2016年01月09日

練拳Diary #65「武術的な強さとは その9」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花



 戦いに於いて最も大事なことは、その場限りの勝ちを収めることではなく負けないこと、「生き残れること」である──────とは、前回述べてきました。

 生き残れること。
 このことについて改めて考えたとき、数年前と比べればよりリアルに感じられ、そして自分の内側から生じる、恐怖にも似た感覚が増していることに気がつきました。
 それは、ここにきてようやく生き残ることの大変さや、今生きていることの奇跡を実感しはじめたからかもしれません。

 稽古をしているときには、相手の倒し方を考えているよりも、どうしたら自分が生き残れるのかを念頭に置いている方が、よほど切迫した感覚になります。そして、自分の身体を統御できる割合もずいぶんと変わってくるから不思議です。

 武術の世界では、対複数での戦いを想定して稽古されるのが殆どだと思いますが、自分が複数の敵と対峙した際に、ひとりずつの倒し方を策する暇はなく、常に自分が動ける状態を保つことが重要になります。そのとき、自分の身体を統御できるか否かは、まさに生き残るための重要な鍵であると言えるのです。

 自己統御の難しさは、站椿功ひとつ、対人訓練ひとつ取り出してみても、すぐに実感することができます。
 自分の身体なのに、言うことを聞かない。思うように動かせない。
 そう感じたことがあるのは、私だけではないと思います。

 けれども、そこで悶々と考え込まずに、一歩離れてことの全体を観てみれば、自分の身体が言うことを聞かないのでは無く、実は自分のやりたいことが先にあること。
 身体を思うように動かせないのではなく、自分の思うように動きたいという思いがベースにあったということが分かると思います。
 そのような身体の状態に、いくら新しい命令を送ったところで、正しく動けるはずがないのです。

 教えられたことよりも、“自分のやりたいこと”があることに気がつけること。
 このことは、太極拳に限らず、日常生活に於いてもとても大事なことだと思います。
 
 それでは、どうしたらそのような「自分」に気がつくことができるのでしょうか。


 たとえば、油断や隙の無いように気を張っていても、緊張している状態ではやがて疲労してきます。これは、自分に対しても、相手に対してでも同じことです。

 反対に、自分探しの時間と称して部屋にアロマやお香を焚いて静かに目を瞑っていても、不意に雑念がドッと湧いてきて、しまいには頭が疲れて眠くなってくるのが関の山です。
 何より、限定された状況下でしか自分に気がつけないようでは、武術家としてどころか、普通の家庭生活でも難しいのではないでしょうか。


 緊張でも弛みでもない状態とは、何も特別なことではなく、日々の稽古で指導されている放鬆(ファンソン=fang-song)の状態です。

 そして、もうひとつ大事なことは、心の状態です。
 放鬆を正しく意識できるときというのは、当然心も静かに落ち着いていて、頭の中でもあれこれと考えていないときです。

 裏返せば、頭の中がいっぱいになるほど考えたり、何かの仕事に追われていたりする時には、放鬆するのはとても難しいということになります。

 特に、対人訓練では、相手にやられるかもしれないという恐怖と緊張がついて回ります。
 好きなように打ち合うよう指示される散手でもない限り、相手の仕掛けてくる攻撃も、パターンも、その速さまでもが予め決められているはずなのに、やはり、怖いのです。

 以前に、稽古中に師父から「お前は怖がっている」と指摘されたときには、自覚がありませんでした。ましてや恐がっているために身体が動かないなんて、どこをどう引っ繰り返しても、思い当たらなかったのです。

 けれども、結果として自分の身体は動かない。基本功で動いていたときの半分も動いていないのです。動きは相手よりも速くしたいし、そして強く動きたい。相手の攻撃を避けるつもりはなくても、足は避ける方向に動いている。
 私は、これらの現象を目の当たりにし、自分の中の恐怖と対峙することになりました。

