2015年11月25日

練拳Diary #64「武術的な強さとは その8」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花



 武術にとって切り離すことのできない「戦い」。
 その戦いに於いて、最も大事なことは何でしょうか。
 
  自分が勝つこと
 
  冷静でいられること
 
  注意深くあること
 
  戦略を考えられること
 
  相手を倒せること
 
  大切な人を守れること

 ・・人それぞれ、様々な考えがあると思いますが、私たちは『生き残れること』であると教えられてきました。

  生き残ること。

  生きて帰れること。
 
 簡単なことのようであってもそれを真に理解することは難しく、ましてやそれを実践することは、本当に難しいことであると思えます。

 なぜなら、ただ相手を倒せば生き残れるという話ではなく、そもそもそのような短絡的な考え方では、相手を倒すこともできなければ生き残ることもできないというお話なのです。

 稽古での対人訓練で、相手を倒すことよりも自分自身がどのように整えられ、どれほど統御できているかを観ることが重要であるとされるのも、そのことを理解するためかもしれません。

 日々、サンドバッグを前に立ち、拳を鍛え足を鍛えと、ひたすら汗水流している人にしてみたら、「相手を倒すことよりも〜」などという言葉は、いかにも脆弱に聞こえるかもしれませんが、訓練の厳しさに大小はなく、言葉を換えて言ってみれば、私たちは稽古の度に、なかなか理解の及ばないこの頭の中で大汗をかいているのです。


 『生きて帰れること』とは、なにも戦いという特殊な状況に限定されたことではありません。家庭の中から学校、会社と、人間関係でも仕事でも人生は全てが戦いでありますし、ましてや、コンビニ強盗だ、テロだ、自然災害だと、当事者でなくとも気の休まる暇がない昨今、自分だけは大丈夫だという保証はどこにも無いのです。

 仮にそれらを全てシャットアウトしたとしても、最大の敵からはどうしたって逃げることはできません。最大の敵とはもちろん、自分のことです。

 自分という敵は、もしかしたら一番手強いのではないかと思います。
 勝つことは難しく、敗れれば、人生は豊かでも美しくもなく、ただ日々負けてしまった自分を誤魔化しながら過ごすような、カビの生えた生き方しかできないのです。


 さて、『生き残ること』のためには、どうしたらよいのでしょうか。

 私が師父に教えて頂いたことのひとつに、「80パーセントで向かえ」というものがあります。
 常に100パーセント、120パーセントで頑張っていると、いざというときに自分の実力の100パーセントはおろか、80、50ほども出せないというのです。

 常に、余力の20パーセントを残しておくこと。
 目一杯の状態で努力していても、偉くはないと言われました。

 これを勘違いしてしまうと、”物事には手抜きで当たれ”となってしまいますが、もちろんそうではありません。
 この言葉には、戦いに臨んだ場合にはどうしたら自分が生きて帰れるのかということの、大きなヒントが隠されています。

 人は、自分の努力や修練による達成感に、酔いしれるクセがあります。
 その努力がたとえ身体を壊すような無謀な行為であると分かっていても、その達成感や充実感のためには良しとしてしまえるような、怖ろしいものです。

 師父はそのような努力を、愚か者のすることだと仰います。
 プロは、そんなことをしない、と──────────

 日本のみならず、世界各地でその道のプロと呼ばれる人々と交流を持っておられた師父の言葉は、私たちの胸にずっしりと響きます。

 プロは、誰よりも自分のことを把握していて、些細な変化も見逃さない。
 一般の人のように、疲労するし傷つきもする。
 体調が悪いときもあれば、感情の起伏が激しいときもある。
 けれど、その始まりのほんの僅かな変化に気がつくことができるというのです。
 その結果、大事に至る前に対処することができ、被害が最小限ですむわけです。

 確かに、例えば軍人や消防士、警察官が訓練中に毎回大ケガをしていては使い物になりませんし、冬が来る度に風邪を引いているなどということも、ちょっと考えられません。

 自分自身の変化に気がつくことができる、冷静さ。
 そして、的確な判断と最適な対処。
 これらの言葉は、対象を自分自身のケアから敵との戦いに置き換えてみても、そのまま通じる考え方です。
 それが、常に目一杯で100パーセントで突っ走っていたならば、変化に気がつく余裕もなく、異変が現れたときにはすでに手遅れなのです。

