2015年05月26日

練拳Diary #60「武術的な強さとは その4」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花



 『強くなる為に必要なことは技術ではない。知識である』とは、師父が仰った言葉です。
 また『「知識」とは単純に道場で教えられたことを頭に詰め込んだ結果ではなく、正しい知識によって得られた豊かな発想である』ということも言われます。

 普通、「知識」と言えば知ることであり、自分で探したり人に教えてもらうことで徐々に勉強している対象の全体が見えてくるものです。
 その対象が太極拳のように日常的なものでないのなら独学は難しく、やはり考え方を教わらなければ修得までには到底至らないのだと思えます。

 しかしながら、初心の頃の何も知らなかったときに比べて、教わることが多くなり、知識が増えてきたとき、それがそのまま上達に繋がっているかと言えば、そうばかりでもないことを誰もが経験していることでしょう。

 初心の頃には、見るもの聞くこと全てが新しいことばかりで、わけも分からないので、とにかく動こうとします。相手と組んで崩そうとした際にも、ただ動こうとすることで精一杯なわけです。
 ところが、稽古を重ねる度に新しいことを教わり、知識が自分の中に増えてきて、今度は考えることも増えてくるわけです。身体の向きはこれで良いのか、守るべき立ち方はどうであったか、相手を崩す際に気をつけることは・・などなど、気になることがたくさんあるために、身体が十分には動かなくなります。
 これが稽古の積み重ねによって熟(こな)れてくると、そのような事に気を取られることなく、身体は勝手に動くようになるのです。

 このことについて、沢庵禅師は著書の中で、音の高さを表す調子でも同じことであると書かれています。一番低い音から、だんだん上げていって同じ調子の一番高いところはその上の調子の一番低い音となる。つまり、下の調子の最高は、上の調子の最低と隣り合わせになる、という具合です。
 ドレミで言うと、「ド」の音から始まって、「シ」までいくと次のオクターブの「ド」と隣り合わせである、というところでしょうか。

 そしてまた、新しいことを教えられたり自分でも新しい発見があると、またしてもそのことが気にかかるようになって、身体は不自由に感じられるようになります。
 このサイクル自体は太極拳に限られたことではなく、他の武術でも格闘技でも、スポーツでも学問の分野であっても、ある程度やってきた人であれば声を揃えて「同じである」と言います。

 さて、学習というものには必ずサイクルがあるわけですが、時として得られた知識に気を取られ、身体が不自由な状態のまま抜け出せないことがあります。
 そのような場合、これまでに習ったことを思い起こせるだけ思い出し、コレが足りないのか、いやアレが違うのか・・と、手当たり次第に引っ張り出すものだから、更に気を取られる要素が増えてきて、どうにも身動きが取れなくなってしまうのです。

 なぜこのような状態が起こるかといえば、得られた知識にのみ気を取られて、冒頭に書いた師父の言葉にある、「知識によって得られた豊かな発想」が足りていないからだと言えます。
 それでは、「豊かな発想」とはいったいどのようなことを言うのでしょうか。

 一つの考え方に囚われない、自由な発想。
 そうは言っても、自分の得てきた情報を基に考えてしまうのが人間の習性であり、ひとつの物事に対して全く別の角度から発想を持つことは、なかなか難しいものです。

 どうしたら自由で豊かな発想を持つことができるのかを考えたとき、それこそ人によって様々な意見があるとは思いますが、やはり「経験」ということは外せないように思います。
 経験といっても、単に何処かへ行って何かをしたという体験だけではなく、見る・聴く・感じることの全てが経験になると言えるでしょう。