 最も根底にあったのは、「自分は怖がっていてはいけない」という考えでした。
 その為に、自分に生じた恐怖を打ち消そうとして、「在り方」よりも「やり方」を選択していたのです。

 私に必要だったことは、まず恐怖を認めることでした。
 自分は、怖いのだと。
 人を、対練を、攻撃を、怖がっているのだと。
 そして、その恐怖は誰もが持っているということを、知ることでした。

 恐怖は自分だけの問題ではないということ。
 そのことを何となく実感出来たとき、自分の恐怖に対する緊張が、少し和らぎました。

 自分は恐怖を感じている。
 そして、それは自分だけではない。

 ・・たった、これだけのことです。

 自分が怖がっていることを認めてからは、むしろ恐怖という感情を当たり前のものとして受けとめるようになり、それに対して抗うことよりも、そこからどのようにして進めば良いのかに、意識が向かうようになりました。
 そうすると、不思議なことに恐怖はあっても、恐怖のために緊張することは少なくなり、緊張しても、それに対して不安になることがなくなったのです。

 本当の問題は、恐怖そのものではなく、恐怖に対する自分の状態にありました。
 こうしてひとつの問題が解決すると、抱えていた諸々の問題にも、解決の糸口が見えてきたのです。

 自分以下でも自分以上でもない、ありのままの自分と向き合うことは、緊張も弛みも関係なく、また感情の起伏があっても、動じることのない状態を生み出してくれました。
 そしてその状態によって、より一層、自分に訪れる変化を客観的に見られるようになってきたのです。

 それを、「平常心」と呼ぶには少々おこがましいかも知れませんが、自分を知り、自分に気がつくためには、必要不可欠な要素であると思います。

 
 放鬆と平常心。
 実際に、この2つを意識することによって、自分の中にさまざまな変化が起こるようになりました。
 その中のひとつに発想の転換があります。

 太極武藝館で学ぶ誰もが知る通り、私たちが学んでいる太極拳の学習方法は、とても科学的な方法で展開されています。

 まず、太極拳はどのようなものであるかという定義があります。
 それは例えば、「太極拳は纏絲の法である」とか「四両撥千斤」などの、陳鑫老師が残された、太極拳を学んでいる人なら誰でも知っているだろうことばかりです。
 そして、これもまた誰でも知っている、改めて証明する必要のない、ヒトの仕組みが示されます。
 さらに、その定義と仕組みを使って様々な角度から検証し、「勁力」や「虚実」というものが証明されていくのです。

 一切の曖昧さが排されたこの学習方法は、すべての学問に共通するところがあると言えるでしょう。

 たとえば数学でも、一個の問いに対する答えの導き方は一通りではありません。
 公式を当てはめる、図に表してみる、表した図の中身を変えずに変形させてみるなど、様々な方法が挙げられます。
 学生時代に数学が苦手だった私も、数字の代わりに絵(点や丸、線など)を描き、幾何学的に展開することで、ようやく解いていく面白さを実感できたものです。

 太極拳の学習でも、同じことなのです。
 特に対人訓練では、相手を倒すことではなく自分の在り方を観るように指導され、倒し方ではなく考え方を理解するように言われます。
 
 目の前で人が軽々と吹っ飛んでいくときに、見なければならないのは吹っ飛ばし方ではないと言われるので、さてそこで何が見えるのかと言えば、身体の整え方と相手との関係性に他なりません。

 ここで、発想の転換がとても役に立ちます。
 たとえば、平面的にしか見られなかった関わりを立体的に見ることができたり、自分と相手との間にしか関係性を見出せなかったところから、さらに範囲を広げることができるのです。

 また、言葉で説明されたことを絵に描いてみることも増えました。
 上手い下手はともかく、或いは第三者にそれを見せただけで正しく伝わるかというと、まだまだ模索が始まったばかりなので、課題は山積みです。

