2015年07月01日

連載小説「龍の道」 第157回




第157回  BOOT CAMP (6)



「うーん、なかなか上手く中(あた)ってくれないものだな────────」

 もちろんライフルの訓練は初めてではないし、宏隆にはそれなりの腕もある。
 初めて撃ったライフルは「五七式歩槍」、つまり民国57年(1968年)にアメリカのM14ライフルを台湾が国産化したものだったが、それを撃ったのが台北に向かう途中「大武號」が襲撃された時だったので、宏隆にとって射撃の初体験はいきなり実戦だったということになる。

 以来、玄洋會で拳銃とライフルの腕を磨いてきたが、射撃のフィールドが異なり、使う銃が異なれば、銃弾はたちまち標的に中らなくなる。特に屋外の射撃場では風も吹けば直射日光もあるので、そう思うようには行かない。

「Cease Fire !! ────────(シースファイアー/撃ち方止め)」

 一斉に銃声が止む。
 ”止め” と言われたら、何が何でも撃つのを止めなくてはならない。

「よし、ライフルを置いて、後ろに下がれ!」

 イアマフ(耳栓)をしていても、ドリルサージャントの声は大きく響く。

 一斉にマガジンを抜き、銃身を砂袋に掛けるように地面に置いて、素早く3メートルほど後ろの待機ゾーンまで下がる。
 各々のライフルにはナンバーを書いたステッカーが貼られている。何番のライフルを誰が使ったか、部品の紛失、盗難、損傷、不具合など、何かあった時にいつでも分かるようにしてある。これは軍が兵士に貸し出している物だからだ。現在では武器の管理を容易にするためにバーコードが併せて貼られている。


 ドリルサージャントがそれぞれのライフルが安全に処理されているかチェックして回り、OKが出ると、個人の名前が書かれたターゲットの場所まで行って、一人ずつ評価と指導が行われる。ライフルが安全確認されないと、ターゲットゾーンには入れない。

「Hey, Smith!(ヘイ、スミス)、お前が撃った弾丸は、10発のうち1発しかターゲットの中に入っていないぞ。それも何とか、引っ掛かるように当たっているだけだ。
 ほかの弾丸はどこへ行ったと思う?────────そうだ、後ろの丘の、土の中だ!、行って探してくるか?!」

「Miller!(ミラー)、お前の撃った弾丸は、確かにほとんど当たっている。ただし、それは隣の標的に命中したものだ!、どこを撃っているんだ、どこを!?」

「Walker!(ウォーカー)、”織物職人の末裔” にしては、お前はなかなかウデが良いな。5発が的の中に入っていて、そのうち3発は、まあ中心に近い。だが他の5発はターゲットの外に、あちこちに散らばっている。それがどうしてなのか、自分で考えてみるんだ」

 ”織物職人の末裔にしては”、とドリルサージャントが言った事に宏隆は思わず微笑んだ。以前から外国人の姓に興味があって、色々と調べていたからである。

 余談ながら、日本人の姓は80%が地名に由来しているが、アメリカ人の姓は大きく四つに分かれ、地名からの由来が約40%、親の名前由来が30%、職業由来が15%、それ以外は容姿や建造物、植物名、地形、ニックネームなどに由来していて興味深い。

 最初に呼ばれたスミスは、古い英語で「職人」を意味していて、Blacksmith(鍛冶師)、Goldsmith(金細工師)、Silversmith(銀細工師)などが知られているが、スミスの姓がアメリカに多いのは、ヨーロッパからの移民である鍛冶職人の多くが、スミス姓に改名したためである。
 ミラーは「ミルを扱う人=粉挽き職人」であるし、ウォーカーと言えば何と言ってもストライディングマン(大股で堂々と歩く男)が描かれた、スコッチのジョニー・ウォーカーが有名だが、織物を仕上げる際、組織を緻密にする縮絨(しゅくじゅう)という工程があり、昔は足で羊毛を盛んに踏みつけてその作業をしていたので、その職業名が「歩く」という意味になったと言われている。ジョニー・ウォーカーの祖先も、やはり織物職人であったに違いない。

