2018年08月16日

練拳Diary #82「稽古と非日常」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花


 太極拳の稽古修練の世界。そこでは、古く常識的な考えで凝り固まった頭を叩き割り、新しい考え方と価値観を知り、直向きにそこに広がる全てを受け容れることが求められます。
 そして、そのような非日常の新しい世界に身を投じれば、自分の力ではどうすることもできなかった「自分の殻」を破り、新たに生まれ変われる気がするからこそ、人はわざわざ非日常の門を叩いて入門を乞うのではないでしょうか。

 問題はそこから、いざ新しい世界で新しい考え方に出会ったとき、どのように受け取るのか、はたまた受け取らないのか──────。
 この非日常の世界でどれだけ受け容れられるか、ということは、言い換えればどれだけ自分をやめられるかということなのだと思いますが、それがなかなか難しいことです。なぜなら、人の性質には、変化を求めるよりも現状を維持したい、今が心身ともにそこそこ平穏ならそれで良いと思えるヤワな傾向があるからだと思います。
 それこそ、何かのきっかけでふと立ち止まり、自分を振り返る機会があっても、まるで考え方にも ”慣性の法則” が働くかのように、それまでの自分の古い考え方が押し寄せてくるのです。
 そこで古い考え方を落として、新しい自分として一歩を踏み出せるかどうか。その原動力となるのは、未知なる世界、未知なる自分への興味ではないでしょうか。

 失敗を恐れず、危険を顧みず。誰かのためではなく自分のために歩くこの人生。
 生まれた時に「自分はこの様に生きたい」・・と思ったかどうかは、もう覚えていませんが、「今の自分はこの様に生きている」と、胸を張って生まれた時の自分に言えるなら、自分の人生、自分の足で歩いていると言えるような気がします。

 ところで、稽古中よく耳にする「非日常」という言葉ですが、この言葉を聞くと、皆さんはどのようなイメージを持つのでしょうか。
 「非日常的な力」「非日常的な考え方」「非日常的なアプローチの仕方」・・と、様々に表現される「非日常」という言葉は、もしかしたら発した人の意に反して、異なる捉えられ方をしているかもしれない、と思います。
 例えば、先ほど挙げた3つの文章を違う言葉に置き換えて見ると、
 「日常からかけ離れた力」「凡人の自分にはとても及ばない考え方」「一般的ではない、一部の卓越した人にしかできない取り組み方」・・などとなるかも知れません。
 実は、これらの言葉は私が考えたものではなく、その昔道場で小耳に挟んだ門下生のリアルな感想ですが、これらの文句からは「非日常」という言葉が「自分には到底実践できない理想の世界」というイメージに置き換えられていることが分かります。

 自分にとって未知の世界に対し、自分の考え方では及ばない、かけ離れた世界だと思うこと自体は、間違っていないと思います。特に、武術や芸術の世界のように特殊な技術が必要とされ、そのための学習体系が存在するようなところでは、まずはじめに「自分とは全く違う」という正しい認識がなければ、新しいことを学んで行けないからです。
 しかし、先ほどの言葉のように「自分には到底実践できないナントカ」という方向に行くと、学習としては前に進めなくなってしまいます。
 大体、「自分には出来ない」と思いながら何かをやっていて、楽しいはずがないのです。
 自分とはかけ離れたとてつもない何かに対して憧れを抱き(それは、武術的な強さでも、たとえば身体の健康でも変わらないことですが)、尚かつ幸運にもそこに至る道筋を示してもらえたなら、あとはひたすら前向きに突き進むことが求められ、その中では当然自分とぶつかることもあるし、自分を超えるためには自分を変える必要があり、たとえ七転八倒しながらでも、遥か遠い憧れだったある意味不確かなものが、自分の歩く先に現実的に見えてくるのです。同時に、自分の中には「歩いてきた」という確かな実感が感じられます。だから取り組む甲斐があって楽しいし、追及することをそう簡単にはやめられないのだと、私は思います。

 それでは、なぜ人は自分が学ぶために入門したはずの道場で、発せられた師匠の言葉に対し、ともすれば否定的なマイナスのイメージを持つ場合があるのでしょうか。
 もちろん、人それぞれに色々な想いがあるはずですが、理由のひとつとしては、自分が思うように学習を進めていけないことが挙げられると思います。
 しかし、そもそも人は既に自分にできることに対して新たに「やってみよう」とは思わないはずで、自分にできないことをこそ習得するためにこの道に入ったはずですが、どうやらそのような状況でも人は自分の好きなように学習したいと思う気持ちがままあるようです。
 もうひとつの理由は、「非日常」という言葉の取り違えです。カエサルの言葉ではありませんが、人は物を見たいように見て、聞きたいように聞く傾向があります。私たちはまず、師匠が何を「非日常」であると言い表しているのか、そのことに耳を傾ける必要がありそうです。


