2015年04月25日

歩々是道場 「螺旋の構造 その12」

   「纏絲の構造 その5」
                   by のら
(一般・武藝クラス所属)



うなぎ美味し、かば焼き

猛王烈:のらさぁ〜ん!、今年はブログ初登場ですよね。なかなか「螺旋の構造」がアップされないので、 ♪ 待〜てど暮らせどの、やるせない ”宵待草状態” でしたよ。

の ら:夢二ね。今宵は月も出ぬそうな・・皆既月食も曇って見られなかったわね。
 遅くなっちゃってごめんなさい。今年もバシバシ飛ばして行きましょう〜!!

猛王烈:あはは、やっぱしスゲ〜館は「ふっ飛ばし専門」ってコトすかネ。
 Anyway、昨年11月の「創立二十周年記念行事」は、すごく良かったっスね〜、厳粛ながらも、とても感動的な式典と祝賀会でした。

の ら:そうね、立派な式典ができて、祝賀会には当館にご縁のある方々にもご来賓としてお越し頂けたし、同じ11月には記念の稽古動画も出すことができたワね。

猛王烈:その動画ですけど、あんな師父のナマの動きを公開しても良いんスかねぇ?

の ら:師父は「ぜんぜん構わないよ」って仰ってたんだけれど、スタッフ逹は、公開したらマズイような動きは一応全部カットしました、って言ってたわ。

猛王烈:あれだけでも、充分マズイと思いますけどねぇ・・

の ら:でも、師父はある人から『見せたらマズい映像などと言うのは、随分〇〇の△▽が小さい(狭量であるという意味の卑俗語)。かの塩田剛三先生などは、いくらでも見たら良い、盗んだらいい、真似できるものならやったらいい、と仰っていた』・・みたいなコトを言われたらしいのだけれど。

猛王烈:え〜っ!、師父に対して、そんな失礼なことを言う人が・・?!

の ら:でも師父は『自分は天下の達人である塩田先生のような実力も器量も持ち合わせがないので、今後も大いに隠しますよ』・・と、笑って答えられたそうよ。

猛王烈:師父は、ご自分のことを「ウナギや茶畑に囲まれた東海の片田舎で細々と太極拳を教えている武術家」だと仰っていますからね。
 このあいだも「♬ う〜な〜ぎ〜美味し、か〜ばぁ〜や〜き〜」と、朗々と唄っておられましたし。(ウサギ追〜いし、っスよね、アレは・・はは)

の ら:たとえ余す所なく映像を公開したところで、その「中身」が本当に判る人は滅多に居ないかも知れないわね。
 実際に私たちが稽古で、この目で、目の前で見ていても全く分からないのだし、正式弟子や研究會の人たちが直接それを体験し、他の人が勁を喰らうのを間近で目にして、原理がこうだと説明されてさえ、中々それを理解できないのだから。

猛王烈:それじゃ、そのような事を言われても「大いに隠しますよ」と仰る、師父のココロというのは?

の ら:そもそも、師父は玄門の伝承を外部に秘匿するよう厳しく命じられていて、秘伝に関わるような撮影は禁じられているのよ。正式弟子用にご自分の套路を撮影する事さえも許されていない。それを守って居られるだけのことで、塩田先生のお言葉と比較すること自体意味がないんだけれどね。

猛王烈:なるほど・・お立場が違うってことですよね。

の ら:それに、映像に何が秘匿されているのかを理解できるなら、師父と同じことが再現出来るってコトだと思うし・・


赤子も手をヒネる?

猛王烈:・・さて、前回のお話の続きですが、丹田やハラをグルグル回すことが「纏絲勁」であると言う、その根拠は、いったい何なんでしょうかね?