 自分にとって未知なる考え方に触れたとき。
 それは受け取りかた次第で途方も無い経験となります。

 私は、あるプロジェクトの成功例を見て感銘を受けたことがあります。
 それは、宇宙の謎に迫る最新型の大型望遠鏡のお話です。

 世界最大の電波望遠鏡、「ALMA(アルマ)」をご存知でしょうか。
 スペイン語で「魂」という意味もあるというアルマの正式名称は、「アタカマ大型ミリ波サブミリ波干渉計」といいます。
 この電波望遠鏡は、チリ北部の標高5,000メートルを超えるアタカマ砂漠の一角に設置されています。そこには巨大なお椀型のパラボラアンテナが66台設置されており、配置の仕方によっては全体で直径18.5キロメートルになります。これを、ひとつの超高性能電波望遠鏡として運用するわけです。
 全体の大きさとしては、ちょうど東京の山手線内に匹敵する広さになります。

 日米欧などが参加する国際プロジェクトとして2002年に建設がスタートし、本格的な運用が始まったのは2013年の3月。
 アルマは、天体の発するミリ波(波長1〜10ミリ)やサブミリ波(0.1〜1ミリ)の短い波長の電波をアンテナでとらえ、観測を行います。解像度は人間の視力にすると最大6000にも達し、ハッブル宇宙望遠鏡の10倍にもなるとか。
 このため、これまでに観測が難しかったものが観測可能になり、星や惑星が誕生する過程を知る上で威力を発揮すると期待されているのです。

 私が感動したのはこの望遠鏡によって発見された新しいことではなく、この望遠鏡の製造過程にあります。
 アルマを構成する66台のアンテナのうち、日本が担当しているのは16台。そのうち、主鏡の口径が12メートルのアンテナが4台で、口径7メートルのアンテナが12台あります。
 ちなみに、これらの全てのアンテナを製造したのは、ハワイの反射望遠鏡「すばる」や、長野県野辺山の電波望遠鏡などを手がけた実績のある、三菱電機です。

 お椀型の主鏡は、内側にアルミ製の鏡を200枚ほど並べてあり、それらの鏡で電波を反射させ、一点に収束させることで観測する仕組みとなっています。
 電波望遠鏡は精度が命であるため、普通は軽くて強度が高く、歪みにくい炭素繊維強化プラスチックを用います。欧米も、日本の口径12メートルのアンテナも、もちろんそれを用いていますが、口径7メートルの小さいアンテナは、予算の制約のため、その骨組みの素材に鉄を採用しているのです。
 高い観測精度を保つために、歪みの許容範囲は僅か髪の毛4分の1本分(20マイクロメートル)です。温度変化に弱くゆがみやすい鉄を使うことを知った欧米の関係者たちは、技術的に難しすぎることを指摘しました。

 たとえば、線路のレールの繋ぎ目には遊間(ゆうかん・joint gap)と呼ばれる隙間がありますが、これは、鉄でできているレールの温度伸縮に備えて設けられているのです。
 つまり、夏はレールが伸びるし、冬には縮むので、その伸縮によってレールが歪まないように工夫されているわけです。
 遊間の管理は明治45年には定められていたようで、軌条遊間表というものには「野外ノ温度、三十度未満、遊間量7.9375mm」などと記されています。
 現在も一年に二回、春と秋に遊間検査が行われているようですが、近年はロングレール化が進み、将来的には、あの遊間によるガタン・ゴトンという独特の音もなくなるのではないかと言われています。

 さて、アタカマ砂漠の1日の温度差は50度近くになるということですから、アンテナの骨組みに鉄を使うことが如何に大変なことであるか、想像に難くありません。
 気温の変化が大きく、理想の鏡面を維持しにくい厳しい環境の中で、鉄しか使えない時、皆さんだったらどうするでしょうか。

 三菱電機は、鏡の一部分だけ日光が当たった場合でも、全体の温度を均一に保てるようにすれば良いと考え、鏡を支える骨組みをパイプにして、中に秒速4〜12メートル以上の強い風を流すことにしたのです。
 その結果、主鏡の精度は何と髪の毛5分の一本分以内に抑えることが可能になりました。欧米の人々には「神業だ!」と、驚かれたと言います。