 ここでひとつ、興味深くて美味しい話をしましょう。
 ある時、師父がお夕飯を作ってくれました。
 「自分が食べたいものがあるから」と、仰った時には立ち上がり、冷蔵庫の中身を確認しながら買い物に必要なものをピックアップし、そのまま近所のスーパーに買い物へ出かけられました。・・その作業と行動の早いこと、早いこと。台所によく慣れた主婦だって、そうはいかないのではないかと思ったとき、あるひとつの考えが浮かびました──────この光景は、まるで軍人が武器庫から必要な武器を持ち出している時のようだ、と。

 急いでいるわけでも、慌てているのでもなく、言って見れば状況把握と必要となる行動の認識、そして判断から実行の過程がもの凄く早く、その過程には「思考」の時間が入っていないとさえ見受けられました。

 そこで感じられた「早さ」は、師父が買い物から帰られた後も続きます。
 材料を出して、刻んで、火にかけて・・・出来上がり!?
 「はい、どうぞ!」と言われて私が真っ先に見たのは時計でした。
 ・・ええっ?、キッチンに立たれてから40分位しか経っていませんよ、師父!
 「なんでこの立派な料理がこんなに早いのですか?」と聞きながらも、手にスプーンを持ってお皿に飛びつく自分には、もはや師父の言葉は耳に入っていなかった気がします。
 そうです、この芳しい香りには、誰も抗えないはずです!

 出てきたのは、ラム肉の軽い煮込みにクスクスが添えられたモロッコ料理。一応写真を載せておきますが、美味しさのあまり食べる勢いがついて、悪しからず半分近く平らげてから撮影したものとなってしまいました。


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 「う〜ん、ラム肉は私の好物ですが、それにしても美味しい。見た目はゴロッとした野菜とお肉が入っているだけなのに、それらの素材の味が全て引き出されていて、その旨味がシンプルなクスクスに見事に移ってベストマッチング〜!!」とホクホクしながら食べていたら、キッチンから師父が出てこられて食卓に座り「お味は、どうかな?」と言いながら、一緒に食べ始めたのです。
 おや?、と思いキッチンに目を向けると、なんと、全て綺麗に片付いています。出てきた料理は、子羊の煮込みとクスクス、それにサラダですが、料理が出来上がって器に盛り付けた時には、鍋から流しまで元の使用前のキッチンになっているとは、誰が思うでしょうか。
 「一体、いつの間に片付けたのですか?」と問いかける私に、師父は「料理が終わった時には片付けも終わっていた方が、次の仕事が楽でしょ」と仰います。
 ここでまたしても、ひとつの考えが浮かびました──────確かに、師父が一発殴った時には、すでに次のパンチが打てる身体の状態が整えられていて、ご自分の攻撃によって居つくことはありえない、と。

 そうです。買い物も、料理も、後片付けも、全て日常の所作です。けれども、師父が示してくださったのは、食事を考えるところから実際の行動、そしてご自分が食べるまで、どれも非日常的なアプローチの仕方でした。
 つまり、自分の好きな考えを挟まず、そこで必要となることを見極めながら動き続け、同時に結果を出す。そして師父はそれを楽しみ、なんの制約もなく料理を味わいながら仕上げて、最後には片付けながら食べている人の感想に耳を傾けたりしているのです。


 師父お手製の料理は、モロッコ料理にとどまらず、
 フレンチの豚肩ロースとキャベツのワイン煮、

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 鶏肉の煮込み、フェットチーネ添え、

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 牛肉とキノコの煮込み、

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 究極の肉じゃが(命名は玄花)

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 ・・と続いていきます。

 どの料理も、どこのスーパーでも手に入るありふれた材料が使われていて、メインディッシュだけではなくサイドディッシュも組み合わせ、それらを僅か一時間足らずで調理し、食べる時には片付けまで終わっている状態です。

 もしも自分が同じ料理を作ったなら、どのような味わいになるのか、そしてその後の台所はどうなっているのだろうか───────

 そう考えたときに思い浮かぶのは、やはり稽古の取り組み方や考え方などで感じられる、師父との「違い」と全く同じことでした。
 これはきっと、掃除をしても、本を読んでも、車を運転しても、野外で火を熾しても、それこそ暴漢に襲われても、災害に巻き込まれた時でも、同じ「違い」があるはずで、そうだとしたら、師父の所作を見て感じる繊細さや常識に捉われない柔軟な考え方、行動力の早さなどは、師父がもともと性格や能力として持っていたものではなくて、恐らくは太極拳の修行の中で必要なこととして身につけて練り上げてこられた、真の功夫(コンフー)なのだと言えるはずです。

