2016年04月09日

練拳Diary #68「武術的な強さとは その12」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花



 今年に入ってからというもの、道場でもこのブログでも、「危機」に対する話題が多く取り上げられるようになりました。
 
 そしてその効果は思いのほか大きく、門人の皆さんの危機に対する意識はこれまでと比べて格段に上がり、今後起こり得る大小の危機に備えて、実際に行動を起こす人が増えてきました。

 その変容の様子を目の当たりにすると、自分を含めて、これまでの危機意識の低さが不思議に思えるほどですが、考えてみればそもそもの危機に対する認識が薄く漠然とした状態であり、その根本的な原因を探ってみれば、結局のところ「自分だけは大丈夫」という、全く以て根拠のない勝手な思い込みでしかなかったわけですから、意識の低さもある意味仕方のないことと思えます。

 私たちの意識の変容は何から始まったのかと言えば、それは「危機の認識」です。

 これまでは、目の前に身に迫る危険がないから「自分は大丈夫」だと思えた気がしていましたが、まさに気のせいで、本当は危機を危機として認識できていなかったのです。

 これは、視野を広げて「国家レベル」で見た場合にも、同様のことが言えると思います。
 若者から年配の方に至るまで、私たち国民は普段の生活の中で、一体どれ程の危機を認識し、危機感を感じ、それに対して備えているのでしょうか。

 もしも現在、自分に国民としての危機感がなかったとしたら、少しでも考えてみた方が良いでしょう。そして、仮に一切の国民的危機感がなかったとしても、危機について興味を持つ、考えてみる、そして自分の対応能力を知ろうとすることによって、必ず危機の認識が出てきます。

 危機に対する認識が深まるほどに、私たちはまるで危機感を持たないように導かれてきた気がしてなりません。

 できるだけ鈍く、温和で、細かいことに疑問を持たないような人間・・。

 スマートフォン片手に、自転車に乗って街を走る人々を見掛けるたびに、そんなことが頭をよぎります。

 
 私は武術を学ぶひとりとして、単に強くなるだけ、心身を鍛えるだけで満足しているようでは、はっきり言って無能だと思います。

 世の中には、あらゆる職業があり、専門家が居ますが、彼らが日々研究しているのは、ゆくゆくはその研究が社会のために、子孫のためになるようにと、その貢献のために行っているはずです。
 農家でも音楽家でも、画家だって、彼らは自分が描いた絵が社会に与える影響を、考えないはずはありません。皆、各々の分野でしか成し得ない何かしらの影響力を持ち、それが何かしらの形で社会への貢献へと繋がっているのだと思います。

 さて、武術家だけが持つ影響力や、社会に対してアプローチできることとは何かと考えた場合、やはり「危機に対する能力」というものが挙げられると思います。

 自分に対して厳しく、孤独と向かい合い、諦めることなく目標に向かって邁進する・・などということなら、どの分野の人でも同じことを言っています。

 武術家は、負けないこと、戦えること、生き残ることを学びます。
 スポーツ選手も戦います。けれど、自分と同じ種目をトレーニングしている、限定された人と競うのです。

 武術家は、相手を選べません。相手の持っている武器も、戦いが始まる時間も事前には分かりません。
 そう、さながら軍人のようでなければ、本当の危機を乗り越えられないのです。

 自衛隊は様々な職種に分けられていますが、たとえ音楽隊の人であっても、ライフルが撃てます。ライフルが撃てるようになって、それから音楽の練習に入るのです。

 日本の武術家は、全員銃を撃てるように訓練しておいた方がいい、とは言いませんし、この国では自衛隊にでも入らない限り難しいでしょう。
 けれども、危機に対応できるエキスパートとして日々稽古をし、自分たち以外の人々に、危機に対する考え方や心構え、実際の行動の起こし方などを伝えていくことはできます。

 私たちは、野菜の種蒔きの時期を知らないし、育て方も分かりません。けれど、種蒔きをしているときに、どのような心身の状態であればより危険を回避できるのかは、知っています。
 例えばそのように、敵に襲われたときの身の守り方や戦闘技術といった大仰なことではなく、誰にでも理解できて、誰にでも直ぐに実践することができるような、ほんのささやかなことでも良いのです。
 そのようなことの積み重ねによって、小さな子どもから老人まで、危機意識を持つことが出来るようになると思いますし、靴を正しく履く、安全に荷物を持つ、きちんと自転車に乗る、ということも、当たり前のこととして認識されていくのではないでしょうか。