 言ってしまえばこれだけのことなのですが、自分だったらどのように考えたかを想像すると、この発想の持ち方にとてもワクワクしてきます。
 鉄という素材を変えるのでもなく、観測精度を妥協するのでもなく、鉄という素材が温度変化に弱いのであれば、温度そのものを均一にすればいいというその発想。
 そして、それを可能にするために骨組みをパイプにして風を流すというアイディア。

 自分が毎日の生活でこのような発想を持てたら、どれ程楽しいことだろうかと思います。
 また、自分がライフワークとして取り組んでいる太極拳についても、まだまだ発想の貧困さやひとつのことに囚われる心の弱さなどが感じられます。

 既成概念に囚われない自由な発想は、考えることを諦めずに僅かな可能性をも信じることによって湧き出てくるものだと言えるでしょう。それによって、これまでに得てきた知識が最大に活かされ、さらに新しい発見へと繋がるに違いないのです。
 その為に必要なことは、自分が自分の人生や周りの人と誠実に向かい合うことであり、何よりも自分自身ときちんと向かい合っていることだと言えます。

 だからこそ、沢庵禅師が柳生宗矩のために書いた「不動智神妙録」は、はじめから終わりまで「心」のことについて著されているのだと思います。
 面白いもので、一冊の本を読んでも、読んだその時々の自分の状態によって、まったく別の書のように思えることがあります。「不動智神妙録」も、これまでに何回も読み直してきた書物のひとつですが、あるときは仏法の書に、またあるときは兵法の書に思われました。
そして、今読み直してみれば、「身」の在り方よりも「心」の在り方が書かれているように思えます。

 武術、則ち戦いにおいては、どれ程高度な技術を心得ていようとも、それを扱う人間の心が正しい位置になければ何の役にも立たないことでしょう。
 ましてや、初めて対峙する敵との戦いの中で最も必要なことは何かと考えれば、技術精度の高さよりも、発想の転換を際限なく持てることであるはずです。

 道場の稽古で言えば、ひとつのことを聞いてそのことの理解に努めているのでは、精々わかってもひとつふたつのことです。一を聞いて十を知るような精神状態で臨むことによってこそ、豊かな発想が出てくるのです。
 沢庵禅師の本に、「一を挙げることで直ぐに三を明らかにすることや、金銀を目分量で量っても少しの間違いもないほど賢く利口な人は、普通一般に多い賢い性質であって、なにも特別なことではない」と、書かれています。

 そこで、「自分にはとても・・」と逃げるのではなく、まず自分がそういう状態であろうとする意識が必要です。
 いつも道場で言われていることですが、それができるかどうかではなく、やろうとしているかどうかなのです。一を聞いて十を知る心積もりをし、その意識でもって稽古に臨む。
 当然、見えるものも、聞こえることも、持てる発想も変わってくるはずです。


                                (つづく)

xuanhua at 23:51コメント(20)練拳 Diary | *#51〜#60 

コメント一覧

1. Posted by まっつ   2015年05月28日 00:33
心と身体の居着きの問題に関しては、
私も何度となく陥ってきた自覚があり、
今に至るまで、如何に整備していくかは大きな課題です。

よくよく思い返すと、今そこにある実感や実体験を離れる程に、
心身の偏りは助長され、居着きに陥る傾向が増長されるように感じます。

逆に、日々新しい実感を発見できるように、
先ず自身の状態を整備する事を心掛け、
感じられる事を積み重ねる事に工夫を傾けられれば、
その実感が居着きを打開できるとも感じています。

ゼロベースで始められる心構えの整備こそが、
初心に帰る事として必要とされるのだと思います。
 
2. Posted by 円山玄花   2015年05月29日 14:05
☆まっつさん

自己の制御と整備はなかなか難しいですね。
難しく感じられることが、生きている実感かと思えてしまうほどです(笑)
そして、“難しさ”に囚われてしまうと、新しいものの見方も発想も、出てこないのですよね。