 日常を、非日常的に取り組むこと。
 それは自分が人生を生きることに対して意識的になることとイコールだと感じられます。
 それを、自分の怠惰さを棚に上げて、やれ高尚だ非凡だ特殊だからと理由をつけて自分では何もしないのは、武術家の風上にも置けないのはもちろん、ひとりの人間としても自分の魂を腐らせているに等しいことだと、私は思います。

 私が学生の頃には、遠方に住む祖母に電話を掛ける度に、必ず『お勉強していますか?』という言葉を頂きましたが、今なら、祖母の話した「勉強」が日常の全てに当て嵌まることを実感できます。
 自分と関わる全てのことに対して、勉強できるかどうか。それは自分の物事に対する向かい方次第だということを、幼い私に分かりやすい言葉で示してくれたのだと思います。

                                 (了)


xuanhua at 16:41コメント(27)練拳 Diary | *#81〜#90 

コメント一覧

1. Posted by 太郎冠者   2018年08月16日 19:56
思い立ったら即行動!
最近、人間というのは、やりたくないことはもちろんのこと、自分がやりたいと思っているはずのことも、理由をあれこれつけて、先延ばしにするものだと思い知りました。

ここで書かれているような、軍人が武器を用意して即座に行動、というのとは少し違うかもしれませんが・・・。
やりたいはずのことをぼ〜っと夢見てるだけでは、年老いて人生終わってしまいますね。

日常と非日常、最近自分ではぜんぜん料理もしてないので、それさえも非日常となりつつあっていけません。
師父の手料理、機会があればぜひ頂きたいものですが、それよりもまず自分で作ろう!という感じです。
武芸も料理も、いきなり師父のようなコンフー(達人?)になるのは無理ですが、
そこに至るまでにコツコツと積み重ねていくことは可能なはずですよね。

自分の殻を破るには、案ずるより産むが易しでしょうか。
 
2. Posted by 西川敦玄   2018年08月17日 09:23
日常、非日常.....
玄花后嗣は、非日常を自分とは違う到達できない世界と言い換えるなと言われています。本当にその通りだと思います。
しかし、私たちはどうして、そう言い換えてしまうのでしょう。きっと、無意識にそう言い換えてしまわないと、今の自分の日常が根底から崩れていく危機感をもってしまうからなのだと思います。そして、無意識のうちに行われていることに目をむけることができれば、きっと勇気をもって非日常の世界に飛び込んで行こうとする動機がでてくるだろうと思います。

そういえば昔、入門して間がない頃(学生のころですが) 師父にとても太極拳をあるレベルまで練っていくことは自分にはできそうにもないと相談したことがありました。師父は直感的に太極拳が私の成長の助けになると思って入門してきたことを確認され、そうであれば、まずこの世界に飛び込んでみることだと助言をいただきました。その頃の私は、その時の日常の延長では太極拳を練っていくことができないと、意識的でないにしろ感じていたのだと思います。

今回、改めて日常と非日常について考えることができました。前をみて歩いて行きたいと思います。
 
3. Posted by マルコビッチ   2018年08月17日 16:57
日常と非日常・・・言葉通り単純に捉えるか、言葉の意味に一歩踏み込んで考えてみるか・・・どちらも大事なことだと思いますが、この対比する言葉によって何を知りたいのか、何をしたいのかによるのだと思います。

日常というと、毎日同じことを繰り返す日常生活と考えます。
そんな日常生活のなかで、やった事のないことにふと挑戦してみる・・・毎日コーヒーメーカーでしかつくっていないコーヒーをドリップで入れてみる・・・この行為自体は”非日常”になりますね。
お盆休みにちょっと旅行に行ってみる・・これも日常から離れた事になります。
しかし、そこでの違いは何でしょう?
環境や時間の過ごし方は明らかに変わりました。
自分自身はどうでしょう・・・何が変わったのでしょう?
ゆっくりできた? 美味しいコーヒーが飲めた? 
考え方は?
玄花后嗣のこの記事に触発されて、頭の中で眠っていた考えが言葉になってつらつらと出てきてしまいました。(汗)
最終的にやっぱり”考え方””意識の持ち方”というところに行き当たります。
この考え方を変える事が本当に難しい。
玄花后嗣が仰るように、やはり現状を維持したいという無意識が働いているのだと思います。
あとは、自分のその考え方でたくさん褒められ、数々の成功を体験しているからということもあるのかもしれません。
人は失敗した事より成功した事の方を大事にする傾向があるのかもしれませんね。
別にそのままで良いという人はいいと思いますが、私たちは太極武藝館で本物を得たいと思っています。
逃げる訳には行きません。
勇気を持って、「自分の殻」と向かい合い、積極的に、意識的に、日常を非日常的に取り組む、そして日常と非日常の溝が浅くなっていったならと思います。
まだまだ稽古で緊張するということは日常で緩んでいるってことですね。
情けない私ですが、頑張って自分と向かい合っていきます。
 