の ら:もしそこに「科学的な根拠」があるのなら、とても興味深いし、私たちの纏絲勁理論とも比較研究することが出来るので勉強になるのだけれど。
 でも、日本のみならず本場の中国でも、それを「学術的・物理的・科学的」に説いたり、実際に正しい「纏絲勁」や「四両撥千斤」を示して、それがどのように生じ、どのように用いられるが故に、太極拳がこのような優れた武術で有り得るのだと証明できる人が、果たしてどれほど存在するのかしら?・・私のように限りなく素人に近いレベルの者でも、それは素朴な疑問として残るわね。

猛王烈:でもまあ、ホントは多くの人が、疑問に思っているンでしょうね、きっと。

の ら:ヒネったりネジったりする動きで纏絲勁を説いたり、明らかにリキミと見えるものを勁力として紹介しているビデオなんかが出るたびに、他人事とは言え、少々気になってしまうわ。

猛王烈:そうですね。どう見たって「リキミ」としか思えないものを「勁力」と説かれてしまうと、太極拳の勁力がそうなのだと、学ぶ人たちが誤解してしまう事の方に、大きな問題を感じます。

の ら:まぁ、近ごろは太極拳の勁力にも様々な解釈があるみたいだから、ある意味仕方がないけどね。

猛王烈:人の筋肉構造はもともと螺旋状に出来ているから、普通に動かしているだけでも、自然と「纏絲勁」になる────なんていう説もあるようですが。

の ら:それはまた、いかにも纏絲勁らしいヒネリの効いた説ね(笑)
 でも、それじゃ赤ちゃんは、そんな風に手足をヒネって動いているかしら?、這い這いをしたり、初めて立って歩く時には、すでに纏絲勁の動きになっている、とでも・・?

猛王烈:うぅーむ、そう言えば・・・ウチも子供が二人いるけど、ヒネリは効いても、纏絲の効いた動きなんか見たことないっスよ。(アカチャンモ、ユメヲミルノカシラ ♫)

の ら:這い這いについても少し書いたけれど、それは「順体の構造」であって、纏絲勁は順体を理解した上で「纏絲の構造」の訓練をしなくては到底出てこないものだと思うのよ。
 だから武藝館では「ハイハイ」や「袈裟懸けスティック」など、様々な方法で「順体」を理解させようとしてるってワケね。

猛王烈:ううむ、まだオレなんかにゃ、イマイチそのヘンがよく分かりまヘンけど・・

の ら:それに、そもそも纏絲勁は「内勁」なのだから、「筋肉運動」とは直接関係が無いものである、と捉えるのが妥当よね。

猛王烈:ええっ!・・き、筋肉運動とはカンケイがないっ・・?!

の ら:今ごろ驚いてる・・前回予告したでしょう?(キミはケイコートーかね?)


メニハメヲ、チカラニハ、チカラヲ・・

猛王烈:だって、だって・・ヒトが動くためには、どうしたって筋肉が必要でしょ?
まして相手を動かすんだったら、いくら宇宙に満ちた神秘の気で人を吹っ飛ばすにしても、最低限の筋肉運動がないと、纏絲勁もナニも無いんじゃないンスか?

の ら:ウチは神秘の気は使わないけれど、まずは、何を「筋肉運動」とするかが大きな問題よね。纏絲勁はいわゆる「内勁」であると明言されている事を思い出してほしいわ。

 『もし纏絲が ”内勁” のない、外形だけの螺旋の運動によるものなら、
  強力な敵のチカラを "化"しようとしてもできず、"発" することもできない』

 ──────拳経には、そう書かれているでしょ。

猛王烈:でも、強力な敵のチカラを「化」するには、やっぱりこっちも強力なチカラで対抗するしか無いんじゃないですか?、実際のトコロ・・・

の ら:いいえ、そう考えたくなる人も多いけれど、それは大きな大間違い。勁を表す言葉は色々とあるけれど、太極拳の勁力の眼目は、やはり何と言っても「四両撥千斤」に尽きるのよ。

猛王烈:四両撥千斤、シリョウ・センキンヲハジク、かぁ・・・現代風に重量換算すると、わずか200グラムの力で800キログラムを弾き飛ばす、ってコトっスよね。

の ら:勿論それは表現の仕方なのでしょうけど、要はリキミのない非常に小さなチカラで相手と関わり、相手がどのような力を用いてもそれを制御し、無力化し、無効化し、崩し、吹っ飛ばし、叩きのめせるという、「勁力の性質」を表しているのだと思うわ。

猛王烈:でも、「四両撥千斤」が肝心カナメだとしても、その辺りの研究が現今の太極拳ではあまり行われていないような気もするんスが。

の ら:そう、四両撥千斤は昔日のモットーみたいなものになってしまって、現代の発勁はむしろ「強いチカラ」とか「重いチカラ」であると、そう信じ込んでいる人の方が多いみたいね。

猛王烈:ちょ、ちょっと待って下さいよ。勁力は「強くて重いチカラ」じゃないんっスか?
 だって、体重が百キロに近い人が、ポーンと吹っ飛んでいくんですよ?
もし弱かったり、軽かったりしたら、あんなふうに飛んで行かないんじゃぁ・・?

