2018年03月26日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その35

   「 思い悩むことなく」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)


 なにかに行き詰まったとき、まったく関係ないと思っていたきっかけによって、ぱっと視界が晴れ渡り、遠くが見えるようになることがあります。何かがひらめく分からなかったことが理解に結びつく、誰しも経験があると思います。
 その変化は、劇的な一瞬で起こることもありますが、時間をかけてじわじわと起きている変化、その一見わかりづらい変化こそが、実は本当は重要なものだという気がします。

 毎日、太極拳の稽古をしていると、自分が理解できていないことがたくさんあることに気付かされます。その度に、なぜ自分には理解出来ていないのだろう、と思い悩まされることもしばしばです。
 やっぱり、生活が便利になった「現代人」にはわかりづらいことなのだろうか、だとすれば何を見直さなければいけないのだろうか・・・。

 そう考えていたとき、武術とは関係のない本を読んでいていくつかの記述に行き当たったのです。それは、「まったく、最近の若者は・・・」と、ブツブツと文句を言っているおじさんの姿の描写でした。
 現代のおじさんではありません。古代ギリシャ時代のおじさんの話です。

 文献が残っている、古くはギリシャの時代から、中世ヨーロッパや江戸時代の日本、はたまた現代のSNSの中にまで、最近の若い奴に文句を垂れるおじさんは存在していたのです!
 つまりどの時代の、どの時間を切り取っても、その現在時から見れば常に世界は「もっとも変化に富んだ時代」に見えて、その時々に「特別な激動の時代」であり、そして振り返れば、過去に失ってしまった大切な何かがあった、というふうに見えるのです。

 時代と人は、常に変化し続けている、考えてみれば当たり前のことなのです。
 人々の意識や考えは当然、時代によって変わりますし、生活様式の変化も起こります。だけど、変わっていないこともまた同時に、数多くあるのです。

 つまり、何が言いたいかというと、武術に関しても、もし理解できないものがあったとしても、それは決して現代という時代のせいではなくて、どこまでも徹底的に、自分自身の責任だといえるのではないか、ということです。
 というのも、もしいつかはわかりませんが、「昔」の時代性が武術の真伝を理解する助けになっているのだとしたら、もっと達人がたくさんいてもいいはずです。
 道を歩けば達人に当たる、という世の中だとしたら、相対的に武術はより高度に奥深いものになり、そもそも基礎的な武術の嗜みは当たり前のものとして、生活の中に根付いていてもおかしくありません。

 それに似た時代が、昔の武家社会だった日本にはあったのかもしれません。
 しかし彼ら、武術を嗜んだ武家の人たちにしても、特権的な身分階級の中で、幼少期からの鍛錬で身につけた技芸であって、その時代性ゆえに容易に身についたものだとは決して言えないはずです。
 中には、「武芸で身を立てようとするも技を修めるに至らず・・・」というように志半ばで道を外れた人も、当然いたわけです。その人は、当時としては珍しい人だった、ということでしょうか?

 古今東西、達人のエピソードは枚挙に暇がないですが、流派や技法はともかくとして、彼らに共通して言えることがあります。
 それは、彼らは「とてつもなくたくさん稽古していた」という、身も蓋もない事実です。
 武術の真伝を知るには、まず稽古をしなければ話になりません。
 もし仮に、現代性を理由に武術が理解できないと言いたいのだったら、その原因は多分、しっかりとした稽古をする時間が不足しているからだと思われます。

 生活のためにどうしても時間を取られる、というのはもっともな理由ですが、歴史に名を残すような達人は、そもそも生活そのものをまるごと武術の稽古に充てられるような生活スタイルを選んで送っているような人たちです。
 現代の戦士であるプロの職業軍人、特殊部隊の人たちも、戦闘技術のトレーニングを絶えず行えるような生活を送っており、その逆の状態・・・生活ありきでトレーニングする時間がない、という状態とは、そもそも根本の発想からして違っています。