4. Posted by 松久宗玄   2018年08月18日 01:14
何故、芸事の世界では須く基本があり、型があり、心の修養が求められるのか?
稽古とは、字義からして本来的に非日常の世界である事は、
疑いようのない事実だと思います。

「自分」の世界という日常を離れて、
絶対的な法則性に「自分」を沿わせていく事が、
稽古の非日常性なのだと感じています。

この非日常性を楽しめるかどうかは、自分の扱い方によるかなと思います。
非日常の中に自分を投げ込んで、その中で自分が変えられる事自体を楽しいとできるか、
あるいは、変える事や、挑戦して失敗する事のリスクを忌避するか、
その見極めに、自分と向き合う覚悟が必要で、心の修養が問われる処だと思われます。

とは言え、美味しい煮込みを作る法則性は厳として存在する筈なので、
特に煮込み料理が苦手な小生としては、
是非、師父の料理の理と味を体験させて頂きたいものです・・・(じゅる)
 
5. Posted by もりそば   2018年08月18日 19:07
"日常を稽古する" とはなかなかそれ自体が一般的な発想ではないことではありますがとても大事なことであると思います。普段はだらけた生活を送っていても道場にいるときだけ深遠な精神状態に身を置くなどとてもできないからです。
日常生活においても小脳の反復回路を使ってではなく自らの意識で行動できるよう訓練してゆきたいと思います。
 
6. Posted by 清水龍玄   2018年08月19日 00:53
幸運にも、師父が運転する車に乗せて頂くことがありましたが、運転をする師父の姿や、車の動きも、別段急いでいるようには見えなくても、なめらかで早く、まるで美しいとさえ感じられました。
それは、そこに何らかの理を感じることが出来たからではないかと、今は思っています。

師父がされることは、自分の考えが及ばないため、まるで手品の様に思えることがありますが、説明していただくと、理に適っていて、「ああ、なるほど、そうだったのか」と納得できることが多くあります。
自分に取ってあるままの拘りが多ければ多いほど、新しいものは受け入れ難く、また、理を見つけることが出来ず、無駄が多くなるように思います。
その、拘りを生んでいるものが自分自身なら、その、自分の中にこそ、解決のカギがあるのではないかと思っています。
 
7. Posted by さすらいの単身赴任者   2018年08月19日 14:04
多くの人間は、どうしても安定をもとめ、そのために未熟な自分は身体の安定を求め、現在の状況にしがみつき稽古の先へ進むことへの精神的尻込みがあります。
私事ながら、親の死去で家業を継いだ時に、内外ともに疲弊していた事業をなんとかしようとしていた時に感じたことは、「なんとか安定させよう。とにかく楽になりたい」でした。
しかし、師父のおっしゃる「不安定の安定」という教えをいただいてから、安定とは次のステップに移る前の、居つかない、とどまらない、ためているのではない、それ自体動いている状態であることではと、180度認識が変わりました。人生はいつも危機的であり、次に別の危機がやってきます。1つ目の突きをかわしても2発目の突きや、思わぬ奇襲がくるでしょう。一息ついていてはいけない大切な時間です。しかし仕事も稽古も自分は言うだけでできていません。相手に先をいつもとられています。
師父のお料理もお料理完成のときには全てが同時に終わり、つぎの動きはもう動いている。攻撃側より一つ先を歩んでいる。私のつたない料理も、終われば台所が完全に居ついています。稽古で自分を正しい道へもどしたいです。
 
8. Posted by スーパードライ   2018年08月19日 14:16
自分の憧れた武術に出会い、その道筋も示して頂いているので幸運にも迷いなく進むことができます。そして進むことは、それを受け入れ、耳を傾けていくしかないと改めて再確認させて頂きました。
本物の練功のおかげで私にも「歩いている」という確かなものを感じ、取り組む甲斐があり、このまま素直に自分に負けないように、日常を非日常に取り組む努力をしていこうと思います。

日常的とは、自分が考えた想定内の環境、行動、空間で捉えていることだと思います。非日常的は、所作による行動が自分との想定外の関係性を生み出し、日常の捉えが変化していくのかなと考えます。

