2018年07月31日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その37

  「学習法の学習法」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)


 前回、一般クラスで稽古指導の手伝いをしているときでした。ある門人の歩法を見ていたとき、窓ガラスに鏡写しになったご自分の姿を、なかなか見てもらえないということがありました。
 正しい状態と間違った状態の違いを説明し、二種類を比べてもらえば違うということは理解してもらえ、そしてご自分の感覚でも違いはわかる、という状態でした。しかし、いざ動いたときに、なぜかご自分の動く姿を見てもらえません!
 「そこです!」
 というやりとりを玄花后嗣もまじえて数回行った末、ようやく見てもらい、違いを自身の「目」で納得してもらえたのでした。

 「本当に、違ったんですね!」
 とその門人は感嘆しながら言っていました。理解はできていたはずなのに、違いに気づけない。そして、実は気がついていないからこそ、正しくやろうとしているつもりでありながら、本当は間違った稽古を延々と続けてしまっていたのです。

 このようなことは、その門人に限らず、我々になら誰しも起こり得ることです。
 これは一体、どういうことなのでしょうか。


【おつむの問題?】

 我々は稽古中にしばしば、「アタマが硬い」「頭は悪くないが“おつむ”が弱い」といった指摘を受けます。
 目の前で見ているはずなのに、まるで目が見えない人のように、実際にやってみると全く理解できていないということはよくあることで、本当に自分自身「大丈夫なのか・・・?」と思ってしまうレベルで頭が働いていないように感じることがあります。

 道場の中でのみならず、世間でももっと頭を鍛えないといけない、という風潮はあるらしく、昨今では「脳トレ」と言われるジャンルのゲームや書籍が賑わっています。
 では、その「脳トレ」などで頭を鍛えればいいのでしょうか。
 脳トレに関しては、学術的な研究も行われていますが、ほとんどの研究が導き出した結果によれば、「脳トレは効果がない」という見解が主流のようです。
 もし効果があるとすれば、取り組んだ類のパズルやゲームが得意になるであったり、あるいは思い込み(プラセボ効果)によって、能力が向上する、といった程度のものでしかないということが言われています。つまり、やってもあまり意味がない、ということです。

 逆に、本当に脳の能力、認知機能や反射速度を高めたいのなら、娯楽用の一般的なテレビゲームのアクションゲームやシューティングゲームをやったほうが、実際に脳機能が改善される効果が高い、という研究結果が出ています。
 一時期は”ゲーム脳”という言葉で、ゲームをすることが悪いように言われていましたが、それによって生まれた脳トレゲームよりも、悪そうな普通のゲームをやったほうが効果があったというのは皮肉なものですね。

 イラク戦争に従事していた米軍の兵士が、オフの時間には持ち込んだテレビゲームでひたすら遊んでいるという話がありますが、ストレス解消のほかに、もしかしたらある種のトレーニングになっていたのかもしれません。
 シールズの伝説的なスナイパー、クリス・カイル氏も、現地で手に入れたゲームをやり込んでプロ級の腕前だった、と著書に書いてありました。

 知的な活動を行うとき、その人がもともと持ってる知能が問題なのか、それとも後から学習した能力が大切なのか、いろいろと言われているところではあります。
 実際のところ、生まれ持った知能よりも、後天的に学習できる、学習能力そのもののほうが結果に大きな影響を与えていると見る研究があります。

 ここが大事な点なのですが、「知能」ではなく、「どれだけ学習したか=知識」でもないのです。どれだけ学習していけるか、という点が、重要なのです。
 そしてもっと大事なのが、どれだけ学習していけるかという学習方法は、学習していけるということです。


【認知の認知、メタ認知】

 さて、では実際に学習方法を改善していくにはどうしたらいいのでしょうか。
 学習方法を変えるには、自分が何を考えているかを知る必要があります。自分の認知に関わる認知のことを「メタ認知」と言います。
 ロシア武術のシステマでも、「汝自身を知れ」というキーワードが言われているようですが、自分が何を考え、何をしているのかを知ることが、学習プロセスを改善していく上では必要不可欠な要素になってきます。

 冒頭で挙げた例では、その門人は歩法の問題を解決しようという学習を行なっていましたが、その学習方法(鏡を見ないで行う)に問題があるとは認識していませんでした。
 決して努力していなかったわけではなく、ただその努力の仕方が少し違っていたのです。
 結果的に、その門人は問題に気づき、学習プロセスの見直し(鏡を見て確認する)を行いました。それによって、問題とされていた部分が本当の意味で理解され、問題は解決へと向かっていったのです。

