2017年03月10日

門人随想 「今日も稽古で日が暮れる」 その30

   「 カガクと技術」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



太極武藝館では、徹底して太極拳を「科学」として捉えた稽古が行われている。
そこには曖昧さは一切なく、奥深い原理が、シンプルかつ論理的な説明で教授されている。

もちろんそこには、矮小化された人間単位だけの解釈ではなく、もっと宇宙全体の活動原理を包括するような、懐の深い世界が広がっているのである。

科学的な解明であるとか、発展という言葉を聞くと、どうしても非人間的なイメージがついてくるかもしれない。
いつか人々は自分の力では何もしなくなり、科学技術という檻に囚われた生活を送り、人間として大切なものを永久に失ってしまうのではないか? という見方だ。

だが個人的には、それは限定的で偏った見方ではないか、と思うのだ。


なんとなしに「科学技術」という言葉を使ったが、厳密にいえば科学と技術は、非常に近い関係ではあるが、実際にはそれぞれ異なった概念を示す言葉であると言える。
この関係性は、太極拳においても同じことが言えるはずだ。


ふつうに思われていることとしては、科学の発展が新たな技術を生み出すというイメージがあるかもしれない。
ところが、本来の関係性としては、これはまったく逆であるらしい。

科学の歴史はまだ浅く、技術の発展こそが科学の発展を助けるものである。
人類は何万年も前から火を使っていたが、科学的に火を理解したのは、近代に至ってからである。

これは実際に歴史を紐解いてみれば簡単に説明がつく。

産業革命の時代、ジェームズ・ワットによって作られた蒸気機関が爆発的に普及した。
それによって、熱力学という新たな科学の分野が切り開かれ、経験則でしか知られていなかった知識が、体系的に説明されるようになった。
当然、ワット以前にも人類は火を使っており、また蒸気機関も存在していたし、熱力学の仕組みそのものは使われていたが、広く学問的に追求されるようになるのは、新たな技術=新型の蒸気機関の普及を待つ必要があったのだ。

ガリレオが天体の運動法則を発見できたのも、彼の熱意と取り組みはもちろんだが、天体望遠鏡を作る技術が世界にあったから、ともいえる。
ガラスを加工しレンズを作る技術、金属を加工する技術、それらの集大成として、天体望遠鏡は生まれた。
それによって、それまで神々の世界のワザとされてきた天体の動きを、人が理解し始めた。
科学の萌芽が芽吹きはじめたのだ。
それは、神々の権威を失墜させる、幕開けでもあったのだが・・・。

このように、科学が技術を生み出したのではなく、技術こそが、科学の母であった。

いずれにせよ、それらの出来事は時代の流れであり、必然であったのだと思う。

特に現代では、コンピュータやインターネットの急速な発展から、世界をとりまく環境の変化がどんどん加速していっている。
技術の発展自体は確かに人類が作り出しているものだが、その法則性を見てみると、時代という機が熟したことによってその技術があらわれてくるのは自然の現象であり、止めることのできない進化の力である、ということらしい。

たとえば、アインシュタインは相対性理論を発見したが、同時代に、彼以外にも相対性理論を発見していた科学者がいる。
電話の発明者はグラハム・ベルだが、エジソンもほぼ同時に電話を発明している。ただ特許を取るのがベルのほうが先だったというだけの話だ。

なぜかというと、それらの技術は、無から突然ぽんと生まれたわけではないからだ。
それぞれのものに、その前段階の積み重ねがあり、その先の一歩として、新たなモノが生まれてくるのだ。


太極拳に当てはめてみれば、おそらく、宇宙の原理なる深遠なものから太極拳を考え始めても机上の空論で終わってしまうのは、そういった進化・発展の本来の方向性からは、反対からアプローチしてしまっているからに違いない。

最初に、戦う必要性があり、戦うための技術が生まれた。

そこから、よりその技術を洗練していくために、体系的な解明、説明が行われるようになった。つまり、科学的解明が始まった。
太極拳が発展した時代の中国においては、その原理を説明するために太極思想や気という概念を用いるのが自然なことだったに違いない。
だがそれも、実際に使える技術がある上で、それを説明するために行われたのだということは間違いないだろう。そうでなければ現代にまで、この技術が残っているはずがないのだから。