師父の料理に取り組む所作は、稽古で示される師父の動きを思い出され、そして自分の日常をも戒めて頂いているように感じます。
 
9. Posted by 佐藤玄空   2018年08月20日 08:12
各界の一流といわれる方々は手法なり考え方なりがどんどんシンプルになって行く様に感じます。
ある整体の先生はどんな重症な症状でも数分しか施術時間を掛けなかったといわれています。
「集中すると時間の密度が濃くなる」ということらしいですが外から見ている私なんかは非日常以外何物でもありません。あまりに神秘的過ぎてこんなことは自分には到底出来っこないとある時期に諦めてしまいました。

ところが最近、全く違った治療方面の勉強をしていた時にその整体の先生の行っていることや言っていることが実に科学的で無駄のない技術であったことを再認識いたしました。自分の勉強不足を「神秘的」という言葉でごまかし挫折してしまった自分を悔いました。そのように考える、感じること自体が見ようとしない、考えようとしない見たいものだけしか見ない自己中心的な石頭であると反省した次第です。
同じことが太極武藝館で繰り返さないように本部では全身稽古に浸かるようになればと考えいます。
非日常の中に身を置き、それが日常となったときに何かが変わる気がします。
しかしその前に「究極の肉じゃが」に全身浸かりたいかも。
 
10. Posted by 川山継玄   2018年08月20日 23:33
今回の師父のお夕食を作られる一連の流れが、とても衝撃的でした。
自分の料理への向かい方と、あまりに違うからです。
「自分が〇〇を食べたいな」と思う前に、「確か冷蔵庫に△△があったから、〇〇なら作れるな」というある種の妥協から始まり、そこから、食べたいものに必要な物を買いに行くのではなく、□□で代用しようという発想になります。
更には、行動に移すまでに頭の中であれこれ考えることのいかに多い事か。
まさしく、自分の考えを挟むことで、「まあいいか」と締めくくる仕組みが出来上がっていたのですね。
それを見ずして、生活のリズムやパターンを変えられないと嘆き、家事をしながらストップウォッチ片手に時間を計り、早くなった遅くなったと一喜一憂しても結局は変わり映えせず諦める。今更ながら当然の結果だと思うのですが、それに長い事悩み、悩むことで安心や安定を求めていました。

稽古で、動きが小さい、1つで動けない、頭も動きも堅い、修正ができない、課題を解決できない等々、ご指導いただく事のすべてが日頃の行動や、思考パターンと全く一緒であることに気付かされます。

「日常を、非日常的に取り組むこと」
家族の事、仕事の事、ああでもないこうでもないと悩む前に、まず自分に意識を向け、考えを挟まずに実際に必要な物は何なのかを見極めて動いてみる、変化や失敗を恐れずに流れに飛び込んでみる勇気と覚悟を持てた気がします。
これを書きながら、ドキドキとワクワクがどっと押し寄せています。
さあ、始めよう。
 
11. Posted by 田舎の神主   2018年08月21日 00:30
「料理が終わった時には、片付けも終わっていた方が、次の仕事が楽でしょ。」師父の料理の仕方を、かみさんと話をして、これはすごいと絶賛でした。私の家は、残念ながら、料理の片付けは後でしていますので、散らかっているという状態です。

私は、神道の神事の時に、非日常的な感覚や、非日常的な動きを行わなければいけないと思っています。神事の源となる五穀豊穣の神事の一つが日本の国技、相撲だと思います。神事の神賑行事には奉納相撲がよく見られます。国技館でも、土俵に上がる時は御塩での清めがあり、横綱は〆縄を回し紙垂を付けます。NHKのテレビ放送が始まったことによって、邪魔な柱が切られた宮形が上にあります。なぜか、始まる前に、行司が「発勁用意」とも掛け声をかけます。

昔の手作業での収穫迄の田畑仕事で得た力、これが、日本人の功夫ではないかと思います。深田での歩き方は、道場で習っている歩き方に似ていますし、稀勢の里の所属する田子の浦部屋では、下駄は音を立てずに歩くよう指導されているそうです。

現代の神事や伝統行事は、残念ながら、資本主義(お金が至上価値)の伴ったイベントに近くなっていると感じます。金でなく神を拝みたいものです。

CQCで解った自分の頭の硬さ、様々な段取りの悪さ、仕事や家庭での気持ちの切り替え等、稽古だけでなく、日々の生活の日常にも非日常を取り入れられれば、まだ進むことが出来るのでは、と思います。
 
12. Posted by ハイネケン   2018年08月21日 00:40
夜中にブログを読んでしまいスパイスの香りまで感じる記事に空腹を覚えました。
単純な想像ですが、料理ではベースの味付け以外に、素材とサイズにより異なる火加減、加熱時間の組合せ、更に煮込みの味わいを僅か40分で引き出す手法があるようです。
写真には緑色野菜が添えられており小粋です。
さて稽古でも、色々な工夫がなされ、不足している事、必要な事も目の前で示されていると思います。
時間をかけて煮込むのが良い煮込み料理という石頭的な固定観念ではなく、適度な時間でしっかりと味の出る煮込み方があると示されているます、自分でも研究しなければなりません。

