2017年07月27日

練拳Diary #79「武術的な稽古」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花



 梅雨が明けて暑さが一段と厳しくなり、照りつける日差しが容赦なく肌を焦がすようになりました。ここ本部道場の稽古では、以前にも増して高度な内容が展開され、消化するのに必死な毎日です。

 さて、今回は稽古の中でも「対練(対人訓練)」に焦点を当てて、思うところを述べたいと思います。

 対練の稽古には幾つかの稽古方法がありますが、主なものには「役割を攻撃と防御に分けたもの」と「役割を分けずに行うもの」があります。
 対練で役割を分けることには、他にも「受け」と「取り」と呼ばれるものがあり、その時々の対練で、師が示された課題を行う側が「取り」で、それに対して「取り」が技法を学べるように、打つ・崩すなどの攻撃を仕掛けて行く側を「受け」と呼びます。正に、相手の技術を受けてあげるわけです。

 対練は、どちらの役割でも太極拳の基本功で学ぶ正しい身体の整え方と使い方が要求されるので、こちらが「受け」の立場でも、決して相手の技や力を受けて、打たれたり崩されたりしてあげるわけではなく、あくまでもこちらの攻撃が相手に対して実際的に有効であることが条件となるわけです。

 ちょっと極端かもしれませんが、料理でたとえれば ”作り手” と ”食べる人” とも表せるでしょうか。
 「取り」を作り手、「受け」を食べる人とすると、食べる方は出された料理をただ「食べられる」とか「美味しい」と言って食べてあげるのではなく、その料理を深く味わい、料理した人のことまで分かるような状態で居ることです。
 余談ですが、私は料理を作る事とそれを食べること、つまり「食事」に於いては、料理が美味しいだけでは不十分ではないかと考えたことがあります。たとえばその料理人と料理とが一流であるならば、それを余すところなく味わい、それが一流であることを見抜けるだけの、食べる側の一流の資質が必要であり、自分が一流を志す姿勢がなければ、作り手と食べる人による「食事」という行為も完結しないような、そんな気がするのです。
 そう考えると、作る側も食べる側も、一期一会の真剣勝負となり、たかが食事といえども武術と何ら変わらないものと言えそうです。

 さて、実際の対練についてです。
 「受け」の攻撃に対して「取り」の動きが優位であった場合には、当然「受け」の攻撃は無効になり、反対に「取り」の反撃が有効になります。
 武術的に考えた時、「受け」は「取り」の反撃に対してもまだ動ける身体の状態が要求されます。
 たとえば、その対練でのみ有効な力みや踏ん張りは、相手の攻撃がナイフなどの武器であった場合には何の効果もなく、それらは非武術的な行為であると言えます。
 正しい稽古の状態として、「取り」が優位であるために「受け」が反撃された場合、あるいは「受け」が反撃を躱して避けることしかできずに優位に立てなかった状況は、稽古中に幾らでも生じてくるのですが、そのような稽古風景の動画を見た外部の方より、『あれは馴れ合いで倒されている、同門同士でなければ通用しない』といった内容の感想を耳にしたことがあります。
 それは、ことさら私たちの道場に限ったことではなく、斯界ではよく話題になることらしいので、この際「馴れ合い」について少し考えてみることにしました。

 馴れ合いとは、既にお互いに動きや力の大小、向かって来る方向などが分かっている状態で、相手の力や技に対して適当に折り合いをつけて、いい加減に受けたり流したりすることである、と言えるでしょうか。
 これを武術的に考えてみると、例えば、お互いにナイフを持っている、または片方だけがナイフや銃を持っているとすると、その途端に馴れ合うことは大変難しくなります。
 なぜなら、いずれも実際に傷つき、怪我をする可能性が出てくるからです。
 稽古ではもちろん本物の銃を持って向かい合うことは出来ませんが、たとえ電動ガンでも弾丸の入った銃口を向けられた時には、お互いに ”馴れ合う” などという気持ちにはとてもなれないものです。
 また、稽古では実際に本物のナイフを持って素手の相手に斬りつけて行くこともありますが、通常ならどう考えても武器を所持している方が有利に思えるところが、実際に大型ナイフを持って相手に向かうと、相手が素手であっても、ある種の緊張感で一杯になります。
 それは、下手な動きをすればナイフを持っている自分も危ういということが、理屈ではなく身体で実感出来るからであり、私の場合は何度行っても、決して有利に立ったとは思えませんでした。
 ナイフは、それ自体が十分な殺傷能力を持つ物です。そして、それを手にして構えたときの緊張感は「危機感」とも言い換えることができるので、武術の稽古中に馴れ合う事が出来る状況とは、「危機感が欠如した状態」であると考えられます。

