2017年02月24日

練拳Diary #77「教示されていること その2」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花



 私たちが学んでいる太極拳は、大きく分けると基本功と套路と推手、そして散手に分けられます。稽古では、ある時にはグローブを着けてミットを打ったり、キックミットを構える相手に蹴っていくことも行われますが、稽古全体に見られる最大の特徴は、それがどのような稽古でも「物事を理解するための稽古」になっていることです。

 たとえば「拳打」についても、打ち方を覚えたら後はひたすら打つ練習をする様な稽古ではなく、先ず拳を打つということの考え方を学び、それが戦闘に際してどのように理に適っているかを体験し、それから実際に動く練習に入ります。
 特に「考え方」の勉強では、自分の中にある程度出来上がっていた「拳打」というものが引っ繰り返され、映画やマンガなどに観られる戦闘中の拳打の用い方などとは全く異なることが分かります。
 拳打とは何かを解った上で稽古をすると、無闇に拳の威力や速さを鍛える必要がないことが分かりますし、さらにそこで得られた理解を次の稽古に繋げていくことができるのです。

 私が太極拳の稽古を始めた頃は、なぜもっと拳打の稽古をしてサンドバッグなどを打つ練習をしないのか疑問でしたが、やがて「勁力」や「纏絲勁」ということを知り、それを手に入れるためにはサンドバッグを殴るよりも他にやることが山ほどあることを認識すると同時に、太極拳では「打つ」ことも「勁力」でなければ意味がないことに気がつきました。
 他所の格闘家が練習しているように、拳を鍛えてミットやサンドバッグをバシバシ叩く方がよほど充実感を得られる気がするし、自分が成果を上げていることも実感しやすいだろうと思えます。けれども、それを私たちがやったらわざわざ太極拳を学んでいる意味が失われてしまうことでしょう。

 拳打について、じっくりと時間を掛けて身体と拳打の動作が一致することを稽古したら、実際に相手に触れてその力がどのように伝わるのかを見ていきますが、もちろんそこでも等速・等力の要求は守られ、一切の力みを持ち込まずに行います。
 その練習過程は、拳を鍛えるというよりは拳を打つ自分の意識を変えて鍛えていく稽古だと言えますし、それは他のどのような練功にも共通していることです。それはまさしく、太極拳の要である『用意不用力』を理解するための稽古であり、そのお陰でミットを使用する稽古でも、力や勢いに任せた拙力の稽古にならずにすむのです。

 先日行われた、拘束の稽古でもそのことが顕著に見られました。
 それは、片腕を相手の両手でしっかりと拘束された状態から、それを解いていくという稽古で、普通は腕一本に対して二本の腕で拘束されると腕に自信のある人でも容易には外せません。多少心得のある人なら、腕を動かす方向や角度の工夫で外すことは出来ますが、拘束を解くまでに時間が掛かることと、その間相手が大した影響を受けずに自由に動ける状態であること、つまり反撃可能であることが問題となります。
 そこで指導されたことは、拘束の外し方ではなく相手との関わり方でした。
 そもそも拘束とは、お互いにどのような状態なのかを認識することから始まり、結果的に拘束が解かれてしまうような、相手が腕を掴んでいられずに崩れて倒れてしまうような状態を作り出すのです。しかも、そこには一切の抵抗力もなければ、反対側の手を使う必要さえありません。
 指導され、自分の考え方では拘束を解けなかった人がいとも簡単にそれを出来るようになると、皆さん一様に不思議そうな顔をします。

