2015年12月23日

門人随想 「今日も稽古で日が暮れる」 その28

   「 ワイルドに生き残ろう!」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



野生の証明…?
 
闘争とはすなわち、生き残ることであり、戦いとはまさにサバイバルである。
そうした観点から見てみると、いかに現代の日本人が安全という幻想に包まれ、生存闘争とはかけ離れた生活をしていることか。
 
 
生存において、生き残るために何より必要なのは食糧の確保である。この現代日本においては、少し腹が減れば「ちょっとコンビニへ行こうかな」などとと安易な発想で乗り切ることができる。
こんなことでは、過酷な自然環境では生き残ることが出来ないのではないだろうか。
 
ではここで、人類よりよっぽどワイルドに生きているはずの、チンパンジーの一日の生活を追ってみることにしよう。
 
さぞかし、過酷な環境を自身の野性味によって乗り切っているに違いない。
 
 
 
野生を証明してみせよう
 
チンパンジーの一日の生活はこうだ。
 

ひたすら食べる、仲間と交流する、寝る。以上。

 
ずいぶんと野性的ではないか。まさに本能による行動。仲間と毛づくろいをしたり、
群れを作って行動しているあたりに社会性の片りんが見られる気もする。
 
…冗談はさておき、チンパンジーの生活などこんなもんである。馬鹿にしているわけではなくて、人間と複雑さのレベルにおいて違いが出てくるのはしょうがない。そもそもどれだけ人間がワイルドになって野生にかえっても、チンパンジーとは身体構造上の違いから、どうあがいたって彼らと同じような生活は出来ないのである。
 
悲しくも、それが現実だ。え、悲しくない? あ、そうですか。
 
チンパンジーとヒトではそもそも身体の作りが違うので、その生活様式も異なって当然だ。
チンパンジーとヒトの共通祖先から進化が枝分かれしたのは、もう何百万年も前だが、その構造上決定的な違いとなったのは、我々人類の先祖は直立二足歩行に適した身体になっていったが、チンパンジーはそうはならなかったことだ。
 
チンパンジーはもっぱら熟した果実を食べ、ほとんどを樹上で生活している。
移動は樹から樹へと枝渡り(ブラキエーション)をするか、地面を拳を着いて四足で歩いている(ナックルウォーキング)か、二本足でよたよたと歩くかしている。
 
人間の行う二足歩行というのは四足歩行に比べて、エネルギーの効率がいい。
 
チンパンジーの一日の移動距離がどれくらいかご存じだろうか。
彼らは一日に、2〜3キロメートルしか移動しない。
エネルギー効率が悪すぎて、それくらいしか移動できないのだ。
 
世の中には物好き…好奇心旺盛な人がいて、チンパンジーに酸素マスクを着けて、ルームランナーを歩かせる実験をした科学者がいる。
 
すると、その消費エネルギーは人間が同じ距離を歩いた場合の四倍にも達したという。
 
チンパンジーが2〜4キロ歩くエネルギーで、人間は8〜16キロ歩けるということになる。
 
悲しいかな、チンパンジーの場合、「ちょっとコンビニ行ってくる」でさえ、一日の労力の大半をつぎ込む壮大な仕事になりかねないのである。
 
そもそも彼らの場合、食べ物はそこらじゅうにある。自分がいる樹に果実がなくなればとなりの樹に移り、どうしても無ければ植物の茎や葉や根などを食べ、昆虫がいたら食べ、たまにはみんなで狩りでもしちゃう? といった具合だ。
 
極端な話、ヘンゼルとグレーテルのお菓子の家ではないが、食べられるものの上に住んでいるともいえるので、そもそも移動する必要性がほとんどないのだ。
ただ、野生の食物は繊維が硬く栄養が少なく、ひたすら噛んでいる必要があるし、たくさん食べなければならない。
 
消化に悪いものをひたすら一日中食べ続ける生活。たしかに野性的、か?
 