の ら:ウチの道場では師父に限らず、四十才を過ぎた、高校生の子供が居るような主婦が研究會の門人を吹っ飛ばすし、不治の難病を患っている人が、師父の治療院で治療しながら「健康クラス」に在籍して、僅か2年ほどで医者や看護婦が驚嘆するほどまでに完治して、体重百キロの門人を同じように軽々と飛ばしてしまったりするのよ。

猛王烈:ああ・・でも、あの門人たちは、見るからに丹田がデェーンと・・・あはは

の ら:バッシィイイイイイ──────!!

猛王烈:痛(つ)ううううっっっっっっ・・・!!(久々に、効くなぁ!)

の ら:見かけのハラなんか、関係ないって言ってるでしょ〜が、もぅ!

猛王烈:それじゃぁ、発勁は、ナ二でチカラを出すんスか?

の ら:キミねぇ、一体何年ウチで稽古してるの?、ウチで教えている太極拳は、ひたすら「用意不用力」と「四両撥千斤」に尽きると、いつも師父が仰ってるでしょ?

猛王烈:まあ・・ついでに、「学問的・科学的・構造的」っスよね・・・

の ら:そうよ、分かってるじゃないの。

猛王烈:でも、それってホントなのかなぁ・・・?

の ら:ぬ、ぬ、ぬわぁんだとぉおおお〜〜〜〜!!

猛王烈:そんな、平家ガニみたいな顔して怒らないで、聞いてくださいよ・・

の ら:ナ二がカニよ?、ウチで学んでるコトを疑うんなら壇ノ浦に飛び込みなさい!

猛王烈:だって、力を使わずに意を用いて、たったの数十グラムや数百グラムのチカラで、相手を吹っ飛ばしたり、戦ったりするって言うんでしょ?

の ら:そう、そのとおりよ。

猛王烈:はは、そんなの絶対無理・・やっぱし非科学的、非現実的、マンガの世界っスよ。
 クマに馬乗りになってパンチをくれたり、お爺ちゃんが大木をフンッと突いたら、無数の葉っぱが上からバラバラと落ちてくるようなモンと同じっスね。

の ら:自分も門人のクセに、何を言ってるの────────?

猛王烈:だって・・どこかの偉大な老師だって、その息子だって、高弟だって、みな発勁の時にはドーンとぶつかったり、梃子と力みでヒネリ倒したり、ヨイショと持ち上げてポンをやったり、果ては助走をつけて飛ばしたり、押し返せない時はヒョイと避けたりしてるじゃないっスか。
 オレは確信したっスね。あれこそが、太極拳の真実・・・
「発勁」はリキミを必要とするという、生きた証拠っスよぉ〜〜〜っ p(●`Д´●)ノノ

の ら:ははん、あっそう・・・まぁ、そこまで言われると、黙っていられないわね。
 それじゃ、敢えて言ってあげましょうか────────

猛王烈:な、な、ナ二を仰ろうというんですか・・?

の ら:よっく聞きなさい。もしも、その人たちが本当に・・・

猛王烈:ほ、ほんとうに・・・?

の ら:そんなコトをやっているのだとしたら・・・

猛王烈:だ、だとしたら・・・?

の ら:それは、紛れもなく「ニセモノの纏絲勁」ってコトよおおおぉっっっ!!

猛王烈:ドッ、ヒャーーーーーァァァアアンンン・・ヽ| `Д´ ;|ノ

の ら:当たり前でしょ。私が言ってるんじゃなくて、架式の大小を問わず、陳鑫先生も、台湾の潘詠周先生も、ウチの師父も、みな同じことを仰っているじゃないの !!