「Next!─────次は、カトーか。ふむ、観光射撃だけの経験にしては、中々見事なものだな。2発がまとまって中心にヒットして、4発がターゲットの内側に入っている。
 だが、残りの4発はターゲットの外の左上と右下に集中している。これはどういうことか自分で分かるか?」

「いえ、わかりません・・・」

「おそらく、初めに撃ったのが左上、次が右下、最後に標的内に入るようになったのだろうが、この程度なら、自分の銃を持つようになれば幾らでも中るようになる。問題は、照準の合わせ方かもしれないな」

「サンキュー、サー!」

 宏隆は、スコアがそうなった理由が分かっていたが、ドリルサージャントのアドバイスを詳しく聞きたかったので、敢えて分からないと答えたのである。

「カトー、お前の Master Eye(マスターアイ)はどっちだ?」

「左です────────」

「左か、ちょっと厄介だな・・スポーツ競技なら照準器にブラインドを付けるところだが、軍隊じゃそんなことはやっていられない。マスターアイが左なら、ちょいと左眼をつぶって右眼だけで撃つしかないな」

「イエス、そのようにします」


 マスターアイというのは、いわゆる「利き眼」のことである。
 利き眼とは聞き慣れない言葉かも知れないが、利き手や利き足があるように利き目もまた存在する。普通は右利きの場合は右眼がマスターアイになるのだが、まれに宏隆のように、それが反対の者もいる。

 銃で標的を狙う際には普通、片眼をつぶって狙いを付けると思われている。しかしそれは素人考えであって、実際には両目を開けたまま照準を合わせている。
 このことを「両眼照準」と呼んでいる。ただし、両眼照準と言っても両眼で狙うわけではなく、両眼を開けたまま、片眼で照門(しょうもん=手前にある照準装置。銃身先端にある ”照星” と合わせて用いる)を覗くのである。

 このときに、利き手が右、左眼がマスターアイだと、狙うのに不具合が生じてくる。
 利き手が右なら、ライフルのストック(銃床)を右肩に当てて、右手でグリップを握って引き金を引いて撃つわけだが、その際、当然ながら右眼で照準を合わせるところを、実際には利き目の左眼で標的を見てしまっているのだ。これでは照準がズレてしまい、弾丸は当たらない。

 両眼照準を行わなくてはならない理由は、片眼で照準を合わせようとすると、急速に目が疲労して視力が低下し、標的そのものがだんだん見えなくなってしまうからだが、そもそも戦闘時に片目をつぶるという行為自体が不自然でもある。
 右利きの者がマスターアイと一致しない場合には、両眼で正しく照準が合わせられない。
 実際に射撃競技などでは、帽子に片眼を覆い隠すような特製のシェードを付けたり、照門の左側に目隠しのプレートを付けたり、あるいはゴーグルの左側にテープを貼ったりして、それを解消しようとするものがよく見られる。
 しかし、軍隊では競技のような悠長な事はしていられないので、視力の低下を怖れつつも片眼をつぶって撃つしかない。

 マスターアイを調べるのは簡単なので、読者もぜひ試して頂きたい。
 まず、手を伸ばして眼と同じ高さに指で輪を作り、両眼を開けたまま標的の中心を覗く。標的は射撃用でなくても、ちょっと遠くにある時計でもコップでも、花瓶に刺した花の一輪でも何でも良い。要は指でつくった輪の中に標的にする物が入るようにする。
 次に、どちらでも良いから片眼を閉じる。
 その時に、標的にした物が指の輪の中にあれば、開いている眼がマスターアイで、反対に片眼を閉じた時に標的が指の輪の外に出たら、開いている眼はマスターアイではない。


