2015年08月09日

練拳Diary #61「武術的な強さとは その5」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花



 人間は弱いものである、と思います。
 強さを希求すればするほどに、その直ぐ後ろには消えることの無い弱さが、我が身の影のようにジッとついてくることを感じます。

 考えてみれば、「強さ」について語られることや、他人に「弱い」と指摘されることはあっても、「弱さ」そのものについて触れられることは、それほどありません。
 人は、ケンカをしても、走っても、勉強をしても、何をしても「強くあれ」と言われてきました。強くなければ生き残れない、負けたくないなら強くなれ、勝ちたければ強くなれ、と。

 「強くなければ・・」と耳にする度に、否応なしに自分の弱さに目が向き、つくづく自分とは弱い人間なのだと思い知らされました。そして、「弱さ」というものをきちんと理解しなければ、本当の「強さ」は分からないと考えるようになったのです。

 「弱さ」について私が最も感じられることは、他でも無い精神力のことです。
 忍耐力や集中力など、「力」がつくものならたとえ視力であっても強い弱いを感じるものですが、それらは全て自分の精神力に統括されているものだと思えるからです。

 人が生きるためには意志が必要であり、何をするのにも精神力がモノを言います。
 ところが、弱っているときには何の踏ん張りも利かなくなります。
 何が踏ん張れなくなるのかといえば、やはり気力が大きいと言えるでしょうか。

 たとえば、食事に使った食器を洗うことはもちろん、食事を摂ることや、解けた靴紐を結び直すというごく当たり前の行動さえ億劫になり、あと少し手を伸ばせば届く、という状況でその手を伸ばすことが嫌になります。
 別に手を伸ばさなくても良い、これはそのままでも良い・・などと、そのようないわゆる ”悪魔の囁き” が聞こえるうちはまだ自覚があるからともかくとしても、手のつけようがないときにはその声さえ聞こえてくることはなく、まるで自分が悪魔そのものになってしまったかのような状態だと言えます。

 「弱い」とは、まさに気力が弱っているのです。
 考えてみれば、敵と対峙したときに勝敗を分けるのは「絶対に勝つ」という意志の強さだと言えるでしょうし、海で沖に流されたときに生死を分けるのも、体力や知識の有無よりも最終的には「絶対に生きて帰る」という強い意志があるかどうかで決まることでしょう。

 やはり、人が生きて生き残るためには、絶対的な強い気力が必要なのです。
 気力が弱ると、人はどんどん楽な方へ楽な方へと流れて行きます。
 そもそも人の中枢である脳みそは、楽なことが好きだと聞きました。できれば何もしたくない、何も考えたくない。そして、これは脳の働きなのかどうかは知りませんが、何もしないで居ることも継続できないという、まったくもって厄介な困った性質を感じます。

 気力が弱っているときには、何もする気が起きないことを「楽な方に逃げている」とは到底思えません。決して楽ではないと言えるだけの弱ってしまった理由を、山ほど抱えているからです。むしろ、その理由こそが自分の気力を弱らせている直接の原因であるにもかかわらず、人はただただ抱え込んでしまうのです。

 人にとっての「楽な方向」とは、どの方向なのでしょうか。
 私は、自分を律する必要の無い方向だと思います。
 「律」は言うまでもなく、法律や規律などと用いられるように、きまりやおきてを表しています。たとえば門人規約は、私たち門人が太極拳を学ぶために必要な心身の在り方と整え方が示されており、それらの全ては自己を律していくためのものであると言えます。

 稽古に於ける柔功や基本功などは、身体のきまりと太極拳の法則を教えてくれます。
 身体のきまりを知らなければ、太極拳で示される法則、則ち戦闘方法が見えてくることはありえません。
 そして、そこで必要になってくるのが自己を律するということであり、それによって養われるものが「意」であるわけです。

 人が楽な方へと流れ始める様は、まるでひとつずつその「律」を外していくかのように見受けられます。姿勢、立ち居振る舞いに始まり、言葉、思考、人とのコミュニケーションに至るまで、徐々に外れて行きます。

 しかし、その楽な方向へと快適に流れ始めたのに、同時に居心地の悪さを感じるのはなぜでしょうか。
 これはおそらく、私たちが生きるこの大地そのものが法則に従って躍動しており、私たち人間もまた、細胞レベルでその法則に統御され、生きているからだと思えます。それ故に、文字通り ”決まりの悪さ” を感じるのではないでしょうか。
 そのように考えたとき、私たちが生かされているこの大宇宙=太極に、深く想いを馳せずにはいられません。
 