 「80パーセントで向かう」ことは思いのほか難しく、私はいつも失敗してしまいます。
 始めのうちは良いのです。着々と自分の8割の範囲内で、全力で臨みます。
 ところが、思うように行かないことが出てきたり、或いはあともう少しで達成できると思える時がいけません。ついついやりたい方が先になり、後先を考えずに突っ走ってしまいます。
 そうして後に残るのは、達成できたけれどもくたびれ果ててしばらく動けないとか、達成もできずに身体を壊してしまうなど、結果は散々です。

 まさに、後悔先に立たず。
 ここで踏ん張れば壁を超えられると思って奮起しても、この有り様です。
 本当の壁は自分の行く手にあるのではなく、それを守れない自分の中にこそあるのだと、反省することしきりです。

 失敗もあれば、成功もあります。
 「80パーセントの教え」に助けられたことは数えきれないほどあります。
 特に、体力的にも精神的にも、どうしようもなく疲労を余儀なくされる行軍(重い荷物を背負って10〜30㎞を歩く)訓練など、歩くための一歩を踏み出すときでさえ、80パーセントを頭の中に入れて歩きました。
 すると、行程を半分ほど過ぎた頃でしょうか、一歩一歩を好き勝手に勢いで出していた人達と、明らかな差が出てきたのです。
 彼らは、歩きはじめの勢いと元気が見た目に5割は無くなり、急に重い足取りになりました。それに対して私は、最初に比べて3割程度の疲労で済んでいたのです。
 もちろん、歩く時だけでなく、小休止の際の身体の整え方や疲労回復方法など、できる限りのことをしての結果ですが、頭の中に「80パーセントの教え」が無ければ、彼らと同じようにダウンしていたかもしれません。

 自分個人の特性を知ることも大事ですが、まず人間として運動機能や健康に関してどのような特徴や傾向があるのかを勉強し、常に最高の状態で動けるようにスタンバイしておくことは、とても重要だと思います。
 日々の稽古で科学的な態度で臨めと言われるのも、80パーセントの教えに通じるものがあると思えますし、それらを含めて『生き残れること』の教えがあるように感じられます。


 『生き残れること』は、言い換えれば『負けないこと』だと言えるかもしれません。
 相手が敵でも自分であっても、勝てればそれに越したことはありませんが、勝つことだけを求めればやはり自分もただでは済みません。その一勝負に勝ったとしても、その時に自分がボロボロであれば、次に勝てる可能性は少なくなっているのです。
 そんなことを続けていては、やがて敗北が待っていることは目に見えています。

 そんなことを考えていたとき、偶然にも坂井三郎さんの教えに触れる機会を得ました。
 坂井三郎さんは、戦時中に零戦のパイロットとして活躍され、その戦績から「撃墜王」と呼ばれた人です。ガダルカナルでの出撃中に頭部に被弾しながらも奇跡の生還を果たしたことは、とても有名なお話です。
 その坂井さんの娘である、坂井スマート道子さんの著書「父、坂井三郎」の中に、こんな一節を見つけました。

『いざという場合は「相手と差し違える気で戦え」と言う父ですが、「勝て、一番になれ」と言われた記憶は一度もありません。むしろ、「負けない」ことの大切さを、よく聞かされました』

 ・・やはり、状況は違えど、極限の状態を経験した人が言う言葉には、多くの共通点があります。

 道子さんは、こうも書かれています。

『たった一度の華々しい勝利を美化するよりも、負けないことに努力すること。父は何よりも、生きて帰ってくることの大切さを教えていたのです』


 私たちが教わっていることと奇しくも一致した坂井三郎さんの教えは、他人と命のやりとりをして尚かつそこから生き抜いてきた人であれば、誰でも同様に持つ当たり前の考え方なのかもしれません。

 武術的な強さを考えたとき、そこには「生き残れるかどうか」が大きな鍵となっていることは否めません。そしてその問題は、私たちの日常の在り方と深く関わっていると言えるのです。