だから、もし現代で太極拳を稽古するのであれば、この時代にあった言葉で説明することは不可能ではないし、自然なことなのだと思う。
それゆえに、師父の太極拳に対する取り組み方は、ごく自然なことであるし、また、非常に発展的な示唆を秘めたものだというように感じる。
そのことが太極武藝館を、ただ武術として稀有なチカラを持った太極拳を学習出来る場という限定されたものでなく、もっと人間として成長していける場として、人を引きつける魅力のある場所にしているのだと思う。
武術は個々の研鑽だというのは、否定できない事実だ。
だが、多くの仲間が集まることによって、それまでは気付けなかった可能性が開けるのかもしれない。
人は、そうして進歩してきたのだから。


太極拳も、最初は非常に素朴な拳法だったかもしれない。
そこから、時代の要請、自らの身を守るための必要性や、外部との交流によってどんどん新しい技術を取り込み、また自らが研鑽し、いまある太極拳の技術が形作られた。

その進化発展はいまもまだ続き、師父は「新しい発見があった」と仰り、より洗練された技術がこの世界に現れてくる。

それは太極拳が徹底して「敵にやられないための技術」であるためであり、もしそれがいかに技を魅せるか、採点されるかといった方向にでも向かったものなら、とたんに本質を失ってしまうだろう。
それは太極拳から生まれた、「別の何か」なのだ。

やられないための技術であるからこそ、技術は進歩し、それによって新たな考察を得る。
考察は科学的解明を促し、そして得られた理解は、また技術としての太極拳を進化発展させていく、というサイクルを続ける。
太極拳の本質を伝承していく人々がいる限り、それに終わりはない。


世界に目を向けてみると、近年になって過去に類を見ないほど人々の生活は変化している。
嫌でも技術は進歩し、この世界に起こっている変化は止めようがないが、100ある変化の中で、悪い変化が49だとして、良い変化が51あれば、少しずつであれ、世界は良くなっていくに違いない。

自然の中で、古くからある生活を送っていくことは実に魅力的だが、いまの科学と技術なくして、70億人もの人間が地球で生きていくことはもはや不可能になってしまっている。

古来からの狩猟採集民としての生活を人間がするためには、一人当たり数キロ四方の自然が必要になるという。
そんな余裕はこの地球にはない。もし本当にそれをするとなると、全人類のほとんどは生きていけなくなることになってしまう。
確かに技術の進歩の否定的側面はあるが、それによって世界に生きることが出来る70億人という人々が、いままでには存在しなかったあたらしい何かを生み出せる可能性が生まれているのだ。
それは否定されることではなく、素晴らしいことだと思う。

だがそれは、本来自然環境で生活するための体を持った人間だということを忘れて、現代的な生活のみに浸るということにはならない。
不可避な変化を受け入れながらも、それだけに甘んじることなく、自分で出来ることをやっていく必要があるということだ。
そして、そのための自由もまた、格段に増えているのではないだろうか。

過去の歴史を見てみれば、いまの人々の暮らしは間違いなく豊かになっていると言えるし、生き方を選択する自由も格段に増えている。
それに伴って裏側では、その豊かさの代償として多くの危険が生じてしまっているが、必要なのは、バランスを保って生きていくことなのではないか、と思う。
便利な世の中になったが、何もしなければ能力は衰えていく。
もしそれが嫌なら、自身で何かしらの努力をする必要がある。


情熱は、何もないところから生まれるわけではない。
自分が関わって、行ったことの結果として、熱が生まれ、それが自分の中に情熱として芽生えていくのだと、最近になってようやく知ることが出来た。
情熱があることを追求していくのではなく、自分が追求していくことの中にこそ、情熱が生まれてくるのだ。

そうと知ったからこそ、自分の目の前にいくつもの選択肢があることは、迷いを生み出すもとではなく、むしろ感謝するべきことなのだとわかった。
ただ流されるのではなく、自分で選び、勝ち取っていく。
それが自分の力になっていく。