まっつさんが言う、
「今そこにある実感や実体験を離れる・・」ということと、
「感じられる事を積み重ねる事・・」という二つの方向性。
なぜ、実感や実体験を離れたがるのか、あるいは、実感を積み重ねたがるのか、
そして、この方向性を決めるものは何であるのか、分かっていきたいと思います。
 
3. Posted by 春日敬之   2015年05月29日 17:15
>強くなるために必要な事は技術ではない。知識である。

知識とは「認識と理解」を指すものですね。
つまりそれは、玄門太極のシステムが、認識と理解によって成る「科学」である、
という断固たる表明でもあります。

>知識が自分の中に増えてきて、考えることも増えてくる
>気になることが沢山あるために身体が十分には動かなくなる

「考えること」になってしまっては、無論、強くはなれません。
認識とは、モノゴトの何であるかを「識=分析・区分・識別・知覚」することであり、
理解とは、その意味や内容、道理や筋道を正しく「呑み込む」ことですから、
「考えること=経験や知識を元にあれこれ頭を働かせること」とは、自ずと異なります。
日常的に思われている「知る」というものよりも、「観る=観照する」というニュアンスに限りなく近いものでしょうか。
稽古の積み重ねによって身体が勝手に動くようになるのは、その「観ること」が出来るようになるためで、「考えること=思量」が否定されるからですね。

>不動智神妙録

それが始めから終わりまで「心」について書かれているのは、
「心=精神作用」が「思考」を介して造られる、より高次元な脳の働きであるからでしょう。
そこでは「知識」は「智慧=物事をありの儘に受容し、真理を見極める認識力」と呼ぶべきものに変容して行くのだと思います。

「用意不用力」を原則とする太極拳では、精神作用へのアプローチが求められるのは当然であり、太極拳で説かれる「身のあり方」は、実は「意=心の動き」のあり方である、と理解されるべきなのでしょう。
 
4. Posted by とび猿   2015年05月30日 12:22
一つの考え方に囚われていると、そこから何を工夫しようとも、また、視野を広げようとしようとも、元の考えに縛られていて実際には何も変わっていない・・・
このようなことが幾度もありますが、逆に、程度の差こそあれ、そうではない状態の時の自分を感じることもあります。
ここにきて、この2つは全く別のものなのだと思えるようになりました。

一つの考え方に囚われない、自由な発想、これは自分にとって大きな課題ですが、まず自分が現在どちらに寄っているか自覚し、新たな発想よや目を持てるよう調整していくことが必要だと感じます。
 
5. Posted by さすらいの単身赴任者   2015年05月30日 17:28
浅学非才も省みずのコメントにて失礼いたします。
師父、玄花先生の稽古でのお言葉に、時々、ドキッとすることがあります。師父、玄花先生の楽しいウイットにとんだコメントにもドキッとすることはしばしばですが・・・
歩法でいつも言われている留意点が全然別の場面、対錬において言われて、「まさかそのためなのか」と勝手に、ハッとすることがあります。
発想ではなく私の場合「妄想」と思いますが・・
また虚実分明は自分の動きからノイズを除き、虚と実を明らかにし、正しい構造とその効果を知るため?一般人はノイズが入り混じり、初級者が構造変化を与えようとしても
その正しい影響が見えない?
太極拳の正しい構造を知れば、ノイズの大きい人間にも効果がでる?
基本功の時、なぜあのような形で見せてくださるのか、なぜ他の武道のようにしないのか?
深い深い深慮遠望がかくされている日々の稽古
ひとときも気を抜けません。
 
6. Posted by 太郎冠者   2015年05月31日 03:37
自分に何か理解が起こったとき、それまで底だと思っていたものの底がスポッと抜けてしまい、
急に自分自身の在り方が不安定なものになってしまったように感じることがしばしばあります。