 自分たちにしか出来ないことが、誰か他の人の役に立つ。
 人の役に立つことだと思えば、自分のやっていることに責任も出てくるし、より深く掘り下げる必要も、出てくるというものです。


 さて、またしても危機感の話で始まり、そして終わりそうですが、今回はもうひとつ、近頃感じている生き残るために必要な、大事なことを述べたいと思います。

 丈夫な身体を造り、心身を鍛え、頭の回転を良くしておくことの他に、忘れてはならない大事なこととは、心と身体のケアを怠らないことです。

 どのような機械も、車も、定期的にメンテナンスをしなければ直ぐにポンコツになってしまいます。
 人間の身体は、年齢に関係なく鍛えれば鍛えた分応えてくれるということですが、やはり正しくケアをしなければ、せっかくの鍛えた身体も一時的なものとなり、最悪の場合は、鍛えていたはずが壊してしまって使い物にならなくなります。

 身体を造るのには時間が掛かりますが、壊してしまうのは一瞬です。
 以前に稽古で打撲を負ったとき、それは全身に複数個所点在していたのですが、軽いものだからと甘く見て大した処置もせずにいたところ、次の日には身体が満足に動かなくなってしまい、結局回復して自分のトレーニングを再開できるまでに丸一週間掛かりました。
 自分でトレーニングメニューを組んで取り組んでいるときの一週間は、大きいです。

 新しい練功を教わったときに、それをひたすらやって没入したくなる気持ちは、よく分かります。そうすることで、鍛えている実感を得たり、充実感を得ることができますが、やはり、気持ちだけでは生き残れないのです。

 師父が稽古で常々仰るように、私たちは何ごとにも「知的に」取り組まないと、正しい成果も出せなくなってしまいます。

 プロのスポーツ選手でも、イチロー選手が学生の頃に、朝晩お父さんの手で足裏のマッサージをしてあげていたことは有名な話ですし、プロのアスリートほどトレーニングに掛けた時間と同じくらいの時間を使って身体をほぐし、整え、次のトレーニングに繋げています。

 ところが、格闘技や武術系の人たちから聞くお話は、大抵の場合が「稽古のやり過ぎで身体を壊した自慢話」なのです。
 套路のやりすぎで足がパンパンに腫れて歩けなくなったとか、肩を脱臼したとか、組手のやりすぎで血尿が出たとか、内容は様々でしたが、不思議とちょっと誇らしげに話をされるのが印象的でした。

 熱血精神で突っ走ることも大事ですが、プロ意識を持ってトレーニングに取り組むのであれば、負傷して動けない身体は何を意味しているのか、考える必要があります。
 そして、つまらない怪我や不調のためにトレーニングが中断されることがないように、日々のトレーニングの後には、必ず身体をニュートラルに戻すような気持ちで、疲労と筋肉の強張りを取ってあげることが大切です。

 トレーニングが「陽」なら、ケアすることは「陰」でしょうか。
 これをトレーニングとセットで行うか否かで、次の日の身体の状態が格段に違います。

 そして、身体のケアと同じように心のケアも大事です。
 これはよく見過ごされがちですが、鍛えるためのトレーニングが、何かしらの具合で少しずつ心のストレスになり、気がつかないうちに身体に支障をきたすことがあります。

 例えば、自分の組んだメニューをひたすらこなすことだけを考えてしまっている場合などは、徐々に効率が落ちてくることがあります。
 そのようなときには、勇気を出して一度頭を切り換え、大好きなお茶を飲んだり、音楽を奏でてみる、やったことのないレジャーに挑戦するなど、してみても良いかもしれません。

 動けるための身体を手に入れることは、単に身体に鞭打つことではなくて、鍛える中で自分を見つめ、自分自身と対話をすることだと思います。

 何れにしても、トレーニング中に何かしらの大きな不調が出てきた場合は「自己管理不十分」であることをよく理解して、トータルなトレーニングを行い、本当に生き残れる身体、使える頭を養いたいものです。

 
 少し前のことですが、稽古の対練中に、師父から「あとは度胸があればいいな」と言われたことがあります。
 日頃から臆病さを自覚している私は、咄嗟に「確かに、前へ出ていく度胸、尻込みしない度胸は足りないな」と考えました。
 ところが、一呼吸置いて師父が言われたのは、まるで私の心を見透かされたかのように、「常に柔らかい状態で居られる度胸だ」という言葉でした。