 自身の能力を高め、技術を向上させていくには、たゆまぬ努力が必要です。それは、がむしゃらな努力ではなく、効率的な努力でなくてはいけません。
 それは一般的には、学校ではほとんど教えてもらえないような、勉強法に関する勉強法と呼べるものです。

 余談ですが、最近の研究では、小学生くらいの子供に宿題をやらせるのは百害あって一利なし、という見解が広まっているようです。
 それは大人が外側から押し付けることによって、子供が持ってる自主的な学習意慾とそれに取り組む時間を削いでしまうことのほうが多いから、ということらしいです。
 小学生時代にそれに気づいていた自分は、自主的に宿題をしなかったものです。(ウソです、ただのサボりです)
 子供、というより人間が持っている学習能力は、浅はかな考えがおよびもつかないものなのかもしれません。
 たとえば昆虫が好きな子供がいたら、そこから広がっていく世界を勉強していけるように導いていってあげるのが良いのでしょう。強制的に算数のドリルをやらせるより、「昆虫の繁殖による個体数の増減」について子供が自主的に研究しはじめたら、それはもう応用数学や生物学・社会学のレベルです。親にとっては未知の領域かもしれませんが、子供がそちらをやりたがっているのを喜んであげるのが本当の愛情だと思います。

 話がそれました。
 大人は、そこからさらに一歩先に進んで、その研究を進めていくためにはどうしたらいいかを、より能動的に研究していくことが可能です。
 メタ認知による学習法の改善は、それそのものが強力なツールであり、自身の修練を推し進めていってくれる原動力になるはずです。
 大切なことは、自分が何を考えているかを知り、何を見ているか、何を見たいと思っているのかを知ることです。


【なまけものの伝説】

 怠け者というと世間ではあまりいい意味に取られませんが、コンピュータのプログラミングの世界では、怠け者は腕のいいプログラマーである、ということが言われています。
 というのも、怠け者は自分が可能な限り楽をするための手段を考えるので、それによってプログラムを改良し、人の手を煩わせないものに進歩させていくことになるからです。

 そして怠け者は、楽をすることでできた時間を何に使うのでしょう。
 そのプロセスをさらに改善させることに使い、そうして学習プロセスはどんどんとレベルアップしていけるのです。
 日本では、コツコツと努力を積み重ねるのが美徳という観点がありますが、それは場合によっては怠惰な努力になるともいえます。
 プログラミングの例で言えば、同じものをひたすら打ち込むのは愚か者の仕事であり、真の怠け者はそれを省略して同じ仕事ができるプログラムを作ります。そうして効率化した仕事を「仕事をサボっている」と見る風潮はいかがなものかと思います。

 愚か者の、愚者の努力をいくら続けてもやった気になるだけで、愚者であることからは逃れられません。我々には、賢者の努力とも言える、努力することが最大限の効果をあらわす努力をする必要があるように思います。
 のんびりと「今日はできなかったけど、明日にはできるかもしれない」などと構えている時間はないのではないでしょうか。人生の時間は、怠惰に生きれば長いですが、使おうとすれば短いのです。
 現実として今日わからない、できないことは出てくるのは仕方ないですが、それでも、明日につながる何かを残していくような努力はするべきなのです。


【若者の思考】

 嫌でも体は歳をとり、肉体は変化していきます。それさえも、きちんと努力をすれば何もしないものとは比べるべくもないカバーができます。
 そしてそれ以上に、脳は思っているよりも神経細胞のレベルでは老化しにくいようです。
 もし歳をとったと感じるとすれば、それは自分の考え方が歳をとったのであり、頭を使わなくなったり、物事への興味を失ってしまったことの結果です。

 太極武藝館で太極拳を稽古する門人たちは、老若男女問わず、新しいことに興味を持ち、意慾的であり、年齢を感じさせない人ばかりです。
 稽古で年配の方たちが多い時に、師父が冗談で「太極老人館」などと言われることもありますが、それでも一般的な社会よりはイイ・・・と、思います・・・。

 どうかその美点を生かし、さらに伸ばしていく方向に向かっていきたいものです。
そして自分たちの手で、太極拳という高度な文化を残し、発展させていきたいと思います。


                                (了)