 その稽古は、一般護身術的な “こうされた(されそうになった)ら、こうする” というものではないので、腕を掴まれたときにしか使えないということもなく、そこで学んだ相手との関わり方は広く散手にまで通用させることが出来ます。
 シンプルで、誰にでも理解できるその考え方を教われば、たとえその時に相手を崩せず拘束を解けなかったとしても、それこそ繰り返し稽古を重ねていくことでやがては出来るようになると確信できます。
 しかし、そのような考え方や関わり方の学習なしに、ただ腕の拘束を外すために力の強弱や速さの緩急をつけたり、空いているもう一方の手や身体を使ってテコの原理で外すなど様々に工夫してみても、相手によっては困難な状況が生じると思えますし、ましてや単に套路で身体の動きを覚えて、推手の中で相手との攻防を繰り返している中からそこに繋げていくのはとても難しいと思えます。
 正しい考え方と身体の用い方、そして相手との関わり方。その理解のために歩法や套路が用意されていると思うと、その緻密な学習システムを残してくれた先人たちに頭が下がる思いです。

 稽古で行われている「物事を理解し、考え方を学ぶ学習方法」は、キャンプなどの野外訓練でも生きてきますし、むしろそれがなければ、ただ街から山に道具を持って移動しただけの “野外ごっこ” にしかならないことでしょう。
 野外とは、普段身の回りに当たり前のようにある物がなくなる不便な状況です。寝床を自分で拵え、燃料となる薪を集めてかまどを作り、その日の疲れを取って明日に備えるために食事を準備する。何てことのない日常の所作は、家という覆いを取り外した途端に戦闘状態へと変化します。火が熾きない、タープが張れない、食材を忘れた、気がついたら身体が冷えていたなどなど、それはそれはたくさんの問題が生じます。
 だったら、不便な野外でも便利に過ごせるように沢山の道具を持って行けば良い・・というわけではないと、師父は言われます。普段身近にあった便利な物が無いとき、初めてそこに工夫が生まれ、本当の実力が養われるのだと。
 確かに、火が熾きなかったら雨の日でも使える着火剤と最新ハイテクのターボライターがあれば良いという考え方では、結局その道具がなければ火が熾せないのです。それは道具が火を着けたのであって、自分が熾したとは言えません。たいそうな武器を持っていてもそれを奪われたらお手上げになってしまうようなものです。
 私たちは、野外訓練で「火が熾きる法則」を学びます。木ぎれに火を着けることは子どもでも出来ますが、それでは火遊びと大差ありません。そこから暖を取ったり調理が出来るようにするには、「やり方」ではなく「考え方」を学ぶ必要があります。

 野外訓練をするようになってからのことですが、火が熾きる条件を知ることはそのまま相手に拳が当たる条件を見出すことと同じであることに気がつきました。これは、相手に拳を当てる小手先の工夫をしていても当たらないはずです。
 自分が火を着けるのではなく、火が熾きる条件を整えるのと同様に、相手に拳を当てるのではなく、相手に拳が当たる条件を整えるのです。なるほどこの状態なら、散手の稽古中に師父の動きがゆっくりなのに拳が見えないとか、殴られる気がしないのにいつの間にか大きくヒットしているということも、納得できます。

 「考え方」の稽古がもたらすものは野外訓練だけに留まらず、普段の生活そのものが変わってくるとは、門人から聞こえてくる言葉です。
 彼らは言います。
 『普段の生活は、家族との関わり、仕事との関わりと、対象が変わっても全てが自分とそれ以外との関係性の問題であることが分かる。そうすると、まず最初に意識的に関わろうとすることができるので、自分の言いたいことやりたいことの主張ではなく、相手や仕事を含めてどのように物事を進めていったら良いかが見えてくる。もちろん人間だからぶつかることもあるけれど、今までだったらそこで話が拗れてしまったり、それ以上進まなくてどちらかが諦めたりしていたことが、川に岩があっても水は流れていくように、流れる方向が分かるようになってきた。それが太極武藝館で学んでいることだと気がついたのです』と。

 「やり方」ではなく「考え方」を変えるようにとは、ずいぶん昔から師父が仰っていたことです。
 当時は “一体太極拳をどう考えたら良いのか” ということで悩んでいましたが、今ようやく言われていたことの全体が見えてきた気がします。
 まだまだ五里霧中であるようには感じられますが、少なくとも真っ暗闇の暗中模索ではなく、遠くに小さな灯りを見つけた思いです。