 生活があるからそこまではできない、と思ってしまうようだったら、そもそも本当にそこまでできないということなのかもしれません。どれだけしっかりとした稽古の時間を取れるか、それは本当に自己責任であり、逆に言えば、きちんと努力をすれば、もっと武術を理解することができるということだと思うのです。

 個人的には、稽古がうまくいっていないと思うときには、ただ思い悩むだけで、実はしっかりとした練習ができていないことが多かった、と思っています。

 うまくいかない → 練習に熱が入らない、だんだん嫌になってくる → 余計にうまくいかない →・・・というフィードバックループができてしまい、なかなかそこから抜け出せなくなってしまうものです。
 逆にうまくいっている(と思っている)時には、手応えを感じる → 練習に熱が入る → また手応えを感じる →・・・というフィードバックが起きているのだと思います。

 僕自身、かなり気分で浮き沈みがあるほうなので、「これはいけない」と、改めて自分のことを見直してみました。
 そうすると、面白いことがわかりました。
 うまくいっていると思っている時と、全然ダメだと沈んでいる時、やっていることの結果(わかりやすい例として言えば、対練での成否でしょうか)そのものは、別に大差ないのです。言ってみれば両方とも同じくらい成功も失敗もしているのに、ある時はうまくいっていることに目が向き、正のフィードバックが働き、ある時はうまくいかなかった方に目がいって、よりできなく、動けなくなってしまっているだけだったのです。

 自分がどんな状態でも、同じようにわかっていて同じようにわかっていなかったのです。
 しかし、最初のささいな違いの積み重ねで、フィードバックの仕方が変わってしまうのだとしたら、果たして、どのようにしていったらいいのでしょうか。

 僕はある時から、難しくてわからないと感じても、できるだけ思い悩まないように心がけるようにしてきました。
 うまくいっていてもいかなくても、考えることは考えるけど、結果については思い悩まない。これもまた、自分を挟まないことのひとつと言えるでしょう。
 うまくいってないときは、何がいけないのかわかるまではとにかくやるしかありません。
 どちらの場合も、人からは妙に自信満々に見えるようで、何かわかったのか聞かれると、
 「わかりません!」と自信満々に答えるのでずっこけられます。
 まぁ、それはそれ、です。

 ただひとつ、自信を持って言えるのは、自分ごときでは武術をわかったとか理解できたとかいえるようなところまで、稽古が全く足りていない!ということです。

 たしかに、一見平和な現代の日本では、武術を修得することはむずかしいのかもしれませんが、それは実際のところ、どれだけそれに自分を没頭させられるかの度合いの問題ではないでしょうか。身近に、隣に戦いがある、ない、といったことは、本当はただの理由づけにすぎないのだと思います。
 戦争をしている中でも、勇敢に「戦わない」人間というのも、いるものです。だとすればやはり、太極拳が理解できるかどうかは、周りのせいになどできず、ひとえに自分にかかっているのだと思います。
 しかしこれは、本当にそれを知りたい人間にとっては、福音なのではないでしょうか。
 自分の努力次第で得られる可能性があるのですから。


                                (了)




 *次回「今日も稽古で日が暮れる/ その36」の掲載は、5月22日(月)の予定です


disciples at 21:54コメント(20)今日も稽古で日が暮れる  

コメント一覧

1. Posted by たそがれの単身赴任者   2018年03月28日 18:46
太郎冠者様の文章を前に、自分自身に「太極拳とどこまで向かい合っているか」を問いかけたとき、私ははだしで逃げ出したくなるような思いで一杯になります。書籍で太極拳を初めて知った高校時代、本物を探し、ウン十年たってやっと巡り合えた太極拳でありながら・・・。日常生活において稽古になるようにと工夫をしていても、道場であっけなく吹き飛んでしまう理解と思いの軽さ、それでも思いなおして稽古に赴く。と、稽古に行けなくて躓き。それでも太極の理のほんの片隅にいるかもしれないという心地よい思い込みと、自分の同世代たちに負けないなにかに同化できたらと感じつつ、やっぱりできない無残な自分と向かい合っています。先輩の皆様の後ろ姿を見失わないようにまた稽古に向かいます。
 