 けれども、この目に不思議に映ることを様々な方法で表し、解いていく面白さは、一度味わうとやめられません。

 太極拳の学習や研究にあたり、科学的な態度で臨むということについては、この記事のタイトルからは少し外れてしまうので、また改めて書く機会を持てればと思います。



                                 (つづく)

xuanhua at 12:05コメント(16)練拳 Diary | *#61〜#70 

コメント一覧

1. Posted by マルコビッチ   2016年01月14日 20:45
この記事を拝読し、改めて自分の中の恐怖心を考えました。
明らかに存在する恐怖心に対して、他の事で紛らわし、見ないようにしていました。言葉をかえれば、無意識でした。
若い頃に、「死」ということを考えて、怖くなり考えるのを止めてしまったように、自分の中の恐怖心と向かい合おうとはしていませんでした。
稽古において、緊張で身体を固め動けないことなどを思うと、自分の中のいろいろな問題に気づき、積極的に解決していこうとする姿勢を持たなければ、永遠に放鬆は解らないと強く思いました。
 
2. Posted by まっつ   2016年01月14日 22:01
放鬆の実践と心の状態には大きな相関があり、
その問題に向き合い、整える事こそが大きな課題と感じています。
自分と向き合う事、そして離れる事自体が極めて難しく、
解決できていない問題を幾度も繰り返してしまいます。
問題と向き合う事、同時に離れる事、精進したいと思います。
 
3. Posted by ichi   2016年01月14日 22:44
以前やっていた空手の試合の時に、緊張で体が固くなり普段の組手の半分も動けなかった時の事を思い出しました。
今、思い返すと自分の中の恐怖に対してきちんと向き合えていなかったからだと思います。
まずは恐怖と向き合ってそれを認める事。
それは稽古の中で、師父や他の方の指摘を素直に受け入れ、駄目な自分を認める事。
そして、そこからしか理解し成長していく事が出来ない事と同じではないかと思いました。
 
4. Posted by ユーカリ   2016年01月14日 22:49
私は、自分以上か自分以下の自分を求める傾向にあるのかな、とこの記事を拝読して思いました。
その為に、気負いすぎて緊張したり、弛んでしまったりを繰り返しているのではないかと思うのです。結局、まだ本来の自分を見たくない、見られたくない気持ちが強いので、現実から遠のいて自分の理想と思う世界に踏み込んでしまっていたのです。

先日、次女と一輪車の練習をしました。
気合十分な私でしたが、どうしても左に漕ぎ進んでしまい、まっすぐ進めません。
そこで一言「お母さん、心をま〜っすぐにしてぇ(^v^)もっと動く。」
どんなふうにやっているのかな?と自分を観察するのではなく、たくさん乗ってやろう!という気持ち満々だったのでバキバキに傾いて固まった心が、身体に滲み出てしまっていたのだろうと、苦笑しました。

常々「感情の起伏をどのように対処したらいいのだろう?」と悩んでいたのですが、その起伏を見つめ続けてみようと思います。見つめ続けられない状態も受け入れたいです。
ありがとうございます。
 
5. Posted by とび猿   2016年01月14日 23:34
人はつい、自分の見たいように見て、考えたいように考え、やりたいようにやってしまう性質を持っているように思います。
太極武藝館の太極拳のように、はっきりとした指標があると、その自分勝手な拘りがはっきりしてきます。
そして、それまで自分が大切に思えてきたものが、あまりにちっぽけで下らないものであったと気が付くことができた瞬間から、まるで世界が広がったかのように感じ(実際は自分が勝手に自分の世界に閉じこもっていただけですが)、動きも発想も格段に広がっていく
ことを、何度も体験しました。

今でも事あるごとに様々な拘りが出てきますが、「ああ、今、自分はこんなことに囚われている」と気付くことが、以前よりははっきりと感じられるようになったと思います。
このことは、自分にとって、大変大きな収穫だと思っています。

生き残っていくには、沢山の知識が必要であり、また、その知識が大きな力となっていくと思いますが、まず、自分の状態に気が付くことが出来なければ、折角の知識も役には立たないと感じています。
 