それが出来ることが、人のもつ素晴らしい力だということを、理解した。
こうした考えが少しでも広まれば、ちょっとずつでも、世界はよくなっていくに違いない。
なによりも、少しずつでも変化していける自分自身を、楽しみ、そうできることの喜びを味わっていきたいと思う。


                                 (了)

disciples at 21:13コメント(16)今日も稽古で日が暮れる  

コメント一覧

1. Posted by マルコビッチ   2017年03月13日 22:01
一つの小さな理解が小さな変化をもたらし、その小さな変化が次の気づきを促す・・・そんな小さな理解が積み重なり、小さな変化もスタート地点から見たら大きな変化となっているのだと思いました。
武藝館では”何となくこんな感じ”ということはなく、小さな気づきさえも理論的に考えられるようになりますね。

太極拳は一人で稽古していてもひとつの理解が生じることはありますが、同じ目標をもっている人たちと稽古をすることによって、一人では気づけないところに気づくことがあります。
それぞれの気づきが連鎖して、武藝館の進歩、人類の進歩に繋がるといいですね。
私も太郎冠者さんのように、自分の変化を楽しめるよう前を向いて歩いていこうと思います。
 
2. Posted by まっつ   2017年03月13日 22:48
何かを追究し、積み上げた先では、
自分も知らない自分を知る機会が用意されている気がします。

誰も最初は自分を知りません。
人間にとって最大の謎の一つは自分を知らない事だとも思います。

太極拳に巡り合い、てくてくと道を歩いてきた中で、
幾つもの自分と出逢えたとの実感が得られました。

それは漫然と生きていては得られない実感で、
コツコツと研磨し、余分な要素を削り落とした先のリアリティだと感じています。

納得できるリアリティを実感して生きられる事は幸せだと思います。
 
3. Posted by 円山玄花   2017年03月14日 12:59
>技術の発展が科学の発展を助ける

確かに “必要は発明の母” であり、科学的解明は当然それより後ですね。
科学の発展に頼るのではなく、それを使いこなす姿勢で扱えば、
まんまと怠惰な方向には流されないような気がします。
太極拳に対する科学的な取り組みは、己の楽さ便利さのためではないですし、
よく比較される、人員数や弾丸数に頼る軍人と貧乏日本兵の訓練精度の差も、
その辺りから出てくるのかも知れません。

貧乏といえば、学生時代に出会ったテーマ「節約」についても、
節約とは耐えたり我慢することではなく、手間暇掛けて工夫することだと気づいたときには、
何か大きなことを悟ったような気持ちになったものです(笑)
現代では、自分が便利さに流されていることにも気づきにくいですが、
手間を惜しまず、労力を厭わず、その姿勢を失わずに生きることが勉強のカギであり、
喜びや楽しみの元であると思いました。
 
4. Posted by たそがれの単身赴任者   2017年03月14日 13:39
紆余曲折、暗黒面へ流れることもありますが、本来人間の英知はとてもすばらしいものと思います。太極拳も何世代にもわたり、血と命をかけて研鑽された精緻な技術と確信しております。そして日々の稽古では、いながらにして先人のたどった道を歩くことができます。先人の悩み、工夫、試行錯誤はすべて私たちも感じることができるのです。私たちの世代、洋書の専門書は自分で訳して「味読せよ。」という教授がいらっしゃいました。苦労して身に着けたものは決してその人から離れないものです。浅学菲才な自分にははるかな道ですが、志さえあればその道を歩かせていただくことができます。おおげさですが寿命の尽きるまでその英知を求める旅は続くものと感謝しております。
 
5. Posted by タイ爺   2017年03月15日 01:28
現象がありそれを研究することが科学の姿勢だと思います。
しかし、残念ながら大陸においても太極拳という現象を目の当たりにすることは大変難しいことのようです。
YouTubeでは珍妙な用法を紹介し、または相撲もどきの試合を映す。太極拳という現象を欲している人ほど誤った情報を一生懸命研究しようとしている。
うちの動画を「そんなわけはない!」と考えた
そんな人、幸運にも本物の現象に出会ったとき「本当に飛ぶんだああああぁぁぁぁ・・・・」と壁に向かって飛んで行くことになったとさ。めでたしめでたし。
いや本当に「単鞭は右手で相手をつかみ・・・」冷静になってほしいものです。
 