『太極拳は、纏絲の法である。
 この微妙な勁は、太極拳が意を以て気を動かし、気で以て身体を動かすことによる』

『太極拳の一挙一動は、意を用いて力を用いず、意が先に動いた後で形(身体)が動くことが肝要であり、意が至れば気が動き、気が至れば勁が動く』

『正しい勁を修得すれば、敵は自分に入ってこようとしても入ることができず、下がろうにも下がれない。全身に力が入らず、極めて危険な状態におかれてしまい、まるで石の球の上に立って居るかのように、無闇には動けず、足は動かせず、動くと転びそうになる』

 どう?、分かった?、太極拳のチカラや使い方には、レキとした「定義」があるのよ !!

猛王烈:で、でも・・オレなんか、実際の稽古で、いくら力を使うのを止めようとしても止められないし・・ヨガをやったり、瞑想をしたり、寝る前に自律訓練法までやって、稽古で意識で崩したり飛ばそうとしても、相手は全然フッ飛んでくれないンスよぉ・・・
用意不用力も、何のことやらサッパリ分からないし、自分が石の球の上に立たされるばかりで、意も勁も暗中模索のヘイヘイホー状態なんス・・
今のオレがフルコンとやり合ったら、ボコボコにされるんじゃないかな、って思うと・・・やっぱしリキミを使うしかないなと「不用意用力」になって・・・

の ら:ははーん、猛くんは「四両撥千斤」が非科学的、非現実的だと思ってるのね?
 (それは模索じゃなくて、与作でしょーが)

猛王烈:だって、ホントは結局そういうコトじゃないんスか?

の ら:それじゃ、師父はどう? 拙力を使って相手をフッ飛ばしているって思うの?
「ヨーリキ不用意」で、「千斤ニテ、千斤ヲハヂク」で、勁を使っていると思うの?

猛王烈:いや、師父のような人は太極拳の奥義を取ってるから、出来るんでしょうけれど。
 実際、師父には軽く触れられるだけで、電気ショックを受けたみたいになって飛ばされるし、急に床が浮いてきたみたいに瞬間的にスッ転がされてしまいますからね。
 だけどそれは、師父のような特別な人だけに理解できることで、自分なんか、いくら頑張っても高みには行けず、結局はリキミの拙力で相手とやり合うしかなくて、やれ懶扎衣はこうだ、単鞭はこう使う、なんて、実戦用法と称する「套路の使い方」に頼らざるを得ないと思います。


モット、ヒカリヲ・・

の ら:うぅむ、すげ〜館の門人にはアルマジキ発言だけれど・・・・
 猛くんのその悩みは、同時に多くの、若き飢えてる人の悩みでもあると思うわ。

猛王烈:それを言うなら「若きウエルテルの悩み」っしょ!
 (近ごろだんだん、オバハンギャグに磨きがかかったスねぇ・・)

の ら:ヨースルニね、キミのその考え方は間違いナンよ。

猛王烈:え、ナニが?・・ドコが間違いなんスか?

の ら:師父は「勁は誰にでも習得できるチカラで、何も特別なものではない」と仰って、実際に対練の時に個別に細かく指導をされると、武術経験、年齢、在籍期間、相手への慣れ不慣れなどに関係なく、パートナーが非常に軽いチカラで吹っ飛んでいくじゃないの。

猛王烈:まあ、そうスね────────そうなるともう「茶畑の奇跡」「メロンハウスの怪」「遠州七不思議」「桜エビの恩返し」「寸勁法師」みたいなもんスけど・・・

の ら:確かに、猛くんの言うように、結局はリキんだ力で相手を持ち上げたり、振り回したり、押し込んだりするような「強い」力になってしまう、というのが、指導者の立場までを含めた、多くの太極拳家たちの偽らざるナヤミのようだけどね。
 (猛クンこそ、アホなギャグの羅列、やめなよね・・・)

猛王烈:そうスね。明らかにバーベルを持ち上げるような力を使って「弸(ポン)」だと説明したり、助走をつけてドーンと当たるような力を勁力と言ったりするんだそうなんです。
 流石のオレも、それは「勁力」とはチト違うよなぁ、とは思うんスけど。