2. Posted by ユーカリ   2018年03月29日 02:30
今回もご自身の経験を通しての、問いかけと探求に勉強させていただきました。

私も浮き沈みが大きく、調子が悪いと感じているときは、その状況や結果・成果が気になってしまい、そこから脱出するにはどうしたらよいのだろう?と、焦るばかりで、自分なりにもがき、自分なりに解決方法を模索する自分がいたことに気付かされました。挙句、自分の置かれた状況を嘆き、何がしかのせいにしています。

「調子が悪い」と感じている時には、「うまくいかなかった方」に目が向いていて、「調子が良い」と感じている時には「うまくいった方」に目が向いているとは、自分の発想にはないことだったのですが、言われてみると、私もやってるやってる!と大きくうなずいてしまいました。

冷静に自分を見つめて現状を把握し、原理と照らし合わせてその違いをきちんと自覚し修正してゆくことが、やはり大切なのだと立ち返ります。
自分の都合が優先している自らに気付ける生活を送りたいと改めて思いました。
 
3. Posted by マルコビッチ   2018年03月29日 22:28
>理解できないものがあったとしても、・・・自分自身の責任・・・
本当にその通りだと思います。時代のせいでもないし、何かのせいではない。
ただ、その時代の社会背景が影響する考え方の違いはあると思います。
考え方は、ある意味人の生き様を変えます。
師父は「考え方を変えなさい」とおっしゃいます。
私たちは、それまでの人生でこびりついた考え方を、見つめ直さなければいけません。
太極拳に合わせる。太極拳そのものにチューニングしていける考え方に。

私も以前、うまくいかないフィードバックのような状態になっていましたが、ある日、そんな時は「無極に戻る」と教えて頂きました。
それを意識するようになってからは、うまくいってるかのような時でも、まだ玄花さんと違う、師父とは全然違うと、まだ見えない”ちがい”を雲を掴むような思いで探している時があります。
結局どっちにしてもまだ出来ていないので、当然ですね。
稽古が全く足りていない!ということです。
 
4. Posted by 円山玄花   2018年03月30日 18:05
古代ギリシャ時代から現代まで、同じ世代の同じ意見があるというのは面白いですね。
つまり、時代や国に関係なく、人生経験を積んできた老練な人たちからは、
私たち若造は考え方が浅くて未熟な、頼りない存在に観えるということです。
そして、おじ様達は、単に文句を言っているのではなく、自分の経験を踏まえて、
「そんな生き方ではロクなもんにならんぞ」と、示してくれているのだと思います。

10代から60代という幅広い世代の人たちの中で、「射撃」という限定されたことを
指導されていると、経験を超える実力はない、ということがよくわかります。
太郎冠者さんの言う、「とてつもなくたくさん稽古していた」ということも、
もちろん「経験」に入ると思います。

私たちとおじ様達の間にあるものをこそ、我々は学ばなければなりませんね。
 
5. Posted by まっつ   2018年03月31日 00:40
生活に追われていて稽古が足りない、という問題提起は耳に痛い話です。
本質的には、その状況を選んだのは他ならぬ自分ですし、
何か問題があって解決できない事態が続く事も、自分が選んでいる事ですよね。

問題を自分から離れた所に置いておく程、その解決からは遠ざかる事は自明な事ですし、
結果に一喜一憂するより、問題を如何に引き寄せて向き合えるか自省する方が近道ですよね。
その厳しさを選びたくない自分を知る事が始まりかな、と自省する事から始めたいと思います。
 