「・・よし、もう一度戻って10発を撃つんだ、今度はこれよりも得点を増やせよ!!」

 無論、宏隆はマスターアイのことなど、疾(と)っくに承知している。
 狙いを付ける時には左眼を閉じなくてはならないが、それが疲労を伴わない程度の短時間で撃てる訓練を、すでに宏隆は積んできているのだ。

「そんなことより・・・」

 再びマガジンをセットし、腹這いになって Prone(プロゥン=伏射)の姿勢に入る。
 宏隆には、マスターアイの問題や、ターゲットにどれほど命中するかという事などより、自分に課すべき、もっと大事な訓練があった。

 ──────────それは、”呼吸” である。

 武術に呼吸がつきものだと言うことは誰でも知っているが、射撃にも同じ要求がある事はあまり知られていない。実際に銃を訓練したことの無い人は、呼吸の統御が射撃に深く係わっていることを想像できないのである。

 当然ながら、呼吸をすれば身体は動く。どれほど体を静止させようとしても、呼吸による身体の動きは止めようがない。また、脈拍が速く強くなれば、銃を持つ手もそれに伴って大きく動いてしまう。銃弾をターゲットに正しく命中させるには、それらを押し殺す必要があるのだ。そのためには「まるで死人のように身体を静止させ、ただトリガーを引く指だけがわずかに動く」という、射撃の理想を追求し続けなくてはならない。
 実際の射撃とは、映画の派手なアクションとは全く異なる、「静」の世界なのである。

 普通は、照準を合わせ、引き金を引くまで呼吸を止める。いや、正確には、弾丸が銃口を離れるまでの間は、呼吸を止めておかなくてはならない。
 しかし、呼吸を止めると血液中の酸素が不足して、視力も判断力も低下する。したがって競技射撃の場合は、呼吸を止めてから10秒以内に照準を合わせなくてはならず、戦場などで戦闘状態の場合には4秒以内に照準を完了させなくてはならない。
 軍隊で「4秒以内に狙って撃て」と言われるのは、そのためである。

 呼吸を止める時には、息を一杯に吸い込んでから止めてはならないし、完全に吐ききってから止めてもいけない。筆者が訓練で教わったのは、肺に7割ほど息を吸って止めるというもので、自己統御によって、走ってきた後でも直ちに呼吸を落ち着かせることができ、1分間あたりの呼吸数を減少させ、脈拍もコントロールできるようになる。


「これは、まさに座禅をしているようなものだな───────────」

 宏隆がそう感じるのは尤もなことであり、ある意味では「悟る」などといった捉えどころの無いことに漠然と身を委ねるよりも、雑念の結果が即座に標的に現れる射撃の方が、より現実的な精神修養と言えるかもしれない。
 日本人は驚くだろうが、現にヨーロッパの各国では、青少年の精神性を養う健全なスポーツとして、射撃が学校の授業にも取り入れられているほどなのである。

「ワン,トゥー,スリー,フォー、・・・・」

 呼吸を止め、秒数を数えて、4秒以内に撃つ。
 その間もドクン、ドクン、と体中に脈が波打ち、ライフルを持つ手が脈動のままに動く。
 脈が動いている間は、撃てない─────ひとつの脈と次の脈の間の、その途切れたわずかな間隙を利用して、闇夜に霜が降りるように、そっとトリガー(引き金)を引く。
 トリガーは人差し指だけで引くのではない。グリップの反対側にある親指で、トリガーを引く指を感じ、受け止めてやるように引くのだ。

 引き金を引くのに必要な力は各銃ごとに違っていて、それを ”引き金の重さ” と言う。
 軍用ライフルの引き金の重さは、およそ3kgほどに設定されている。これは軍隊というところが徴兵や志願で銃の素人が集まる事を想定して銃が造られているからで、銃が身体の一部になるほど訓練を積んだなら引き金はもっと軽くても良く、実際には2kgほどが理想とされる。

 引き金は重い方が銃がブレやすい。引き金を引く力だけで銃が動いてしまうのである。
 また、引き金は真っ直ぐ後方に、そして静かに引かなくてはならない。そうしなくては銃に横揺れが生じてしまう。
 だから引き金は「引く」とは言わず「しぼる」と表現される。
 正に ”闇夜に霜の降る如く” 、慌てず騒がず、静かにそれを行わなくてはならないのだ。


