2018年05月22日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その36

  「整えるということ・暗号・真似をする」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)


【整える】

 太極拳では正しく立つことが重要視され、身体のみならず、精神の軸もきちんと律していかないと習得は難しい、と言われています。
自分も、半ば盲目的に「整えなければ・・・」と思い稽古に取り組んでいたのですが、あるときふと、整えるとはどういうことだろう? と疑問に思ったのです。

 整える、ということは情報の観点でいえば物事の秩序の度合い、と解釈できますが、ではその度合いとはいったいどこから生じるのでしょうか?

 部屋の中で散り散りになった本を本棚に片付けるとき、そこには一定のルールが必要になります。本のサイズで分ける、著者で分ける、内容の関連性で分ける・・・それぞれの好みもあるかと思います。ただランダムに棚に収めるだけでは、それはしまっただけであり、整えたことにはならないといえます。

 では、人間の体も同じように整えることができるかというと、そうはできません。
そもそも人間の体はひとつにつながっていて、バラバラにならず、順番はすべて決まっています。
そうしてみると、人間とはすでに整ったものだと言えます。

 すでに整っているはずのものを、バラバラだと感じて、では整えようと好き勝手な基準を考える。それが、じつは人間の傲慢な考え方なのではないだろうか、とふと感じたのです。
 それでは、太極拳で言われているような「整える」とはどういうことか、自分の中で、最初から考える必要性が出てきました。


【暗 号】

 「太極拳とはコード、すなわち暗号を解くことだ」と、師父は常々言われています。
 色々指導されている中で、あるときふと、何かが分かることがあります。暗号の正解のひとつにたどり着いたということでしょうか。
 ですが、そのひとつがわかったからといって、暗号のすべてが理解できたわけではありません。せいぜい、知らない言語体系の中の単語ひとつの意味がわかった、くらいの解釈でしょうか。その言語が習得できたとはとうてい言えません。
 暗号のひとつを解くことによって、ひとつのヒントは理解できたかもしれませんが、暗号の普遍性を解いて、完全に理解したわけではないのです。

 ここで太極拳から離れて、いわゆる一般的な暗号を解くことを考えてみます。

 暗号とは、ある特定の変換法則によって、文章を別の状態に変えて、解読表を持たない人間には理解できないようにするものです。
 なにもヒントのない状態から暗号を解くには、その中に繰り返し現れる部分に着目し、それがなにを意味しているかを特定することから始められることが多いです。
 知らない言語を理解する、たとえば古代エジプトのヒエログリフを解読する場合でも、繰り返し現れる文字列がなにを意味するかわかったことが、解読のきっかけになりました。

 知らない街で知らない言葉を使う人々を観察していて、人々が知り合いだと思われる人と会うごとに「ンダバ!」と言っていたら、それはあいさつなんだろうなと推察する、というようなものです。「ンダバ」は適当に考えた言葉ですが。

 太極拳の暗号を解読する場合にも、それと同じ手法でアプローチできるかと思います。
 基本功や套路の中に繰り返し現れる要素を見極め、それが指導されていることとどう共通しているか、それを見極めるのです。

 そうすると、まるで関連がなかったかと思われるような動きの中に、共通の何かが、次第にみえてきます。そうしたら、それをヒントに考えていくことが可能なはずです。


【真似すること】

 さて、その上で、真似をすることの大切さについても考えてみたいと思います。
 真似をすることは、もちろん学習する上での心構えとしても大事なのですが、そことは少し観点を変えて、戦略として、数字の上でどれだけ有利かということを考えてみようと思います。

 暗号を解く上で、現れている繰り返しに着目せず、総当たり的に文字を当てはめて、意味がつながる文章が出てくるまでやる、というやり方ももちろん可能です。

 パスワードを解くとき、たとえばそれが四桁の数字でできる暗証番号だとしたら、
0000〜9999までの10,000個の数字の組み合わせの中に必ず正解があります。頑張ればなんとかなるかもしれません。
 では、それが7桁の数字だとしたらどうでしょう。
0000000〜9999999までの10,000,000個の数字の中に正解が含まれています。気が遠くなる数字です。
 そこにアルファベットまで含むとしたら、もうどうしようもないですね。
 だから普通、他人のパスワードを盗みたいクラッカーは、多くの人が使いやすいパスワードのパターンを使って攻めることをします。1234567など、わかりやすいパスワードは危険と言われる所以です。

 真似をすることの大切さとは、ひとつにはそれだけ、試行回数を減らすことができるからです。
 ランダムな数字をあてもなく入力していくのではなく、たとえばある特定の数字(誕生日など)が含まれている、とヒントがあれば、それだけ解けるまでにかかる回数は減ります。