 それらのことを自分に当て嵌めて考えてみたとき、楽な方向に流れて、律することが外れて行く理由として、とても興味深い発見がありました。

 私は、十代の頃にあるお話を読んで、とても感銘を受けました。
 そのお話も今となっては僅かな記憶しか残っていませんが、それは白隠禅師のお話です。


 あるとき白隠禅師のもとに、ひとりの男が生まれたばかりの赤ん坊を連れてきて、こう言いました。
 「この赤ん坊は、うちの娘が産んだ子どもだが、娘は、父親はお前だと言っている。責任をとって育ててくれ」と。

 それを聞いた白隠禅師は、「おお、そうなのか?」と言って、その子を引き取ります。
 彼の弟子の多くは彼が堕落したと思って反発し、何人も彼のもとを去りました。
 彼はひと言もいいませんでした。

 白隠禅師は、自分のボロボロになった長衣にその子どもをくるみ、どこへでも連れて行きました。雨の日も嵐の夜も、近所の家々にミルクをもらいに出掛けたのです。

 その後しばらくして、また同じ男がやって来て、彼のもとにひれ伏しました。
 娘が自分の子どもと離れて暮らすことに耐えられず、本当の父親の名前を明かしたからです。その男はひれ伏し、何度も何度も許しを乞いました。
 白隠禅師はただ一言、「おお、そうなのか?」と言って、その男に子どもを返しました。


 ・・このお話は、私の中の「受け容れる」という考えに対して、たいへん大きな衝撃を与えました。受け容れることこそ、日常の中での大いなる修行になる、と確信したのです。

 それ以後、私の修行は始まりました。
 何を言われても、何が降り掛かっても、受け容れる。
 言い訳もせず、反論もせず、ただ全面的に受け容れるのです。

 その結果、主体性が無いとか、何を考えているのか分からないなど、周りの人からは様々なことを言われましたが、私にはひとつの行をしているという、ただそのことだけが核としてありました。

 覚えのないことをこっぴどく言われることもありました。
 修行の足りない私は泣きながら、頭の中に浮かんでくる反発心と葛藤し、それでも受け容れることを理解するために唇を噛みました。
 そうして、受け容れることを自分の修行としたことにより、少しずつ自分のことや周りの物事を静観できるようになってきたのです。

 けれども、問題は起こりました。
 受け容れることが、徐々に自分からの働きかけをしないということに変わっていったのです。これは、私が持って生まれた性格も災いしたのかもしれませんが、あまりにもゆっくりとした変化だったため、なかなかそのことに気がつくことが出来ませんでした。

 食事に誰かの髪の毛が入っていても、騒がずに静かに取り出す。
 自分に起こる全てのことに対してそのように対応していたとき、師父にこのように言われました。
 「お前は、自分でより良くしていこうとは思わないのだろうか」と。

 私はここでようやくハッとします。
 受け容れることを、取り違えていたのではないか、と。

 私のしていたことは、たとえば部屋が汚れていればそのまま、ズボンに穴が空いていたらそのままということになり、それは、暴漢に襲われたらそのまま、海で沖に流されたらそのまま・・ということを意味していたのです。
 白隠禅師の話に戻れば、彼が子どもを引き取った後、家にミルクがなければそのまま放っておいたことになります。それが受け容れることでしょうか?
 
 受け容れることとは、もっとトータルなことであり、豊かなことでした。
 自分のしていたことは、それに比べたら楽なことであったと思えます。
 楽だけれど、喜びもない。そんなものが真実でも修行でもあるはずがないのです。
 
 人生をありのままに受け容れるとは、自分に降り掛かってきたことをただ受け容れて、そしてそこからさらに始まる全てのことをも受け容れられるということなのです。
 私の場合は、そこで初めて自分の「在り方」が問われました。

 私が考えていた受け容れることとは、それを続けていれば「律」をも外していたことでしょう。そして、その先に待っていることは、自我に溺れることだと思います。
 自分に負けてしまうこと、それこそ人間の「弱さ」だと言えるのではないでしょうか。