                                 (つづく)


xuanhua at 22:40コメント(16)練拳 Diary | *#61〜#70 

コメント一覧

1. Posted by 太郎冠者   2015年11月28日 01:52
自分は思い悩むことがあると、生物として根源に帰って考えてみるようにしています。

人間であるという以前に、一個の生命体として考えたとき、
もっとも根源的な戦いは、生きることだと思います。
限定して我と他との戦いとしてみても、相手を倒すことではなく、自分が生き残ることこそが勝利と言えると思います。

戦いとは生き残ることなのだと言えるのなら、相手を制すことが絶対ではなくなり、より良く自分があることこそが強さである。
そんな風に考えてみると、なぜ武術であるはずの太極拳を修行することで健康になるのか、が見える気がします。
100を使いきって燃え尽きるのではなく、80パーセントで向かい、その残りの20パーセントによって、また新たな次が繋がってくるという感じでしょうか。

ひたすらに自分を追い詰めればいい、というわけではないのですね(あんまりそういうタイプではないですが)。
・・・少し気が楽になった気がします。ありがとうございました。
 
2. Posted by さすらいの単身赴任者   2015年11月29日 21:07
80パーセントの心と体の余力、身にしみるお言葉です。自分の年齢になると、自分の残存エネルギーと常に相談しつつ事に望まないとえらいことになってしまいます。若い方のように、緊急加速用に水-メタノール噴射装置のついていない旧式エンジンのわたしです。残存量との折り合いはとても難しいです。師父のおっしゃる80という具体的目安はとても合理的と思います。事前に手を打って、小刻みに仕事をこなしておいて、大仕事に対して80の力で向かい合えるようにする。仕事においてこれはとても大切なお言葉思い、心がけていきたいと思います。

坂井三郎さんの大空のサムライ、続大空のサムライは本棚の真ん中にいつも置いてあります。僚機とはなれ、天測もなしに真夜中の飛行を続けて基地へ帰還したお話、アメリカの急降下爆撃機をグラマンと間違えて後部機銃で撃たれ、瀕死の重傷のまま4時間半かけてラバウルに奇跡的に帰還したお話。そのまえに4時間の往路と空戦があってのうえです。その「生きて還る。」驚異の精神力、いつも座右の銘としております。
 
3. Posted by とび猿   2015年11月30日 23:03
問題に対して意地を張って必死に頑張っていても、頭の中は膠着していて、大した成果が得られなかったり、自分が好調な時に調子に乗って我武者羅に事に当たり、気が付いたら頭も体も疲弊して半分の力も出ないようになっていたり、実際には自分が見えていなくて
出鱈目になっていたと反省することが、お恥ずかしながら度々あります。
経験豊富な人や強い人は、自分の調子や置かれた状況による力のブレが少ないように感じられます。
すでに他界した私の両祖父は、亡くなる直前まで仕事のことが頭にあるような人で、とてもエネルギッシュな人に感じていましたが、今になってやっと、自身の整え方やものの見方が現代人とは全く違ったのだろうということが、少しずつ分かるようになってきた気がしまします。
 
4. Posted by まっつ   2015年11月30日 23:16
先ず生き残る事、そして負け無い事、その上で勝つ事。
人生全般を貫く真理であり、
疑いようのない生命の行動原理だと思います。

先ず勝つ事から求めてしまうと、
諸々の執着で自分が乱れてしまい、
如何に戦術的な勝利を重ねても、
戦略レベルでは負け越してしまう事が幾度もありました。
勝つ事は結果であって、
先ず求めるべきは負けない事なのだと、
最近は特に強く感じます。

また、負けない為に「戦わない」という選択もありますが、
戦わない、挑戦しない、行動しない世界は、
どんどんと縮んで、自分の足元も覚束なくなってしまうようです。
前に進んで勝ち取り続けないと生き残れない点は、
どの時代でも共通する生きる事の厳しさなのだと思います。