 師父に模範を示していただくことは、極端にいえば、隣でパスワードを入力している様子を見ていることに近いのかもしれません。
 それはもう、ほとんど正解を示されているといっても過言ではないかもしれません。

 そこまで極端でなくとも、暗号の中に含まれる繰り返し現れる構文を、目の前で指し示していただいて、ここにも、ほら、ここにも・・・と教授されているようなものでしょうか。

 真似できない状態というのは、それらのヒントを一切顧みず、自力で総当たりによって暗号を解読することだとすれば、真似したときとしないときで、一体どれほどの労力の違いがあるか、一目瞭然だと思います。


【ふたたび整える、そして暗号】

 いくつかのことをざっと見てきましたが、最初の疑問に戻って、整えるということについて考えてみたいと思います。

 冒頭で、人間とはすでに整っているのでは、と書きました。そして暗号の話に続いたわけですが、ここでふと疑問がよぎります。
 自分はそれまで、太極拳が暗号だと思っていたところがあったのですが、もしかしたらそれは少し違うのではないだろうか、ということです。

 暗号は解読表があれば、読み解けるものです。
 自分が一番わからなければいけないのは自分自身、広く言えば、対峙する相手や周りの環境まで含めた、人間のことなのではないでしょうか。
 だとすれば、暗号というのは太極拳のことではなくて、広く人間全般のことを指し示していて、太極拳とは、暗号=人間を理解するための、解読表という意味があるのではないか、と思ったのです。
 しかし物事は単純ではなく、太極拳という解読表もまた暗号によって記されているとすれば、二重三重に理解しなければならないことがあるというのも、腑に落ちるものです。

 整えるということは、すでにそこにある暗号で記された自分から、どれだけ意味のある言葉を正しく解読できるかといえて、それは本棚を整理するときのように、好き勝手な基準で言葉を並び替えるのとは意味が違うといえるはずです。

 そして、暗号を解読するために繰り返し現れる言葉に着目するというやり方を、暗号という二元的な世界から離れて、時間や動きまで含めた動的な現象で表現すると、真似をすることと言えるのではないかと思います。
 イメージが平面から動的な立体になるので表現が難しいですが、まず真似をしないことには、そもそも疑問となっている解読したい暗号が立ち現れてこないと言えるのかもしれません。

 真似をすることは、もっと根源的なものであり、本質に迫るための手段とさえいえるのではないでしょうか。

                                  (了)




 *次回「今日も稽古で日が暮れる/ その37」の掲載は、7月22日(日)の予定です


disciples at 20:35コメント(18)今日も稽古で日が暮れる  

コメント一覧

1. Posted by たそがれの単身赴任者   2018年05月23日 15:53
太郎冠者様の暗号という表現、自分にとてもしっくりくるものです。太極拳によって崩されたり突きを当てられた時、結果は理解できても、なぜそういう結果になったのか過程がわかりません。目を皿のようにしていても・・・。まるでドイツ軍の暗号エニグマの文面を前にして茫然とする連合軍情報部のように。
入門前、自分の浅い知識では、武術は人が武術の技法は道具と人間という関係があると勝手に思い込んでおりました。まるで手に持った道具のように技法を駆使してその時々の条件に合った異なった技法を熟練と経験で変化させて使うものと思っていました。相手を硬直させたり、はずみ、反動、落下等日常なじみやすい理解しやすい力の駆使によって・・・それは比較的理解しやすく、繰り返しみていれば素人の私でもなんとなく納得できるかもしれません。

しかし暗号であるようにみえる太極拳はそうはいきません。
太極拳は整えられた人そのものが太極拳になっているのでないかという感覚があります。
人が自然に動く、それは太極拳そのものであり、そのことでこちらに何かが起こります。
無理や無駄やムラがなく、足りなかったり、余ったりしない一人の人がいるだけ。
そのことにより解けない暗号としてしか認識できません。
まずは暗号を解読できる自分にならなくてはいけません。おっしゃるとおり形をまねていくことが第一歩ですね。そのことで自身を太極拳に近づけていく道を一歩でも前に歩まなければなりません。
 
2. Posted by もず   2018年05月23日 16:15
整えるということ
順番を整えるという面においては、おっしゃるように人間の臓器、骨など整っており、普通は変更出来ないでしょう。
そう、整っているといえば整っていますよね。そこから、整えるという疑問からの発想の展開して、難しく抽象的数学的な話になっていきました。興味深く拝読させていただきました。
でも、私はもっと、シンプルに考えたいなあと思っています。