6. Posted by 太郎冠者   2016年01月14日 23:45
先日の稽古で、師父が恐怖についてお話されていたことが印象に残っています。

恐怖することは、人間にとっては必要なことなのだと思います。
人間がもし恐怖を知らない生き物だったとしたら、と考えると、
恐らく自然界の脅威の中で、たちどころにほろんでしまう弱い生き物だったに違いない、と思います。

物事に対してきちんと恐怖をおぼえ、それに対して正しく対処出来るからこそ、こうしてここまで生き延びてくることが出来たのではないか、と感じるのです。

誰も彼もが恐れ知らずで相手に挑んでいては、自分より強い動物には簡単にやられてしまったはずです。

やられてしまう、自分は弱い生き物だと知っているからこそ、より頭を使って、創意工夫し、
結果的に相手を制することが出来たのではないでしょうか。

稽古の中でさえ、敵に迫られてしまうととたんに動けなくなってしまいます。
人間とは、本当に脆いモノなのだと感じさせられてしまいますね。
 
7. Posted by さすらいの単身赴任者   2016年01月16日 12:36
拝読させていただき、まさに自分の心の中にある稽古を阻害する内なる「抵抗勢力」というべきものが明確になります。太極拳はとてもとてもピュアなものであり、その「剄力」は怒り、痛みに対する反発、力への対抗によってうみだされるチカラでは無い。感情、激情等の負の因子によって誘発されるものではない。謙虚で自由に開放された心身ではじめて体現できるものと思います。職業柄(いつもの言い訳です)雑念をまとわりつかせ、ひきずって、ぶらさげて道場にきて、稽古で浄化されて帰途につく。私のような年齢のものには至福の時であります。
恐れ、反射による過剰反応、本能、他武術のくせ、そういったものを捨て去るのでなく、コントロールできることが稽古の目標であり、条件であると心しなくてはいけませんね。
 
8. Posted by タイ爺   2016年01月19日 11:49
以前に1人対多人数というのを体験させていただきました。
対練は一人でも大変なのに対人数ともなると全く体が動かなくなった記憶があります。
今思えば「うまく動いてやろう、上手にさばいてやろう」と思考し、その思考にがんじがらめになって居たのだろうと思います。当然、相手はこちらの思考通りには掛って来てはくれず、自分は意図せぬ動きをせねばならずだんだん追い詰められていきます。
稽古では「もっと体が使われて様に、もっと動かして」と指導されますが、まさしく基本功で動かない体は対練でも動くはずもなく稽古全般にもっと自分の在り方に意識を集中して取り組まねばと強く感じました。
 
9. Posted by 円山玄花   2016年01月19日 17:04
☆マルコビッチさん

恐怖って、嫌なものですよね。
恐怖心を覚えただけで、頭も身体も動かなくなり、無意識のうちに、周りに対して関わりをシャットアウトしようとする働きが出てくる・・と私は感じています。

けれど、“幽霊の正体見たり・・”ではありませんが、自分が何ゆえに恐怖を感じるのか、
その理由が理解できたり、自分が訳も分からないのに怖がっていることを認識できると、
恐怖心に惑わされることがなくなることに気がつきました。
恐怖心はなくならないのですけれども、それを統御できるようになる感じでしょうか。

やはり、自分の身体や心、そして意識に至るまで、正しい知識を身につけ、自分自身を見続けることが大切なのだと思います。
 
10. Posted by 円山玄花   2016年01月19日 17:14
☆まっつさん

私の経験から述べさせて頂くと、「自己」から離れられないと、自分と向き合うことはできないと思います。

日頃の生活の中で他人が言った言葉に対して、そのことを100%受け取れるかどうか、
そんなところでも、自分の覚悟・・本当に自分の抱える問題を解決したいのかどうか、が問われるものです。

問題は繰り返してしまうことではなく、その都度自分自身に気づいていたかどうか、なのだと思います。そして、それが可能になるのは、自分の人生の大いなる目標が明確になったときなのだと、私は思います。
 