 
エネルギー効率の良さ
 
さて、武術修行者にとって興味深いのは、二足歩行と四足歩行のエネルギー効率の違いという点ではないだろうか(自分だけか?)。
 
とくに太極拳を修行する人間にとっては、いかに力を使わずに戦うかという点において、非常に示唆的なものが含まれているように感じる。
 
二足歩行に適した身体に進化した人間は、四足歩行のままのチンパンジーに比べて、力や瞬発力という点で明らかに劣っている。
パワーもスピードも、オリンピック級の超人の倍くらいの能力を、特に鍛えていないチンパンジーが出せるのである。
同じことで勝負しようとするのはあまりに馬鹿げているではないか。
 
チンパンジーとヒトの違いは、チンパンジーは直立出来ないという点にある。
まっすぐに立てないために、四つ足と二本足どちらも、歩く時には筋肉で体を支え続けなければならない。
 
おもにつかわれるのが背中や腰と、あとは蹴り足として使われる大腿部の筋肉だ。
 
人間はしっかりまっすぐ立てば、それだけで無駄な筋肉を使わずに立つことが出来るのだ。
 
もうピンと来た人がいるかもしれない。
太極武藝館では、大腿四頭筋で蹴らない、落下しないということを注意される。
それらの動きは、進化したヒトが獲得した動きというよりも、むしろ四足動物の持つ構造に近いものなのだ。
我々が進化する上で手放した構造を、わざわざ再び手に入れようとするのは、進化の方向性に反したことに思われる。
 
格闘技の試合が1ラウンドごとに休憩をはさむのも、そこで使われている動きが、そもそも効率の悪い動きだからだ。
 
太極武藝館の稽古では、休むことなく数十分も動き続ける。
特に研究会の散手では、師父一人相手に、年齢の若い門人が数人がかりで掛っていくのに、我々は汗だくで息も切れているのに、師父はまったく疲れた様子が見えない。
 
エネルギー効率の良い動きの出来る身体構造に向かった進化の方向性が、正しく整えられた人間としての本来の在り方に宿っているという、まさに証明といえるのではないだろうか。
 
ウルトラマラソンという競技では200キロもの距離を人間は走破し、一日百マイル(約160キロメートル)を数日間走り続けることが出来る。
そして、その能力によってヒトは野生動物を仕留める。
軍隊では数十キロの荷物を背負って数十キロの距離を行軍し、さらに敵地に到達してからはそこから戦闘を始める。
 
これだけのことが出来る生き物は、地球上に他に存在しない。
 
その始まりは、はるか昔、人類とチンパンジーの共通祖先が、まったく違った環境に置かれたことから始まった。
 
地球規模で環境が変化する中、チンパンジーの祖先は、森が豊かで、それまでの生活が続けられる環境に取り残され、何百万年も変化することなく居続けられた。
 
かたや、我々の祖先は、生活の場であった森が減少し、広大な荒野という辺縁に取り残されてしまう。
我々の祖先が選んだのは、森に戻ることではなく、目の前に広がる荒野を開拓し、新たなフロンティアを目指すことだった。
そのためには、効率の良い移動手段が必要不可欠であり、新しいことへと向かっていくその精神もまた、それらの原動力となったのだった。
我々人類とは、同じところでとどまってはいられない生物なのだ。だからこそ今、地球を超え、宇宙へとまで進出するにいたったのだ。
 
 
戦いを求めて…?
 
二足歩行を行うようになって前足が解放され、手と進化した人類は、さらに脳の進化が促されることによって、地球上類を見ない征服者となった。
 
面白いのは、人類がこれだけ発展するためにとった戦略が、血のつながらない他者と協力するというところにあった点だ。
太極拳もまた、向かってくる相手を制するために、その相手そのものの協力を必要とする。
自分を害するために向かってくる相手と和合することによって相手を制するとは、いかなる発想がそれを生んだのだろう。
何よりも、それを理念とするのではなく、実際的な技術として昇華させてきたその歴史に、驚きを禁じえない。
 
ヒトがヒトを敵とみなすのは、相手が別のグループに属していると判断した場合に限る。
自分の仲間ではない=自分と敵対する可能性がある、と、実に分かりやすい構図だ。
 
初期のホモ・サピエンスが地球上に広まり始めた当初、人類に人類同士の争いの跡がほとんど見られないのは単純な理由で、周囲に敵対するグループがいなかったからだ。
自分の回りにいるのは仲間ばかり。殴る相手を求めて数百キロも命をかけて歩いていく物好きはそうそういなかったに違いない。
 
