2016年05月10日

門人随想 「今日も稽古で日が暮れる」 その29

   「 危険を『意識』する」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 
 今年から始まったCQC講習の第一段階が先日、終了した。
 
 CQCという名の通り、身を守るための近接格闘術の話からはじまり、それ以外にも火災や地震など、身の回りにある危険から回避する方法などが多岐に亘って提示されるという、学ぶことの多い内容だった。
 
 あれだけの内容を、忙しい中、講習のために用意してくださる師父には、本当に頭が下がる思いだ。内容のレベルで言えば、「危険回避学」とでも名付けて大学の講義としても十分通用するレベルなではないか、と個人的には思う。
 「プロなんだから、当たり前だ〜」と、師父には笑って言われそうではあるが。
 
 
 さて、特に地震に関しては、東海地震の発生が予想される地方ということもあり、数回にわたり念入りに講習が行われることとなった。
 そして講習の期間中に、ちょうど熊本で地震が発生したこともあり、いつか来る危機ではなく、すでに自分たちの目の前にある危機として、より認識を新たにすることが出来たように感じる。
 
 ここまでの講習を通して感じたことを、日頃の稽古と照らし合わせていくつか書いてみようと思う。
 
 
 事故や災害、危険からの回避も、戦闘も、第一の目的は自分自身が生き残ることにあると思う。また、それらに共通することは、いつ起こるか分からないということだろう。
 
 あと〇〇分後に火災が発生します〜・・などということはこの現実世界ではありえない。
 もちろん、人為的なテロや攻撃だったらそうとは言い切れないが、事前にそれをつかむことが出来なければ、実質的にはいつ起こるか分からない状態と違いはないといえる。
 
 だとしたら、いつ何が起きても大丈夫なように、自身で準備しておくしかない、ということになる。
 
 CQC講習では、地震などの災害時に備えてどれだけの装備を持っておくべきかということが、かなり入念に紹介された。東海地震がいつ起きてもおかしくない、と言われ続けている場所に住んでいながら、実際に自分がどれほどの準備をしていたか?ほとんど何も備えていないに等しかった。
 日本中で大きな地震が起きて、かつこれだけ言われていてもそうなのだから、もし実際に何かが起こったときに、自分がどれだけ対処できるだろうか。学ぶ前と後で変わった意識を実際に生かしていかないといけないと感じる。
 
 これが地震ではなくて、たとえば暴漢に急に襲われるといった事態だとしたら、どうだろうか。自分は散々稽古しているから大丈夫、などとはとても思えない。
 
 どうしようもない状態に陥ったとき、まずは自分がどのように動けるのか。
 そこに意識を向けていかないといけない。
 
 
 世界中には多種多様な格闘技や武術があり、民間のみならず各国の軍隊や警察などで指導している人の動画などが、ネット上には数多く出回っている。
 それぞれの武術にはそれぞれの考え方があり、細かい対処の仕方という点ではいくらでも違いはあると思う。だが、一貫して共通して見えるのは、いかに止まらずに動き続けられる状態を維持できるか、という点だろうか。
 
 道場で、数人がかり(時には10人近く)で壁際に師父を拘束しに行くというものを示していただくことがある。
 我々門人は、もちろん全力で師父が動けないように拘束しに行く。
 そのとき、壁から逃れる事のできないようにするのみならず、師父の足が地面から離れてしまうほどに、我々は本気で拘束しに行っている、はずなのだ。
 押さえている身体の部分と壁によって、そこは確かに動かないはずなのに、なぜだか押さえられている感じがしないのが不思議だ。

 「そんなので拘束出来てるのか〜」
 と師父は冗談のようにおっしゃるが、押さえつけた身体によって、後ろの壁はみしみしと音を立てている。
 こんな状態になったら、実際ふつうだったら動けたものではない。
 ところが、師父はそれをこともなげに、ひょいっと拘束を外していくではないか。
 
 ときには指名した人間を一人ずつ、ときには全員を同時に吹き飛ばし、ないしは床に転がしていく。やらせと思われても仕方のない光景かもしれない…。
 
 災害とは想定されているケースが一見違うようにも思われるが、人間の自由を奪って動けないようにしているはずの状況でも、師父のような武術家は、状況に拘束されることなく、動ける状態を保っているのである。
 
 押さえつけたところから始めてそれなのだから、動いて歩きまわっている師父をとらえにいくなどというと、もう話にもならない。
 何人でかかろうがスルスルと師父は自由に動いてとらえきれず、我々は捉えにいこうとした仲間であるはずの門人同士でぶつかって邪魔し合う(ように崩される)始末である。
 