 自分が「強い度胸が足りない」と感じたこととは反対の「柔らかい状態でいられる度胸」だと仰ったのです。

 その瞬間、自分の中の力みが抜け落ちていくような感覚を覚えました。
 確かに、自分に足りないのは相手に対して強く在ることへの度胸ではなくて、どんな状況でも柔らかい状態でいられる度胸でした。

 この言葉は、戦闘に対する考え方、訓練に対する考え方を含めて、私に多くのことを教えてくれました。

 皆さんもぜひ、自分で考えてみて頂ければと思います。



                                 (つづく)

xuanhua at 23:57コメント(18)練拳 Diary | *#61〜#70 

コメント一覧

1. Posted by たそがれの単身赴任者   2016年04月13日 09:59
玄花先生のおっしゃるリスクマネージメントの第一今存在している「危機の認識」、これはとても大切なことですね。自分も人をお預かりする職業柄、危機というものには敏感ではありますが、その内容を日々アッブデートしていく教育が大切と感じております。せっかく職員で共有していた認識がいつのまにか薄くなっていくこと、ひとによって考え方、受け取り方がかわっていくことがとても怖いです。
今武藝館で行われているCQC講習は自分にとってそのアッブデートにとても大切なものです。
私の施設で月々行う避難訓練等の危機管理トレーニングも意識なくおこなっているうちに慣習化してしまうことで「私は危機を認識して適切に対応している」と思い込み、勘違いしているスキがあるかもしれません。
師父が套路の途中から動作を開始されるとき、私もその部分に入る前の動きをついさらっと流し、師父のご指摘でドキッとすることがあります。相手と対峙しているときにこのようなさらっと流すスキを作ることは致命的とがわかり、とても反省しております。
某格闘の大会で、審判の「待て」があったため構えを解き、相手の痛打をくらうことがあります。
トップの方が本来なら反則のこの打撃を「有効である」と判定されたことをみてさすがだなぁと思ったこともあります。
アメリカの原子力潜水艦の艦長の行う緊急事態訓練は3交代の乗組員のもっとも脆弱な時間帯に行われると聞きました。きっと交代勤務が終わったグループが深い眠りについた寝込みをおそわれるのでしょうね。某空手家にして作家の先生は「飛行機に乗ったら、いつもハイジャクされることを考えている」とおっしゃっていました。
管理者は国であれ、家族の長であれ、スキのないように、それでいて硬直していないファンソンしている状態が理想ですね。
日々これ危機管理精進でありますでしょう。
 
2. Posted by まっつ   2016年04月14日 00:26
自分も含めて現代日本人の危機感の不足とは、
あまりにも安全な社会(という幻想)を構築してしまったが故に、
肌感覚としてリアリティな危機を感じ取れなくなっている事なのだと感じています。
それでも暗い夜に向かって時代が動く兆しは感じられるようで、
貴重な今を無駄にする事なく、夜を越えられる備えを進めたいと思います。
 
3. Posted by 太郎冠者   2016年04月14日 19:57
CQC講習でも出てきましたが、人間は感情的な安心を求めてしまうイキモノなので、危機感をできれば感じずに過ごしていたいと思ってしまうのかもしれません。

ですが実際には、「幽霊の正体見たり・・・」というようにその危機というものがどういうものなのかを、ちゃんと知ることが出来れば、恐れることなく正しく対処出来るのだと思うようになりました。
本当に怖いのは、それが危険なものだと思って、目をつぶり耳をふさいで通り過ぎてしまうことのように感じます。

幽霊だと思っていたものが柳の木だったらまだいいですが、
本当は刃物を持った通り魔かもしれません。
目を瞑っていたらやられてしまうだけですが、ちゃんと目を開いていれば、どうしようか考えることは出来るはずです。

国家的な規模から個人的なちょっとした危機まで、やはり目を見開いて、しっかりと知ることが大切なのだと感じます。
やはり、サバイバルは正しい「知識」から、ということでしょうか。
 
4. Posted by マルコビッチ   2016年04月14日 22:11
若い頃のように、突っ走ったままでもへっちゃら!なんて時はとうの昔に過ぎ去った今、”心と身体のケア”は私にとって大変重要な問題です。
使った分だけほぐさなければ・・と思いつつ、疲れきって寝てしまうなんて事があり、「知的に」取り組むことが本当に難しいです。
自分を客観的にみて、自分自身の身体を作っていく事を楽しむような境地になりたいです。
 
5. Posted by ユーカリ   2016年04月14日 23:17
>誰か他の人の役に立つ。
目から鱗が落ちたような解放感がありました。
どこかで私は、太極拳を学んでいる事が、道場で学んでいる事が、日常と結びつかず、特別の事として捉え、隔たりを作り、心を閉ざしていたのだと再認識しました。