本棚の整理の話をしていましたよね。
本棚の整理で言えば順番に並べれば良いのでしょうが、本を1mもキレイに積み上げて行くには重心をあわせて積み上げていく必要が多分あります。人間の身体はその意味では既に積み上がっているともいえます(おっしゃるように既に整っています)が、当然、倒れないように補助具を相当つけて積み上あがっています(よね?)。
その中で、本を整えるという意識で本の重心を整えるということを行うと、積み上がった状態は変わると思います(当たり前ですね)。
さらに言えば、整えるという意識で積み上げた本と補助具、たんに積み上がって補助具と本が渾然一体となっている状態では同じ状態でも大違いではないでしょうか。
(きっと、本だけでなく補助具の使い方も変わりそうですし、本を並べる向きにも関心がいくと思います。話は飛躍しますが、その要素のみで作った庭を枯山水でないかと勝手に思っています。)
そういうことを整えると言っているのではないかなあと思いました。

そんなことを考えました。
 
3. Posted by まっつ   2018年05月26日 00:48
太極拳に向き合う中で、自分を知らないのだという事に気付かされます。
自分の外側の世界を知るには、五感による刺激や、言語、自然科学、等々ありますが、
自分自身が芸事に向き合う事ほど、自分を深く知る事が出来るアプローチは無いと思います。

世界は本質的には神秘的で、仄暗い謎に充ちていて、その謎を解く歩みが生きる事の本質だと感じます。
でも、光とされる理性に啓蒙されて、擦れてしまった我々の目には、
謎の魅力が感得できなくなっているとも思います。

師父の示される太極コードは、
光とされるもので隠されてしまった根元的な謎にアプローチするパスコードでは、
との説は同感に思います。
 
4. Posted by 円山玄花   2018年05月27日 11:15
真似をすることはとても重要で、そして奥深いことだと思います。
ライオンもシャチも、親が狩の様子を見せ、子どもは親の狩の様子を見て、真似て覚えていきます。それは他でもない、自分が生きるためであり、家族や子供を守り繁栄させていくためなのでしょうけれども、もし私たちが師匠の戦闘の様子を見ても真似ができない、戦えないとなると、単に野生が足りないなどとは言っていられませんね。

話は変わりますが、自分一人ではどうしてもできなかったことが、真似ることでパッとできてしまうことがあります。
正確には「できた」のではなく、「できるために必要な、ある種の感覚を掴んだ」ということなのでしょうけれど、例えばホウキの柄を手の平に立ててバランスを取ることや、素人には不可能とさえ思えるプロのジャグリングなどでも、言葉で細かく説明されてもできなかったことが、見て真似をするとなんとなく出来てしまうのです。
つまり、真似をすることで、それまで自分には無かった身体の状態が、理屈抜きに整えられるのだと思います。そして、だからこそ太極拳には「整え方」ではなく守るべき「要訣」があるのだと、私は思います。
 
5. Posted by マルコビッチ   2018年05月27日 23:17
大変興味深く拝読させて頂きました。
私自身もやもやしていて整理できていないことを、提示させて頂いた感じです。
(太郎冠者さん、そして皆さんのコメントを拝読して、言葉できちんと考え、組み立て表現することが苦手だと決めて、やろうとしない自分に気がつきました。)

真似をするということの中には、とても深いものがあると思っています。
一挙手一動、真似をしようと意識を研ぎすます。
だけど、同じにはならない。(発見することはあっても・・・)
でも小さな子が、知らない間にいつも近くにいる人と同じ話し方をしたり、行動をしてしまう現象。
極端なたとえかもしれませんが、この二つの間にはどんな違いがあるのでしょう。

>人間とはすでに整ったもの・・
長い間偏った使い方で歪んでしっまた身体を、本来あるべき姿に調整していくようなことなのか・・音が変わってしまったピアノを調律していくように・・それもまたちょっと違うような気がしますね。
結局太極拳で必要とされていることを守っていくことでしか、太極拳で必要な意識と身体を整えていくことは出来ないのかなと思いました。
ありがとうございました。
 
6. Posted by ユーカリ   2018年05月30日 03:17
コメントが大変遅くなり、申し訳ありません。

形や動きだけでなく、師の考え方や意識まで真似たい、わかりたいとあわせてみると、形や動きだけを真似ようとしていた時よりも、すっと何かが通ったような感覚があります。丁度、ひもにビーズを通して片側を持って垂らして揺らしても、鉛直方向に戻り整うように、無理がないと感じます。