6. Posted by とび猿   2017年03月15日 23:17
人間とは、変わっていくことのできる、素晴らしい存在なのだと思います。
そして、その変わっていけるということは、少なくとも自分のような凡人は、ある日突然何かに目覚めるとかいうのではなく、何かを理解しようと勉強していたことが、同時に自分自身の理解への切っ掛けとなり、そこで得られた、たとえ小さな理解でも、それが即、次のステップへと導き、その積み重ねが成長になるのではないかと思います。

昨日よりも今日、そして明日、少しでも理解を深めていきたい、そう思い稽古を重ねる日々です。
 
7. Posted by ユーカリ   2017年03月15日 23:41
記事を読ませていただいたとき、パーンと視界が広がり、明るくなったような気がしました。

ものすごい勢いで、便利な世の中になり、実のところ生きにくいと感じたり、ついてゆけないと少し怖気づいてしまったりするところがありました。
また、我が子が大人になる頃には、そして、孫の成長を喜ぶ頃にはどのような世の中になってゆくのだろうと不安にもなります。

けれども、今の世の中に至る過程には先人たちが築き上げてきた研究や思いが引き継がれてきたことを思うと、不安ではなく、感謝もうまれ、なぜここに至ったかに興味も湧いてきます。便利さに胡坐をかくことなく、自らはどう生きるかを慎重に判断し、責任を持って歩んでいかなければと気持ちも引き締まりました。

太極拳も、師父が研鑽を重ねて私達にご指導くださっていることの奥行きを感じ取り、理論的に理解し、体現できるよう稽古してゆきたいと思いました。
 
8. Posted by ハイネケン   2017年03月25日 08:19
〉太極拳が徹底して「敵にやられないための技術」
太極拳がこの様に断言されることも中々ない事かと思います。
入門前、ともすれば太極武藝館の道場だけで有効な技かも…などと見えた時もありましたが、そんな勘違いはすぐに吹き飛んで、正にどこを取っても「敵にやられない技術」の延長の様です。

先日「数独」という数字の穴埋めパズルをやってみる機会がありました。
行列やブロックにヒントがあり、一箇所の答えが分かると次々と答えが埋まります。数字の順を知っていれば誰でも出来ます。
途中間違えると、連鎖して間違えが広がり行き詰まる。
「なんだか太極拳と似ている…」とパズルをしながら自嘲しておりました。
 
9. Posted by 太郎冠者   2017年03月31日 01:46
☆マルコビッチさん
小さな変化の積み重ねも、自分ひとりだけではとても小さなものですが、
それが何人もの人、幾世代もの時間をかけていくと、
やがてとてつもない大きな変化になっているのだと思います。

太極拳も、もとをたどればどうということのない拳法だったのかもしれませんが、
時代を経るにつれて、次第に磨かれ洗練され、
いまのようなカタチになっていったのだと思います。

あらためて考えてみると、その研究発展の末席に連なることが出来るというのは、すごいことですよね。
先人の叡智を無駄にしないためにも、精進していきたいものです。
 
10. Posted by 太郎冠者   2017年03月31日 01:53
☆まっつさん
いまの高度に複雑化した世界では、専門に特化することでその社会の一員としての役割を果たす、
ということが多いかと思います。

その点、武術とはなにか、強さとはなにかと追求していくことは、
もっとも原点である「生きること」の全体性に、
真っ向から向かっていかなければならないことのように思います。

そこがこの社会において、現代でも武術の存在価値が光って見える、重要なことなのかなと思います。
そういう機会でもないと、なぁんとなく漫然としたままでも生きていけてしまいますからね。
 
11. Posted by 太郎冠者   2017年03月31日 02:00
☆玄花さん
> “必要は発明の母”
イスラエルは国全体の産業規模のわりにテック系企業の技術力が非常に高いのですが、
ある技術系企業のCEOに、なぜそんなことが可能なのかと尋ねたところ、

―"Necessary"― 「必要性だよ」
と答えたそうです。

事の善悪は別として、必要なところではそれだけの発展がある・・・。
そう考えると、師父が常々仰っている、
「日本人は平和ボケしている」
という言葉の重みが、自分を通してひしひしとリアルに感じられてきます・・・。