 *次回「今日も稽古で日が暮れる/ その38」の掲載は、9月22日(日)の予定です


disciples at 01:46コメント(15)今日も稽古で日が暮れる  

コメント一覧

1. Posted by 佐藤玄空   2018年07月31日 23:41
爺さんがひとり通りますよぉ。

自分を知ることが進歩するために不可欠であることは、一般のスポーツでは常識中の常識になっていますね。
錦織選手を生んだIMGアカデミーでは毎日録画を見させ、悪い部分やそれを直すためにはどうしたら良いかまで全部選手自ら言わせるようです。コーチは答えを誘導し解らない部分だけ「こうしたらどうだろうか?」というアドバイスを送るようです。
先日も本部での稽古中に窓ガラスに映った自分の姿勢に愕然としたばかりですが、直すべきところが理解できなければ直しようがありませんね。でも自分を知ることはなかなか勇気が・・・。
とりあえず頑固爺にならないようお気楽にすごそうかと。
そんなことどこにも書いていないか。
 
2. Posted by 西川敦玄   2018年08月01日 12:35
学習の話題・・・ですね。

小学生の宿題についてひとつ感想
宿題が必要か否かについては、特に中学生以降になると、頭が良い集団では(学校ですね)、宿題が少ない、もしくはない傾向があるように感じます(経験のみなので事実かどうかはおいといて下さい)。また、所詮小学校の宿題なんぞはちょっとした隙間時間で終わらせることができる程度の量しかないと思います。(また、宿題は自主的な学習意欲がないものにとっては、最低限の読み書き計算が出来るようになる程度の効果はあるかもしれませんよ。) 要は、宿題をすることでなく、宿題をどうあつかっているかなんでしょう。

脳トレとゲームは五十歩百歩だと思いますが、脳トレのプラセボ効果で能力があがったとの報告は、研究としてはネガティブなんでしょうが面白いと思いました。脳機能があがるよと説明して脳トレを行うと、説明しないで行うより効果が高かったと言うことなんでしょう。脳トレに対する向かい方で差がでたともいえませんか? どうかな?

オツムの持ち方についてより意識的にならないといけませんね。
 
3. Posted by 円山玄花   2018年08月01日 12:51
なるほど、怠け者にはなっても、愚か者にはなりたくない、ですね。
今回の記事そのものに、勉強のためのヒントが沢山書かれていると感じました。

道場で大勢の稽古取り組みを見ていると、本当に人それぞれで、ある意味面白いです。
二人一組でお互いに違いを指摘するときには、毎回新しい角度で見ようとし、新しい指摘をする人もいれば、反対に相手や稽古内容が変わっても同じ指摘しか繰り返さない人もいます。そしてその事に自分で疑問を持っていないことが多いのです。さらに、様々な角度から指摘をしても、同じ稽古の仕方しかしない人も居ます。
つまり、何を稽古してもその人の見方が変わらないと、新しいことは見えてこないのだと。
そして人は、自分も含めて「自分の見たいことを見たいように見る」生き物です。
それでも「見れた」と満足するのか、本当の本物の真実を「見たい」のかは、その人の望みとして分かれるところなのだと思います。
それによって、自分が意識的である必要もあったりなかったりすることでしょう。

一度でも「学習法の学習法」に目を向けてみれば、道場の稽古で「一つのことを理解するため」に師匠がありとあらゆる学習方法を展開してくださっていることが、見えるかも知れません。
 
4. Posted by たそがれの単身赴任者   2018年08月02日 08:21
稽古にとってとても重要な心得をありがとうございました。
自分は「見て取る」という力がとてもとても足りないことに日々悩んでおります。示していただいているものを3D画像のように見て、脳に落とし込み、それを自分の体に再現させれば・・・。
もちろん全然できていません。トレーシングペーパーを片手でつかみ、ちびた鉛筆でふるえる指でスケッチしているというレベルでやっていることが現実です。
窓ガラスに映った自分の姿に師父や玄花先生の画像を重ねて見るようにし、なんとか修正しようとあがきます。しかし手先、、末端の修正で終わり、根幹の形の修正にはなっていません愕然としつつ。家に帰って印象をノートに描いてみてまたあがきます。
仕事柄こどもたちにいろいろな話をすることがありますが、記事にあるようなことを心にとめてまだフリーのままのこどもたちに脳内に豊かなイメージをわきあがらせてあげたいと考えます。
 