イタリア半島くらいの広さの中に自分ひとりしか人間がいない、というくらいの人口密度の中で、せっかく見つけた隣人に問答無用で挑みかかる人間がどれほどいるだろうか。
 
その時代を生きた人間にとって、戦いとは生き残ることであり、生活そのものに深く根付いていたに違いない。
そしてその中には、他者を制するための戦いはほとんど含まれていなかったはずだ。
他者とは、協力すべき相手であり、仲間であった。
 
他人とは自分と似たものであり、他人を知るためには、自分を知る必要があった。自分を通じて、自分と似た他人を知ることが出来たのが、人類が他者と協力できた最大の理由だからだ。
 
助け合いの中で、相手を利することは自分を利することだった。
そして、いざ争いになったとき、相手を制することとは、すなわち自分を制することだったに違いない。
 
この精神は、人間としての正しい在り方、整え方を追求する太極拳の中にもしっかりと存在している。
 
人間が人間になったときから、生きる上で興味の対象に自分が含まれ、そして他者が含まれるようになった。
人間が増え、他者とのかかわりが増え、そこで争いが生じるのはある意味仕方のないことともいえる。
 
人間にとっての野生とは、いかにもな自然の環境に還ることではないと思う。
いままさにこうして生きているこの環境そのものが、実は人間にとって姿を変えた野生なのだ。
 
即座に命を奪うものも回りにはあふれているが、種としての時間の短さから、人間の遺伝的本能はその危険性に気づいていない。
また、慢性的にゆっくりと命を奪っていくような危険も同時にあふれているのだが、そのことにも多くの人は気付いていない。
 
太極武藝館で指導されている内容が、ただ敵と戦うための技術に終始するわけではない理由もそこにあるのではないか。
生き物にとって、生きることが戦いであり、生き残ることが勝つことだとすれば、いま生きている環境を知り、自分自身を知ることが、勝利への絶対条件と言える。
そのためにはただの方法論でなく、精神や志、魂といったものが必要になってくる。
 
君子危うきに近寄らず―
 
だが、真の戦士は、己や仲間を守るためならば、喜んで死地に赴く。
 
それは敵を屠ることに喜びを覚えているわけでもなく、征服したいわけでもない。
そうしたものが、ただ敵にやられない技術のために生じてくるものだろうか?
 
そうは思わない。
 
まずは絶対的なスピリットがあってこそ、そこから、生き残るために必要な技術は生じてくるのだ。
生き残るための戦いは、全体性の中にある。
それになるためには、やはり自らが全体性の中に没入しなければ不可能なように感じる。
 
あらゆる環境の中に「生きる」自分。
 
それこそが、まさに野生としての在り方ではないだろうか。
 
                               
                                  (了)

disciples at 21:20コメント(16)今日も稽古で日が暮れる  

コメント一覧

1. Posted by 円山玄花   2015年12月28日 16:44
チンパンジーとヒトの違い、とても面白く読ませて頂きました。
昔に、遠い南の島の楽園生活を夢見たことがありますが、
今考えてみると、チンパンジーと大差ありませんね。
しかも、身体構造上それが不可能だとは・・。
様々な可能性が見えてきた現在は、人間に生まれて良かったと思います。
もちろん、チンパンジーにはチンパンジーの悩みがあるのでしょうけれども。

私たちはすでに野生であり、その鈍りきった感覚を磨くことはできても、
野生を付け足すように身につけていくことは出来ないのでしょう。
ありとあらゆる状況で、人の生死を分けるものは何であるのか。
答えは、自分自身を見つめることでしか分からないのだと思います。
 