 反対に、「強さ」とは正しく受け容れて、受け容れたことに対して自分で行動できることとも言えるのかもしれません。
 自分の周りの様々なことに気がつき、ささやかなことでもより良い方向に向かえるように考えることは、単純に気持ちが良く、自分に力を与えてくれます。そして、次なる気づきを誘うように、センサーが磨かれていきます。
 武術の修行で養われる「強さ」も、同じものであるはずです。

                                (つづく)


xuanhua at 23:38コメント(16)練拳 Diary | *#61〜#70 

コメント一覧

1. Posted by まっつ   2015年08月13日 00:00
「強さ」と「弱さ」についてはよくよく考えさせられました。
最初は自分の弱さが我慢できなくて、ただ強さに憧れて、
それからは強くなる事はただ楽しくて、でも弱さは振り切れず、
社会に出たら生きる事は思いのほか大変で、強さ弱さを問う余裕も無く、
我武者羅に走って、気が付けばかつて望んだ強さを手にしていても、
それは目前の課題や、他人の心を切る事は出来ても、
自分の弱さを切る役には立たないと知って愕然としたり、
精一杯に打ち込んでも、中々結果に結びつかない稽古の中では、
強さを挫かれ、ひたすら自分の弱さと向き合う日々です。
そして・・・探し求めた答えの入り口は、
太極拳の根本たる無極の追及の中に垣間見る事が出来ました。
強さからも、弱さからも離れた位置。
それは待つだけでは無い、確かに行動して見つけられた一歩でした。
 
2. Posted by マルコビッチ   2015年08月14日 12:07
十代の頃に白隠禅師のお話と出会い衝撃を受け、それ以後修行が始まった・・・
玄花后嗣の生きてこられた環境が計り知れません (・o・)
私の育った環境は、子供ながらにも”それは違うんじゃないの・・?”と感じるような理不尽なことや、争いが多かったように思います。
その中では何も言うことは出来ず、内側に変な正義感を持った人間に育ち、大人になるにつれて耐えきれず爆発したのだと思っています。
それから、”愛”とは何か?から始まり、自分の内側を見つめていき、ある日、”自分は何も特別な人間ではない・・”、”何も知らない・・”ということに気付きます。
そうすると、自分の中の「弱さ」を思い上がった「強さ」で隠していたのだと知ります。それは、傲慢さであり、戦いであったと・・・そんな自分を受け入れられたとき、その分だけ世界が広がったように思います。
自分の中の「弱さ」と「強さ」、まだまだ分からないことだらけの私。
自分と誠実に向き合うことしかないのだと感じます。
感覚が先行しがちな私にとって、玄花后嗣の記事はいつも誠実で整えられており、考えさせられます。
 
3. Posted by 太郎冠者   2015年08月14日 16:45
「受け入れる」という時、何が起きたとしても仏のような顔をして無心になり、物事をただ受け入れる。
・・・ということではない!
と知ったとき、はっとさせられたことがあります。

受け入れるということは、全体的でありすべてひとつであることを知ること。
であれば、何かが起きたとき自分の心に起きることもまた出来ごとのひとつであって、それを受け入れることも受け入れることであり、そこから自分でおこす行動も、つまりは受け入れたことの一貫である出来ごとだ、と。

まぁ大半はいろいろな人から教わったことなのですが、それを体験的に知るのと聞いただけではだいぶ違ってくるな、と感じた次第です。

禅問答であれば、こうしてぐるぐる思考が働いてるときには『一喝』が入るのでしょう。

結局のところ、強さ弱さも人間が決めた尺度でしかないというふうに感じます。
 
4. Posted by とび猿   2015年08月14日 22:55
私は学生時代、愚かにも弱さや楽な方向に溺れ、大変馬鹿な時間を過ごしました。
そのような中、どうにか再スタートを切ることができたのは、生き物の本能として、
生きる、強くあるというものが、自分の中にもあったからだと思います。
当時の自分は、そのような自身の内面からも目を逸らし、見ないようにしていたのですが、
それは間違っていると気付かせてくれたものが武術でした。
 
5. Posted by ユーカリ   2015年08月14日 23:58
いつも私は、状況が苦しくなると、いくつもの苦しい理由をどっさり作って、そこから逃げてよしとしてきてしまいました。
けれども、こちらの道場で、それらはとても楽で安易な事なのだと、繰り返し教えて頂いております。
自分が悪魔そのものである状況は、まだまだたくさん訪れ、「律」を外してゆこうとする場面がやってきます。
が、逃げる事は決して解決にはならない事、解決は自分自身にしかできない事、が少しわかってきました。
玄花后嗣が行として積み重ねていらした道のりを拝読し、改めて、時間を無駄にしてはいけないなと思いました。
 