5. Posted by マルコビッチ   2018年08月03日 00:09
>認知に関わる認知のことを「メタ認知」
メタって何だろう? 知らなかったので便利なネットでググってみました!
ギリシャ語由来の接頭辞で、「高次の〜」「超〜」「〜を含む」・・・などとありました。
ちなみにメタ認知のメタは「高次の〜」という意味で、認知心理学の用語だそうです。私が知らないだけで、もしかして常識なのかな・・・(汗)
自分が何を考えて、どんな行動をしているのか、客観的に自分を見て知ることは、人間的に生きていく上でとても重要なことだと思います。
瞑想法のなかにもありますね。

私も指摘して頂いたことを、窓に映った自分の姿を見て、「本当だー!」と初めて認識した経験は何度かあります。
見るまで認識できず、前で示して下さっている師の姿と同じつもりなのです。
まるで”夢見る夢子ちゃん”状態でした。
さすがに今は、少しは違いは認識出来るようになってきましたが、まだまだ見えていない自分の姿は底知れず、常に常に普段の生活での日々の中でも、常に常に客観的に自分を見つめ、メタ認知能力を高めていきたいと思います。

私の知らない知識や私にはない考え方、アプローチの仕方を知ることができ、勉強になります。ありがとうございました。
 
6. Posted by 川山継玄   2018年08月03日 02:11
「今日できなかったけれど、明日にはできるかもしれない。」
私は、何度この言葉を繰り返してきたことでしょう。この言葉を繰り返したところで、何の成長や変化を得られないことはわかりましたが、では、どうしたらよいのか、どう解決していけばよいのか、具体的な解決策に至りませんでした。
というのも、とてもとても表面的にではありますが、変わりたい・成長したいと常に思っていたので、「自分は変化したいのだ」と思い込んでいたのです。
ところが実際には変化に対して闇雲に不安や恐怖を募らせ、変化についていくことが、とてつもなく大変な事だと、変化や成長を避けていた自分、更にはそれらを避けるために誤魔化しで対応していた自分にも気付かせて頂きました。
自身を直視できないような状態だったので、深い所の自分にアプローチできず、解決につながらないのだと合点が行きました。
私の中では、新しい事・変化する事=大変な事という意識が潜んでいた為に、新しい情報がストレートに入ってこなかったのですね。

新たな一歩を踏み出したいのなら、慌てたり、怖がったり、逃げたりせず、自分を見続けること、自分を知る事が大切なのだと心に刻ませて頂きました。
ありがとうございます。

7. Posted by 田舎の神主(#1)   2018年08月03日 16:30
『学習法の学習法』・・・難解な事が書かれているのでは、と拝読したところ、これこそ自分に足りなかった必要な学習法でした。
どれだけ学習していけるか、という学習方法は学習していける。
今までの方法を改善するには、自分が何を考え、何をしているかを知る。
何を見ているのか、何を見たいと思っているのかを知る。
間違った同じ事を積み重ねていっても、ただ間違っているだけ。
・・・確かに自分に当てはまる事だと思いました。

私は、神社でのご祈祷の後に、こちらからの一方的な(押し付け的な)講話はやめて、祈祷者に質問をするという自然な形のお話に変えてきました。(今の時代、神主の話など流行らないらしいし聞いてくれない)そうすると、今、悩んでいる事柄について話始める方がいます。
流石にお金を貸して欲しいという悩みにはお答えできませんが、大概は、身内の仲違いや病気の話。何らかの事を成就したい等が多いと思います。特に成就の方法についての答えは、今までの自分が経験した程度の経験談、ハウツー本で知り得た情報、どこかで聞いたような話、を参考にしています。(こう書くといい加減だなと自分でも思います)

成就方法
⑴ どこまでやりたいか目標を立てる。どのようになりたいか、やりたいかの将来的なビジョンを想定する。
(途中のやりやすい小さな目標も立てないと嫌になる)
(ビジョンを想定し大きなことを勝手に想像し楽しむ)
⑵ 朝起きて、寝るまで其の事を考える。とにかく継続。継続できる方法を考える。
(お金持ちは、お金を稼ぐ事を起きている間ずっと考えているからお金持ち)
(やめてしまったらそれで終り。元も子もない)
⑶ 自分を変えないと出来ない時は、まず、その方向性だけを変える。
(自分を急に変える事は不可能に近いので、方向性だけなら自分の意識だけで瞬時に変えられる)
 (#2へ続く)
 