                                 (了)


xuanhua at 12:12コメント(9)練拳 Diary | *#71〜#80 

コメント一覧

1. Posted by まっつ   2017年02月27日 22:31
思えば格闘技における打撃技の練習とは、
速さや力といった物理量の増大を志向する事であり、
ロスなくコンパクトに拳足を「射出」する事であり、
その上で、それらを如何にコンビネーションとして、
組み合わせるかの組立てこそが工夫であり、
得意の勝ちパターンに持ち込む駆け引きが、
センスを問われる対象であったように思います。

対比すると太極拳の拳打の稽古は全く異なっており、
むしろ楽器演奏でのチューニングに近いかとも思います。
そこでは音に対する感覚を磨く事、
精度良く音を再現できるセンスこそが問われるような、
むしろ知的な作業であるとも感じられます。

武術が芸事として伝えられてきた事を、
もっと噛みしめんとイカンなと思いました。
 
2. Posted by マルコビッチ   2017年02月27日 23:47
>身体と拳打の動作が一致すること・・・
「拳打」と聞くと、バシバシと力強く打つことを想像しますし、太極武藝館で学ぶ前はそういうものだと思っていました。
しかし、そうではないということを教えて頂いても、人は戦うことが好きなのか、自分では気づいていないところで手が出る、力(拙力)が出るのです。
そして身体と動作が一致しないと、やはり、意図せずとも手が出て、力になってしまう。
悲しいかな、自分の中の攻撃性や傲慢さを消去したつもりでも、まだあるまだあると感じながらの稽古です。

教えて頂いている大切なことが、全て自分の中にしっかり入ってくるように、頭を柔軟にして心を解放していないといけませんね。
 
3. Posted by 太郎冠者   2017年02月28日 03:18
前回キャンプに行った時、自分がやったら焚火台があってもなかなかうまく火がつけられなかったのですが、師父が同じ場所、同じ薪を使ってあっという間に火をつけてしまったのを見て、とても驚きました。自分があまりにも不慣れだったというのもあるのですが、こんなに違うのか、と。

条件が全く同じはずなのに結果が違うというのは、焚火をおこすことのみならず、人間が格闘を行う場面でも同じように現れているのかな、と思わされました。
同じ二本ずつの手足で動いているつもりでも、太極拳の体の使い方とふつうの体の使い方ではまったく違うもので、それによって結果に違いがあらわれ、常識で観ればまるで魔法のような出来事が起きてしまっている。
それは本当は些細なきっかけで起きた違いなのかもしれませんが、
では自分がそれに気づくにはどうしたらいいのかとなると、
やっぱりコツコツと稽古を続けていくしかないのかなぁ、と思う次第です。
 
4. Posted by ユーカリ   2017年03月01日 23:42
稽古でも、日常生活でも、仕事でも、その意味や考え方を知り、取り組もうとすると、どんなことも端折ることなく手順を踏まなければならないんだな…ということに気付きます。
今までは、いかに早く真似できるか、成果を出せるかに重きを置いて、そのために何かを省略できないだろうか?簡単にできないだろうか?に一生懸命エネルギーを注いできたように思います。
それ故に、その場その場で自分の在り方がころころ変わり、問題が解決につながらず、堂々巡りになっていました。
「考え方」に焦点を合わせようとすると、対象が何であっても、自分自身の軸はぶれることがないので、どんなに最初は不細工であったとしても、示して頂いたことの意味を理解しようと、その過程を大切に、また愉しく歩みを進めることができると感じます。

とはいえ、今夜も「早くしなさい!」とのんびり屋の次女を闇雲にせっついてしまった自分です。う〜ん、これこそ解決に結びつかない堂々巡り。反省です(汗)