 それでは、「馴れ合いではない状況」とは、どのようなものなのでしょうか。
 先ほどの検証からも分かる通り、先ずは「危機感が存在する」ということが言えます。そしてそれは、「武術=戦闘」の為の稽古をしている限りは、武器の有無に関係なく、常に持っていなければならない感覚です。
 たとえスポーツの世界でも、試合のための練習で ”馴れ合う” などという事は考えにくいですし、たとえ実際の試合を想定したような練習ではなくても、遊びではなく練習である限りは、馴れ合いの感覚は上達の妨げになると思えます。

 反対に、「馴れ合いであってはならない」と言う場合、一般的にはそれがどのように捉えられるのかも考えてみましたが、それは、お互いに「本気で打ち合う」とか、実際に相手に「ダメージを与えられるようにする」ということになるでしょうか。
 確かにこれだと、相手にやられる危機感もあれば、それを必死に防ぐ工夫もできるのかも知れませんが、やはりそれでは肝心なことが抜けてしまっています。
 それは、本物のナイフを持った時に、お互いに本気で刺し合ったり、相手にダメージを与えることを目的にしていたのでは、全く稽古にならないということです。
 つまり、「実戦のための練習なら殴り合うのが手っ取り早い」という考え方もまた、所詮は危機感の欠如から来るものであり、実際に生命が脅かされないような、「術理の必要性」が無いような稽古は、限りなく ”馴れ合い” に近いと言えます。

 私たちが「武術の稽古」について度々述べる機会を設けるのは、日々の稽古で、まさにここのところが重要だと考えるからです。

『その対練は、お互いに武器を持っていても、同じ考え方で、同じ様に動いていたか?』
  ────────この問い掛けを、稽古中に何度言われたか分かりません。

 危機感の欠如は、私たち現代人が武術を修得しようとする上で、ひとつの大きな問題となって降り掛かってきます。
 相手がナイフを持っていなくても、持っているかのような気持ちで向かい合えること。
そして、お互いにナイフを持って向かい合っても、ただ相手の身体に刃を当てることを目的とせずに、実際に相手に有効な攻撃ができる身体操作の追求を目的とすることで、「武術」としての稽古が可能になり、ただの一本の攻撃が、術理の力を伴った有効な攻撃に変わるのだと思います。
 実際に、稽古で最初から相手の打撃に恐怖を覚えるような状況では、術理としての自分の身体操作や、相手との間合いを充分に心掛けることなども難しくなります。

 『稽古では実戦のように、実戦では稽古のように』とは、拝師弟子や一般門人を問わず、武術を志す者の心構えとして、師から幾度となく指導されてきたことですが、先ほど述べた「危機感の欠如」と同じく、その精神状態が身に付くのは容易なことではありません。

 武術という術理の世界を正しく認識し、正しい稽古を積み重ねていくこと。
 ありきたりのことかも知れませんが、やはりそれしか無いのだと思えます。


                                   (了)


xuanhua at 20:32コメント(18)練拳 Diary | *#71〜#80 

コメント一覧

1. Posted by マルコビッチ   2017年07月30日 12:46
いつも武術の深い部分を、噛み砕くように述べて下さってありがとうございます。
私のような鈍臭い人間でも、分かりやすく再認識させていただけます。
昨年からのCQCを受講した門人は、皆さん多かれ少なかれ意識が変わり、稽古での動きも変わり上達している!というのは、やはり玄花后嗣がここで仰っている「危機感」への目覚めなのでしょうね。
稽古の時だけ「危機感」を持とうとしても難しいのかもしれません。
あと、対練でよく自分の動き(基本にあっているかどうか)に夢中になって、まるで相手が関係なくなってしまうような状況になるときがありますが、これもやはり危機感の欠如なのかなと思います。

