2018年01月26日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その34

   「 小能く大を制す」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)


 旧約聖書にも記されてる神話の時代、鎧で身を固めた巨人ゴリアテを倒したのは、ちっぽけな羊飼いの少年、ダビデでした。
 彼は、河原でひろった石を、向かってくるゴリアテの額に命中させ、彼を倒します。
 そして、ダビデは持っていなかったので、ゴリアテの剣を奪うと、ゴリアテの首を落としてしまいました。

 小能く大を制す、柔能く剛を制す。
 歴史は時に、とてもちっぽけな存在が、あまりに強大なものを打ち倒す姿を、我々に見せつけてくれます。
 盛者必衰、驕れる者は必ず天から罰せられるとでもいうのでしょうか。
 大きいものはたしかに優れた面を持っているかもしれません。ところが果たして、大きければ大きいほど良い、と言い切れるものでしょうか。

 先程もあげたとおり、歴史は我々が思うのとは違った姿を見せてくれます。大陸のほとんどを制するに至った大国が、いまでは影も形もなく姿を消してしまうということは、歴史上ざらにあります。かつて地球上を歩き回っていた恐竜たちも、今ではわずかな痕跡を残すのみとなってしまいました。

 一体、こういったことは何故に起きてしまうものなのでしょうか。とはいうものの、その理由は考えても仕方がないのかもしれません。原因はひとつではないでしょうし、それらの原因もおそらく複雑に絡み合っていて、単純に説明できるものではないはずだからです。

 憶えておかなければならないのは、長大で、強大になればなる程、外部から受ける影響は数を増し、また、それ自身の内側から来る影響も、大きさを増していくという事でしょう。
 大きなものが身を滅ぼす原因は、天から与えられたものではなく、たったひとつ、「それが大きかったから」なのかもしれません。

 ゴリアテは大きく、全身を鎧で固め、故に動きが鈍かった、などと解釈されています。
 本当のところはわかりません。とどめを刺すための剣すら持たないダビデに、自身の剣でやられたとすれば、それは皮肉以外の何者でもありません。
 ゴリアテは大きく、戦いに必要なものはすべて備えていた。ゆえに、彼は命を落としました。ダビデは何も持っていなかった。そして最後には勝利しました。

 これらの出来事や、歴史的事実などを思ったとき、僕の頭によぎったのは、やはり太極拳のことでした。
 力の弱く小さな者が、なぜ強くて大きな者を制することができるのか、でした。
 そこには、力を制する技術や戦闘法などを越えて、もっと根本的な原因、作用が潜んでいるのではないかと思ったのです。

 稽古をしていると、身体の使い方に関して、むしろ普通では使う必要のないところまで身体を、まるで「大きく」使うことが求められます。

 しかし、先人は、それらの使い方を「小架式」という言葉で残しています。
 もちろん、自分ではその片鱗に触れられるレベルにすら至っていないというのが実情ですが、しかし、それを「小さい」と表現したことに非常に興味をそそられます。

 まるで常識では考えられないことに取り組む場合、発想の転換がせまられます。
 小能く大を制すとは、小さいもの「でも」大きいものを制することが「できる」、というのではなくて、小さいもの「でしか」大きいものを制することが「できない」、と言えるのかもしれません。

 ささいな表現の違いに思えますが、これは実は論理的命題として、数学・科学的にも非常に大きな意味を持っている分野です。

 なぜかというと、こういった論理を、人間の頭はうまく扱うのが苦手だからです。

 たとえば、「四両撥千斤」という言葉があります。
 平たく言えば(先人の皆様、くだけた表現を使うことをお許し下さい)、力を使わなくても相手は吹っ飛ぶ、というところでしょうか。

 これを、「相手を吹っ飛ばすのに力を使ってはいけない」というのと、
「相手を吹っ飛ばすのに力を使う必要がない」というのでは、我々の受ける印象は大きく違ってしまうのです。

 特に、その言葉によって “目的地を探している場合には” 、です。

 少しわかりやすく例えてみます。
 まだ知らされていない目的地に行くために、「車を使ってはいけない」と聞いた場合と、「車を使う必要がない」と聞いた場合では、その目的地がどこにあるのかという印象が大きく変わるのではないでしょうか。

 幸いにも、本部道場は駅のすぐ近くにあり、目の前にはバスの停留場もあります。本数は少ないですが…。タクシーもすぐにつかまえられそうです。
 いやちょっと待てよ、バスもタクシーも「車」か?いやいや電車も大きいくくりでは車の一種だし、はたまた…。
 この際わかりやすく、条件は「自分で車を運転してはいけない」として考えよう。
 だとすれば公共の交通機関はOKとして、最近では自動車の相乗りサービスもあるし、レンタル自転車も探せばあるよなぁ。まてよ、飛行機で行くのが早いのか?

 「車を使ってはいけない」とした場合、このようなことがぱっと浮かんできたのではないでしょうか。
 “本来は” 車を使うべきところを、それを禁じられてしまったので、代替手段として、他の乗り物を探す、ということがです。

 では、「車は必要ない」といわれた場合は、どうでしょうか。
自然と、歩いてすぐ行ける近くとか、車がなくても行ける場所なんだな、と思いませんか?
あとはせいぜい、駅からすぐ近くの場所、などでしょうか。