5. Posted by とび猿   2017年03月01日 23:54
太極武藝館の稽古は、各自に理解が起こるように、とても繊細で丁寧に行われているように感じます。
そこに気が付けなかったころは、師父のようなことが出来るようになりたいと思いながらも、こうしたらより強い力が出た等、勝手な解釈をしたり、これかと思うことを反復練習してみたりと、今思えば馬鹿なことをしていたと思います。
しかし、稽古というものの方向性がおぼろげながらも感じられるようになると、その愚かさや危うさに気が付けるように思います。
そして、より意識的に己や物事に向かい合うようになり、いよいよ自身の成長が始まるように思います。
 
6. Posted by たそがれの単身赴任者   2017年03月03日 09:02
サンドバックやミット打ち、次に動き回る相手に対して対応できる勘や技術を養う という固定観念にしばられるのは血気盛んな人にとって無理ないことでしょう。相手とのもっと繊細な関わりという部分の欠如、これは教えていただかなければ到底気がつかないことです。私のような浅学菲才の者が申し上げるのもおこがましいですが、実際に打ち合えば相手との関わりがわかる 速ければ、強ければすべての問題は解決できるとしてきたこと。(自分はちっとも速くも強くもないのに)「こんなところが自分の限界かな」と割り切って武道の修行に見切りをつけてきたきたことはなんとおろかしくむなしいものであったのかと反省ばかりです。自分自身の卑小さに目覚めたことで、大げさに申せば人生をこの歳からやり直す気持ちになれました。
野外生活のノウハウは武道に通じますね。身の回りの
自分のなんちゃってキャンプ用品の陳腐化についてもみなさんを見習って一新したいです。
 
7. Posted by タイ爺   2017年03月07日 12:06
雪が積もる直前まで昼にソロストーブといういわゆるネイチャーストーブで屋外でコーヒを入れてホットサンドを作って食べていました。
少量の薪で効率よく尚且つある程度火持ちが良いように作られていますが、その薪の並べ方で火力や持続時間に差が出てくることが面白くて色々試していました。
火が起きる原理、火力が強くなる原理、火持ちが良い原理。それらは人間の思惑ななど関係なくこちらが合わせるしかありません。
人が立つ原理、歩く原理、戦いの原理もきっと同じでこちらの都合でどうすることも出来ずひたすら原理に沿った状態を保つしかないのだと感じました。
 
8. Posted by ハイネケン   2017年03月15日 06:47
太極武藝館では起き上がり腹筋やバランスボールに乗る様な他では余り見たことのないものもあれば、他所と同じ様な稽古も沢山あります。
ただ似ているが故、同じ様に見えても目的が違う為「どの様に取り組むか?」と稽古に戸惑う事があります。
更に言えば個性とか個人のセンスに任せた解釈・理解を挟む余地は微塵も感じません。
立ち方や動作一つひとつの質感にも武藝館らしさがあり、それは学ぼうとしている技術の方向と一直線上にあるのでしょう。

平凡な自分の個性だけでは、先人達が何代もの積み重ねて来た叡智に追いつける訳がないと分かっていても、自分勝手な解釈が貌を出します。
物事を理解する為に、でしゃばり出てくる自分の色眼鏡を外し、ありのままを見ようとする事を積み重ねて行こうと思います。
 
9. Posted by スーパードライ   2017年03月21日 17:00
私が最初に習った武術は、形を真似た基本功や套路から抜き出した技法?のコンビネーションの練習でした。
当時はその動きでミットをバシバシ打って、叩いておりました。その時の自分のやり方は、ただの力が抜けただけの拙力であり、自己満足の筋トレだったと思います。


最近は、そんなあの頃を忘れて基本功の理解が重要であることをしみじみ感じております。

今回のダイアリーでは太極拳は、理解をするための稽古、考え方を変える稽古を培って要の原理が体現できるようになるのだと思いました。

精進致します。
 

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