「ダンッッ────────────────!!」

 一発ずつ、宏隆はそれらを忠実に行っていく。

 標的のど真ん中を打ち抜こうとするのではない。
 自分の姿勢を正しく保つこと、それを意識で統御し、呼吸と脈動を制御して、如何にして己を整えたかという事だけが、射出された弾丸の行方を決めるのである。

 これはまさしく禅だと思えるが、禅の極みは、つまりは「死ぬこと」にある。
 それは、葉隠が「死ぬ事と見付けた」武士道と同じで、かつて志の高い武士が禅門に真理を求めたように、現代に至高の武藝を追求し、軍人として訓練する自分もまた、その意味を自己の存在の根底から理解しなくてはならないと思うのである。

 宏隆は、三島由紀夫の「葉隠入門」をこのアラスカに持ってきていた。
 中学に入学したばかりの頃に本屋で見つけて思わず買い求めた本だが、その僅か二年後、著者の三島は、東京市ヶ谷の自衛隊駐屯地で割腹自殺を決行する。

 その本にある三島の言葉は、宏隆の脳裏に今もずっと離れずにある。
 死の問題は、葉隠の時代も、今の時代にも、ずっと変わらず存在している。
 葉隠の言う「死」が、とりたてて特別なものでは無いと、三島は説いていた。


 ───────「葉隠」の言つてゐる死は、何も特別なものではない。
 毎日死を心に当てることは、毎日生を心に当てることと、いはば同じだといふことを
 「葉隠」は主張してゐる。われわれはけふ死ぬと思つて仕事をするときに、その仕事が
 急にいきいきとした光を放ち出すのを認めざるをえない。
                      ( 三島由紀夫「葉隠入門」)


 この事は、何もかつての武士に限ったことではない。どんな世界にあっても、一流の真物(ほんもの)に成ることを希求するのであれば、誰もが一度は通らなくてはならない関門であるに違いない────────────宏隆には、そう思えた。



                   ( Stay tuned, to the next episode !! )





  *次回、連載小説「龍の道」 第158回の掲載は、7月15日(水)の予定です


taka_kasuga at 23:55コメント(16)連載小説:龍の道 | *第151回 〜 第160回 

コメント一覧

1. Posted by まっつ   2015年07月04日 00:49
若かりし頃は時間は無限に続くかのように感じられて、
可能性も無限に広がっていると無邪気に信じていましたが、
フト気付くと、人生も半ばを過ぎて折り返し地点にあるのだと、
達観的な気分を覚える今日この頃です。

その有限であるとの実感の先では死について考えざるを得ません。
でもほんの少しでも死に対して真摯に向き合うと、
確かに生の鮮やかさは弥増すようです。

現代日本では死の実感が希薄になってしまった分、
生の実感も曖昧になってしまったのではないかとも思います。
知らず、それ故に自身の武術も大成し難いのかとも感じます。

武術家として、人間として、この先に進みたいのであれば、
死と向き合う事は避けられない事なのだと、改めて考えさせられました。
 
2. Posted by bamboo   2015年07月04日 13:34
銃の構造や原理に対する理解・姿勢・マスターアイ・引き金・呼吸…一発の弾丸をどのように認識しているのかで、自分とプロとの格差が開くのも当然ですね。「ただ当たればいい」では済まない状況が実戦ではいくらでもあるのでしょうね…。そのことを想うと、云いようのない切なさが心の中に広がります。
自分をとても大切にしつつ、目的のためならいつでも死ねる。自分の人生を丁寧に細やかに見つめつつ、目的のためならいつでも誰かの人生を破たんさせられる。瞬間にそれができる状態を常に保ちながら生も死も謳歌できたら…由比のマグロ缶みたいになれるのでしょうか(笑)
武藝や軍事訓練を修めることの意義がもっとはっきり観え易くなる以上、今書いていることや書いて頂いたこと、今までのことにも、(もうこれ以上雑ではいたくない)まだモヤモヤしつつも、今はっきりそう感じます。
 