 
 動き続けられるというのは、それだけで凄い力を秘めているのだと感心せざるを得ない。
 自分でやってみると、一人ならまだしも(それでも怪しいのだが)、二人相手に攻められてこようものなら、どれだけ自分が動けない身体になってしまっているのかが、はっきりと感じられるものだ。
 稽古の中でそれなのだから、実際に外で複数の人間に襲われたらどうなるのか、考えるだけでも恐ろしいものである。
 もちろん、道場の稽古で襲ってくる人間は門人なので、当然ふつうの人よりも鍛えられ動けるようになっている人間なので、一概に同じとは言えないかもしれないが…。
 
 
 
 動き続けられることとあわせて、危険がせまっている時には、ゆっくりと腰を据えて対処しようという時間がない、ということにも驚いた。
 目の前に敵がいて、倒さなければならないとき、格闘技の試合のように2〜5分、という時間を取ることは出来ない。短い時間の中で何とかしなければならない、という事だった。
 
 知り合いの友人から聞いた話だが、米軍の海兵隊で機関銃を持ったガンナーの、兵士としての危険度を現す数字は、「12」だという。
 
 なんの数字かというと、「戦闘が始まってからそれ以上時間が経ったらいつ死んでもおかしくない」数字だという。
 将校ではなく、現場の兵士である銃手の場合は、『12秒』だ。
 
 戦場になど行ったことのない自分たちには、日常的には考えられない話だ。
 漠然と将来の不安とか、せいぜいそういったものしか感覚的には感じられない。
 人間は、いつか死ぬんだろうな〜なんて暢気なことは、まったく言ってられない。
 
 「12秒経ったら、自分は死ぬ」
 
 そのような意識でいることが、普段あるだろうか?
 やはり、自分はまだまだ甘いところで生きているのだなと痛感させられる。
 
 
 もちろん、そのような状況の中であっても、最後まで生き残ることを考えなければならないのだが、死が遠くにある中でただ生きていることと、死を隣り合わせにした中で生き続けることでは、意味がまったく違っている。
 
 日本の中にいては、いきなり銃弾で死ぬ可能性は少ないかもしれないが、それ以外にも危険はいくらでもある。
 道を歩いていれば、車が突っ込んでくるかもしれない。火災や災害や事故、そういった危険は考えてみればいくらでもあるはずなのに、どうして我々の危険意識はここまで鈍くなってしまっているのだろうか。
 常に神経質になっている必要はないだろうが、そういった危険をリストアップしてみることで、少し意識が変わってくるように思う。
 
 小さな範囲で見れば身の回りの危険、大きな範囲で見れば、国家同士、世界規模で起きている情勢。そういったことに、もう少し意識を向けてみないといけないように感じる。
 世界の遠く見えないところで起きたことが、自分の意思決定にどれだけの影響力を与えているか。
 少し前だったらSFのような話だったのかもしれないが、現在では、そのことが現実的なこととして身近に感じられるはずである。
 
 自分がそうするべきだと思って決めたはずのことが、本当は別の人間によって決められた方向性だったとしたら、どう思うだろうか。誰だって気持ちのいいことではないはずだ。
 だが実際には、長年の教育を通して、培われた「空気」や常識によって、また、メディアの手法によって、そういったことがまかり通ってしまっているのがこの世界だ。
 
 まずはそういったことが実際にあると知り、世界と自分がどう関わっているのかを、自分の中に問う必要があるように感じる。
 そうすることで、本来の自分ということが活動をしはじめ、それが生き残ることにつながっていくのではないかと、そういう風に感じるのだ。
 

                                  (了)


disciples at 03:50コメント(18)今日も稽古で日が暮れる  

コメント一覧

1. Posted by たそがれの単身赴任者   2016年05月11日 10:31
僭越ながら失礼いたします。
ガンナーの死に直面するのは12秒という真実。旅客機事故発生が100万回に1回、スペースシャトルが100回に1回(打ち上げと帰還で大きな事故が起こる前まで?)等の、科学技術があれば危険はどんどん減少していくという安全神話に取り囲まれていた(思い込まされていた?)平和ボケの自分は愕然とします。
しかし、昨今の国内外のテロや自然災害の猛威を見るにつけ、中国周の時代の天が落ちてくることを心配するなんて「杞憂にすぎない」という言葉がもはや空々しく感じられる時代になってきました。「今ここに危機が存在する」という事を認識させていただいたCQC講習はとても有意義です。毎週楽しみな研修です。
師父の対複数の敵相手のの技術を拝見すると、このような、今ではほとんど伝承されていないほんとうの武術と、「はじめ」「それまで」で区切られる現代の武道の試合との違いに大きな隔たりを感じます。
 
