2016年05月27日

練拳Diary #69「武術的な強さとは その13」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花



 さて、今回は「武術的な強さ」というものを、別の角度から視てみたいと思います。

 それは、「団結」ということです。
 
 武術修行とは本来個人的なことであり、人生を投入して自己の精神的・肉体的成長のために道を歩むことは、まさに孤独の道とも言えます。

 それでは、なぜ戦闘のプロ集団である軍隊では、新兵の時から団体生活を行わされ、どこに行くにもひとりでの単独行動は禁止され、最小単位は2人組み(バディ)と決められているのでしょうか。

 これは、ひと言でいえば、団体で生活し、訓練を行い行動することで、より精神的・肉体的に鍛えられるからです。
 規律を守り、やる気を高め、責任を全うするということまでなら、ある程度の人なら誰でも出来ます。けれども、そこに仲間との”団結”という要素が入った途端に、ハードルは高くなるのです。

 目的は同じでも、異なる考え方と生き方をしてきた者同士では、当然取り組み方も違ってくるわけで、共同作業となると当然衝突が生じます。
 一般社会なら、そこで「あいつは嫌いだ。合わない」と切ってしまえば済むこともあるでしょうが、軍隊ではそうはいきません。

 たった2人の諍いが班内の不調和をもたらし、一個班の遅れが一個小隊を足止めすることになるのです。命懸けで任務を遂行しなければならないときに、それが最終的にどれ程の損失になるのかは容易に想像できるものではありません。

 特に時間の厳守が要求されるのも、自分の中に規律を持つということと、ひとりの遅れが部隊の全滅に繋がるという危機意識を持つためですが、それ以外にも、仲間との協調性を養うという利点があると、私は思います。

 定められた時間は、個人の都合で変更できるものではありません。言い方を変えればそれは絶対的な権力であり、守られなければ厳しい罰が待っています。しかも連帯責任なので、自分さえミスをしなければ良いという考え方では通用しません。
 その認識を誰もが持っているために、例えば日頃意見の合わない不仲な者同士でも声を掛け合うようになります。どのように在ればスムーズに任務を遂行できるのか、どのように接すればお互いに嫌な思いをしなくて済むのか、自然と考えるようになります。

 自分ひとりならいくらでも強さを示すことができるかも知れませんが、それは本当の実力ではなく、太極で表現すれば「陽」というたった半分の要素でしかないのです。

 面倒でややこしく、なかなか円滑に進まない団体行動では、協調性を持たなければ到底やってはいけず、その協調性とは、私たちにとって馴染みのある言葉で言えば、「合わせる」ということそのものだと言えます。


 実は、団体行動で養われた力を最も実感するのは、単独行動の時です。
 自分がライフルを扱うときや荷物のパッキングをするとき、或いはひとりでランニングをするようなときでさえ、そのことを強く思い知らされます。

 先日、初めてカヤックに挑戦してきました。
 もともと水遊びが好きな私は、誰かと湖に行けば自分から手漕ぎボートに乗り込み、率先して漕ぎ手となって腕がくたびれるまで漕いでいる方です。

 つまり、恋人にボートを漕いでもらってのんびり湖の景色を眺めるタイプではない、ということですが、それはさておき、ボートに乗る機会は割とあるものの、とりわけボートが好きだというわけではありません。
 ボートは大きくて数人乗れる代わりに、漕ぐときには結構な力が必要です。しかもボートに固定されている2本のオールを握って漕ぐものだから、漕ぐたびにガチャンガチャンと音がします。澄み渡る湖畔をゆっくり味わいたいときには、どうしても雰囲気台無しの感が否めません。
 ボートが些かスマートさに欠けることに加えて、進行方向に背を向けて漕ぐという点が、どうしてもボートを好きになれない理由のひとつでした。
 自分の進みたい方向をきちんと目視できない。背後に何者が潜んでいるかも分からない。案外危険で非武術的な乗り物だと、ボートに乗るたびに思ったものです。

 そのような中で知ったのが、カヌーやカヤックの存在です。
 カヤックはカヌーの一種で、パドルと言って1本の棒の両端にブレードがついているものを使い、左右交互に水面に挿し込んでは水を掻き、行きたい方向に舟を進めていきます。
 このパドルの漕ぎ方で、前進、後退、左旋回、右旋回、そしてその場で回転することが出来るわけです。