6. Posted by もず   2018年04月04日 14:12
今回も、興味深く読ませていただきました。太郎冠者様の言うとおり、私の理解不足や、稽古不足その他全ての責任は時代のせいではなく、自己のあり方にありますよね。
駒澤大学の上山智身という方が書いた論文(open access)に山岡鐵太郎(鉄舟)の剣道悟入覚書の一行目に「学て不成の理なし、不成は自ら不為なり」と書かれていました。まさに、心に刻むべきと思います。また、無刀流の入門規則の前文?を要約すると、始祖が苦心して一流をたてた剣術も、現在ではその法を守るものはいなくなってしまった・・。などと書かれています。
幕末から明治の、我々からすると激動の時代を生きた剣術という武術でも、心ある道場は少なかったということなのでしょう。
しかし、一方で武術は対人闘争の面もあるのですから、時代や社会、民族背景と密接に関わっていることは太郎冠者様もふくめ、前提であると思います。これは、拳理の研究や、伝えられている言葉の捉え方などには強く影響していると思われます。
私達は、時代のせいにすることなく、時代性を研究して、今の練功に生かしていく必要があるのだと、太郎冠者様の文章を拝見して改めて思いました。
 
7. Posted by タイ爺   2018年04月06日 16:32
正真正銘のおじさんが通りますよ。
「今の若いもんは・・・」「わしが若かったころは・・・」は昔から使われていました。高校の部活なんかでも2,3年くらい先輩から「俺たちの現役の頃は・・」と言われた方も少なくはないと思います。
そんなに「若いもん」は劣っているのでしょうか?
現にいろいろなスポーツの記録は塗り替えられているし体操なんか東京五輪の時はC難度の一つ上までしかありませんでした。

しかし武術会はどうも様子が違うようです。合気道の植芝先生や柔道の三船十段、最近では御殿手の上原先生。これらの動画を見てもどこか人間離れしていて次元が違った動きをされています。
ただ単に時間をかけて稽古したから、昔はほかにすることがなかったから。これは言い訳にしかなりません。植芝先生は北海道に開拓民として厳しい重労働の傍らで合気道を創始したといわれています。
そうなると太郎冠者さんのおっしゃる通り「己が太極拳とどれだけ向き合っているか」もっと端的にいうと「どれだけ師と向き合っているか」ということになるのかもしれません。
なんだろう?書いていて冷や汗が出てきた。
 
8. Posted by ランフォリンクスの尾   2018年04月08日 17:34
ご無沙汰しております。

人生改造のためと称して武藝館から離門し、仕事もゆくゆくは辞めようとしている私も、その辺ついて思うことはあります。

祖先と同じ土地で暮らし続け、野良仕事以外の何かを経験することなく一生を終える人が世界にはまだまだたくさんいる。それは私が仕事を通じて実感したことのひとつでした。

翻って今の日本では選べることがたくさんあり、そのかわり一つのことをつき詰めるのは難しくなったという見方はできますよね。

現状から逃げ出しただけで終わらないように、この歳になって新しく選んだ道で私は頑張りたいと思います。
 
9. Posted by とび猿   2018年04月10日 14:05
私が太極拳を学び始めたころとも、時代は変わってきていると思います。
果たして自分の勉強は、時代の影響で変化はあったのかとと考えてみても、決してそうは思えません。
自分の勉強の状態は、偏にその時の自分自身の在り方次第なのだと痛感します。
自分自身の在り方を整えることは、自分しかできないと思います。

稽古していく上で、問題や変化はたくさん出てきます。
その都度、自分を省みて稽古を積んでいきたいと思います。
 
10. Posted by ハイネケン   2018年04月15日 01:11
>「結果については思い悩まない。自分を挟まないことのひとつと言えるでしょう。」
稽古一つ一つの目的を自分にこびり付いた短絡的な理解をしてしまい、
躓いて途中で投げ出してしまう私にはありがたい一言です。

>「稽古がうまくいっていないと思うときには、ただ思い悩むだけで、実はしっかりとした練習ができていないことが多かった、と思っています。」
もう何とも言い訳しながら謝りたい気分です。
最近、稽古も行けず、うまくもいかず、練習も何をして良いやらわからないまま帰宅してしまいます。
感情と情報の区別すらついていないのかと思うと、稽古で向き合うべき事を勘違いしてきたのだと思います。