2. Posted by 円山玄花   2016年05月14日 03:16
CQCの講習は、本当に勉強になりますね。
自分ひとりで勉強しようとしたって、なかなか出来ないような内容ばかりです。

参加者の人が話していましたが、巷で出回っている災害教本などには、主に一時的な避難や避難所で快適に過ごすための備えくらいしか書かれていないそうです。
それに対してCQC講習会では、自分ひとりで災害や危機を生き抜くための知恵や装備を細かく示してもらえるので、全く次元が違って感じる、と。
太極拳の指導が、単なる套路の動作を使った技の習得や護身術などには、全くならないということと共通していますね。

尚かつ、受け取る側も、教えられたことを受け取って終わりではなく、そこから自分で考えて工夫して、行動していくことが出来るわけですね。
もちろん、教わるだけで何もしないでいることも出来るわけですが、少なくとも、今回の講習を受けている人たちの、講習中のあの熱気を感じる限りは、そんな人はひとりもいないことでしょう。
この講習会を通じて、危機意識、危機管理の輪が大きく大きく広がっていってほしいと思います。


>常に神経質になっている必要はないだろうが・・

確かに、周りに対して神経質になっていると疲れてしまい、本末転倒ですが、
自分の鈍感さに対しては、いくら神経質になっても良いでしょうね。
 
3. Posted by マルコビッチ   2016年05月14日 11:32
太郎冠者さんと同じく、私もこの東海地方に住んでいながら、地震に対する備えや心構えはとても希薄だったと思います。
そしてどこかで、誰かが動いてくれてどうにかなる・・というような気持ちがあったことも否めません。
まだまだ私の中に、甘え、依存心(=人のせいにする)等の自立していない部分が多く残っているのだと、CQCの講習や、玄花さん、太郎冠者さんの記事を通してはっきりわかります。
ガンナーの12秒の話で思い出しましたが、以前話題になった、坂井三郎さんの「大空のサムライ」の中で、坂井さんによる空戦の描写が、読んでいると5分の出来事が1時間以上に感じていたのが印象に残っています。
常に意識と身体が働き続けている事、その間常に死と隣り合わせである事は、この平和ボケしている私には想像も出来ません。
その時の世の中の状況が人をそうさせているのかもしれません。それは反対の意味で、現代でも同じなのでしょうが・・
自分のおかれている状況をよく把握し、知識を広め、どこに危険が潜んでいるのか感じていかなければと思います。
 
4. Posted by ユーカリ   2016年05月15日 04:36
CQCの講習を受講することで、いかに周りやズルい自分に流されて過ごしてきたかが、浮き彫りにされました。

丁度、CQC講習が始まる直前に、隣の家で夜中の2時頃火事(ボヤ程度でしたが)がありました。広報放送やら消防車やらで騒がしい中、外を見ても火の手が見えなかったので、外に出て確認することもなく、再び布団にもぐりこんでしまった私。
一方、たまたま起きていて、隣が騒がしいと感じた夫は、放送より前に、隣の様子を見に行き、中から足の不自由なおじいさんを外に連れ出し、鎮火を見届け、家に戻って私たちに、「隣のボヤは無事鎮火しました!」と報告してくれました。

今考えると、冷や汗が噴き出します。
危機に直面した時、生き残れるか否かの差が歴然と出ていたわけです。
CQC講習を受ける事によって、太極拳で学んでいる事や学び方が、実際と結びつき、稽古に対する認識や、日常生活での心構えに変化が生まれたと感じます。が、まだまだ、災害などがきてしまったら、「まだちょっと来てもらっては困ります。」という状態なので、講習で学んだことを、実際に活かせるよう、復習・準備をしてゆきたいと思います。
毎月15日は、家族で防災について話し合うことにしたので、今日は先日教えて頂いた、準備するものや、実際に事が起こったら、まずどうするかを、話し合いたいと思います。
また今後は、日本・世界の動きについても、家族で日常の話題になるようになるといいなと思っています。
 