6. Posted by タイ爺   2015年08月22日 10:11
長い間「捨己従人」という言葉に悩んでいたものです。
単純に「己を捨て、相手に従う」となるので、いろいろと解釈が異なり珍妙なものまであります。
一番多いのは相手に(何故か)ひっつき粘り、相手の動きに付き従うことにより力をいなし崩す、というものです。
ある意味「相手を受け入れる」という事になりますが場合によっては一方的に負けてしまいます。そもそも相手にひっつき粘らせるなんて某アメコミのヒーローか、ってことですね。
武藝館に入り立つことを知り、歩くことを覚えてようやく本来のその意味が見えてきました。
文中にあるように一見太極拳の訓練をしているかと思いきや安楽な方法をとり逆に太極拳を否定してたのだと恥じ入る次第です。

7. Posted by bamboo   2015年08月22日 21:21
この記事を頂いてから、武術での「強さ」「弱さ」ということをしばらく黙って考えることが増えていました。
また気力について、私自身消耗が激しく不安定なことがあり、この繊細な(はずの)心身をよくよく丁寧に見つめ直そうとしておりました。
まだ2週間ほどですが、気力の足りなくなっている状態は意外と多いな…と感じました。気力の充実や、できるだけ消耗しない在り方を図りながら暮らしていく中で、いつもならなんとなく逃げたくなるはずの圧腿や事務仕事も気付くとさらりと始められていたり、終えたときもやや涼しげでいられたのはとくに嬉しかったです。
いつもなら「なんとなく」できない事や、逃げて向き合えないような事が、自分でも(なんだこれ)と思わず笑ってしまうほど気楽にやれていました。裏を返せばそれほど今までの自分がひどかったということですが(笑)
「常に〜」という在り方の実現に、光明が差した心地です。ありがとうございました。
 
8. Posted by さすらいの単身赴任者   2015年08月30日 21:50
玄花后嗣の修業のきっかけとなったお話とても胸に染みました。私はといえば、本当に何も考えずこれまでただただ生きてきてしまったばかりです。
今、稽古において気力、体力の低下を自覚し、人生においてはなれない業種に携わり、こけつまろびつ闘うことになりました。体力があてにならない以上、メンタルにおいて強い、弱いということに日々考えさせられ、悩むことがとても多いです。燃えるような気力はなくなり、どのように修行にのぞんだら良いのか。最近中国の詩人白居易(伯樂天)の生き方に触れ、ふと感じるものがあります。私のような浅学非才なものが同感するとはおこがましいにもほどがありますが・・・白居易は、詩人として行政官として将来を嘱望されました、しかし意気込みすぎての正義感によって左遷をくらいます。彼は僻地の行政官としてなりますが、その詩風は、自由闊達なものとなります。若いころの先鋭さは影をひそめ力も抜け、詩風も柔らかくなっていきます。しかし一見怠惰なようにみえるその生活も、酒を愛し人生をただただ楽しむようになっても、その詩に対する心の軸はいささかもぶれていないのです。太極拳でいう「綿中蔵針」のようなものではと勝手に解釈しています。まとまりのない話になってしまいましたが、これからもわからないこと、体がうまく動かないことにも楽しみながら修行に向かい合っていきたいと思います。倦まずたゆまず
 
9. Posted by 円山玄花   2015年09月01日 17:28
☆まっつさん

人間は、弱いより強い方が良く、少ないよりも多い方が良く、小さいよりは大きい方が良いと、
ほぼ自動的、無意識的に思い込んで生きているような気がします。
けれども、私たちの生活の土台である自然を観察してみれば、微細なものから大きなものまで、
不必要なものはひとつもなく、互いに関連し合い、助け、補い、ひとつの大きなサイクルを
作り出しています。
一部が強くなれば、他の一部は弱くなり、強くなりすぎたものは自滅し、そのことによってまた
新しいものが生まれる。ひとりの人間を観察しても、弱いときもあれば強いときもあり、
完璧にどちらかだけに偏っている人なんて、きっといないのでしょう。
両方の要素でひとつのことが成り立ち、それらの要素は、バランスを取り合っている。
太極マークは、そのことを表しているのではないかと、そんな風に思います。
 