の ら:助走をつけて得られる勁力というのは、ちょっと聞いたことがないわね。
さっきも言ったけど、勁力というのは、あくまでも「四両撥千斤」「用意不用力」こそが、原則でなくちゃならないと思うのよ。

猛王烈:確かに。師父に飛ばされた人たちは、実際に僅か数グラムから、多くても数十グラムほどの力しか感じられないと、みな口々に言いますよね。

の ら:仮に、師父が20グラムの力を使ったとして、体重80キロの人をヒョイと吹っ飛ばしたら、比率的には「四両撥千斤」の表現にピッタリ合っているわね(笑)

猛王烈:それじゃ、やっぱり昔の武術家たちは、大体そんな比率になることを分かっていて「四両撥千斤」という表現をしたんでしょうか?

の ら:もしかすると、そうかも知れないわね!(笑)

猛王烈:でも「茶畑の奇跡」は、そう簡単に誰にでも起こるワケはないっスよ。

の ら:そう言いたい気持ちは分かるわ。だけどね、その原理は決してすぐ解けるような簡単なものではないけれど、それを理解できないのは「稽古方法が間違っている」というコトなのよ。

猛王烈:へ・・・・?

の ら:師父はいつも『正しい稽古をしていれば必ず正しい勁が身に付く。間違った稽古をしていると、いつまで経っても真正な勁力が信じられず、拙力の中で工夫をするしかない。そうなると、なかなか本当の勁力には辿り着けない』・・と仰っているわ。

猛王烈:その、「正しい稽古」ってのは、どうやったら教えてもらえるンすか?
 やっぱり、正式弟子か研究會に入れないと、教えてもらえないんスかね─────

の ら:いいえ、普段の稽古で教わっている内容こそが「正しい稽古法」なのよ。
 ウチの稽古は、「四両撥千斤」も「用意不用力」も、すべてが科学的に指導されている。
その科学に裏付けられた「基本」こそが、すなわち秘伝なのだと、いつも師父が仰ってるでしょ。

猛王烈:本当に・・そうなんでしょうか・・?

の ら:私たちは弟子なのだから、つべこべ言わずに、教えられることを、学んでいることを信頼して、全面的に指導者と稽古に自分を委ねて学んで行かなくてはならないわね。
 学ぶこと以前に「弟子であること」の本質を枉(ま)げていては、理解できることも出来なくなってしまうわけだから。理解とは「能力」ではなく、理解する「質」なのだと、いつも言われるでしょ?

猛王烈:そうか、オレは、きっとこうしなくては勁力が出来ない・・・なんて、自分勝手に決めて稽古していたのだと思います─────でも、それだと勁力でも何でも、上っ面だけで、「本質」が学べないってコトっスよね。

の ら:そうね。まずは正しく立つことと、力みを使わないことの追求・・・
 でも、どう正しく立つのかは、長年「弟子」として苦心して学ばないと分からないわね。
 チカラも同じことで、力を使うなと言われると、すぐに力を弱めて抜いてしまう人が多いわね。力を「抜くこと」と、力を「使わないこと」とは、違うコトなのだけれど。

猛王烈:むむぅ、そう言われれば、確かに・・・

の ら:力を使わないことと言うのは、リキんで相手の力に対抗しないということよね。
つまり、「リキんだ力」と「勁力」とは何が違うのかを、稽古の中できちんと理解して行くことが大事なのよ。

猛王烈:リキミってのは、「拙力」と言われるヤツっすよね。

の ら:そうね。そして「拙力」と「勁力」とは、いったい何が異なるのかというと・・

猛王烈:と、いうと・・?

の ら:「もと」が違うのよ。チカラの元になっている「もの」と言えば分かるかな?

猛王烈:こ、構造────────それは、「構造」のことですね?!

の ら:そう。太極拳は神秘の気の武術でもなければ、グルグル、クネクネ、ユルユルするものでもない。ましてや、 ZOJIRUSHI じゃあるまいし、勁力が「押すだけ」「持ち上げるだけ」、纏絲勁が「ヒネるだけ」「巻きつけるだけ」のものになってしまったら、太極拳の未来は大変なコトになるんじゃないかしら?