 陸の上で大体のパドルの動きを確認したら、直ぐに水上へ出て実際に漕ぎ始めます。
 なにしろ、ジッとしていたら水と風に流されてあっという間に進んでしまいます。
 ちょうどその日は晴天で風速8メートル。カヤックはあまり風に強くなく、ガイドさんが「雨でも良いから、風がない方がよかった」と呟いたほどです。

 さて、本題です。
 漕ぎ始めて真っ先に感じたことは、「合わせなければ進めない」ということでした。
 カヤックはボートよりも軽くて細いため、僅かな身体の揺れでも舟が傾きます。そうであるにも拘わらず、舟を前に進めようとすると、パドルにものすごい重さが掛かるのです。
 確かに、パドルに掛かる水の抵抗によって前に進むことが出来るのですから、重くても当たり前なのですが、これをやっていたのではすぐに腕にきてしまい、目的地には到底行けないことが分かります。

 そこで気がついたのが、前に進む方法には、水に挿し込んだパドルを支点にして舟を前に出そうとすることと、挿し込んだパドルが水を掻く角度を調整することで、あたかもパドルが水の抵抗を受けたかのように舟が前に進むことの2種類がある、ということです。
 前者が私が最初にやろうとしたことで、後者は、表現すれば飛行機の羽根が空気抵抗を受けて機体が浮き上がるようなものです。
 つまり、自分は前に進もうとはしておらず、水がパドルを推してくれて前に進むような感覚です。実際には、もちろんパドルを水に挿し込んだだけでは前に進まないので、水を掻く動作はしています。けれども、パドルのブレードを支点にする漕ぎ方とは、まさに雲泥の差がありました。

 なんとも軽快に、おもしろいほど進むのです。
 先ほど、「水を掻く角度を調整する」と述べましたが、これこそ頭で計算することも出来なければ、考えて調整することもできません。
 全ては「合わせる」ことで可能になります。なぜなら、水に挿したパドルの深さや角度によって、水の固さも波のうねりも変わってくるのです。手で漕ぐことを止めればたちまち風に流されてしまうような小さな手漕ぎ舟では、一定のリズムで漕ぎ続ける必要があります。そのような中では、予測することも、思考している暇もありません。
 さらに、自分の行きたい方向にはお構いなしに風が吹いていますし、水も流れていますから、自分の好きなペースと力加減などでは、まともに動けるはずもないのです。

 ひたすらに、舟と自分と、パドルと水とを感じ、間隙なく合わせ続ける意識を持つようにしました。すると、それまで水に拘束されていた舟が、まるで自分の手足のように動かせるようになってきたのです。

 そうして発見したことは、今自分が動いている動きはまさに太極拳の動きである、ということでした。パドルを左右交互に掻いていくその動き。そうです、それこそ「内転」の動きそのものだったのです。
 さあ、それからは、軸足の取り方や肩・胯の在り方など、全てを総動員して漕いでみましたが、いかに太極拳の身体の使い方が効率が良いか、軸を感じやすく整えられているかを実感しました。まさに、「合わせる」ためにその形があると言っても過言ではないでしょう。


 今回のカヤックツアーでは、他にお客さんがいないのを良いことに、通常初めてのツアーでは行かないような、比較的流れが強く、視界の広いところにまで出させてもらいました。
 湖で流れが強いということは、風も強いということで、行きに追い風なら帰りは向かい風です。行きには波の背中に乗ってあっという間に漕ぎ出ることができましたが、Uターンしての帰り道は、なんと真正面に白波が幾つも立ちはだかり、ダッパーンと容赦なく水を浴びせてきます。場所は浜名湖ですから、塩水です。
 ガイドさんには、「覚悟してくださいね」とは言われていたけれど、やはりやってみるまでは分からないものです。しかも楽しいのなんの。パドルを休めたらたちまち元居た場所に戻されてしまいます。
 先ほど運河のような静かなところでスイスイ漕いでいたときには、それこそ、「♪すぐ美味しぃ〜、すごく美味しぃ〜♪」なんて気分だったのが、いきなり荒波の中に放り出された小舟となり、ザッパザッパと水を浴びせられながら必死に漕いでる有り様です。
 当然、腕に力みも入りますが、やはり力んでいるとすぐに疲れて漕げなくなってきますので、波と風に合わせて、身体を動かし続けます。
 ようやく向かい風と荒波を越えて、水面の穏やかなスポットに入って休憩したとき、自分が今必死に漕いできたところを振り返ると、何とも穏やかな水面にしか見えません。
 これが、波の背中側から見るか、腹側から見るかの違いなのだと教えてもらいました。