3. Posted by ユーカリ   2015年07月06日 08:06
対練で呼吸を乱し、ゼイゼイしている私にとって、自己統御によって、呼吸だけでなく、脈拍までコントロールできるようになるなんて、本当に驚きでした。
また、呼吸を止める事・片眼で的を見る事のリスクを配慮したうえでの、繊細な決まりごとの一つ一つに、自分の身体について、あまりに無知であると思うと同時に、人間の身体のしくみの繊細さを知り、生きていることの実感を、もっと大切にしたいと思いました。

自分の事も、関わる事も、今まで気にすること止まりで、そこで満足していた私です。銃こそ持てはしませんが、稽古で学んだことと自分の状態の違いに気付き、毎瞬どこをとっても同じことがないことを、不安ではなく喜びとして受け入れたいと思います。
 
4. Posted by 太郎冠者   2015年07月06日 20:56
>より現実的な精神修養
禅などの精神的な世界にも興味がありますが、太極拳のように自身の精神の在り方がダイレクトに現れてくるものは、曖昧な精神修養よりもよっぽど分かりやすいと思います。

とはいうものの、一般的な太極拳ではそこまでの深みには至らず、武藝館で伝承されている本物を学んでいるからこそ、そう感じるのかもしれません。
それは少し悲しいことでもありますが・・・。

>引き金の重さ
2キロや3キロって、なんだかずいぶんと重いような感じがします。本物を撃ったことがないので感覚がよくわからないですね。

少なくとも、拳銃とだいたい同じ重さのボールを手に持って構えてみて、映画のようには出来ないなぁ、ということだけはこの間分かりましたが(笑)
 
5. Posted by マルコビッチ   2015年07月06日 21:11
射撃も大変深いものなのですね。
繊細に自分を統御し、技と精神を磨いていくことは、他のあらゆる武道と同じですね。
よく考えてみれば、一発で生死が決まる世界なのだから当然なのかもしれません。

>標的のど真ん中を打ち抜こうとするのではない。

 自分の姿勢を正しく保つこと、・・・・・
これは私たちが対練を行うときに要求されることと同じですが、果たしてこの様に自分に厳しく向かい合っているのかと考えると、まだまだ甘く、余裕のあるところで行っていると思い知らされます。

本当に凄い世界です。

三島由紀夫の本は何冊か読みましたが、「葉隠入門」は読んでいません。
今度読んでみます。
 
6. Posted by とび猿   2015年07月06日 23:36
呼吸の乱れが、頭や感情、体の乱れに繋がることは度々体験しますが、長時間の散手の最中など、呼吸を統御することは難しく感じます。
また、站椿をしている時、自分の呼吸によって体が随分と動いていることに驚いたことがあります。
バタバタと動いてしまうと気が付きにくくなってしまいますが、呼吸はとても繊細で、重要なものなのだと思います。

銃というものは簡単に人を傷つける事のできる強力な攻撃力を持っていることは容易に想像できますが、今回の宏隆君の銃の訓練のように、一発一発を丁寧に訓練している人間は、決してそれを身勝手に悪用しようとはしないと思います。
武術を練るものは同様に、一歩一歩、一突き一突きを心を込めて稽古すべきであること、また、そうしなければ本当の武術というものは欠片も見えてはこないのだろうという事が、龍の道を読んでいると、ひしひしと伝わってきます。
 
7. Posted by 円山玄花   2015年07月06日 23:58
>雑念の結果が即座に標的に現れる射撃の方が、より現実的な精神修養と言えるかもしれない

なるほど、確かにその通りだと思います。
弓道でも、自分の姿勢と弓矢と的との一致が求められますが、
射撃訓練よりも遥かに自己統御がし易い環境や状態が整えられていると感じられました。
・・その二つを比べる方がおかしいのかもしれませんが(笑)