それまで良かったかというとそうではなく、理解が起こってからのほうが良くなっているはずなのですが、さらに奥深いものが見えてしまったぶん、
現在の状態が非常に底の浅い状態になったような気がするものです。
なので次のオクターブに移ったという表現は、非常に腑に落ちるものがありました。

電波望遠鏡のアンテナの話ではないですが、何かに興味を持って取り組んでいると、それが直接太極拳に関係あるかないかにかかわらず、
太極拳を含めたいろいろな分野で、一度に何かが自分の中に流れ込んでくるような感覚があるから不思議です。

凝り固まった頭では何もわからない、とつくづく感じさせられますね。
 
7. Posted by MIB(▼_▼¬   2015年05月31日 07:13
学校で数学の公式を教わり、問題に当てはめていく方法を習ったときに、
それをパターン解法としてトレーニングしていくか、
公式を自分で導けるまで理解しようとするか、
学習の仕方の違いによってその後の応用に大きな差が出てくると思います。
パターン別攻略法としてだけ練習した人からは、
新しいタイプの問題を解いていく力は出てきづらいでしょう。
教えられたことを自分の手で導きなおした人は、
数式を見た時の反応が自ずから深く多角的になるでしょう。
「豊かな発想」という言葉から、自分はそのようなことを思いました。

不動智神妙録を読んでみました。
文意がよく掴めなかった箇所もあり、感想が余りまとまらないのですが、
不動智とここで呼ばれているあり方をある種の境地として見るか、
最初からそのようにあるべきものとして見るか、
(沢庵禅師は稽古の時の心とそこから至る心を分けて書いているようにも見えるが)
何を学んでいるのかという認識に違いを生むように感じました。
 
8. Posted by マルコビッチ   2015年05月31日 23:02

師父のお話をお聞きしていると、その知識の豊富さに驚かされます。
どうしてそんな事まで・・と思うような事まで多種にわたりご存じで、お忙しいのにどうやってそんなに知識を得ているのだろうと思ってしまいます。
いろいろな事に興味を持って、純粋に知りたいと思うからなのでしょう。
「まあいいかぁ・・そんな事知らなくたって・・」というのは、師父にはないのだと思えます。
知識や経験が多ければ多い分、発想も広がっていくのかなと思いますが、その発想によって理解が起これば、得た知識ももういらないものとなるでしょう。
そうして考えると、知識は理解のための道具のようなものかと思います。
以前どこかのコメントで書いたかもしれませんが、もう何年も前、私はあることでとても悩んでいて、その状態は泥沼の底にいるような状態で、辛く苦しい日々でした。それでもその苦しみが何故なのかずっと求めていました。
そんなある日、書店で一冊の本が気になってあまり中も見ずに購入しました。
その本に引かれていった様な感覚でした。
自分の悩んでいることとはあまり関係ないようなその本を、帰りの電車の中で読み始めたのですが、そこには今までの自分には考えられないようなことが書かれていて、それはもう考え方がひっくり返るというか、細胞が総入れ替えするような衝撃で涙が止まりませんでした。
そんな経験をしたのですが、その本の内容はあまり覚えていません。
もしその時、その内容についてあれこれと考えていたら、その事は私の中に入ってこなかったかもしれません。
この記事を読んで、こんな私の経験を思い出しましたが、やはり求め続けること、できるかどうかではなく、やろうとしているかで、師父や玄花さんの仰っていることが入ってくるのかと思いました。
 
9. Posted by タイ爺   2015年06月01日 11:50
「秘事は睫」
ことわざであまりにも近すぎて(見えすぎて)気が付かない(見えない)
案外、秘伝、秘密というのは近くにある。

人は知識や経験のないものはそこに在っても見えないことが往々にしてあります。
先日も師父や玄花后嗣とお話をしていて良く分かりました。
一つの物事もマクロな視点やミクロな視点で見る、知る、考え行動することで知識として蓄積され、それが太極拳に反映されていくのでしょう。
現代科学の発達していない昔は八卦や易、経絡といった理論で人間を紐解き説明されたのでしょうが、現代に生きる我々は現代科学で解明する姿勢が必要なのかもしれません。
 