こうしてみると「まったく最近のおじさんは頭が固くて・・・」という声が聞こえてきそうですが、それはそれで「自分を挟まず」流して良いのかと。
 
11. Posted by 太郎冠者   2018年04月16日 20:10
みなさま、コメントの返信遅くなり、申し訳ありませんでした。

☆たそがれの単身赴任者さん
まず、本物を探し求めて、たどり着けた時点でまず幸運であり、次に、それを実際に練習できるのはさらに幸運なのだと思います。

自分のような若輩者には偉そうなことは何も言えないのですが、その浅い経験の中でも、やはり「継続は力なり」で、誠心誠意向かい合って取り組んできたことは、自分の中でしっかりと実になって、身についているのだと思います。

他者との比較ではそれが消えてしまうかもしれないですが、大事なのは、以前の自分と比べてどうか、でしょうか。
そういう観点では、着実に(良くも悪くも)変化している自分がたしかにいるはずです。

それこそが、最大の喜びなのかな、という気がします。
 
12. Posted by 太郎冠者   2018年04月16日 20:17
☆ユーカリさん
調子の良し悪し、うまくいかないときは誰にでもありますよね。
そういうときは大概、他者と比較して優劣を決めてしまってるのかな、と感じるようになりました。

武術なので、他者と戦って生き残らなければならない、それはある面では真実かもしれないですが、全てそうだといえるわけではないと思います。
修行とは孤独なものである、と師父も仰っていましたが、自分と向かい合い、切磋琢磨するところに、本当の意味で磨かれていくものがあるのかなと思います。

なんというか、人と比べるというのなら、「他の人も大変な思いをしてるんだな」と思うと、自分はもっと頑張らなきゃいけないな、とも思うわけです。
まだまだあまちゃんから脱せられません!
 
13. Posted by 太郎冠者   2018年04月16日 20:21
☆マルコビッチさん
探せば、どんな時代にも、色々な考え方で生きている人がいるのだと知ることができます。
大切なのは、時代の、特に大衆、大多数の流れに不用意に飲み込まれないということでしょうか。

常にアウトサイダーである必要はないとは思いますが、みんながそうしているから、というときに「ちょっと待てよ」と立ち止まれることが大切な気がしますね。

きちんと自分で吟味して、判断していける。
その判断そのものを奪われてしまってないか、そこが気をつけなければいけないところかなと思います。
 
14. Posted by 太郎冠者   2018年04月16日 20:26
☆玄花さん
自分も最近、「おっさん化」が着実に進んできていますが、
はて実力の伴った魅力的なおっさんになれてきているだろうか?
とふと疑問に思うと、自分にはあまりにもなにもないことに気づかされ、だんだんと泣きたくなってきます(泣)

そういったわけで、まだまだ若造なのだ!と自分を鼓舞しているのですが、アホなこと言ってないでしっかり稽古せんかい!
とどこかから天の声が聴こえてきました。すみません。

稽古します。
 
15. Posted by 太郎冠者   2018年04月16日 20:29
☆まっつさん

仏教などでは出家して修行をえらぶことがありますが、一度出家してしまえば修行以外にすることがない、という状態は、修行三昧になれるわけで魅力的かもしれませんね。

世間の荒波から抜けて修行するのも手だと思いますし、荒波に揉まれながらいかに自分の修行をするか、もまた大切な修行だとも思えます。

いずれにせよ、心構えとして修行しようという気持ちがなければ、どんな環境であってもいかんというわけで、やっぱり自分次第なのかな、と思ってしまいます。
 
16. Posted by 太郎冠者   2018年04月16日 20:34
☆もずさん
コメントありがとうございます。

江戸時代の修行者の日記にも、たしかに「最近は平和ボケになって、道場の質が落ちてしまっている」と嘆いている文章があるのを読んだことがあります。

国内で、太平の世が二百年も続いた江戸時代は、現代と似た部分があったのかもしれません。
そして自分たちの知らない間に、国外では様々な出来事があり、ついに日本もそこから逃れられなくなった。
これはこのまま、現代でも同じことが言えそうです。