CQCを学び始め、危険はごく身近に存在し、それから逃げられないと観念した事で、太極拳が身近なものであり、もっと実際的で実践的なものなんだという意識の変化がありました。
危機に対する意識と認識を持ち、それに対して常に備え行動してゆくことで、自分が変わり、状況も変わってゆくのだろうと思います。また、常に自分を見つめる事の意味も変化し続けてゆくような気がしています。

頭も身体も、常に万全な状態で動けるよう整えておくことの重要性は痛感しており、以前より意識的に集中してメンテナンスができるようになりました。
只、自分ではやりきれず、治療院での治療なくしては元気でいられないので、本当に感謝しております。
ありがとうございます。

>「柔らかい状態でいられる度胸」
何故だか、涙が止まりません…。
何と頑なだったのだろうか。狭いところで肩肘を張っていたのだろうか。
この意味を、もっと深く豊かに感じられるよう精進したいと思います。
 
6. Posted by とび猿   2016年04月14日 23:21
亡くなる直前、最後の稽古でも、弟子を壁や床に叩き付け、圧倒的な実力で教え導いた達人の話は沢山残っています。
武藝に携わる者ならば、恐らく誰もが己の最後の瞬間まで動け、戦える身体と頭でありたいと望んでいると思います。
しかし、そのためにはどう考え、何を学び、磨いていかなければならないのか、トータルに学べる場がどれ程残っているのでしょうか。

危機意識の貧困さは私にとって大きな課題の一つですが、現実は、現在我々は、なかなか気付くことができないだけで、大きな危険の中で生きているのだと思います。
CQCの講習を通して、そのにぶい意識にも変化が感じられ、人間というものは良くも悪くも変わっていけるものなのだと思います。
これを機により成長し、また、それを分かち合い、しっかりとした行動をとれるようになっていきたいと思います。
 
7. Posted by ランフォリンクスの尾   2016年04月15日 18:28
面白い記事をありがとうございます.

昨夜熊本の地震ニュースを聞いて5年前に東北で被災したことを少し思い出しましたが,自分は危機に対する意識が少ないのだなぁと改めて認識しました.
CQCの講習をきっかけに,危機に対する意識を持てるようになろうと思います.

それからケアは大切ですよね.稽古後少しほぐすかどうかだけで,次の日の身体の状態が違う.入門前には思いもしなかったことの一つです.
 
8. Posted by bamboo   2016年04月16日 22:19
いつでも戦えること、効率の良いトレーニング、心身のケア…すべてが “負けないこと、戦えること、生き残ること” のために大切なことであり、そのプロとして“絶え間ない自己観照と細やかな修正”を大切にされていることが、“寛げること”にも通じてくるのですね。
硬い頭・硬い人・硬い発想…みなほぐれた柔らかい姿をお見せしたいです。とくに「ポンコツ」は、私にとって最大の危機といえそうです(苦笑)
 
9. Posted by タイ爺   2016年04月19日 17:07
映画「七人の侍」で千秋実演じる村田平八が途中で銃に撃たれ死にます。
大将島田勘兵衛と副将七郎治は戦いがし烈になる、これからが本当に必要な人材であった、と嘆きます。
ところが平八は武術に優れているわけではなく「剣の腕は"中の下"だが明朗快活で"苦しいときには重宝"」という理由でスカウトされた人物です。
どんな時も決して固くならないしなやかな体と頭が苦しい時にこそ必要ということでしょうか。
グラウディングのようなシンプルな対練でさえ、固めてしまう頭と体では実際の危機には対応は難しい。
かといって力を抜けばOKというほど単純でもない。放鬆と脱力は天と地ほど違いがあり、きちんと見極め稽古で放鬆を理解し実践をしてゆきたいと思います。
 
10. Posted by 円山玄花   2016年04月25日 19:05
☆たそがれの単身赴任者さん

日常生活に於ける、行動や考え方の習慣化ほど怖ろしいものはありませんね。
先の講習でも教わった通り、人は皆実際の安全よりも心理的な安心を求める生き物ですから、
避難訓練などが、単なる行事の一環に変わってしまうのも、無理のないことかと思います。

だからといって、そのままでは訓練の意味がありませんし、常時気を張り詰めていたら良いかというと、これもまた限界があります。
自己統御=セルフコントロールの範囲を、身体、心、意識にまで広げて、常に最善の状態でいられるように、日々をメモリの細かい状態で過ごすことが肝要かと思います。
 