8. Posted by 田舎の神主(#2)   2018年08月03日 16:31
このような話をその人の内情に合わせてするのですが、自分だけでなく相手がいる場合は、相手の都合や相手の考えに合わせることが重要になると思います。もし、この成就方法が異性とのおつきあいで想定し、まったく相手と合わせない時はストーカーになってしまうかもしれません。
自分は相手と合わせることが苦手なので、『学習法の学習法』を参考に、克服できるように頑張りたいと思います。

それと参考までに、日本の美徳というのは、明治以降、特に戦後変えられている可能性があるのでは、と思います。過去において、日本の言語を国語、歴史を国史、道の学問を国学といいました。それが、現在では、日本語、日本史、日本学。(民俗学とかはありますが、日本学はありません。やはり国学は意図的に消されているように思います)
国学四大人(こくがくしうし)のひとり、賀茂真淵先生の流れで遠州国学といわれるものがあり、遠州には大勢の国学を学んだ人たちがいました。私の五代前の先祖も国学四大人のひとり、平田篤胤先生の弟子でした。
祖父から聞いた話ですが、祖父が子供の頃、遠く伊勢から泊まりがけで何かを書き写しに来た人がいた。でも先祖が大切にしていたものは戦前に火事で灰になったと。
燃え残った稲屋には大した物はなかったが、今川や徳川の朱印状や戦国時代からの古文書があった。では、大切にしていたものは何かと。 
 (#3へ続く)
 
9. Posted by 田舎の神主(#3)   2018年08月03日 16:32
その国学は、私はかじるというより撫でた程度ですが、記憶を紐解いてみると、確か、先生からの教えを請う時の秘宝とか、どのような心持で教えを請うかが書かれていたと思います。

当時、本物の国学を学んだ者は、静岡県では、遠州報国隊、豆州伊吹隊、駿州赤心隊を結成し、京都から江戸までの天皇陛下行幸の護衛に着きました。また、明治維新、大正維新、昭和維新と続いた動乱の基となり、その思想は米国の占領軍により敵視され、戦後徐々に無くなり、今では謎の学問とも言えるでしょう。
きっと、その学問に日本の本当の美徳があったのでは、と思います。
 

10. Posted by ハイネケン   2018年08月03日 22:31
先日、「同じだと思って見れば同じに見える」が「違うと思って見れば違う所が見える」という話を伺った時、自分の曇った視点が変わりました。
話が逸れますが、実験でトイレの「男女」表示を通常「青色+男性のマーク(アイコン)」「赤色+女性のマーク」とするのを、 「色とマーク」を入れ替えて「赤色+男性のマーク」「青色+女性のマーク」と表示してみました。
日本人の場合「赤=女性」「青=男性」と色で判断しトイレへ向かう人が多く見られました。
自分が無意識で情報の取捨選択を行っている、と思うと怖い話です。
今日も自分を鏡で見てみますが、やはり見えてない所は違いも分からず愚者の努力になります。
普段から自分の動きどころか、師父の動きを「きちんと」見ていないのだと思うと、すべき事が沢山あります。
 
11. Posted by 松久宗玄   2018年08月04日 01:29
改めてご挨拶させて頂きます。「まっつ」こと松久宗玄です。

太極武藝館のブログ開設から約10年近くにもなるのですね。
まっつとして参加させて頂いた日々を思い起し、懐かしさを覚えます。
今後は松久宗玄として関わらせて頂き、
皆様との交流を深められれば幸いに存じます。
この場をお借りし、改めて宜しくお願い申し上げます。

さて、思い起こすと、これまでも「アタマが硬い/固い」問題については、
ブログ内でも取り上げられてきて、都度都度に反省しきりでしたが、
振り返ると、相変わらず自分を見る事、変える事は難しいです。

出来ない自分を見ずに、出来る範囲に集中するのと、
出来ない自分に向き合って、出来ない中で出来るように苦労するのと、
行き着く先の結果は明らかと理解できても、なお難しいです。

そこに向き合うには、強く「自分の必要」が必要なのだと感じています。
未知の自分を知る事に、妙味を感じられる域にはまだまだ遠いですが、
師父の醸される妙味を、子供のように味わい、遊ぶ事は自然に出来ます。
その妙味をこそ伝えていくべきだと感じています。
 
12. Posted by スーパードライ   2018年08月05日 14:22
本部道場では、何を指摘をされるか、直されるか、自分のやってきたことが正しいのか、どんな事が体に変化が起きるか楽しみに稽古に挑むようにしています。帰宅する時には、いつも満足感を満喫(ウナギでないです)して徐々に体を整理する作業をしていきます。
そして自分で一人稽古する際に整理していくと、師父の通った声で指摘されたお言葉が突然思い出され、本部道場の緊張感がよみがえり、思い出しては繰り返します。