 自然は、それ自体が完成された循環を持っていて、それ故に彼らはすでに合っているのです。だから、自然は私たちに合わせてはくれません。その中で活動しようとするならば、私たちの方から合わせる必要があり、そうして生活のための知恵や、生き残るための工夫が生まれてきたのだと思います。

 私たちもまた、自然の一部として「合わせる」ことを学ばなければならないと思います。
 なぜなら、合わせられるということは、自分とは違う他人とも合わせられるということであり、人のことが分かる、考えられるということは、敵のことが分かるということでもあるからです。

 団体で行動することは、自然の中に放り出されるよりも厳しいことかも知れません。
 けれども、そこで流されるのでもなく、自分を押し通すのでもなく、「合わせる」ことが理解できたならば、得られることはものすごく大きいはずです。

 人のことが分かる、感じられる人とは、一緒にいてとても心地よいものです。そして、そういう人に共通しているのは、気配りを絶やさないということです。

 『隙が無いこととは、常に気配りができることである』──────────とは、先日のCQC講習会で師父が仰った言葉です。

 訓練を共にした人たちが、最初からそうであったとは思いません。
 何かが上手くいかなかったとき、ひとりでも不機嫌な顔をした人がいると、それだけで全体の訓練効率が落ちます。まるであくびが移るように、人の心も移っていきます。
 そのようなことに気づいていった人たちが、自然と身につけたひとつのことが、気配りであり、合わせるということだったのだと思います。
 それが、結果的に自分に隙が無いことを養っているとは、彼らは夢にも思わないことでしょう。

 道場という限られた時間と空間の中では、誰もが他人と共に稽古を行います。
 稽古は自分ひとりの問題であり、同時に、自分ひとりの問題ではないのです。


                                 (つづく)


xuanhua at 23:58コメント(22)練拳 Diary | *#61〜#70 

コメント一覧

1. Posted by まっつ   2016年05月30日 23:00
確かに自然を相手にすると、
自分の側を環境に合わせるしかない事を、疑問の余地なく理解する事ができます。
私の場合は山登りでしたが、自分の心身が山の環境と一致していなければ、
多くの場合、大変な苦労や危険が自分に返ってきたものでした。
幸いにして主に幸運の助けにより、結果として無事に済んできましたが、
自分をコントロールする必要性を肌で学べた点は収穫だったと思います。
山に限らず多くの失敗を教訓として、合わせる事が万事の一歩目なのだと、
改めて心に刻まねばと思いました。
 
2. Posted by ランフォリンクスの尾   2016年05月31日 01:12
カヤッキングは私も学生時代に2、3回だけですが経験する機会がありました。場所は山奥の湖だったり夜の海だったりしましたが、いずれもとても静かでしたね。
当時は手軽に自然を楽しめるレジャーとしてカヤッキングに取り組みましたし、そういうものとして面白かったです。武藝館で指導受けるようになった現在では、違った見方ができるといいと思います。

しかし…… 日帰り登山くらいなら最近でも時々行くのですが、一人でないと絶対にやりたくないですね。理由は、人と合わせたくないから。私の考え方の甘いところですね。

合わせることは、日常生活の中でも常に意識していたいと思います。
 
3. Posted by たそがれの単身赴任者   2016年06月01日 12:46
 師父、玄花先生に、「合わせる」ことの大切さを武藝館でおしえていただいたことは私にとって、とても大切なことです。「相手がどういう状態であるのか?」ということをないがしろにして、武術は成立できないでしょう。相手をはじく、受け止めるだけでは相手との一瞬の点の接触であり、痛みや反発、拳足が速いか重いか程度の情報しか得られないと思います。さらに合わせるという過程は武術の精緻な技法であるとともに、人間の社会生活においても周囲との融和をうみだすことにもなるでしょう。それは軍隊においては「背中を任せられる相棒」ということになるのですね。
 小学校の頃(大昔です)、父親に簡単ながら一枚帆のヨット、和船の漕ぎ方を教えられました。小さな湖での遊び半分の練習ですが、自然の風と一体になるヨット、和船の櫓の精妙な動きにたいへん感動したものでした。
それまでは、あの目的地の見えない「ガコン、ガコン」という無粋な音をたてるボートしか乗らなかったのに・・・
カヤックのパドルの記述を拝見し、和船の櫓の水をなでて推進するあの精妙な和船の動きをつい思いだしてしまいました。櫓が水に合わている、ヨットの帆が風と合っていることを感じました。
 