>「自分とは全く違う」という正しい認識
>自分の好きなように学習したいと思う気持ちがままあるようです。
(年は大人ですが)ボーッと生きてきたせいでしょう、正しい認識もままならず、私の心の内にある的を的確に射た様な御指摘です。
自分の好きなように学習できない事から、自分という名の小石に躓き悩むなんて、あぁ何とも自分のチッポケさを感じます。
下手な考え休むに似たり、「非日常」の秘密を求めて色々やってみなければ。
 
13. Posted by マガサス   2018年08月22日 00:25
非日常に身を置くことが、非日常を手に入れられることではない、と痛感しています。
師父と長い時間を過ごさせて頂ける幸運に恵まれながらも、それだけで満足し、自分が特別な非日常を手に入れたと勘違いしていました。
その状況でも、自分の日常アタマを持ち込み、自分の聞きたいように話を聞き、見たいようにみて解釈することの繰り返しで、実際に師が教え導いて下さっていることを理解していないことに気付いた時は、本当にショックを受けました。
ワタシの殻をを割れやすくするためにずっと働きかけてヒビを入れてくださっていたのに、自分は殻の内側からヒビの補習に躍起になっていて、肝心なことを聞き逃すこと18年。
ワタシの18年間はイッタイなんだったの・・・
自分の安心で慣れ親しんだ日常に、こんなにも執着しているとは正直ビックリしました。
でもデモいつでも気づいたときがスタートになるはずなので
今からを疎かにせずに、怖がらずに、自分のアタマをなんとか修正していきます。
しっかりと自分の足で歩き続けたいッス。
 
14. Posted by 円山玄花   2018年08月30日 16:09
☆皆さま

コメントバックが遅くなり、申し訳ありません。
ゲリラ雷雨と炎天下と爆音の中を、大汗かきながら走り回っておりまして、
ようやく落ち着いてパソコンに向かっている次第です。
順次返信しますので、よろしくお願いいたします。
 
15. Posted by 円山玄花   2018年08月30日 16:14
☆太郎冠者さん

やるべきこと、またはやりたいこと、そのどちらの場合でも人は先延ばしにすることによって、どこかに安心感を覚えます。それがまさに「現状維持」の精神なのだと思いますが、反対に、自然界から大宇宙まで、変化と成長が見られないようなものがひとつでもあるでしょうか・・。

人生は、こちらがボーッとしていても、シャカリキに動いていても変わらない早さで流れているように感じられて、自分はその流れに浮かべた一艘の小船に乗っているかのようです。
あらん限りの変化と成長に狂喜する人生を、送りたいものです。


>武芸も料理も、いきなり師父のようなコンフー(達人?)になるのは無理ですが

気持ちは分かりますが、それでも先ずは「そこ!」をスタートにする気概でいかないと、
多分そこには至れませんよ!
お互い頑張りましょう。
 
16. Posted by 円山玄花   2018年08月30日 16:44
☆西川敦玄さん

日常と非日常、その二つについて私たちは「別のもの」という認識があるように思いますが、昨日の稽古でもその考え方は簡単に崩れ散りました(笑)
ほんの、ささやかな発想の違いで、それはもう自分にとっても相手にとっても非日常となるのです。

自分の場合は、日常と非日常を「別のもの」と考えていたら、「陰と陽」や「虚と実」などもやはり別のもの、二つのものと捉えてしまいますし、それだと無極、太極の理解にはなかなか至らないのだと思いました。
 
17. Posted by 円山玄花   2018年08月30日 18:00
☆マルコビッチさん

昨日の稽古ではありませんが、「日常」というのは、いつの間にか自分が当たり前の常識だと思い込んできたことの集合体みたいなものですよね。頭は上、足は床、壁は垂直、屋根は上、物を見るのは目、音を聞くのは耳・・のようにです。
疲れてくると自然の中でキャンプをしたくなるのは、そういう日常の思考や考え方から離れて自分の中の創造性を蘇らせたいと思うからかも知れませんね。それこそ、四角い家ではなくて丸い家(ドームなど)に住むだけで考え方や発想が変わると聞いたことがあります。

師父は、何かを習得するための鍵は『自分のやりたいことをやめられるか』だと仰います。
これは、考えたり悩んだりする必要がないので、誰にでもできる素晴らしい「鍵」だと、心底感動しました。鍵は飾っておかずに使いましょう!
 