猛王烈:「四両撥千斤」の看板はどこへ行ってしまうのか、「陰陽虚実」は「用意不用力」は、それらはいったい何処へ消えてしまうのか────────
 高度な術理を持つ太極拳にとっては、それは由々しき問題っスね。太極拳が「看板倒れ」になったら大変っス・・・でも、実際問題、どうしたら良いんでしょうか?

の ら:「本当のこと」を知る人が「本当のこと」を示す、それしかないでしょうね。
 真の纏絲勁理論を学問的に明らかにして、本物の「纏絲勁」と「勁力」を正しく示す。
しかも「武術」として「実際に戦える」ことを、きちんと示せなくては!!

猛王烈:本当はきっと、そういうコトを疑問に思っている人たち、その解明を心から待ち望んでいる人、そんな愛好家や武術家たちが、すごくたくさん居るんじゃないかと思います。
 纏絲勁と思われているものに対して、「コレが勁力の正体、纏絲の中身だよ」って、誰かが科学的にきっちり証明してくれる日がやって来るのを、太極拳を愛する人たちは、みんな心待ちにしていると思いますね。


                                 (つづく)

noriko630 at 23:47コメント(21)歩々是道場  

コメント一覧

1. Posted by MIB(▼_▼¬   2015年04月29日 16:42
多くの太極拳は「四両撥千斤」なんて物理的におかしいじゃん!白髪三千丈と一緒だろ!
というところから始まってしまっているように思います。
拙力の工夫によって勁力を理解しようとし、最初から勁力を求めていないかのようです。
太極拳では比喩が多く出てきますし、師父もアナロジーを理解しなさいと仰いますが、
いかにも大げさに聞こえる「四両撥千斤」が例え話で無いというのが面白いですね。

とはいえ自分の脳みその中にも本能的に「千斤撥千斤」の物理への信奉が根強くあり、
自分で勁力を体験してもなお、こんな頼りないチカラで相手が動くわけ無いと
緊張して身体を固めてしまうことがしょっちゅうです。
身体にしみついた習慣というのは本当に強固で、
それを捨てて新しい事を学ぶ方法が稽古というものなんだ、と感じます。
 
2. Posted by 円山玄花   2015年04月30日 13:06
これまでに読んだり聞いたりした太極拳家の方々の話を思い出しても、不思議なことに、
陳鑫先生の言葉や拳経に書かれていることを基に稽古をしたり研究をするということが、
ないように感じられました。
そして、彼らの稽古の基準というものは、少なからず時間や数、充実感(!)というものに
なっているようなのです。
もし太極拳の稽古そのものに「勁力とは何か」ということが入っていないとしたら、
多少押しても捻っても、相手が動けば太極拳の力だ・・と言えてしまうのかもしれませんね。

勁力の理解は確かに難しく思えますが、それは立つことの難しさと一致するように思います。
正しく立つことは、日々の生活や人生への向かい方にダイレクトに繋がっていて、
稽古では常に自分の在り方を見直さざるを得ない。とてもありがたいことだと思います。

太極拳を学んでいる全ての人達が、自分たちの稽古で貫かれているものは何であるのかに
目を向ければ、そこから太極拳そのものの発展と研究が進められるのではないでしょうか。
 
3. Posted by マルコビッチ   2015年04月30日 21:11

>師父はある人から『見せたらマズい映像などと言うのは、随分・・・・』
ヘェ〜、そんなことを言う人がいるんですね・・・
真似は出来なくても、映像から研究して、以前からこういう理論でやってました・・・
なんて言う人がいるかもしれませんよね!
世の中にはいろーんな人がいますから・・・
まっ、たとえそんな事になっても、師父は笑って相手にしないと思いますけど。

「正しい稽古」・・・深く考えたことはありませんでしたが、まず師弟関係は全面的な信頼の上で成り立っていると思うので、師父の仰ることを少しでも疑ったら師父のようにはなれない・・・・当たり前のことですよね。
だから師父の仰ることをよく聞いて、基本となることはもう言葉でも形でも示してくださっているので、自分のやっていることと照らし合わせていくしかないと思います。
勝手な解釈をしていないか、なぜ師父と手の位置が違うのか、早さが違うのか・・・・などなど、自分を疑っていくことかもしれませんね。
本物を手に入れることは大変だと思いますが、これが本物だと分かるから追いかけていけるのだと思います。
 