4. Posted by 太郎冠者   2016年06月01日 21:48
小学生の頃はよく、週末は父親に連れられて川に行き、そこでカヌーをやりました。
もちろん太極拳など知らないし、軸や身体の使い方なんてわかりませんでしたが、水と漕ぐパドルと自分を合わせないと前に進まない、というのは分かりました。
手だけでバチャバチャ漕いでもほとんど進まないし、力ずくだと曲がっていってしまいました。
パドルで水を受ける感覚と、カヌーの穂先の方向とそれに乗ってる自分がパドルから力を受けてすっと進んでいく。

今にして思えばそれが合わせるという経験になっていたかもしれません。

もっとも、夏場の暑い時はカヌーに乗ってるよりも、泳いでるほうが楽しかったりしたものですが・・・(笑)
プールなんかと違い流れがある川で泳ぐので、それもまた自然と合わせる経験になってるかもしれないですね。
 
5. Posted by とび猿   2016年06月01日 23:39
以前、スキューバダイビングをした時のことを思い出しました。
私はど素人なので、ベテランガイドさんの後ろにぴったりと付かせてもらいましたが、ガイドさんの一挙手一投足を感じて合わせ、周りの水や地形、浮力などとも合わせることで、初めてにしてはとてもスムーズに潜ることが出来ました。
その感覚は、普段の稽古と全く同じものでした。

合わせるという質は、とてもすごいものなのだと思います。
当たり前の事ですが、自然の中でも、環境に合わせることができなかった種は淘汰され、生き残ることができなかったわけですし、当然、我々人間も、誰もがその能力を有していると思います。
難しいのは、我を許せてしまう傲慢さと弱さ、臆病さがあるからなのかなと思えてきますが。
 
6. Posted by マルコビッチ   2016年06月01日 23:53
カヤックとは楽しい体験をされたのですね!
でもとても難しそう・・・
太極拳の身体の使い方のすごさがここでも証明されたようで、読んでいるだけで面白いと思ったので、体験された玄花さんはさぞ面白かったことでしょう。

普段バラバラな仲間とか家族でも、緊急事態が起きた時には、信じられないくらい団結して、うまい具合にスムースに事が運べる・・というようなことがありました。
そう言う時は、自分勝手な事を言う人はおらず、自分は今何をしたら良いかを考えて、状況に合わせているようです。
逆に言えば、「合わせる」とは自分を入れないことですね。
いつも稽古でご指導頂いていることそのものです。
大いなる「太極」に合わせる、合わせようとしている人たちが集まっている場所が道場なのですね。
 
7. Posted by ユーカリ   2016年06月01日 23:55
団体で行動することが苦手と思ってきたのですが、実は、周りに合わせることがいやだったのだと、今更ながら気付きました(汗)
ここ一年ほど、団体の中の一員として活動することが増え、窮屈さを覚えつつも、様々なことに色々な反応や思いを抱える自分と向き合う機会を得て、とても楽しいと感じています。
緊張しびくびくするでもなく、強引に自我を押し通すのでもなく、流されるでもなく、その場の周りにいる方々への気配りを絶やさず、感じて動き続けることが大切なのだなと学ばせていただきました。
また、時に、実際に大自然の中で、風を感じ水の流れを感じ、自己の都合でがんじがらめになった心と頭を空っぽにすることも大切だと思いました。

>稽古は自分ひとりの問題であり、同時に、自分ひとりの問題ではないのです。

この言葉が心身に響きます。
太極拳に出会えて、師父・玄花后嗣・門人の皆さまに出会えて、本当に良かったです。
改めて、稽古や日々の生活がかけがえのないものだと感じます。
 