これからさらに、いつどこでも自分に目を向け、正しい稽古に精進していかなければと思いました。
 
2. Posted by まっつ   2017年07月31日 23:44
確かに目的によって、
稽古の意味は大きく変わるかとは思います。
かつて生き死にが懸けられた武術の世界で、
型稽古こそが重んじられた事には、
合理的な意味があると考えてみるべきだと思います。

ただし一度型の意味が失われてしまえば、
その機微を再解釈し直して感得することは出来ないとも思います。

一流とは機微を理解し、
自ら機微を磨いていける質だと思います。

忙しい日々の営みに忙殺される中でも、
機微を捉え続けられるかは私自身の課題だと感じています。
 
3. Posted by ユーカリ   2017年08月01日 11:50
相手と向かい合った時・武器を持った時、「有利でありたい。上手くやりたい。」と思う自分がいます。
道場での自分は、そっくりそのまま素の自分であると思い日常を振り返ると、いかに自分の都合を優先させ、自分勝手に無防備に振舞っていたかを省みます。
また、環境や状況で、気が大きくなったり臆病になったり、自分の在り方に大きなブレを感じずにはいられません。
このような日常が、危機感の欠如を生み出しているのだなと気づくと、家庭で、仕事で、近隣で、あらゆる場面で、稽古でご指導いただくことを宝として守ってゆくことの大切さを感じます。

純粋に守り続けてゆくことの難しさに向かい合うことが、楽しいと感じる今日この頃。
本物の武術に出会えたことへの感謝に尽きます。
 
4. Posted by 太郎冠者   2017年08月02日 02:20
稽古に限らず、実生活の中でも、ここに書かれているような問題が出てきているように感じます。

それはおそらく、さまざまな形で道場で教えていただかなければ気づけもしなかったようなことだったのだと思います。

記事の中で料理で例えられているように、闘争としての武術として限定してとらえるのではなく、
人と人との関係性として観れば、あらゆるところで武術的な感性は磨けるのかもしれません。
ひるがえって自分自身をみてみると、まぁいいかと、「慣れ合い」で過ごせてしまっていることがいかに多くあることでしょうか。

心身ともに作り変えて、磨いていけるような生活と稽古をしないといけないと感じます。
 
5. Posted by ハイネケン   2017年08月03日 07:11
先日、ナイフで稽古して頂きました。
私は既に斬られているのに気付かず、更に相手に入って行こうとする鈍くさい状況になりました。
「斬られる前に素早く入って・・・(何とかする)」等という曖昧で適当な事では対処しきれませんでした。
(そもそも素早く動く稽古ではないと思いますが)
斬られる・ナイフが届く前から、すでに相手との関係性はイーブンでは無く、確実に相手が有利・私が不利な状態でした。
どれ程、馴れ合いで稽古していたのか・・・。

「受け」がただ漠然としたものではなく、しっかりと「料理を味わう人」と考えると急に稽古が身近で美味しい話に感じますね。
適当に新聞を読みながら・・・ではなく、料理や作り手と向き合う「食事」ですね。

・・・なぜかお腹が減ってきました
 
6. Posted by ランフォリンクスの尾   2017年08月03日 20:51
今回も勉強になる記事をありがとうございます。

「あれは馴れ合いで倒されている、同門同士でなければ通用しない」と外部の方が言われるときには、その「通用する」ということへの理解が我々の稽古におけるものとは異なっているのだと思います。

入門以来の自分の稽古を振り返ってみると、対練において離れた位置にいる相手の影響を初めて感じることができたのはスティックを用いてのものだったと記憶しております。武器の使用は危機感のある稽古を実現するために効果的であるとそのとき感じました。