軍隊では、射撃訓練は訓練過程の最後に行われましたが、やってみれば確かにこれまでの訓練を積んでこなければできないと思えました。さらに、射撃訓練を何度も繰り返し積まなければ、到底戦場には立てないとも思えました。
『稽古のときには実戦であり、実戦の時には稽古であると思えること』と指導されることが、
如何に重要なことであるかと思います。
 
8. Posted by タイ爺   2015年07月07日 09:28
以前にPCを使った集中力・α波トレーニングを行ったことがあります。呼吸を整え、リラクゼーションを訓練するとにより脳がリラックスー体のリラックスーα波が出るー集中力が増す。というシステムを使い最終的にはどんな状況においても深呼吸を数回するだけで集中力が得られるようになるのが目的でした。そのシステムを考え出した先生が「究極のトレーニングは禅です」とおっしゃっていたのが印象的でした。
今やスポーツ界の常識となっているイメージトレーニングや集中力トレーニング、そのもとになったといわれる自律神経訓練なども東洋の瞑想や呼吸法を参考にしたといわれています。
スピルバーグのプライベートライアンに出てきたスナイパーが神の御言葉を唱えながら人を撃つなんてシュールだな、と感じていましたがあれも「呼吸法と集中」と言えなくもないなと・・。
いやもうこれは太極拳スゲエってことで。
 
9. Posted by taka_kasga   2015年07月10日 18:34
☆まっつさん

>達観的な気分を憶える

私のような年齢になると、
人生も半ばを過ぎるどころか、もう先が見えてきたような感じで (^_^;)、
達観もナ二も、ホントに真理を悟らなくてはならない切実さが迫ります。

>武術家として、人間として、この先に進みたいのであれば

─────そして、死はもう確実だと思う時に、するりと手のうちを逃げて行った。
人生というものは、死に身をすり寄せないと、そのほんとうの力も人間の生の粘り強さも、
示すことができないという仕組みになっている。

             *「若きサムライのために」三島由紀夫 *
 
10. Posted by taka_kasga   2015年07月10日 18:34
☆ bamboo さん

>自分とプロとの格差が開くのも当然ですね

いやいや、それは言葉のアヤなのでしょうが、
プロとの「違い」は、「格差」なんてモンじゃありません。

そもそも一般市民なんかとは比較にならず、
格差と言うよりは「雲泥の差」、あるいは「全くの別物」です。

銃を扱うプロというのは、たとえ交番のお巡りさんでも、
本物の銃で、それなりに凶悪犯を撃つ訓練を積んでいるわけで、
これが自衛隊や警察の特殊部隊、公安警察などになると、
もっと厳しい事態に対する訓練を積んでいるワケです。

軍隊の訓練などでも、たった数十日間の基礎訓練を受けただけでも、
その人は明らかに「プロ」の側に属する人間になってしまうわけですが、
一般人がハワイやベトナムで数十日間銃を撃ってきても、プロにはなれません。

どのような分野でも、プロとアマとは雲泥の差があり、
それは武藝館の太極拳と、表演の太極拳ほどの差があります。
その違いは、「プロとしての訓練体系=ヒトを殺傷するための最も効率的な技術」を、
「仕事」として叩き込まれてきたかどうかによるワケです。
 
11. Posted by taka_kasga   2015年07月10日 18:35
☆ユーカリさん

一度、道場でライフルの扱い方を教わると良いですね。
たとえトイガンでも、プロに教わるのと、サバゲーをやっている子供に教わるのとでは、
それこそ雲泥の差があります。

幸い、本部道場には自衛隊モデルのライフルが置いてある(らしい)ので、
本物の「訓練」がどのようなものか、実銃でこそありませんが、
訓練体系としては同じことを体験させてもらえるはずです。