8. Posted by ハイネケン   2016年06月05日 08:50
職場で仕事をしていても「嫌いだ・合わない」話はたくさんあります。そうなると普段から関わらない。

集団の機能は問題が起きた時にいよいよ露呈します。
嫌いだから関わらないという積み重ねが、意見の交換・報告が減少させ問題が更に深刻化させます。

自分の中に「人を嫌う心、隠れた自我」があることを認めたくない。
隠れた自我・心の小さな自分が、気配りを忘れさせ、団結の邪魔をしたりします。

すでに40代となりますが、「これからの人生で今が一番若い」と言い聞かせて慰めつつ・・・
 
9. Posted by スーパードライ   2016年06月08日 17:42
初めて投稿します。

団結、団体行動、協調性それは「合わせる」ということ。
稽古で自分のできない部分や勘違いしているところを戒めていただいたダイアリーでした。


何事も合わせるときには、私は簡単なものには得意になれて、難しくなると焦り、苛立ち、逃げていました。
合わせるとは、今の私のレベルでは自我を捨てる勇気と落ち着いた気持ちでいられる状態が必要であると考えました。
日常でも色々合わせなければならない事が沢山ありますが、稽古の一貫として意識して学んでいこうと思います。


>「隙がないこととは、常に気配りができることである。」

早くその境地に達したい・・・。
 
10. Posted by bamboo   2016年06月11日 14:23
ときには荒波のような、ときには鏡のように穏やかな水面も、自然も稽古も、カヤックも基本功も、…湖の楽しみ方も、色々勉強になります。
豊かなドジョーを育んで参りたいです。
 
11. Posted by タイ爺   2016年06月13日 15:37
カヌーを漕ぐことと太極拳の身体が共通性があるとは考えてもみませんでした。乗ったことが無いので想像するしかありませんがパドルを支点にカヌーを前に出そうとすると腕がすぐに疲れてしまいそうだと言うことくらいです。
youtubeなどで改めて見てみると初心者ほど動きがバタバタして頑張って漕ぐほどには前には進まずかえってバランスを崩したりしています。なるほどとある太極拳の表演を見た時と共通なものを感じました。

『隙が無いこととは、常に気配りができることである』
捨己従人と共通のあるとても奥行がある言葉だと思いました。気を引き締めて稽古に励みます。
 
12. Posted by 円山玄花   2016年06月14日 16:18
☆まっつさん

相手が人間でも自然でも、合わせられた方が主導権を取れるというのは面白いですよね。

人生は、予想もできず、想定も無意味な瞬間瞬間の戦いだからこそ、
美しく輝いて見えるのかなと、思います。

山登り、自分も挑戦してみたいことのひとつです。
 
13. Posted by 円山玄花   2016年06月14日 16:23
☆ランフォリンクスの尾さん

静かなカヤッキング、次回はぜひともそれで行きたいですね。

>人と合わせたくない

団体行動で得られることがあるように、反対にそこに依存することで失われることもあります。
なので、私は団体行動と単独行動の両方が必要だと思います。

私も、自分で始めたキャンプはソロキャンプでした。
ひとりも良いものです。他人と合わせなくて良いですから(笑)
でも、ひとりでも、結局自分以外の全てのものと合わせないと上手く回らないんですよね。

合わせることを意識していると、他人といてもひとりでいても同じであることが分かります。
そしてそのことは、自分の戦闘の勉強にとても役に立ちました。
ぜひ実感してみてください。
 
14. Posted by 円山玄花   2016年06月14日 16:29
☆たそがれの単身赴任者さん

>背中を任せられる相棒

そうですね、こうなると、もうただ合っているだけではなくて、
絶対的な信頼という絆がお互いにしっかりと見えている状態です。
相棒の考えている事が手に取るように分かるし、姿が見えなくても何の不安もない。
その人が剥き出しのサバイバルナイフを持って後ろに立っていても、目を瞑っていられる。
私の訓練中には、ただ一人だけ、そういう人に出会えました。
素晴らしい時間の共有であり、後に、その人も同じ気持ちであったと聞いたときには、
とても嬉しかったです。

>ヨット・和船

それは素晴らしいですね。
それこそ今回カヤックを体験して、ぜひともヨットをやってみたいと思いました。

和船の櫓は漕ぐのが難しく、名人が漕ぐと舟は真っ直ぐ進むのに、
素人が漕ぐと進まないと聞きました。
さらに”たらい船”だともっと難しいとか。
ぜひとも身体で覚えたいですね。
 