2. Posted by たそがれの単身赴任者   2015年12月28日 18:13
とても「人間の機能」について考えさせられるお話でした。ハイブリッドカーのように非常にエネルギー効率の良い肉体を手に入れた人間は、その余力を知能の進化に振り向け、その代償として原始的な「野生」を失っていったこと。
仕事柄、12〜13人の0歳児の歩行を見ていると、ふにゃふにゃの足で見事に立ち、腰がしっかりと開かれた状態で2足歩行して歩いています。武藝館のホームページにあるように「うむ、これが無極か?」と思っております。これがチンパンジーから分かれた、人間のご先祖の歩法ではないか?しかし2歳ころになるとその歩法は跡形もなくなり、蹴りと落下の歩法へと変化していきます。これを「しっかり歩けるようになったねぇ。」「力強いねぇ。」と大人たちはほめます。
しかし彼らの力の出し方はまだ「腰をひねることにより出す力」ではありません。ここではご先祖の痕跡が残っているのではと感じます。5歳児2人に私が相撲で押されると、その爆発的力(腕も足も細いのにもかかわらず)は侮り難いものがあります。
卒園して小学校4年生でかなり太めになった男の子と押し相撲をした時、その力は、意外と御しやすいものでした。「先生ともいい勝負をする。」というその力は5歳児のそれとは違って、意外にも耐えられるものでした。人間はご先祖の進化過程を足早に通り過ぎて現代の人間となるのでしょうか。師父が稽古でおっしゃられた150馬力の骨太フレームのアルファロメオはこの5歳までの進化過程と同じなのではないのか?やわいフレームの現代の車はこのスポーツカーのご先祖に太刀打ちできない。
師父のおっしゃるように太極拳はこのご先祖のフレームのあり方へと私たちをいざなうものと認識しております。
我田引水の文章、失礼いたしました。
 
3. Posted by まっつ   2015年12月28日 21:20
未開拓の土地や、概念空間、心的領域に至るまで、
およそ未知のフロンティアを志向し続ける人類の性向には、
確かに無意識的、本能的なサバイバルへの傾向が見られます。

それら全ては種や集団が生き残っていく為に、
必要な空間を広げる事に繋がっていると見えます。

確かに人類の持つ生来的な開拓者の本能も、
「野生」と表現できるのかもしれないと思いました。
 
4. Posted by とび猿   2015年12月28日 21:46
武術の稽古は大きな喜びもありますが、やはり、厳しいものであると思います。
せっかく志を立てたとしても、その厳しさに耐えられず、離れていく者もいると思います。
片や、厳しい中でも諦めず稽古を続け、成長していく人もいます。
この違いは、己を観ることができるか、己に問い掛けることができるかということが大きいと思います。
そして、この貴重な時間を共有し、共に切磋琢磨する仲間との絆は強いものであると感じられます。

先日の忘年会も、遠方からも沢山の門人が集まりましたが、性別も年代も、距離や会っていなかった期間も関係なく、楽しく有意義な時間を共有することができました。
これもひとつの人の営みの形であり、その中で、個人の成長も、集団としての発展も生じてくると感じました。

これも人間にとっての野生というものの姿のひとつですかね。
 
5. Posted by マルコビッチ   2015年12月28日 22:09
ちょっと歩いたら息が切れ、脳の進化も中途半端のような状態ではせっかく二足歩行になった甲斐がないというものですね(笑)
完璧なヒトになれるよう精進するのみですね。

人は他者には興味を持ちますが、なかなか自分に興味を持てないように思います。
もっと自分に興味を持って、自分を知ろうとすれば、他者との関わりも変わってくるのでしょう。
同じように、生きている環境を知ろうとすれば、自分を取り巻く世界の全体が見えてくるのかもしれないと思いました。
 
6. Posted by ユーカリ   2015年12月28日 22:22
サバイバルとはかけ離れた現代の日本人の生活を、一見野性味があふれていそうなチンパンジーの生活と対比させてみよう!という太郎冠者さんの発想に、いつもながら感心致しました。
あれ程活動範囲の広そうな動物が、実は一日に2〜3キロメートルしか移動していないなんて、驚きですし、その構造故に、人間の4倍ものエネルギー消費を余儀なくされることなど、思いもかけませんでした。

>太極拳もまた、向かってくる相手を制するために、その相手そのものの協力を必要とする。

日常的な考え方であれば、相手を制するために、どう相手をやり込めるか、いかに相手よりも優勢な立場に立てるかが優先され、構造を整えるよりも、大腿四頭筋による蹴りや落下を利用した拙力に頼りたくなります。
柔功や基本功で整えようとしていたことが、対練になると自分の都合が優先され、いとも簡単に守れなくなってしまう自分と重なります。
全体性の中に身を投じたいと思うならば、やはり自分自身を知る事の重要性に立ち返るのですね。
改めて、毎瞬毎瞬を大切にしたいと思いましたし、自身の構造にもっともっと気づいてゆきたい思いました。