11. Posted by 円山玄花   2016年01月19日 17:24
☆ichi さん

人間の頭の中って、本当に面白いもので、都合の悪いことは、見ない・聞かない・知らない振りをしてしまうし、都合の良いことなら、嘘でも何でも作り出してしまいます。
面白いというよりは、どうしようもないとも思いますけれど、きっと人類に与えられた課題なのだと、腹を括るしかないですね。

自分の中の恐怖についても、それを誤魔化さずに認めることで、実はほんのささやかな原因で大きな恐怖心になっていたことが、分かります。もちろん、そればかりではないと思いますけれども。
 
12. Posted by 円山玄花   2016年01月19日 17:32
☆ユーカリさん

子どもは、本当にたくさんのことを教えてくれますね。
けれども、最近、子どもに限らず自分の周りにいる人達から、ずいぶんたくさんのことを勉強させてもらっていることに気がつきました。今までは、自分で勉強の機会を拒否していたのかも知れないと思います。

人が皆そうなのかどうかは分かりませんが、自分のことを知る前に、自分の理想像のようなものがあると、ものごとを理解したり自分を見つめていくことが、とても難しくなります。
本当に「自分はこうだよな」ということが飲み込めれば、「これではダメだよな」ということが
生まれてくると思います。
 
13. Posted by 円山玄花   2016年01月19日 17:38
☆とび猿さん

「自分勝手」もまた、気がつきにくい性質のひとつですね。
「恐怖」と同じく、注意深くないと知らない間に自分を拘束していることになります。

自分勝手の怖ろしさが身に染みると、自分で戒めるようになりますが、
そうでもない限り、やはり都合の良い方を選択してしまうのだと思います。
本当に人間とは、勝手な生き物ですね。
 
14. Posted by 円山玄花   2016年01月19日 17:46
☆太郎冠者さん

>恐怖することは、人間にとっては必要なこと

そうなんですよね。
恐怖があるからこそ、人との関わりも勉強の仕方も、自分の在り方も、より繊細であろうとすることができます。
だから、恐怖は取り除くことができない。
ところが、人はそのことにさえ恐怖を覚えて、恐怖をなかったことにしてしまうわけですね。
それこそ、本当の弱虫が取る方法だと思います。・・自分もそうでしたけれども。

後は、自分と向き合う覚悟、本当に強くなることとはどういうことであるのかを理解する覚悟が必要なのだと思います。
 
15. Posted by 円山玄花   2016年01月20日 13:04
☆さすらいの単身赴任者さん

>太極拳はピュアなもの

佳い言葉ですね。
その太極拳は、生存を懸けての戦い・殺し合いの渾沌の中で育まれ、磨かれてきたはずです。
そしてそれが、学問・芸術の域にまで達せられ、現在の私たちが学ぶことができる。
そう考えると、やはり現代の日本で学ぶ機会を与えられた意義を、感じざるを得ません。

どの様な分野の学問でも仕事でも、取り組む人次第で自分と向かい合わされ、取り組むべきはその対象ではなく、自分自身であると気がつかされるのだと思いますが、武術という生命の本能に関わることの前では、本気で取り組むほどに完膚無きまで自己を叩き潰され、生命とは何であるのかを、その根源を教えてくれるような気がします。
現代では貴重な、有り難いことだと思います。
 
16. Posted by 円山玄花   2016年01月20日 13:08
☆タイ爺さん

仰る通り、基本功で動かない身体は対練でも動きませんし、稽古で動かない身体は、実戦ではもっと動かないのですよね。
そして、実戦とは、何も路上で襲われた時だけを指すのではなく、自然災害その他の危機全般をさしている、とは、ずっと師父に言われていることです。

本当に動けることは何であるのか、どのような状態を指しているのか。
私たちはそれさえも思い込みや先入観をやめて、勉強しなければなりませんね。
 

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