10. Posted by bamboo   2015年06月03日 00:00
様々な教えにどう向き合ってきたのかが、日常のふとした瞬間に表れている…。そうなるともう、人生で起こるすべてのことに功夫が表れ、すべてが稽古になる。最高の武藝を学ぶ以上、最高に高度で孤独なのも考えてみれば当然で…またそれ故に、身に付くものや人生までもが高度になれる…。
近頃自分の書いていることがなんだか受け売りっぽいですが(苦笑) 最近、自分が考えるより早く何かを判断し、思うより情緒豊かに、淡々と行動することに(このほうが楽だし早いな…)と感じることが増えました。
不動智神妙録の、この「心」を身につけられたとき、自分は一体どうなるのか、わからないようなわかるようなこの先を、いまは観てみたいです。
 
11. Posted by ユーカリ   2015年06月03日 05:49
コメントが大変遅くなり、申し訳ありません。

>見る・聴く・感じることの全てが経験になると言えるでしょう。
私の中では、「経験」とは、何か特別な事としてとらえていました。故に生活の中で、毎瞬を経験として受け入れられず、実際と結びつかないのだと思います。
稽古でも、「発想をまねなさい」とご指導いただきますが、できるできないに囚われて、自身の発想や精神状態と、示して頂いている事をリアルなものとして対比できなくなっていたと感じます。

「自分にはとても…」から始まるのではなく、「一を聞いて十を知るような精神状態であろうとする」自分に変わりたいと思います。
 
12. Posted by 円山玄花   2015年06月03日 23:59
☆春日さん

自分の稽古の傾向を見ると、「観ることで考える」になっており、その結果きちんと観照することや、観照することで自分に入ってくることを受け容れられていなかったように思います。
この傾向の発端は、稽古を感覚に頼らず知的に理論的に理解していこうとしたことでした。
その結果、限定的なものの見方になり、そこで出てくる疑問を「考える」ようになったのです。

ひとたび限定的な見方をしてしまうと、全体的にみることは難しく感じられていましたが、
自分が限定したかった理由と、すでに全体的な限定できないものだったと気がつくことで、
ようやく自分に与えた呪縛から開放される気がします。
 
13. Posted by 円山玄花   2015年06月04日 01:53
☆とび猿さん

『何であれ、自分のしていることが「喜び」でなければ、勉強もできないし成長も起こり得ない』と、師父に言って頂いたことがあります。

自分の課題や問題点に取り組もうというとき、それが喜びになるのは大変なことですが、
今日という1日が始まったときに、昨日と同じ1日が始まったと思うか、
新しい1日が始まったと思えるかは、自分次第ですね。
 
14. Posted by 円山玄花   2015年06月04日 02:40
☆さすらいの単身赴任者さん

稽古での閃きや気づきは、発想か妄想かに関係なく大事にして頂きたいですね。
特に「気づくことのできる精神状態」が大事だと思います。

コメント頂いた“ノイズ”は、“乱れ”と考えて良いでしょうか。
確かに虚実を明らかにすることによって、ブレや乱れは少なくなりますし、構造の理解にも繋がると思いますが、まずはシンプルに「虚と実を明らかにする」と捉え、基本功でも套路でも、対練でも虚実を追究してみると良いと思います。

>一般人はノイズが入り混じり、初心者が構造変化を与えようとしても
>その正しい影響が見えない?
>太極拳の正しい構造を知れば、ノイズの大きい人間にも効果がでる?