ことしも、刺激ある面白い記事をありがとうございました。
来年も、太郎冠者さんに学びたいと思います。
 
7. Posted by タイ爺   2016年01月02日 11:29
「整える」という考え方が太極拳と格闘スポーツとの違いではなかろうかと記事を読んで思いました。
特に相手と自分の関係性を整えるなんて説明しているモノなど聞いたり読んだ記憶がありません。
同じ太極拳でありながら「受け流して隙をつくり技を仕掛ける」という説明をしているところがほとんどではないでしょうか?
それがどんなに巧妙に行ったところで「捨己従人」や「四両發千斤」の概念とはかけ離れた真逆の発想になります。
「昔の人は一日中畑を耕し、石臼を挽いていたんゼィ、ワイルドだろォ」=「昔の人は筋力や体力が現代人よりはるかに勝っていた」という単純なものではないという事ですね。
 
8. Posted by bamboo   2016年01月05日 00:08
今年もよろしくお願いいたします。

過酷な環境、野生、戦い、仲間、武藝、そして「生きる」こと…
ヒトだからこそ、ニンゲンだからこそ持つ力を意識的に磨き続けることは、自身はもちろん、きっと私たちの子孫にとっても大きな影響があるのでしょうね。
戦略・戦術・戦法などの変遷も、人生の変遷も、突き詰めていくと「野性の証明」ということになるでしょうか。今年の稽古では笑って死ねる人生を先輩諸師兄と共有できたらと思います。
 
9. Posted by 太郎冠者   2016年01月11日 21:34
☆玄花さん
>遠い南の島の楽園生活を夢見た
過ぎたるは及ばざるがごとしで、何事も行き過ぎてしまうと、
それがとたんに退屈になるというものです。
人間とは面倒くさい生き物ですね(笑)

自然環境でなくとも、身の回りには危険なものがあふれています。
たとえば、生活になくてはならない自動車も、一歩間違えれば人の命を簡単に奪う凶器となります。

ところが、それを人間の本能は危険と認識することが出来ない。
突っ込んでくればもちろん危ないと分かるのですが、
蛇や蜂、クマなどの生物が危険、といったような本能的な認識が持てないらしいのです。

そういった意味でも、もっと注意深く、危険な状況を予測していかなければならない、と感じます。
 
10. Posted by 太郎冠者   2016年01月11日 21:38
☆たそがれの単身赴任者さん
面白い話をありがとうございます。

歩き始めたばかりの小さい子供は、非常に多くのことを勉強させてくれますね。
僕にも小さな甥が二人いるのですが、これがもうやんちゃでやんちゃで・・・

小さいくせに動きは早いわ、おまけに意外とパワーはあるわで、
こちらをかなりてこずらせてくれるものです。

本能なのかなんなのか、殴ってくればまっすぐに急所を狙ってきますし。
あれはきっと親の教育が悪いに違いない。

そういう、人間本来の姿に立ち返ることが出来るのが、
太極拳のすごいところなのかもしれませんね。
いや、誰彼かまわず殴っていいわけではないのですけども(笑)
 
11. Posted by 太郎冠者   2016年01月11日 21:42
☆まっつさん
小さな男の子が乗り物好きなのも、そういった開拓精神の現れなのでしょうかね。
自分の足で行ける以上に遠くに行けるということは、
それだけで生存上の有利が得られるというものですから。

南の島の楽園でいつまでも生きていければいいですが、
聖書にもある通り、人類は最初から楽園を追い出されてしまう運命にあるようですしね。

そもそも人の数が増えれば、楽園で養っていける許容量をオーバーしてしまうわけですが、
それでも人を養っていけるような楽園があったとしたら、
人類はずいぶんと飼い殺された生き物になるでしょう。
SFのようなネタですけども。
 