それらの心得を自分の物にするという意味では、
挑戦して、散々に負けてみる経験にも意味がある・・・
と思いたいです。
 
5. Posted by マルコビッチ   2015年11月30日 23:36
「80パーセントで向かう」ことは、私にも非常に難しい事だと思われます。
玄花さんが仰っているように、手を抜くわけではなく、余力を残しながらきちんと行動してやりきる為には、やはり冷静な判断力が必要になるでしょう。
私は、物事を最後までやりきりたい欲望で、闇雲に突っ走って疲れ果ててしまう事が多々ありました。
そう言う時は前しか見ていないのです。
偶然にも、ちょうど私も、坂井三郎さんの「大空のサムライ」を読んでいるところですが、飛行機(戦闘機)に乗っていると前後左右はもちろん上下も常に気にしていなければならないということが、私のアンテナに引っかかった事のひとつにあります。
私たちは日常ほとんど前を向いて生活しているので、前への意識はありますが、後ろや上となるとなかなか意識できないと思います。
まして、忙しくバタバタ走り回っている時などは目の前の事でいっぱいになってしまうのではないでしょうか。
80パーセントのお話と逸れてしまったようですが、冷静な判断力はやはり自分に意識的であるしかないと思いましたので・・・
前後左右上下を意識するのは大変ですが、良い訓練ではないでしょうか。
太極拳とも繋がると思いました。

なんか無理矢理まとめてしまったようですみません・・。
 
6. Posted by ユーカリ   2015年11月30日 23:51
生活の中で、100%の後は疲れてしまって30%、120%の後はしばらく休憩が必要。といったことを繰り返している事に、気づかされました。
「80%で向かう」事を続けるなど、自分の発想にはない事でした。
「全力投球・我武者羅」が何かいい事のように思ってきてしまったので、そこを隠れ蓑にして、自分を手放していた事には気づけずにいたのです。

何とも不規則で波のある生活を見直して、「負けない努力」「生きぬく事」の大切さ・難しさから逃げずに、それらを子供たちに伝えられる自分になりたいと思いました。
 
7. Posted by タイ爺   2015年12月01日 09:30
先日TVで柔道のN選手の話をしておりました。
過酷なトレーニング、怪我は当たり前。満身創痍になってもオリンピックに挑戦し続けることを賛美しているような内容でした。
確かに素晴らしい選手であり、強く不屈の精神の持ち主だと思います。その姿勢には尊敬すら覚えます。
でもなんでしょう、この違和感。
その時に思いました、柔道は競技なんだ・・・。
N選手は「選手」ではあるけど「柔道家」「武術家」でないという事を改めて認識した次第です。
そういえば陳家溝のO西安老師に習っていた日本人から「弟子たちと推手をすると本当に手を折ろうとする」と聞いたことがあります。その時に感じた違和感もこれっだったんですね。
 
8. Posted by bamboo   2015年12月08日 23:59
「カビの生えた生き方」「酔いしれるクセ」「無謀」> グサグサッと刺さりました(笑) …が。
スープカレーの記事以来ずっと自身を振り返ってきたところ、やはり無意識にコワイ顔で箸や包丁握ったりしておりました…!今は料理やおやつの時間が楽しみでございます。
「80パーセント」「生き残れること」というのは、100パーセントで生き残れないよりも繊細に感じます。一見うまくいっているときも、いかないときも、どんなときも、残りの20パーセントが意識にあれば幸せに生きていけそうな希望すら感じられます。
以前はこうしたことを(楽しいときも心から楽しめないのでは…?)などとよく思ったのですが、今は一生こうした機微を養い続けることを(もしかしたらすっごく楽しいことなんじゃないか…?)と感じはじめております。
昔好きだったテレビドラマに「〜できなかったら即死亡」というシーンがありましたが、自身がこれを楽しめるまでにはもう少しかかりそうです。
 
9. Posted by 円山玄花   2015年12月10日 22:34
☆太郎冠者さん

人は、後先考えずに我武者羅にやって燃え尽きて・・という方が、簡単なような気がします。
自分を追い詰めることもある意味必要ですが、やはり自分の状態と対象や周りの状態など、
全体を見られる冷静さが一番大事で、強さでもあるかと思います。
80パーセントの教えは、それを可能にしてくれます。・・それができればですけれども。