 両方とも、条件は同じ、「車は使わない」と示しているだけなのにこれだけ違ったように感じてしまうのはどうしてなのでしょう。

 もしも、伏せられていた目的地が、(道場にいたとして)本部道場の入ったビルの上の階だったとしたらどうでしょうか。
 上の階に行くには、階段を使ってすぐです。

 目的地を知っている人からすれば当り前なので「まぁ、車は使わないよね」となります。当り前なのですが、車を出すあたり少し罠の匂いがしますね。嘘は言ってないんですが。

 それはともかく、目的地を知らされていない人たちの間では、こうしている間に様々な解釈が生まれてきてしまいました。

 車は使わない! 目的地に行くためには車は使ってはいけないということなんだ!
 では他にどのような手段があるだろうか?と。ちょっとしたお祭り騒ぎです。

 ある人は時刻表を調べ始め、効率的な移動を模索します。今の時代、スマホは便利でなんでも調べられますね。またある人は、では車でなければいいんだな、などと言いはじめ、画期的な新しい乗り物を発明しだしたりするかもしれません。人が乗れるドローンとか大流行りですね。

 その中で、もっともシンプルに考え、あるいは言った人のニュアンスを読み取れた人だけが、「ああ、車はいらないんだな」などと呟き、言った人とちらっと視線を交わし(その人はなぜか人差し指を立て、天井を差して笑っていました)そっと部屋を出て行くわけです。

 果たして、どちらが知的な姿でしょうか。

                                  (了)




 *次回「今日も稽古で日が暮れる/ その35」の掲載は、3月22日(月)の予定です

disciples at 22:18コメント(6)今日も稽古で日が暮れる  

コメント一覧

1. Posted by まっつ   2018年01月28日 11:36
武術や芸術の世界の表現は、高度に抽象化されていて、
プロセスを無視して「そこ」から入っても解けないものだと思います。
高度な概念はそれを支える、より基本的な概念を積み上げた上にあり、
基本を身に付ける過程での目標としてや、更に高度な概念操作の部分にも成る。
だから高くて深くなっていくのだと思います。
更に高度になるという事は、必然的に新しい表現が生まれるという事で、
温故知新から先の発展に至ってこそ正しい進歩と言えるのでしょう。
自分自身の目標の置き方は問い直さねばと思います。
 
2. Posted by さすらいの単身赴任者   2018年01月28日 21:05
野生動物の闘争は、同種は攻撃方法が同じため、体の大きいものが勝利を納めます。
拙宅の体重4.8キロと1.8キロの猫同士でも、1.8キロ猫得意の猛スピード攻撃でも体格差は埋められません。蛇の毒のような特殊能力がない限り体格差は否めず、なぜそこに人間の知恵が生まれたのですね。
力を使わなくてもよい、使ってはわからない、
禅問答のように私の稚拙な思考は渦巻いております。
それだけの理由が必ずあり、それを先人は自分の身一つと感覚で命がけで編み出したのでしょう。目的地が不明で飛行機から車まで移動手段を繰り出したら、なんと目的地は一つ上の階であった。神の啓示ではなく、稽古の中に悟りはあるのでしょう。
 

3. Posted by マルコビッチ   2018年01月28日 23:30
言葉の捉え方は、時に、人によって違う場合がありますね。
それはその人の考え方だったり、経験からだったり、思い込みからだったりしますが、限定されがちなのは否めません。
「小よく大を制す」「四両撥千斤」「車を使った例え話」など、とても分かりやすく、面白いと思いました。
CQC講習会で、いろいろななぞなぞクイズのような問題を出して頂いた時にも、いかに頭が固いかを思い知らされました。
その固い頭でいろいろ考え、稽古しているわけなので、捉え方も全く別の方向に行っている場合があるかもしれないですよね。
頭を柔軟にして、常識的な考え方に凝り固まらないようにしたいものです。
 
4. Posted by 円山玄花   2018年01月29日 15:37
「ささいな表現の違い」に関して、中国語で書かれた古い太極拳の本のことを思い出しました。
特に文章に句読点のない時代の書物は、中国語に精通している人でさえ解釈の仕方が異なり、文意が変わってしまうと聞いたことがあります。つまり、太極拳を理解している人がそれを読めば何を著しているかが分かるけれど、そうでなければ如何様にも読めてしまうというのです。
陳鑫老師の「太極拳図説」には、句読点がありません。何かを伝えるための大事な言葉が、一体どのように解釈されてきたのでしょうか。

今回の記事を読んで、いつでも自分を左右するものは、外からの大きな力だとも表現できると思いますが、それらに対して自分を制するのは、内側の小さな力、つまり冷静に自分自身を観られることなのかなと思いました。何事にも知的な姿勢で取り組みたいものです。
 
5. Posted by ユーカリ   2018年01月31日 00:26
勘違いや思い込みが多い私ですが、日頃から自身の言いたいことをわかりやすい言葉で、はっきりと伝えることも苦手だと振り返りました。
稽古中、自分の見えたものや違いを伝える時。子供たちに何かを説明する時。自分というフィルターを通して見聞きし、自分なりの表現方法を模索しているので、とてもぼんやりと抽象的な表現になったり、回りくどい言い方になったりします。

普段から、どのように物事を捕らえているか、それをどう説明できるか、意識的に言葉で表現する訓練をしてみようと思います。自分の考え方の癖を知って、絡んだ糸をほぐせれば、見える世界も少し変わるのかな?柔らか頭になれるかな?と、嬉しくなりました。
 
6. Posted by タイ爺   2018年02月06日 15:53
武術だけに限らずたかだか100年前の言葉が現代では違う使われ方をしていることが数多くあります。
ましてや中国のように漢字一文字で数多くの解釈が成り立つ状況において現代人が珍回答にたどりくのは必至。
「分則動」を「分けなければ動かない」と発表した人もいました。うーむ、もはや何がいいたいのか・・・。
私も武藝館で学んでいなければきっと謎回答を噴出させていたと思います。
「太極拳は文字で広がった」と中国では揶揄されているようです。妄言妄想が許される武術は衰退してゆくしかありません。

「小能く大を制す」先ずは自分の体を小さな力で制御できるように目指します。
 

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