4. Posted by 太郎冠者   2015年04月30日 21:53
一般的な理解の仕方では、勁力を理解するどころか、解釈や説明、比喩するのも難しいのではないかと感じます。

以前稽古中に、師父に「威力を求めるのはやめなさい」と注意していただき、より繊細に自分の状態に向かい合ったら、それまで以上に相手が吹っ飛んでいったことがありました。
こう書いてしまうと本当に「ふっ飛ばし専門」みたいに思われてしまいそうですが、上に書いたとおり、吹っ飛ばす威力などまったく考えずに行った結果、そうなったわけです。
本当に、表現するなら「四両撥千斤」とでも言うしかないのだと思います。

>若き飢えてる人の悩み
稽古動画を公開することは、こういう人々のためにこそ、非常に意味があることではないかと思います。
太極拳に限らずですが、本物の武術を探し求める人に、
世の中にはこういうものも存在しているということを示しているわけですから。

自分自身、もっとハングリーさを持って稽古に望まないとダメですね!
初心忘れるべからず。
 
5. Posted by とび猿   2015年04月30日 22:11
私も以前「四両撥千斤・用意不用力というものは、厳しい修行の末に辿り着く境地なのでは」などという、アホなことを思ったこともありましたが(汗)、入門してまだ日が浅い初心者でも、条件を整えれば僅かな力や動きで人が飛ぶのを見て、「ああ、これは太極拳の境地などではなく、前提なのだな」と考えを改めました。
先日の稽古でも、師父が人を飛ばす時、師父の手と相手の手の間に手を置かせて頂いたのですが、師父からは、本当に極々僅かな、力と言っていいのかもわからないようなものしか伝わってきませんでした。

今、この前提に立って稽古をしている人が、世の中にどれほどいるのでしょうか。
甚だ疑問に感じます。
 
6. Posted by ユーカリ   2015年04月30日 23:54
>力を「抜くこと」と、力を「使わないこと」とは、違うコト
>普段の稽古で教わっている内容こそが「正しい稽古法」

師父と対練をさせて頂くと、力を「使わないこと」は決して弱々しく力を抜いた状態ではない、と実感します。
「師父や玄花さんに比べて、ふわふわして見えます。」とパートナーの方に指摘していただいた事が何度かあります。「力を使わない」事を、「力を抜く」とすり替えてしまった結果の状態です。
力を抜いてしまうと、抜いた為に生じた偏りを補うために、力みを必要とし、結局は動けない状態になってしまいます。
示して頂いた言葉を、自分が想像しえる言葉に置き換えてやるのではなく、示された通りの事をやってみる。丁寧に合わせて、自分を挟んでいることに気づける稽古をしてゆきたいと思いました。
 
7. Posted by タイ爺   2015年05月01日 18:48
筋肉運動が太極拳のチカラだとしたら、無極式なんて訓練する必要もないしやれ馬歩だ弓歩だとこだわる必要もなくなるわけで・・・。
相撲で強くなるためには相撲の訓練が一番適してるし、ボクシングはボクシング、総合は総合の訓練が一番適してるのは当たり前ですね。
太極拳はそれらと全く違う訓練を行うわけですから、それらと全く違うチカラを使うということは明白。HPにもありましたがアダプターという概念がなくては使えない、戦えないなどということはそもそも太極拳のチカラを否定しているにすぎません。
重さを相手に伝えると説明している方もいましたが重さ=自重とすると四両をはるかに超えてしまいます。
文字通り「四両発」ということをしっかり考えなければ太極拳そのものが全く見えてこないと思います。
 
8. Posted by まっつ   2015年05月02日 09:22
小生の場合も、
太極拳の本質が「立つこと」と「力を使わないこと」である事を、
実感として理解できるまでがとにかく大変でした。
最初の無極椿の理解を深める事を疎かにして、
その先の動きや形、力や勝敗を求めてしまうと、
どうしても稽古の誤解を抜けられないのだと思います。
全ての稽古を無極椿に帰して省みる事が全ての鍵だと思います。
 