強さ、厳しさなど、人によって定義も何も変わるものですが、
結局のところは、自分が何のために生まれてきたのか、その目的によって変わるのだと思います。
 
10. Posted by 円山玄花   2015年12月11日 00:13
☆さすらいの単身赴任者さん

私は、孫子の兵法にある、『敵を知り、己を知れば・・』の一節が好きです。
敵という片方だけではなく、自分も含めて両方を知る必要があると説いているからですが、
80パーセントの教えでも同じように、それを100とせずに80にして、20を残すことによって、必然的にやる対象だけでなく、自分側を観る必要が出てきます。
80パーセントの教えは、「己を知る」ための、また「百戦危うからず」のための教えだとも、
言えるでしょうか。
 
11. Posted by 円山玄花   2015年12月11日 00:20
☆とび猿さん

自分では必死でも、結局は空回り・・などということもありますが、
そんな状況に出くわす度に、こんなことで本当に生き残れるのだろうかと、
自分の場合は反省するより先に呆れて考え込んでしまいます。
本当は、直ぐに動いて行動しなければなりませんね。

現代は、家の中にいても外にいても関係なく、油断のできない時代ですから、
心して生きて行きたいものです。
 
12. Posted by 円山玄花   2015年12月17日 17:26
☆まっつさん
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>負けない為に「戦わない」という選択

その言葉は、私にはとても新鮮に響きます。
もっとも、勝ち目がなくても、意地と突っ張りで突っ込んでしまうというところが、
私が80パーセントの教えを学ぶ必要があるところなのだと思います。

少し話が逸れてしまうかもしれませんが、
私が稽古や生活の中で、なかなか相手が観られない、前で示してくださることが分からない、
というときに、たとえば自分の目が見えなかったら、どのようにして観ようとしていただろうか、
私の耳が聞こえなかったら、どのようにして教えを学ぼうとしていただろうか、と考えたことがあります。
すると、いかに自分の持っている力(五感、能力)を使っていなかったがわかりました。
それはそれは、大きな衝撃であったことを覚えています。
それ以来、稽古では目を開いていても見えない自分のつもり、耳が聞こえていないつもりで、
見聞きするようになりました。

勝つことよりも負けない、生き残る為には、
よく観ることの出来る自分が必要であると、つくづく思います。
 
13. Posted by 円山玄花   2015年12月17日 17:34
☆マルコビッチさん
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>前後左右上下

稽古でも、よく動きが平面的であることを注意されます。
対練では、師父の動きと比較すると、師父の動きが戦闘機のような動きであるのに対して、
私の動きは戦車のようである、と。・・はやく戦闘機になりたいものです。
 
14. Posted by 円山玄花   2015年12月17日 17:55
☆ユーカリさん
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>不規則で波のある生活

私も今まで、不規則な生活が問題であると思ってきました。
その生活を見直さない限り、自分を律して立てていくことは難しいと考えていたし、
実際に多少生活のリズムが整ってくると調子が良くなるので、よけいにそう思いがちです。
けれど、本当は環境や状況に関係なく、自分を律することこそが重要で、自分が整っていれば、
生活が不規則であっても自分はブレなくなりますし、もしかしたら生活も規則的になってくるかもしれません。
マハトマ・ガンジーの言葉にある、『他人に変わってほしければ、自ら率先して変化の原動力となるべきだ』ではないですが、どのようなことに対しても、やはり先ず自分が変わる必要があるのだと思います。
 
15. Posted by 円山玄花   2015年12月17日 18:50
☆タイ爺さん
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次の試合で最後なので、全力で向かう・・という話は、よく聞きますね。
確かに訓練や稽古で用いられる「全身全霊で」というものとはちょっと違いますし、
仮に全力で向かっても、1回こっきりで終わるような向かい方では通用しません。
やはり試合は試合、選手は選手なのでしょう。

「命懸け」の命の重み、そして、誰の為に、何の為にという目的の違い、忠義の有無が、
大きく関係しているように思います。
 
16. Posted by 円山玄花   2015年12月17日 18:57
☆bambooさん
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>「〜できなかったら即死亡」

「天国に一番近い男」ですね。
今の私は、まさに自分で「〇月〇日〇〇時までに〇〇できなかったら即死亡」と言ってやらなければならない状態であります!(汗)
 

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