自分では可動範囲や動ける方向や角度などを、貧弱な想像力で、勝手に「ここまで」「これだけ」と無意識に決めてしまい、示してくださるそれらが見えないことが多々あります。けれどもその自分の考えや思い込みをはずして見ようとすること、自分の無意識に気づく事が、暗号に気付き、ひも解いてゆくきっかけになるのではないかと思います。

いつもご自身の疑問点に着目し、丁寧にそれと向かい合い、考え方やアプローチの仕方をわかりやすく記事にまとめて下さり、ありがとうございます。
今更ながら、疑問に思っていること、わからないままにしていることを、明確にし、実際に解決できるように取り組んでゆきたいと思います。
 
7. Posted by タイ爺   2018年05月30日 19:04
太極拳を研究するということは人間そのものを研究するということに他なりません。入門以降何度も解剖や運動生理学の本を読んだことか。
結果として二足歩行する人として誰もが当たり前に持っている能力なのではと最近考えています。人間は固形物ではないのでそれを考えると夜も眠れません。
動物が親を真似して狩りを覚えるのに似て視覚情報をもとにして自分で再現してゆくことが一番はやくまた応用も早いような気がします。ギターの耳コピと似ていますね。同じ音になるように何度も何度も反復を重ねるところまでよく似ています。
実はkeyは師父という形で示されているのかもしれません。
頭と感覚、体をフル回転すればできる!・・・かな?
 
8. Posted by ハイネケン   2018年06月03日 11:59
「整える」事と「真似する」事とを経糸と緯糸の様に横断し織り上げていく太郎冠者さんの文章を読み、思い出しました 。
ある稽古の時、感想を問われた私は「頭の中が混んがらがる感覚」であった時、同じく稽古していた門人が「体が浄化されていく様だ」と話しておりました。
自分の考えを挟み、頭で理解しようとして混乱へ向かう私。真似をすることで体が「整って」ゆく門人。
同じ時間を過ごしながらこんなにも違うのかと驚いていました。
そんな体験がありながらも、勿体無い事にその感覚を忘れていました。

>暗号の中に含まれる繰り返し現れる構文
「ンダバ! ○✕△○✕△・・・」に耳を澄まし、話せる様に・・・・。
気の遠くなる様な道のりですが、師父のおっしゃる『太極拳は、それほど難しい武術ではない』との言葉があります。
目を凝らし、研ぎ澄ましていこうと思います。
 
9. Posted by 太郎冠者   2018年06月05日 15:31
☆たそがれの単身赴任者さん

たしかに、武術を道具として見てしまうと、その時々に応じて交換する必要が出てきますね。
そもそも道具は、特定の効率化するために使われるものなので、
その発想ではただそれだけでいいという太極拳の状態は、
理解に結びつきにくいかもしれませんね。

便利な道具はありますが、万能の道具というのはありません。

ところが、太極拳はまるで、戦闘に関して万能のように思えてしまう・・・。
それだけ、理解から程遠い状態なのかもしれませんが、
そこが非常に面白く感じますね。
自分自身がそうあれるように、切磋琢磨していくしかありません。
 
10. Posted by 太郎冠者   2018年06月05日 15:46
☆もずさん
>本を整えるという意識
わかりやすい例を書いていただき、ありがとうございます。

おっしゃる通り、本を重心で整えていく、とすると、もずさんに書いていただいた通りだと思います。
記事の中で自分が疑問を呈したのは、「整える」というときに、
例であげられた重心ではなく、自分勝手な基準(たとえば本の大きさなど)で整えてないか、という点でした。

整えると言葉では同じでも、何で整えるかで結果はおのずと変わってきます。
知らず知らずのうちに、自分を挟み込んでいないか?
そこを注意しないといけない、と思ったのです。

>枯山水
僕は禅の世界はよく知らないのですが、本当に、共通した何かが感じられて面白いですね。
 
11. Posted by 太郎冠者   2018年06月05日 15:50
☆まっつさん
最近の若い世代は、小さな頃からスマホなどのデジタルガジェットが身近にあるデジタルネイティブなどと言われていますが、
彼らにとって、スマホなどはあって当たり前であり、その仕組みはブラックボックスとなってしまっているようです。

人間は不思議なもので、それがなんなのかわからなくても、とりあえず使い方は理解できる生物のようです。
なんだかよくわからないけど、データはクラウドに保存されている・・・。
グーグルがサーバーを増設したというニュースに、
「グーグルは古臭い、時代はクラウドだ」
と発言した人がいるとかいないとか言われていますが、じゃあそのクラウド内のデータはどこに保存されてるのか?
というところがすっぽり抜けてしまっています。