5. Posted by とび猿   2016年05月15日 09:01
今、CQC講習で学んでいることは多岐に渡わたりますが、全て他ではなかなか教わることができないものばかりで、講習を受けることで、自分の意識から変わっていくように感じます。
それと共に、こんなことも知らなかったのかと、愕然とすることもあります。
もし、ここで学んでいることを、義務教育で教わることができれば、日本人一人一人の意識も、今とは全く違ってくるのではないか、そして、それは何も特別なことではなく、本来は日本人であれば誰もが学ぶべきことではないかと思います。
 
6. Posted by ランフォリンクスの尾   2016年05月16日 21:49
少なくとも表面的には平和を享受している我々がいる一方で、死と隣り合わせで戦っている人たちがいる。意識しておきたいことですね。
私などはCQC講習の講義中に質問もとっさに思いつかないぐらいで、危機に対する心構えが如何にできていないのか思い知らされます。精進していきたいと思います。
 
7. Posted by まっつ   2016年05月18日 01:10
CQC講習を通して、
自分の中で「危機」に対する感度、
リアリティがより明確に形になる感覚があります。
先ず知る事が起点になるのだと再認識しました。
問題意識を持ち続ける事、感度を保ち続ける事が課題だと感じています。
その為にも日常に囚われない為の努力が必要なのだと思います。
動き続ける事は難しい・・・ですね。
 
8. Posted by bamboo   2016年05月21日 22:16
「プロですから…」
誰かの問いにそう答えることが近頃ずいぶんと増えました。これは間違いなく去年の忘年会…ではなくCQC特別講習が始まってからです。
思えば、“確実に生き残れる”ための稽古・訓練を積むという事は、できない場合まず「死」ですよね。そして動き続けられ生き残れるよう身につけるために最適な姿勢が門人規約やカレンダーに美しく紹介されている…。
危険に際したときも、柔らかで健やかで、戦略的で、笑いながら人を斬り、確実に生きて家に帰ってくる…(笑)
そういうひとに わたしはややなりたい です(笑)
 
9. Posted by タイ爺   2016年05月24日 17:06
CQC講習、うらやましい・・・・。
実際、その場になったら自分はどうするだろう?とはTVなどで災害や事故、もしくは通り魔などニュースを知ったときですね。故事に「男は敷居を跨げば七人の敵あり 」とあります。
平和ボケした現代人、いや日本人には難しい覚悟だと思います。
「備えあれば憂いなし」は物資だけではなく精神的な備えも必要ということだと思います。スゲー館は本当に理想的な訓練をさせて頂いているなと感じます。

10. Posted by 太郎冠者   2016年06月06日 21:33
☆たそがれの単身赴任者さん
返信遅くなり、すみませんでした(汗

ガンナーの12という危険指数は、ようはそれをもとに手当が支払われる、ということらしいです。
地獄の沙汰も金次第…とは言いますが(苦笑)
実際のところ、生活が苦しくて、安定した賃金を得るために軍隊にはいる人は世界中に多くいるようです。

そういった経済と軍事が果たして一体どういう仕組みになっているのかは以降の「龍の道」に期待。
といったところでしょうか。

CQCとは別に国際情勢講習でもひらいてもらいたいものですね!
 
11. Posted by 太郎冠者   2016年06月06日 21:40
☆玄花さん
震災に限らず、事故やテロなどは常にこちらの想定から外れたものがやってくるのですから、
それらに対応できる、何よりも心構えを持っていないといけないですよね。

CQC講習で教えられるのは、何かが起きたときの対策マニュアルではなくて、どのように考え、行動していったら良いかという内容なので、それこそあらゆることに応用が効くのだと思います。

そして仰る通り、使われている言葉が違っていても、それは即、太極拳に通じるものがあるように感じます。
でなければ、武藝館でやる必要がないですしね(笑)
これからもますます楽しみです。
 
12. Posted by 太郎冠者   2016年06月06日 21:59
☆マルコビッチさん
東海地方の人間に限らず、日本に住んでいる人は地震に慣れてしまっているというか、地震のないところに住んでいた人が大慌てするような震度でも、「なんだこのくらい」と思えるようです。
あわてないのは良いことなのかもしれないですが、では、いざそれより規模の大きいことが起きたらどうなるか?
というと、対応できるか疑問ではあります。

坂井さんの本は読んだことはないのですが、ジェット戦闘機のパイロットが書いた本を読んだことがあります。
それによると、戦闘機の戦いは「銃弾並みのスピードでお互いに飛びながら弾を当て合う」という、ふつうではまったく想像もつかない世界のようです。
そんなものにも対応できるのが人間の凄さだとも思うので、我々もあきらめずに鍛えていくしかないかなと、思いますね。
 