11. Posted by 円山玄花   2016年04月25日 22:24
☆まっつさん

映画やアニメ、コミックスで、激しい戦闘シーンや銃撃戦を見せられていると、それこそが戦いであり、その規模が大きくなったものが国家間の戦争なのだと思い込まされてしまう、と私は思います。つまり、現状では戦争が始まっているなんてとても思えない、というわけです。

現在は、戦争どころか「第三次世界大戦」だと言われているのですから、私たちは危機を感じ取れなくなっていると言うよりは、感じないように仕向けられていると言った方が、適切かもしれません。
もっともっと、「敵を知り、己を知らなければ・・」と思います。
 
12. Posted by 円山玄花   2016年04月25日 22:37
☆太郎冠者さん

そうですね、確かにその危機を知ることが出来ればそれほど怖くはないと思うのですが、
最近の危機は、裏の裏、そのまたさらに裏があったりして、正しく把握することがとても
難しいですね。
多くの情報が溢れていても、また故意に流されていても、
自分が偏ることなく、無極の状態で臨みたい、と思います。
 
13. Posted by 円山玄花   2016年04月25日 23:28
☆マルコビッチさん

確かに、毎日酷使する自分の身体を、疲れ切った時にさらにケアできるか・・というのは、
余計に疲れそうで、難しいですね。

そのような状況下でも必要なこととして日々実践していくためには、トレーニングと同様に、
成果が感じられることが継続の秘訣です。
成果は、小さくても大きくても良いので、そのままにしてしまった日よりも、3分間マッサージをしてから寝た方が次の日に身体が軽かった、というような実感が大切なのです。
それを続けているうちに、ケアのための時間が長くなってくるかもしれませんよ。
 
14. Posted by 円山玄花   2016年04月26日 13:16
☆ユーカリさん

自分を鍛えることとケアすることの重要性に気づいてもらえたなら、嬉しいです。

身体と心のバランスは、本当に絶妙で難しいと思いますが、
バランスを取ろうとしても取れるものではなく、自分が開いている、オープンであるために、
バランスは取られるのだと思います。
太極拳と同じですね。
 
15. Posted by 円山玄花   2016年04月26日 13:23
☆とび猿さん

世の中には稽古やケンカでの怪我や故障を、
まるで勲章のように思う人もいるわけですから、面白いです。
動ける、戦える、生き残れることに対する考え方の違いなのだと思います。

各々の武術を学ぶ目的によって、育まれる意識も身体も変わってくるのだと思いますが、
記事にも書いたように、日本の武術家の方たちが大きな危機意識を持ったならば、
有事の際にはとても心強いことでしょうね。
 
16. Posted by 円山玄花   2016年04月26日 13:26
☆ランフォリンクスの尾さん

>地震ニュース

東北で被災した人が、今回の熊本でも被災したというお話を聞きましたが、
「ここは大丈夫だろう」という根拠のない思い込みから、一切の備えをしておらず、
酷い目に遭い、ずいぶん反省したということでした。

日々のケアも同じことが言えますね。
「今日は大丈夫」「この位なら、まだ平気」など、私たちは都合の良い方に理由をつけたがりますから、十分気をつけたいものです。

・・特に、20代と30代では、身体に溜まる疲労が桁違いですからね!
 
17. Posted by 円山玄花   2016年04月28日 01:16
☆bambooさん

武術的に隙の無い状態を考えたとき、
やはり無極、平常心というものを離れては考えられないと思います。
自分の状態で考えてみても、ギチギチに緊張して、常にアドレナリンが溢れているような状態では隙だらけだと思えますし、反対もまた然り、です。

自分にとってはまだまだ難しいのですが、
心身ともに偏りの無い状態、そして、偏りを感知することの出来る、
細かいメモリを持ちたいものだと思います。
 
18. Posted by 円山玄花   2016年04月28日 02:02
☆タイ爺さん

>苦しいときには重宝

これ、ものすごく大事なんですよね。
人間苦しいときには本性が表れるもので、助け合うよりも自分の身の安全を確保したくなります。
それは、たとえ軍隊といえども例外ではなく、極限の状態ではその人間が丸見えになるものだと、
先輩が言っていました。

そのようなときに、ジョークを飛ばしてみたり、仲間が元気になるようなことをしてくれる人は、本当にありがたいものです。
それも実力のうち、と言えばそれまでですが、どんな時でも仲間を気遣えて全体を把握できるような人は、たとえ射撃の腕がめっぽう悪くても、共に戦場に連れて行きたいと思えるものです。
 

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