12. Posted by 太郎冠者   2016年01月11日 21:45
☆とび猿さん
武藝館には年齢性別問わず、同じ志を持った人たちが集まっていますね。
これは、非常に稀有なことであり、素晴らしいことだと感じています。

ともすれば、そういった大きな目標など持たなくても、なんとなく生きていくことのできる現代日本で、
目的を持ち、修練していくことの大切さを味わうことのできる場所が、他にどれくらいあるのでしょうか。

見つめていくべき対象は外ではなく己の内側にこそある。
この点が、非常に意義深いことであるように感じます。
 
13. Posted by 太郎冠者   2016年01月11日 21:49
☆マルコビッチさん
現代ほど自分が動く必要がなく、また考える必要もなく生きていける時代は、過去これまでなかったのだと思います。
便利になった反面、それを得るために本当は必要だったものという裏側がごっそりと抜けてしまい、
物事を本質を見ることが非常に難しくなっているように感じます。

とはいえ自分も、ほしいものがあったら密林でポチーで買ってしまうわけでして、
便利さを十分に享受させていただいています(笑)
そこは否定しません。

その上で、自分とかかわること以外やることのない太極拳をやることが、自分にとって非常に大事なことになっています。

物事は両極を見ないと、本当のことが見えないように思います。
 
14. Posted by 太郎冠者   2016年01月11日 21:56
☆ユーカリさん
いえいえ、自分の発想なんて在ってないようなもので、
誰かがこういったことをやっている、ないしは考えていたということを参考にさせてもらって、
自分で再び味わってみた結果、こういうことになった、
とその程度のものです。

太極拳の稽古でも、本当は自分でやらなければならないことなんてひとつもないのかな、という気もしています。
まずは、稽古体系をそっくりそのまま、過不足なくやってみる必要があって、そこには自分の創意工夫など入る余地もないと思うのです。

そうしようとしても、完全にはうまくいかずに、どこかで自分が顔を出してこようとします。
それを見つめて、またそれを置いといて稽古をしようとする。
この繰り返しをする必要があるのではないかなと感じています。

「自分の都合」や「自分が出てきてしまう」といった、ちっぽけなことなどどうでもよくなってしまうくらい、太極拳は大きなもののように、最近では感じるようになってきました。
 
15. Posted by 太郎冠者   2016年01月11日 22:06
☆タイ爺さん
正直なところ、武藝館を知るまでは太極拳の実戦性にはかなり疑問を持っていて、
そんなことをやるくらいだったら他の日本の剣術や武術でもやったほうが百倍マシ、くらいに思っていました。
・・・いろいろと怒られそうですが(笑)

そんな人間でも入門して、毎日毎日太極拳の稽古をするようになっているのですから、世の中ってわからないものです。

同じ要訣をひとつとっても、認識や理解の仕方で大きく変わってしまうものです。
やはり大事なのは、どのような中身が残されているかではないかと思います。

それと、ちょっと余談ですが、
>昔の人は筋力や体力が現代人よりはるかに勝っていた
現代の狩猟採集民の運動量を調べたら、オリンピッククラスのスポーツ選手のほうが一日の運動量が多い、という結果が出たようです。
まぁ、どう感じるかは人それぞれ、ということで(笑)
 
16. Posted by 太郎冠者   2016年01月11日 22:11
☆bambooさん
本年もよろしくお願いします。

もしこれから天変地異が起きて、太極拳をやっていたことで生き残ることが優位になって、
子孫の数が増えたとしたらどうでしょう。

人類には、これまでの人類=ホモ・サピエンスと、
太極拳をやっていた人類=ホモ・タイジィエンス(仮)
が生まれることになるに違いありません(笑)

冗談はさておき、現代人の姿勢の悪さはかなりのもので、
人間というよりは四足のお猿さんに近い身体の使い方をしている人が多いように見られます。

それが文明によって進化した人類の姿なのだとしたら、
むしろ太極拳をやることで人として正しく立てることを目指している我々は、進化を拒む旧人類という扱いになるのかもしれませんね。

>今年の稽古では笑って死ねる人生を
笑うのは大いに結構だと思いますが、
お願いですから稽古で怪我したり、死んだりしないでくださいね!
安全に健康に、正しい稽古をしていきましょう。
 

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