激動の時代には、変化があり、太極拳もまたその波から逃れられない気がします。
とすれば、ただ変化を悲観するのではなく、より良いものへとしていくための努力をするべきかなと思います。
自分にもできることはたくさんある、かもしれません。
 
17. Posted by 太郎冠者   2018年04月16日 20:47
☆タイ爺さん
スポーツの世界では、それまで不可能だと思われていた記録をだれかが出すと、世界中でみんなが更新しはじめて、いまではそれが当たり前になっている、ということがざらにありますね。
考え方が結果に影響するわかりやすい例でしょうか。

自分は「技術の進歩と伝播」という観点からも武術を見ているのですが、世の中には、昔は出来た人がいたけど今は出来る人がいなくなったロストテクノロジーも、ざらにあります。
現象としては、伝承者が途絶えたということになるのですが、
面白いことにそれは、現在の技術水準を維持・継承保存しようとすると起こります。
逆に、現在よりも技術水準をさらに高めていこうとすると、その古い技術は廃れないのです。

だから、太極拳の技術を後世に伝えるなどという後ろ向きな考え方では、太極拳は廃れてしまうでしょう。
我々にできることは、太極拳のさらなる発展、解明を行なっていくという、その方向性しかないのです。

さぁ、やるべきことはまだまだたくさんありますよ!
 
18. Posted by 太郎冠者   2018年04月16日 20:51
☆ランフォリンクスの尾さん
お久しぶりです。コメントありがとうございます。

野良仕事で終えてしまう人生も、それはそれでいいのかもしれませんが、自分には耐えられないかもしれないですね。

人生にはもっとやるべきことがあり、世界は自分の知らないもっと豊かなもので満ちている。
それを少しでもかじってしまうと、いてもたってもいられなくなりますね。

選ぶこと、道はたくさんあるかもしれないですが、どれを選んでも自分の選択であり、後悔せずに生きていくことはできると思います。

一度きりの人生、やりたいことをやるのが一番です。
お互いにがんばりましょう。
 
19. Posted by 太郎冠者   2018年04月16日 20:59
☆とび猿さん
時代は常に変化していますが、変わらないものもたくさんあります。
人生の時間は限られているという現実は、どうしても忘れてしまいがちですが、まぎれもない真実です。

だとしたら、生きているこの毎日、この瞬間に、したいことをしない理由があるでしょうか。
刹那的に好き勝手に生きるということではなく・・・まぁ良心的な大人だったらだれでもわかるかと思いますが、それでも、本当に生きたい人生を生きている人は、少ないかと思います。

だったら、だからこそ、自分にできることをちゃんとして、本当に自分が生きたい人生を望み、それを目指していくことに価値があるのだと思います。

そうしないで、果たして人生、生きる意味はあるのでしょうか。
と、こんなことばかり考えています。
 
20. Posted by 太郎冠者   2018年04月16日 21:24
☆ハイネケンさん
わからない、詰まってしまったところは、一度ノートに書いて整理してみると、見通しが良くなるかもしれません。
自分の感情とも、切り離して考えることができると思いますし。

僕は以前こんなことがありました。
稽古から帰って、その日の内容や気づいたことをノートにまとめようとしたんです。
そうしたら、ペンを持った手がうまく動かせなかったのです。
なんというか、文字を書くための手首の動きがぜんぜんできなくて、腕全体で書くしかなく、ノートの罫線の中に文字がおさまらないのです。

それほどハードなことをした記憶もなく、怪我もなく特別に疲れてるわけではなかったはずなのですが、とにかく手の自由が効かないので、ノートが全く取れません。

「ブゲー館の門人たるもの、こんなことでは・・・!」
と凄んではみたものの、書けないものは書けないので、その日はあきらめてゆっくり寝ました。

ぜんぜん関係ないですね。
しっかり休んで、体を整えるのも稽古のうち、ということでひとつ。
 

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