上のコメントにも書きましたが、プロとアマの差とは、本物の訓練を経たかどうかです。
そして、本物の訓練でしか、武藝の「スピリット」は養成されません。

それは、とても貴重な体験となるに違いありません。
 
12. Posted by taka_kasga   2015年07月10日 18:37
☆太郎冠者さん

>武藝館で伝承されている本物を・・

本物というのは本物であり本物だから本物である、
なんて、バカなセリフを言わなくても、本物はやっぱりスゴイですね。

私が数々のホンモノと出会った時には、ホネの髄までシビれました。
これぞ正しく武藝、武術、闘争術!!・・である、と。

宏隆君が初めて王老師に出会った時のような感動を、
より多くの武術を目指す人に体験してもらいたいものです。
 
13. Posted by taka_kasga   2015年07月10日 18:38
☆マルコビッチさん

>「葉隠入門」

ぜひ読んでみることをお勧めします。

上のコメントに書いた「若きサムライのために」や、「行動学入門」も是非どうぞ。
 
14. Posted by taka_kasga   2015年07月10日 18:38
☆とび猿さん

上のコメントで「プロ」と「アマ」について、ひと言申し上げましたが、
それは同時に、「ホンモノ」と「ニセモノ」の違いでもあるわけです。

たとえば太極拳では、
科学的根拠の無い伝統を振りかざしている所は「ニセモノ」と言うべきで、
「ホンモノ」なら、たとえそれが四両撥千斤でも用意不用力でも、
それらの要訣は必ず科学的に証明し得るモノであって、
「発勁はこのようにハッスルのだと伝えられてきた」とか、
「こんなふうに動くのだと教えられてきた」という程度の内容では、
未来に太極拳の原理やシステムを遺して行くことは、
どれほどハッスルしても、非常に困難であると思われます。
 
15. Posted by taka_kasga   2015年07月10日 18:39
☆玄花さん

>さらに、射撃訓練を何度も繰り返し積まなければ、到底戦場には立てないと・・・

日本の自衛隊は余りにも予算が少なすぎます。
訓練でわずか数十発ほど撃ったあとの薬莢を拾って回収するような軍隊は、
世界広しといえども、わが国だけでしょう。

これは偏に戦後の米国による日本弱体化政策と、
戦後教育ですっかりインプットされた平和盲信から来る軍事アレルギーと、
経済成長で頽廃した政治家たちが米中に機嫌を取りながら積み重ねてきた、
敗戦国家ならではの大義不在の哀しい現象と言えます。

トコロ変われば、と言いますが、
銃の訓練で、来る日も来る日も千発ずつ撃たされるヒトも居るわけで。
もちろん薬莢拾いなんぞ、日が暮れるのでやりません。
そして、そうすることで、ようやく「撃つこと」が分かってきます。
さらには、実際に現場に行かされ、「撃たれる」経験をするコトで銃の怖さも分かる。

太極拳の歩法や套路、また、人生における人間関係も同じですね。
 
16. Posted by taka_kasga   2015年07月10日 18:39
☆タイ爺さん

プライベートライアンは、たった一人の兵士を救うために8人が命を賭ける、
その兵士の兄弟が全員死亡したので、死なせるわけにはいかない、
帰還させるために、他の多くの命が危険に晒されても仕方がない・・・
という、如何にもアメリカらしい矛盾のツボを突いた映画でした。
戦闘シーンは実際の戦場にかなり近いもので、
普通の戦争映画を観て、戦場で「死」に直面することがイメージできない人には、
ぜひ、この映画を観てほしいものです。

出演者たちが厳しいブートキャンプを体験して撮影に臨んだことも、
アイルランド陸軍が250名の兵士をエキストラとしてレンタル派遣したのも、
この映画をよりリアルにしていましたね。

>「呼吸法と集中」と言えなくもないな

うむ、確かに、ね。

>いやもうこれは太極拳スゲエってことで

シメの言葉が好いですね。
確かに、ホンマモンの太極拳は、ひたすらスゲエです。

Hurrahh for the Sgaykan !!(スゲー館万歳!)
 

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