15. Posted by 円山玄花   2016年06月14日 16:38
☆太郎冠者さん

さすがは噂のお父さんですね。
小さい頃から〇〇員になるための英才教育ですか(笑)

確かに、プールで泳ぐのと、海や川で泳ぐのはわけが違いますね。
歩くことも含めて、人間の身体はどんどん厳しい環境から楽な方へと変わり続けています。
今の時代に野生を失わないようにするには、
やはり時々山に入って、自分の無力さ、情けなさと、直面する必要がありますね。
 
16. Posted by 円山玄花   2016年06月14日 16:55
☆とび猿さん

少し話が飛びますが、車で信号待ちなどしているとき、自分の車と前にいる車のウィンカータイミングが合ったことは、今まで一度もありません。それがなぜなのかは知りませんが、ふと思ったのは、人間の鼓動も、同じリズムの人はいないということです。
戦いの際に相手の呼吸を読むことは、スポーツの世界でもよく聞かれますが、それもやはり合わせないとできないことだと思います。

自分を許せてしまうのは、それでも何とかなると思える甘さと、それでは生き残れないという切実な危機感の無さ以外の何ものでもないと思います。
常日頃から稽古で指摘されていることですね。

本当の意味での臆病な人間になれれば、
甘いことを言っていられる余裕も無くなるのだと思います。
 
17. Posted by 円山玄花   2016年06月14日 17:00
☆マルコビッチさん

>太極拳の身体の使い方のすごさが証明された

あっという間の3時間でした。
記事には書きませんでしたが、浜名湖上で牡蛎の漁をしている親子三人と出会い、
小さな船の上で獲れたての大きな牡蛎を焼いてくれたので、カヤックの上で頂きました。
舟と船が近づく際の気配りから、水の上でお互いに打ち解けて談笑した素晴らしい時間。
すべてが勉強になりました。

何より、たとえ浜名湖と言えども自分の生活を持ち込めるフィールドではないので、
最後まで命の危険を感じていたことが新鮮でした。
そんな時、身体の在り方から心構えまで、太極拳で学んでいることしか出てきません。
改めて、太極拳は凄い、太極武藝館で教わっていることは凄いと感じました。
 
18. Posted by 円山玄花   2016年06月14日 17:23
☆ユーカリさん

自然は正直だと感じるのは、自然と関わることで、自分の考え方や在り方が鏡のように映し出されるからなのでしょうね。
今までは、息抜きやリラクゼーションの為に自然の中に行きたいと思っていましたが、
これからは自分の修行のために、入って行くことができそうです。
水の上は、特に地面に足が着かないので、得ることが多く感じますよ。
 
19. Posted by 円山玄花   2016年06月14日 17:34
☆ハイネケンさん

>意見交換・報告の減少

う〜ん、耳が痛いですね。
けれども、そういうときこそプロの立場として自分を見直し、
帯を締め直して顔を上げたいですよね。

私は、嫌いなものを前にしても、涼しい顔で平然としていられることがプロだとは思いません。
嫌いなものは嫌い、好きなものは好きと言えて、尚かつそのことに振り回されないで冷静に正しい判断ができること。それが本当の実力を養う一歩だと思います。
 
20. Posted by 円山玄花   2016年06月14日 17:42
☆スーパードライさん

コメントをありがとうございます。
ブログの記事が稽古のお役に立てて、嬉しく思います。

私たちの言う「合わせる」ことの本質は、站椿によってのみ理解できると言えます。
そのことが、人との関わりや戦いの中、そしてそれこそカヤッキングのようなことの中でも、
実感することができます。
私もまだまだですが、日々鍛錬したいと思います。
 
21. Posted by 円山玄花   2016年06月14日 17:45
☆bambooさん

師父は常々、人の成長も大地の育みも同じことであると仰います。
生き物が成長するための条件。
それをこそ、倦まず弛まず整えていきたいですね。
 
22. Posted by 円山玄花   2016年06月14日 17:51
☆タイ爺さん

私もこれほどの一致が見られるとは思っていませんでしたが、
考えてみれば、順体の身体の使い方は最も効率的な動きのはずですから、
身体を動かすことなら全てに通用するものなのだと思います。
戦闘のプロ集団である軍隊で通用するというのも、頷けますね。

これから戦闘についてどんどん書いていこうと思いますので、
よろしくお願いいたします。
 

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