なんとなく生きてしまえますが、生きていることってどういうことなのでしょう。
これに答えてくれるのは、あんまりないですね。
 
12. Posted by 太郎冠者   2018年06月05日 15:55
☆玄花さん
子供が言葉を覚えていく過程では、具体的な言葉の前に、身体言語のような、言葉にならない「あれ」みたいなものから理解されていくと言われています。

また人間は、(超能力とかではなく)言葉によらない、雰囲気といったようなものでもコミュニケーションをとれる生き物です。

頭で、言葉で理解できていることなどごく一部で、本当はそういうもの以外で、真似する、近くで過ごすことで勉強できていることが、文字通り語りきれないほど多くの豊かな実りになっているのだと思います。

野生動物が見て覚えるのだとすれば、やっぱり我々には、その野生の力が足りないのかもしれませんね。
 
13. Posted by 太郎冠者   2018年06月05日 15:59
☆マルコビッチさん
幼稚園くらいの子供の言動を見ていると、その親がどういう生活や言葉遣いをしているのかが見えてくるので面白いですね。

本当に、子供はよく見ていると思います。
ぼくたちも、子供のように純真に真似できないといけないですね。

>調律
楽器をチューニングするときは、好きな音程ではなく、基準となる音の周波数が必要です。
太極拳にとっても、同じことが言えそうですね。
 
14. Posted by 太郎冠者   2018年06月05日 16:11
☆ユーカリさん
人間は思い込みで限界を決めてしまうものです。
少し前までは人間が100メートルを10秒切ることは不可能だと思われていたそうですが、今では9秒台の記録がいくつも出てきています。

最近感じるのは、太極拳を習得することをほかの分野にして考えてみると、「とんでもないことなんじゃないか」、ということです。

陸上短距離で言えば、100メートルを9秒台で走ること。
だれかが成し遂げたことかもしれませんが、それを自分でやるとなると、途方も無い努力が必要なのだけはわかります。
達成した人が、生活の片手間に陸上やってその記録を出したのではないことだけは理解できるので、
やっぱり全身全霊を持って取り組まないといけない、ということはわかります。
がんばらないといけないですね!
 
15. Posted by 太郎冠者   2018年06月05日 16:15
☆タイ爺さん
一見すると、師父の動きはまるでこともなげにやっておられるので、
「あれ、できるんじゃないの?」
なんて思ってしまうのが面白いところです。

実際やってみると、とてもそうは動けないのです!

自分でやってみて改めて「本当に同じ人間なのか?」
と思ってしまいます。
プロの職人が物作りしているのをみると、なんだかすごく簡単そうに見えてしまうのと同じでしょうか。
我々とは中身、CPU、頭脳、なんでもいいですけど、それが全く違うことが感じられます。
デジタルみたいに丸っとコピーできれば楽なんですが・・・。
そう思ってるようではダメですねぇ。
 
16. Posted by 太郎冠者   2018年06月05日 16:22
☆ハイネケンさん
以前稽古で、師父が、
「太極拳は難しい武術じゃない。難しくしているのは君たちだ」
とおっしゃっていました。

その言葉にどれだけショックを受けたことでしょうか。

自分が理解できないことを、その対象が難しいということにしてしまうのは、ある種の逃げですね。
イソップ寓話の「すっぱいブドウ」に出てくるキツネと同じです。

ブドウに届かないキツネのために、踏み台、脚立まで用意してもらっているというのに…。
本当は、それも自分で用意しなければいけないというのに。
 
17. Posted by スーパードライ   2018年06月14日 17:46
半年ぶりの本部道場の稽古でした。

毎回、道場のドアの前に立ち一呼吸を置くと整えられる気持ちになります。
そして稽古が始まればとにかく真似て、真似る、真似て・・・・。
夜ともなれば道場の窓ガラスには、動けてない自分をみてショックを受け、それでも真似続ける。


いつか太極拳のコードを解くことができれば自分が動ける位置を知り、自分をコントロールできるようになれるかな・・・。

今回も教わったことを大事にし、精進致します。
 
18. Posted by 太郎冠者   2018年06月21日 22:47
☆スーパードライさん
コメント返信遅くなりました!

毎回道場で稽古をしていても、ショックを受けるのは同じです。
何かに気づくたびに「ああ〜!」
そして、気づけないたびに「ああ〜!」

時折、思っていることがぶつぶつと、もしくは叫び声になってもれてしまうのが困りものであります。

道場以外の実生活の場所で気をつけるのは当然のことですが、
その気をつけるための大元に気づけるのが、やはり道場という場なのだと、改めて感じさせられます。
それなくしては、なにもはじまらない気がしますね。

また稽古でお会いできるのを楽しみにしています!

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