13. Posted by 太郎冠者   2016年06月06日 22:03
☆ユーカリさん
>隣の家で夜中の2時頃火事
それは貴重な経験でしたね。事の是非はともかく、ですが。
もしそれがCQC講習を受けた後だったら、おそらくもっと違った動きが出来たのではないでしょうか。

学習して生かしていくことが出来るのが人間の強みだと思うので、知っているのと知らないのでは、たとえそれが初めての経験だったとしても、違った行動が出来るのだと思います。
そうでなければ、勉強する意味もなくなってしまいますしね。

自分も、CQC講習を受けたことで、実際に家族と危機や災害に関して話をすることが多くなったと思います。

こうやって、良い影響が少しずつ広がっていけばいいと思います。
 
14. Posted by 太郎冠者   2016年06月06日 22:10
☆とび猿さん
災害に関しては、地震大国と言われているのにまったく準備が出来てなかったと思いますし、国際情勢に関しては、何も知らなかったと言っても過言ではないと思います。

認識の甘さというか、危機感の欠如でしょうか。

国際情勢と近接格闘になんの関係があるのかと、知らない人からすれば疑問に感じるかもしれませんね。
しかし、どういったことに意識が向いているか、いないか。
もし自分を狙ってくる人間がいるとすれば何が目的か、ということは、事の大小を問わず、同じ人間のやる行為として共通点があるのだと思います。

そこに通じれば、あらゆる事態に対して、備えることが出来る自分になれるのではないか、と思います。
まずは自分自身の精進あるべし、でしょうか。
 
15. Posted by 太郎冠者   2016年06月06日 22:15
☆ランフォリンクスの尾さん
この日本で暮らしていると、どうしても死が常にあるのだということを忘れてしまいがちになりますね。

平和ボケに生来のボケが重なって、よりボケボケになった自分がいまここにいるわけです。
それが悲しい現実です(泣)

>CQC講習の講義中に質問もとっさに思いつかない
あまり難しいことを考えずに、気になったことをぱっと聞いたらいいんじゃないかと思います。
あんまり的外れなことを質問しても、きっと発言禁止か出入禁止になるくらいだと思いますし(笑)

師父に「質問禁止」を言い渡されてもまったく気にせず発言する先輩門人もいるのですから、見習わないといけないですね。
…冗談です。
 
16. Posted by 太郎冠者   2016年06月06日 22:20
☆まっつさん
>日常に囚われない
朝起きて仕事に行き、夜になれば足しげく道場に通い、
夜中まで奇声を上げながら道場を走りまわる。

その後、疲れ果てた身体で家に帰り、短い睡眠をとればまた翌日の仕事がわんさか待っている。

週末になればお楽しみの稽古漬け、あっというまに時は過ぎ、気づけば馬車はもうカボチャに戻っている。

帰る時には「今日は比較的早いですね」
と時計は午前1時を指し示す。

嗚呼、研究会の日々。
嗚呼、研究会の日々。
充実した毎日を過ごす。
 
17. Posted by 太郎冠者   2016年06月06日 22:27
☆bambooさん
>笑いながら人を斬り
お別れのときは笑顔で見送りましょう〜、ってちょっと!
えがおは大事ですが、ときとばあいによりますよ!

冗談はさておき、極限状況でも落ち着いて対処出来る必要はあるでしょうね。

まぁ、戦闘狂になる必要はないと思いますが。

戦闘は、それ以外に対処する手がなくなった場合の、
「最後の手段」ですよ!
 
18. Posted by 太郎冠者   2016年06月06日 22:36
☆タイ爺さん
遠方から毎週のように参加している門人もいます。
自分など近くに住んでいるので、通うという点では大変楽をさせてもらっています。
遠方から通われている方たちがどのような気持ちで勉強しているか、近くで通えるという幸運を持っている自分などはもっとしっかりと勉強しなければならない、と気が引き締まりますね!

>「男は敷居を跨げば七人の敵あり 」
私の中には暴食、傲慢、嫉妬、強欲、怠惰、色欲、憤怒の七人の敵がいます。
ひとりひとりが一騎当千の実力を持ち、対処するのが非常に困難です。

これに打ち勝つことこそが、本当の修行だ!
と思いつつも、白旗を上げる毎日です。

戦略的撤退、というやつですよ?
 

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