生活のなかでも馴れ合いを避け、正しく物事に向き合って行きたいと思います。
 
7. Posted by 円山玄花   2017年08月09日 16:08
☆マルコビッチさん

>稽古の時だけ「危機感」を持とうとしても難しい

自分の危機感の欠如を考えても、人間が本来持っているはずの本能が、
現代の見せかけの平和な生活によって、ずいぶんと眠りこけてしまったことを感じます。
こうなったら危機感を養うしかないのでしょうが、危機感が養われるか否かは、
「意識的な生活の積み重ねによる気付き」に懸かっていると思います。

失われた人間の本能と、日本人としての強さを取り戻すためにも、
武術稽古と野外訓練は必須ではないでしょうか。
お互いに頑張りましょう。
 
8. Posted by 円山玄花   2017年08月09日 16:11
☆まっつさん

どの世界にも一流があり、さらに超一流がある、と聞きます。
何を以てその人を一流たらしめているのかと論じれば、それだけでひとつの記事が書けてしまいそうですが、武術の最高峰を目指す私たちにとっては、一流とは、生き残れること、そして生きて帰れることが挙げられると思います。
それを修得するために、精神と身体とを鍛え、情緒や感受性など心の豊かさを養っていく必要があるのだと思います。
 
9. Posted by 円山玄花   2017年08月09日 16:13
☆ユーカリさん

本当に、自分勝手なこととはたいへんな無防備の状態であると、つくづく感じます。
また、そのことに気がつけずに過ごしていた自分を思うと、恐ろしい限りです。

自分の都合を通そうとする前に、状況を観て、耳を傾け、法則に従い、動作を取る。
改めて書いてみると、すべて太極拳の基本的な要求となりますし、
同時に危機回避にも繋がります。
太極拳が武術であるが故のことですね。
 
10. Posted by 円山玄花   2017年08月09日 16:17
☆太郎冠者さん

>まぁいいか

誰でもこの言葉を発したことがあるでしょうし、心に出てくるものだと思います。
けれども、「まぁいいか」でプロフェッショナルになった人はいないはずなので、
私たちはそれと向き合い、何ゆえにその言葉が自分の中に居座っているのかを、
分かる必要があると思います。
自分ほど気を許せない人間もいないと感じるこの頃ですが、
この世に生まれて、本物の武術、本物の生き方を目にし、味わう機会に恵まれたのですから、
自分自身がそうなれるように、精進したいものです。
 
11. Posted by 円山玄花   2017年08月09日 16:36
☆ハイネケンさん

>先日、ナイフで稽古

これは、本部での稽古のことでしょうか。
相手が武器を持つと、それに向かう自分の考え方の甘さや、拙さが分かりますね。
本部でも、「それが武術になるかどうか」というところを稽古しており、
その認識無く高度な術理を教わっても、何の役にも立たないことを痛感させられます。

>「料理を味わう人」と考えると急に稽古が身近で美味しい話に感じます

稽古と日常生活とを分けて考える人も多いようですが、
何事に向かっていても、向かっているのは自分なので、
稽古は厳しく難しいけれど、食事は美味しく楽しい・・と分けられるものではなく、
問題は向かう対象ではなく自分にこそあるのだと思います。
 
12. Posted by 円山玄花   2017年08月09日 16:39
☆ランフォリンクスの尾さん

>「通用する」ということへの理解が我々の稽古におけるものとは異なっている

そうですね。
そこのところを明確にしないまま話を進めると、どうしても噛み合わなくなってしまいます。

稽古では、武器を使用した対練の後の方が、皆さんの間合いの取り方、軸の取り方がより繊細になっていると感じられます。
恐らく武器の稽古をすることで、頭が ”馴れ合っていては危険だ" と判断し、センサーを働かせるのだと思います。
目盛りの細かさは、そのまま危機を感知することにも直結していると思いますので、
より繊細なものにしていきたいですね。
 
13. Posted by タイ爺   2017年08月16日 08:41
数年前に或る中国武術団体の散打大会を見る機会がありました。
試合はグローブと防具での通常のものと特別試合として槍対刀、刀対刀など武器を使ったモノでした。
素手での打ち合いとはまったく異なる動きを見ていると普段は武器は武器、素手は素手と分けて訓練をしているんだろうなと感じました。
試合の方は通常散打より武器同士の方が緊張感や間合い接触がより繊細で武術的であった気がします。
競技的には素手同士のような派手な応酬はほとんどなく地味な感じでしたが武器を持っているという緊張感が伝わってきました。
素手での殴り合いが実戦となってしまった昨今では
多少パンチを貰っても最後に殴り倒したら勝ち。
やはりこれも馴れ合い発想なんでしょうね。
 