18. Posted by 円山玄花   2018年08月31日 17:38
☆松久宗玄さん

心の修養とは簡単に言えば自律を養うことであり、早い話が、それがないと戦場では真っ先にやられてしまうのだと、今回つくづく実感しました。

例えば五人一組でパーティを組み、敵がどこにいるかわからない廃墟の中を進むとすると、素人はその緊張感だけで周りが見えなくなります。先頭を行く人は特にその傾向が顕著になり、後ろに4人いることを忘れます。3人目、4人目だとある程度状況を俯瞰することができ、やや冷静になれますが、それも状況が進行すると保てません。ひとりのパニックはパーティの全滅を意味します。だからこそ、正しい訓練が必要なのですね。

美味しい料理を作れることと、生き残れることとはイコールだと思います。
頑張ってください。
 
19. Posted by 円山玄花   2018年09月02日 12:49
☆もりそばさん

本当に、何事も訓練ですね。
普段が、だら〜っとした生活だったとしても、その状態を道場にいる時と同じ精神状態で観照できれば、それはすでに稽古なのだと思います。
反対に、どれだけ日常をきちんとしようとしても、無意識的に生活しているのなら、やはり「自分の好きなように」生活していることになり、稽古の状態とは離れて行きます。

だらける時も意識的に、ですね。
 
20. Posted by 円山玄花   2018年09月03日 22:57
☆清水龍玄さん

確かにその人の「拘り」はその人にしかなく、その人が生み出しているものですが、
だからと言って拘りが多い人が新しいものを受け入れ難いということは、ないような気がします。
考え方かもしれませんが、私の場合は何か拘りがあっても、新しいものに触れて感動が湧き起こったら、その瞬間にその新しいものが洪水のように自分の中に流れ込んでくるので、拘りだとかその他諸々の理由が跡形もなく吹き飛んでいますね。
反対に、何がなんでも自分の拘りにしがみついていたいと思ったら、感動もなく、受け入れることもできず、理も見つからないのではないかと思います。

師父の運転に何かを感じられたなら、ぜひ自分でドライブしてみることをお勧めします。
解決の鍵が自分の中にあっても、ただ静観していてはカギは手に入らないと思うので、
積極的な静観、静と動で言えば動が必要だと思います。
だから私は、たとえエンストしてもマニュアル車に乗ります!
 
21. Posted by 円山玄花   2018年09月03日 23:22
☆さすらいの単身赴任者さん

>仕事も稽古も自分は言うだけでできていません

『どうして、自分を責めるんですか?他人がちゃんと必要なときに責めてくれるんだから、いいじゃないですか』
・・とは、アインシュタインの言葉ですが、こういう考え方があっても良いかなと思います。もちろん、自分ができていないことを正しく認識するのは大事で必要なことですが、ダメなことに焦点を当てている暇があったら、それを元に一歩進める方が、問題の全体を把握しやすいような気がします。
それに、「ダメだ!」と強く思うと心身ともに緊張状態になるので、もっと動けなくなります。
緊張状態での訓練は、また別の場所で行いましょう!
 
22. Posted by 円山玄花   2018年09月04日 00:35
☆スーパードライさん

コメントから、充実した稽古が行われていることを感じます。

「非日常」と聞くと、何か特殊で異質な、トライするのに大変な覚悟が要るような感覚を持たれる方も居るようですが、私が記事にしたのは「師父のお料理の様子」なのですよね。
これを「滝行」などにしなくて良かったと心底思いましたが、日常の所作を非日常的に取り組むことで、自分自身を意識的に観る必要が出て来ます。これが、稽古でも戦闘でもとても重要になると、日々痛感しています。

そう言えば、先日の稽古で師父に向かって行ったとき、いつも通りバッタバッタと倒されるのですが、師父から何かされている感覚はなく、まるで私が自分と向かい合っているような錯覚を起こしました。つまり、私にとっては敵に倒されているのではなく、自分しかいないのにやられている感覚です。
それが何であるのかは分かりませんでしたが、戦闘では相手はとても戦い難くなると思います。
なぜなら、敵から繰り出された右拳打が避けられなかった、ということなら日常の範囲ですが、敵が見えない、或いは拳を打ったとさえ思えないのに殴られていた、というのは大変な非日常だからです。
 
23. Posted by 円山玄花   2018年09月04日 20:54
☆佐藤玄空さん

「究極の肉じゃが」はですね、肉じゃがの常識を覆します。
見た目は、写真にもある通り普通のお惣菜的存在ですが、箸をつける前にすでにただならぬ香りが鼻腔を刺激してきます。その香りは、どんなに食欲のない人でもヨダレが出てくるほどです。
そして、じゃがいもを口に含んだ瞬間、見た目のしっかりした感じは完全に裏切られ、ホロホロと溶け出しながら、たっぷり吸い込んだ肉の旨みがブワッと広がります。
そしてお肉!、ジャガイモの芯まで肉の旨みが染み込んでいるのに、お肉が柔らかくて美味しいままです。
確か、普通の地元のありふれた肉だったと思いますが、味はまるで最高級黒毛和牛のようでした。