しかし気づきけなかった事に関しては、取れない部分の一番悩むところです。
どうしても再現できないところや理解できなかったことなど頭の中が何かに邪魔をされているかのような錯覚に陥り動けません。

>自分が何を考え、何をしているのかを知ることが、学習プロセスを改善していく
過去の思い込み、習慣、癖、囚われた考えを払拭する作業をし、全てに素直に見ていくしかないと考えます。

今回の学習法の学習法を通して私自身、情熱はありますが愚かな情熱にならないよう素直に学習していきたい思います。

13. Posted by 清水龍玄   2018年08月05日 19:03
師父は常々、理解していく為に必要な自分の在り方、そして失敗する人間の状態を何度も何度も説いて下さいました。
それでも何かを理解していく事は、大変なことですが、愚者の努力から脱却し、賢者の努力をしていく為、もっと自分を理解し変えていき、物事への関わり方を変えていく必要性を感じます。

世の中の偉業を成してきた人の本を読んでみると、そこには、決して変わらぬ情熱と、問題に突き当たり、全力で新しいことを発見していき、変えていく強さがあります。
人は、その生き方や強さに惹かれていくのではないかと、何度も思いました。
「脳トレ」も面白いことは面白いですが、これは、私の取り組み方がいけなかったのかもしれませんが、どことなく、部分的なものに感じられました。

もっと根幹の、人としてどうなのか、自分は今なにをやっているのかを大事にしていかなければならない、そう思いました。

14. Posted by ランフォリンクスの尾   2018年08月07日 20:08
こんばんは。今回もためになる記事をありがとうございます。
離門してしまったことが今では挫折経験として思い起こされるようになってしまいましたが私はなんとか食いつないでいます。

さて勉強法の勉強ばかりであまり勉強が続かない人、参考書マニアなのに成績の悪い人、稀によくいますよね。ええ、私にもその傾向はありました。正しい方向に努力できる環境に身を置くことができるかどうかがまず難しいのだということを最近は痛感しています。

それから子ども相手の教育業界の話であれば、予習重視型よりも復習重視型のほうが現在では圧倒的に主流です。太極拳の稽古でももっと復習を大切にしたかったと今では悔いています。
 
15. Posted by マガサス   2018年08月07日 22:27
お久しぶりです、マガサスです。
研究会門人ではありませんが、今回特別に稽古として、コメントを5日間以内に投稿するよう、ご指示を頂きました。この5日間、自分という人間が顕著に現れ、見直す良い機会を与えて頂いたと思います。その経過を書いてみます。

<初日>まだ投稿まで5日間もある、と余裕を感じながらブログを読む。
<2日目>自分が感じたことよりも、自分が書いたことを読んだ人が、どのように思うかを気にしながらコメントを考えている自分がいるが、まだ余裕があって書かない。
<3日目>自分が感じたありのままを書こうと思うのだが、全く考えがまとまらず、今日も書けない。
<4日目>いよいよ明日が投稿期限だ。今日こそはまとめないといけない、と焦りが出てくるが、やはり頭のどこかに、まだ明日一日あるという余裕がある。
<5日目>当日となってしまい、流石にどうしようもないので覚悟を決めて書き進める。
昨日までの4日間とは比べものにならないほどアタマが動いているが、このコメントを読む人のことが気になり、自分の思いを素直に飾らずに表現するという、最も大切なことから離れてしまい、苦労する。

細かく書きすぎて自分の内面を見られたり詮索されるのが怖く感じたり、逆に誇張して書いて
読者の同情を買おうとしている自分がいたり・・・
『何のためのコメントじゃいっっ!』( T_T)\(^-^ )
と、お叱りを受けそうですが、とにかく出るワ出るワ「人に見せたい自分」が、もぐら叩きのモグラのように懲りずに顔を出してしまうのです。
いい加減アホらしくなってきて、赤裸々な自分の観察日記を書かせてもらいました。
申し訳ありません。m(_ _)m

KNOW THYSELF、汝自身を知れ。
今回の課題で、自分が何を考え、何をしているのかを知る良いキッカケとなりました。
「学習プロセスを改善していく上で必要不可欠な要素」として、大切にしたいと思います。
 

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