10. Posted by 円山玄花   2015年09月01日 17:30
☆マルコビッチさん

人が生きてきた環境は、本当に様々なのですね。
だからこそ、物の見方も考え方も、感じ方も各々に違うわけで、
そこのところをわきまえずに”自分はこう思う”ということだけをただ言っていたのでは、
何も学ぶことはできず、他人との関係もいつの間にか崩壊・・なんてことにもなりかねません。
まさに、マルコビッチさんが言うように、「自分と」誠実に向き合うことしかないのでしょうね。
 
11. Posted by 円山玄花   2015年09月01日 17:33
☆太郎冠者さん

>体験的に知るのと聞いただけではだいぶ違ってくる・・

本当にそうですね。
「四両撥千斤」と聞いていても、実際にそのように飛ばされると本当に驚きますし、
自分が修正されてそのように相手を飛ばすと、その新鮮な感覚にもっと驚きます。
もっと驚くのは、その驚きが途絶えることがないということでしょうか。

「弱い」から「強い」までの間で、置いたポイントは上から見れば弱く、下から見れば強いわけで、どちらから見るかによって変わる様子は、音階の高い低いとも重なり、面白いと思います。
 
12. Posted by 円山玄花   2015年09月03日 02:21
☆とび猿さん

弱さや楽な方向に向かってしまうのは、人間の性かもしれません。
だとしたら、スタート地点は誰もが同じであり、あとは各々が自分の人生で何をしたいのか、
何を生きたいのかによって、決まるのだと思います。

当然、ただ強く在りたいだけでは人との協調・調和は起こらないですし、
ただ弱く在れば上手くいくのかと言えばそんなことはありません。
本当に自分の内面に興味があり、それを観ようとしている人は、
人の心を慮ることが出来るのだと思います。
 
13. Posted by 円山玄花   2015年09月03日 02:26
☆ユーカリさん

イソップ物語にある、金の斧と銀の斧のお話ではありませんが、
楽で楽しくて、悲しみもなく、何も自分でやる必要がなく、
毎日自分の好きなことを思い通りにできる人生と、
何もかも自分でやらなければならず、思い通りになることはひとつもなく、
苦労も苦しみも悲しみも伴う人生、
自分にその二つの人生が差し出されたら、どちらを選ぶのでしょうか?

…ちょっと極端な例になってしまったかもしれませんが、
それに近い選択は、日々様々な状況で直面しています。
大切なことは、どちらを選ぶかではなく、
自分が何を生きたいのかが、明確であることだと思います。
 
14. Posted by 円山玄花   2015年09月03日 03:02
☆タイ爺さん

太極拳を学ぶ人なら、誰もが知っていると思われる要訣の数々は、
実に様々な解釈を生み出しているようですね。
かくいう私自身も、字面だけで捉えてしまったり、日常的な見方で考えてしまったり、或いは
難しく捻って考えていたら、「もっとシンプルに考えなさい」と指摘されたこともあります。

「捨己従人」などは、塔手から手をグルグルしているときには何となく相手にひっつけるような気になっても、対練や散手で相手がバシバシ向かってくると、「従ってなんかいられない!」と、
勘違いも甚だしく、捨己はどこへやら、自分の動きたい方へ、また相手を崩したい方へと動くばかりなり・・なんてことになりかねません。

やはり、「これが太極拳だよ」ということを外さずに稽古しつづけることが大切だと、
身に染みるこの頃です。
 
15. Posted by 円山玄花   2015年09月03日 17:28
☆bambooさん

やはり、不安定なときほど”丁寧に”、ですよね。
人それぞれに気力を充実させたり、不安定さを解決する方法は持っているのでしょうけれど、
私の場合は、とにかく走ったり(軽いランニング)、本を読んだり、
あまり考える必要のないことに没頭することなどでしょうか。
軍隊で銃の整備の時間が思いのほか多く取られているのも、
あながち無関係ではないような気がします。
 
16. Posted by 円山玄花   2015年09月03日 18:11
☆さすらいの単身赴任者さん

心の軸がぶれないこと、大事ですね。
何を失おうとも、その軸だけは外したくないものです。

人は、見かけや見た目では何も判断できないということが、最近になってよく分かります。
同時に自分のことも誰も知らないし分からないというところからのスタートですから、
言葉を足らし、相手の心を思い遣ろうとすることで、本当の関係が築けるものだと思うものです。
 

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