これではいけない!
と思って奮起する、というのもまた必要性のあらわれでしょうか。
 
12. Posted by 太郎冠者   2017年03月31日 02:03
☆たそがれの単身赴任者さん
>紆余曲折、暗黒面へ流れることもありますが
面白いのですが、そういったイメージを作り出しているのも実はマスメディア、という側面もあったりします。

統計やデータを取ってみると、危険だとさんざん言われているものが実はそうでもなかったり、
普段の生活に完全になくてはならないものになっているものが、ものすごく危険!な数字を出していたりします。

人間の叡智はすばらしいものだと思いますが、一面的な見方にころっとだまされるのも人間の持っている性質です。
そういったものに惑わされないよう、しっかりと目を開いて生きていかないといけないですね。
 
13. Posted by 太郎冠者   2017年03月31日 02:11
☆タイ爺さん
>現象がありそれを研究すること
こうしていれば、いずれ相手が吹っ飛ぶようになる…!
と信じてありもしないことを続けるのは、ほとんど信仰と同じで、
現実が伴わないと時間の無駄になってしまいますよね。

太極武藝館の稽古では、レベルはともかくとして、
正しい稽古が出来ればすぐにでも相手は飛ぶようになるわけで、そこには正しい技術と訓練体系が存在している証になっていると思います。

「本当に飛ぶのか?」と疑うということは、
自分がそれを知らないのだという証明になってしまうわけです。
疑いを捨て、本当だと信じて入門した人にのみ真の道は開かれるわけですね(笑)

冗談はともかく、確かに一度実際に吹っ飛ばされないとわからないのも事実かもしれませんね。
『信じる者は飛ばされる』
 
14. Posted by 太郎冠者   2017年03月31日 02:15
☆とび猿さん
コツコツと積み重なっていく変化は、良い方向にも悪い方向にも向かっていくので、
一度ついてしまったクセを取り除くのは、なかなか厄介ですね…と自分のこととして感じます。

同時に、少しずつでも改善できていることというのは、
自分ではなかなか分からないもので、しっかり見ていかないと、
自分では分からないうちに間違った方向に向かい始めるということにもなりかねないです。

指摘してくれる仲間と、導いていただける師がいるというのは、幸せなことです。
もっとも、そこに甘えずに自分でもしっかりと進んでいかないといけないですけれど!
 
15. Posted by 太郎冠者   2017年03月31日 02:29
☆ユーカリさん
>我が子が大人になる頃には、そして、孫の成長を喜ぶ頃にはどのような世の中になってゆくのだろうと不安
たそがれの単身赴任者さんへのコメントにも書きましたが、ひとつにはマスメディアが国民の不安をセンセーショナルにあおっている、というのがあると思います。

たとえば日本国内における殺人事件など凶悪事件の犯罪数ですが、
昔に比べると圧倒的に減っています。
少年犯罪も同様に減っています。
ところが、新聞で事件を取り上げる記事数は増えていて、いかにも事件じたいが多くなっているように思わされているのです。
人間にとって、無機質な数字を出されるよりも、感情的にうったえられたもののほうが、印象に残りやすいものです。
国民にそう思わせることで、いったい誰が得しているのでしょうか。
真実はどこにあるのでしょう…?

こういうことを知ると、何に対して本当に備えていなければいけないのか、だんだんと見えてくるような気がしますね。
 
16. Posted by 太郎冠者   2017年03月31日 02:39
☆ハイネケンさん
>太極武藝館の道場だけで有効な技
稽古をしていても難しく感じるところですが、稽古として体を作るためにやっていることと、
実戦での戦い方は、別に考える必要があるのだろうな、と感じます。

そういえば、全国を行脚して武術を指導していた大東流の武田惣角は、稽古場で見せる合気技を「旦那芸」と言って、
実戦での用法とは別に考えていたようです。
しかし、合気技が使えないことには大東流として技は成立しない、とも言っていたそうなので、
武術ではそこのところをしっかりと考えないといけないのでしょうね。

師父の散手の動きを拝見していると、知らずに見てるとただ歩いて行って無造作に手が出ているようにも見えますからね。
もっと見極められる目を養いたいものです。
 

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