考し、新しいアプローチで取り組んでいくこと。

謙虚な姿勢で枷からアウトできるように稽古を積もうと思います。
 
10. Posted by 清水 龍玄   2018年10月07日 22:13
情熱は力となり、謙虚さは自分の進んでいる方向を教えてくれる。どちらも人間の持つ、不思議で大切な力なのだと、最近特に感じます。
一度それが崩れると、その人間は変わってしまうし、反面、原因があるのならば、それを理解し改善していけば、また新しい変化が始まる、そのように思います。

新しいものを見出した人は、好奇心の塊であったり、それぞれの対象が大好きであったりと、そこには沢山の困難や批判もあったでしょうが、それでも進んでいける、純粋な心があるのだと思います。だからこそ、まだ解明されていなかった真理を発見したり、新しい可能性を発見したりといった、進歩的な仕事ができたのではないかと思います。

それは大変なことだと思いますが、折角この世に生まれてきたのなら、やはり、流されるのでもなく、立ち止まるのでもなく、進歩的な仕事をしたい、そう思います。
 
11. Posted by 田舎の神主   2018年10月07日 23:15
「謙虚な姿勢」について思い当たることがありました。
先日、静岡市にて神宮大麻頒布式があり、各地区の役職神主が出席した時のことです。
私は、神事の部での雅楽演奏の太鼓奏者でした。神事の部に奉仕するものは、白浄衣(じょうえ)といわれる装束を着けます。(貸衣装です)その浄衣は、平安時代に貴族が狩を行った際の装束の狩衣(かりぎぬ)といわれる装束と同じ形をしています。
神事が終了し、自分の着けた装束を畳んだ後、時間の余裕があったので他の着装した装束も畳みました。その装束を着た人は、都市部の大きな神社の若く体格の良い神主でした。自分と見比べれば、田舎の初老の貧弱な体格の私とは雲泥の差があります。
しかし、その装束には見たことも無い、複雑なしわが沢山できていました。反物をただ縫い合わせただけのシンプルな形の装束は、長年着慣れているものですら、着装は難しく、しわのできない着こなしを維持することも大変なことです。私も若い頃は、毎日のように、袴の横や白衣の袖を引っ掛けて破っていました。
「装束がはだける、とか、変なしわができるのは、神前での心掛けの現れだ。謙虚な気持ちがなく胸を張っていれば、前がはだける。変に力が入ればしわができる。ましでや破るなんて修行が足りん証拠だ。」これは、私が見習いの頃仕えていた、宮司から聞いた言葉だったと思います。

道場では、師父がいつも示して(正して)下さるように、謙虚さ、姿勢、位置等、他たくさんの課題があり、自分は、また違っていた、振り出しに戻ってしまったという感覚があります。「アウト」の探求。これは必要だと思いました。
 
12. Posted by ハイネケン   2018年10月08日 01:14
聴いてみると太郎冠者さんの仰る様に「kind of Blue」は「Decoy」に比べ耳心地が良く太極武藝館の動きの様な、捉え所のない無重力感を覚える曲が多数ありました。
そして無重力といえば宇宙に浮いている人工衛星も思い浮かべました。

石を投げると落ちます。もっと速く投げると遠くに落ちる。
さらにもっと速く高く投げるとずっと遠くに落ちる。
地球の重力と関係しつつ、衛星の速度と高度がある一点を超えた時、地表に落ち続ける石となる。
地球を回る静止衛星は「地上から見れば空に浮き続け」てますが、「宇宙から見れば地表に対し落下し続けている」状態。
バランスを崩すと「地球に落ちる」か「地球から離れて飛んで行く」
浮いているだけに見える静止衛星ですが、実は重力に引っ張られ続けながら、速度・高度をバランス良く操り続けています。

以前師父が「(多分太極拳を)とって下さい」と言われていました。安易にもそれまで「学べば出来る」と思っていたマニュアル本の様な思考をしていたので「とる」と言う言葉にとても混乱しました。
同じように「アウトなスピリット」の認識ができず今回も混乱しつつ読んでいますが、速度と高度を操り飛び続けている静止衛星の様に、「稽古と目標」を意識して稽古に励んでみようと思います。
 

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