体の細胞まで入れ替わってしまうような気がするその肉じゃがは、作り方を聞いて更に驚きました。
やはり、考え方が違うのです。
私たちは肉じゃがひとつでも既成概念があって、その中で様々に工夫を凝らすのですが、そもそもの肉じゃがという料理に対する考え方が違いました。それを勉強しないと、太極拳でも見当違いのところで工夫を凝らすことになるのだと思います。
全身で浸かることは、とても大事だと思います。
 
24. Posted by 円山玄花   2018年09月04日 21:17
☆川山継玄さん

主婦としては、冷蔵庫の中を確認してから料理を始めることも大事だと思います。
でも、同時に私たちは研究者であることを忘れてはいけないと思うのです。
今の課題に対してどのように取り組めるのか、道場でも日常生活でも、眼に映るすべてのことから吸収し反映させて、テーマに取り組んでいかないと、前に進めないし間に合わないことでしょう。

研究者は、常に自分がベストの状態でいることに努力を惜しみませんし、同じ考えの中で悩んだり、それにとらわれることもないと思います。つまり、自分に対するフィードバックが人並みではないということです。
前人未到の領域を切り開いていこうとするときに、「まあいいか」では結果が見えているようなものです。
『まいっかー(まあいいか)と思う心が事故のもと』ですね!
ドキドキとワクワクが続きますように。
 
25. Posted by 円山玄花   2018年09月04日 21:58
☆田舎の神主さん

小学生の頃、小さな村のお祭りで「浦安の舞」を奉納したことがあります。
学生4人で扇と鈴を持って舞っていると、その空間は全てが非日常であり、まるで異次元の世界に入ったかのように感じられました。自分の意思で手足を動かしている感覚がないのです。とても不思議な経験でした。

昔の人たちの方が、今よりも神様と近い、非日常的な生活をしていたように思います。
日の出とともに動き出し、日没とともに家に入り、明日の支度をする。
四季の移り変わりの中で、太陽をはじめ、自然の恩恵に感謝しながら自分たちも成長していく。
そのような絶対的な力を敬う心がないと、人間はなかなか自分を反省したり、変容させていくということは難しいのだと思います。
これからは田舎の神主さんのような、神様と私たちを繋ぐ人が求められる時代だと思います。
よろしくお願いいたします。
 
26. Posted by 円山玄花   2018年09月04日 22:30
☆ハイネケンさん

何かを習得したいというときに、それは大まかに分けて趣味か伝承かその間かに分かれると思います。
そして自分がどこに居るのか、どこを歩きたいのかによって、必然的に日常への向かい方も変わります。

趣味の領域には、日常しかないことでしょう。
反対に、伝承の領域には非日常しかないのです。

美味しい料理のできるワケは、単なる手法ではなく、自分と食材と味わいの関係性であり、美味しい料理は最高のハーモニーであり、それは、私たちが稽古で気がついたら殴られている、飛ばされているということと、何も変わりません。
だから、普通の家庭のキッチンで普通の材料で「究極の肉じゃが」ができてしまうのですね。
私も肉じゃがを作ってみようと思います。
 
27. Posted by 円山玄花   2018年09月05日 13:44
☆マガサスさん

>非日常に身を置くことが、非日常を手に入れられることではない、と痛感しています

この言葉は、紙に書いて部屋に貼っておきたいくらいですね。
それは確かに、キュウリを糠床に入れておいたらお漬物になった、というわけにはいきません。

非日常に身を置くこととは、非日常を体験することに似て、例えばディズニーランドに行ったとか、休日にカヤックやスカイダイビングをするようなものです。それは一時の非日常の体験にすぎず、また都合の良い日常へと戻っていきます。
人は、非日常を体験したいとは思っても、それを手に入れたいとはなかなか思えないようで、辟易してきた日常からの逃避手段になるのでしょうか。

他のコメントバックにも書きましたが、日常と非日常は別のものではなく、非日常が特殊で恐ろしいものというわけでもありません。それこそ、「非日常は大変なことだ」と思えるのは、只々自分が日常からしか物事を見ていない故だと言えます。

日常を、意識的に過ごすこと。
たったそれだけのことなのですが、なぜこんなにも「大変なこと」として捉えられるのか、今回の皆さまのコメントを読んで深く考える次第です。
また機会を頂ければ、より踏み込んだ内容で書きたいと思います。
ありがとうございました。
 

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