・・もしかして、暴漢を相手に太極拳を使ったことがあるのでしょうか?(汗)
まったくもって、ひとときも気を抜けませんね。
 
15. Posted by 円山玄花   2015年06月04日 17:42
☆太郎冠者さん

>凝り固まった頭では何も分からない

確かに極端に目に映る世界が変わりますよね。
たとえば、色は褪せて見えるし、声や音が無機質に聞こえるし、味覚も乏しくなります。
人間は精神で生きているのだとつくづく感じた頃、道場で脳のお話を聞く機会が増え、
自己統御の前に、そして自己否定の前に、自己とは何であるのかをよく知る必要があると思いました。
淀むことなく留まることなく、柔軟な頭で居続けたいものですね。
 
16. Posted by 円山玄花   2015年06月04日 21:10
☆MIB(▼_▼¬さん

>不動智

私は、ある種の境地でありながら、最初からそのようにあるべきものではないかと思います。
無極を理解するには無極から始めるしか手立てなく、無極が理解されることはある種の境地であると思えますし、軍隊に入ったばかりのヒヨッコは軍人として始まりますが、最初からプロ意識があります。・・もちろん、未知の世界のことなので、途中で挫折する人も少なくありませんが、
結局、自分がこの人生で何を生きたいのか、どのレベルで修行を積みたいのか、だと思います。
 
17. Posted by 円山玄花   2015年06月04日 21:19
☆マルコビッチさん

つい先日も師父から、スマートフォンの機能について、私にとって必要ないから知らないままにしていたことを指摘され、師父だったら必要がなくても興味を持って知っておくと仰いました。
師父の知識の豊富さは、そのような心掛けあってのことなのかも知れません。

少し、意欲や興味、やる気などについて勉強してみようと思います。
 
18. Posted by 円山玄花   2015年06月04日 22:08
☆タイ爺さん

>「秘事は睫」

最も近くて、最も気がつきにくいことは、自分のことである、と思います。
自分のことを抜きにしてどれ程の知識を得ようとも、経験を積もうとも、
人生の役には立たないですね。
タイ爺さんが仰るように、様々な視点で見ることが必要なのでしょう。
そして、視点の違いが「科学的に検証する」ことに繋がるのだと思います。
 
19. Posted by 円山玄花   2015年06月04日 22:14
☆bambooさん

>自分が考えるより早く何かを判断し、思うより情緒豊かに、淡々と行動することに
>(この方が楽だし早いな…)と感じることが増えました

少しbambooさんのコメントからは外れてしまうかもしれませんが、
先日、木とマッチだけで火を熾してきました。
もとより焚き火が目的でしたから、火はどんどん大きくなります。
その火の、自由に勝手気儘にはじけては荒れ狂う火を相手に、慌てたり冷や冷やしながら、
何とか調整しているうちに、ふと自分が何も考えていないことに気がつきました。
考えずに感じて、身体で判断したときには動いている状態で、
やがて少しずつ法則が感じられるようになりました。
とても面白かったと同時に、普段の自分は一体どれ程考えたり予想したりしているのかと思い、
愕然としました。これでは身体が動かないですし、法則も分からないのだと思いました。
 
20. Posted by 円山玄花   2015年06月05日 02:26
☆ユーカリさん

自分が何をしても上手くいかなくて落ち込む一方な時には、
本当に何をしても「負」とか「X(バツ)」や「マイナス」しか現れないように思えますが、
大事なことは、そこに自分の考えを装飾しないことだと思います。

ユーカリさんのコメントには、
「受け容れられなかった」
「実際と結びつかなかった」
「できるできないに囚われていた」
「リアルなものとして対比できなくなっていた」
・・とありましたが、これらは全て表面に飾られた巧みな言葉であり、本質ではないと思います。
「〇〇だった」と思える自分自身はどうであるのか。〇の部分には幾つでも言葉を入れることができますが、自分自身はひとつです。
そのひとつがきちんと分かれば、すべての問題に立ち向かうことができると思いますし、
何より、自分自身から逃げているうちは、そもそも人生が始まっていないのだと、
私はそう思って勉強しています。
 

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