14. Posted by スーパードライ   2017年08月18日 16:56
対練の意味や必要性を確認できました。
以前は対練の技?を使えるように練習して、打ち合いで繰り出せるようにする事だと考えていました。
そんな状態を夢見て、対練を繰り返し、しかし練習の必要性に疑問を感じながらわかったふりをしていたと思います。
     

今は、本部道場の長時間にわたる稽古のおかげもあり、難しいですが迷いなく励むことができます。 

「受け」、「取り」の文字で考えると対練がいかに大事か実感できます。
そこには馴れ合いにならない真剣勝負の要求が必要であること。

今後の稽古の取り組みを考えていかなければと思います。
 
15. Posted by さすらいの単身赴任者   2017年08月28日 02:00
いつも迷える私のようなものにとって、道しるべとなる大切なお話をありがとうございます。
うん十年前に、ある武術において、胴やグローブをつけて乱取りをすると、武道、武術の流派の差がなく、みなボクシングのような形式になってしまい、そのことを防止するために様々な工夫が必要と聞いたことがあります。
当たり前のことですがとても大きな解決困難な問題と思っておりました。
たとえばいろいろな教えをいただきながら、実戦では恐怖、緊張に直面、己を失って、力任せ、体力まかせで対応していたら、その流派の宝ともいうべき技法はいったいなんだったのだとなってしまうでしょう。
ある中国武術研究家の方が実戦に強くなりたいのであったらキックボクシングを習ったほうが良いとやはりうん十年前の雑誌に書かれていましたおり、とてもやるせない気持ちになったことがあります。
実戦でなにも考えずに動けるということ。そのためにとても大切な時間を武藝館の稽古では費やされています。倦まずたゆまず自分自身の中にその確固たるものを養っていくひたすらな全ての教えのままに進む気持ちが答えなのだと思います。
 
16. Posted by 円山玄花   2017年09月05日 02:03
☆タイ爺さん
コメントバックが大変遅くなり、申し訳ありません。

>通常散打より武器同士の方が緊張感や間合い接触がより繊細で武術的であった
>素手同士のような派手な応酬はほとんどなく地味な感じ

まさに、ここに見られる特徴と緊張感が、武器を使用するときに表れる軸なのだと思います。
そして、素手でもそれと同じ軸が必要であることが認識できなければ、
実戦で生き残るなどということは、まず不可能なのだと思います。
 
17. Posted by 円山玄花   2017年09月05日 02:16
☆スーパードライさん
コメントバックが大変遅くなり、申し訳ありません。

>馴れ合いにならない真剣勝負の要求が必要

私も、最近になってようやく、対練でも実戦のように本気で「受け」と「取り」を行う状態が
見えてきたような気がしています。
力むことなく、馴れ合うことなく、ただ倒すのでもなく、ただ倒されることでもない。
まだまだ難しい課題ではあるのですが、今はその状態を味わえることが、
少しだけ面白いと思えます。
 
18. Posted by 円山玄花   2017年09月07日 11:25
☆さすらいの単身赴任者さん
コメントバックが大変遅くなり、申し訳ありません。

>いろいろな教えをいただきながら、実戦では恐怖、緊張に直面、己を失って、力任せ、
>体力まかせで対応していたら、その流派の宝ともいうべき技法はいったいなんだったのだと
>なってしまう

人間の精神力というものは思いの外脆く、軸が立っていると思える状態でも、実はずっと立て続けている精神力が必要で、軸そのものが太く重厚なものになっていくわけではないのかしらと、思うこの頃です。

実戦でも、災害時でも、真に恐ろしいのはパニックになって自律を失った自分自身だと思えます。
本当に何かが実力として自分の身につき、養われ、育つには・・と考えると気が遠くなりますが、
今できることを、全うする。それしかないのでしょうね。
 

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