9. Posted by さすらいの単身赴任者   2015年05月04日 12:52
皆様
久々に投稿させてください。

四両撥千斤、不肖自分が大学生になったころ(う〜〜ん、う〜〜ん十年前)からの夢、いつかそれを見たい、感じたいと考えていた書籍の中の言葉です。

今、師父のお教えの中で、ごくわずかな作用時間、わずかな力でわたしの体は自分の意思とは無関係に(いや関係はあるのですね)方向性を与えられ、窓際まで飛ばされる。
その世界に今いることは、なんという僥倖でありましょう。

師父のおっしゃるとおり、そのために必要な構造は日々の稽古の中にすべて脈々と息づいているということ。
無極、すべてがそこからはじまり、そこに終息していく。
沢庵和尚の教えではありませんが、「無明住地煩悩」(こころが迷って止まる)にとどまることなく前へ進まなくてはいけません。

歳とともに力は失われていきますが、それを探求する心は研ぎ澄ますことはこれからもできます。若い皆様のお仲間にいれていただき、その道を探る旅を続けていきたいと思っております。
 
10. Posted by bamboo   2015年05月11日 15:45
『太極拳は、纏絲の法である…> こういう事を、さらりと言ってみたいです^^ どんな心地なのか、人や世界がどう観えるのか…
師父の冗談も(ある意味「四両撥千斤」だよなぁ…)と思い周りに試すのですが、やはり功夫が違います(笑)
ヒトが身につけられるもので、こんなに欲しくて、許されているなら、生きているうちに、明日にでもいや今日にでも、進歩の喜びを皆さんと共にできたらと、書きながら強く感じました。
 
11. Posted by のら   2015年05月12日 19:07
☆みなさま

連休中は久々のお休みとなり、コメントバックが遅くなって失礼いたしました。
今後も思うところを書いて行きたいと思いますので、
どうぞよろしくお願いいたします。
 
12. Posted by のら   2015年05月12日 19:07
☆MIB(▼_▼¬  さん

>それを捨てて新しい事を学ぶ方法が稽古というものなんだ、と感じます。

シカリ、シカリっすね。(^_^)

「稽古というのは、自分が使っていなかった新しい脳ミソを使うというコトだ」
と師父が仰ったことがあります。

「染みついた習慣」というのを分析してみると、
「同じ発想の繰り返し」を全く疑問と思っていない自分が居て、愕然とします。

ヒトは皆、新しいことよりも古い発想を好むのでしょうか。

古いヤツだとお思いでしょうが・・(これ自体が古っ!)
 
13. Posted by のら   2015年05月12日 19:08
☆玄花さん

「正しく立つことが難しいのは、日常から観ればそれが間違っているように見えるからだ。
 真っ直ぐなものは歪んで見える─────老子は限りなく正しい」

「学び方にルールは無い。君たちは学び方を自分で決めてから学ぼうとするので、私が何を学ばせたいのかが見えていない。太極拳はミステリーの科学だ。ごく一般的なアカデミックな学び方を求めていては、何ひとつ解明できない────────」

かつて師父が、そう言われたことがありました。

ただ単に、立つことの「正しさ」をどれほど求めても、
「正しさ」に対する自分の「認識」が、すでに自分の脳に確立されてしまっていては、
その、”普通から観れば間違っているようにも見える” ところの、
「本当に正しく立つこと」は、永遠に見つからないのだと思えます。

私たちが真正に理解するためには、
ただ真面目に、熱心に、当り前に学んでいても、駄目なのでしょうね。
 
14. Posted by のら   2015年05月12日 19:08
☆マルコビッチさん

>これが本物だと分かるから追いかけていけるのだと・・

然り、然り──────────

インチキ、チキチキ・・ってのは、最近こそ聞かなくなったけれど(笑)、
世の中には、弟子が飛ばされてあげている、
同門同士の馴れ合いで、感応して投げられ、飛んでいる、
などという考え方も、まだ一部には有るそうです。

ウチの場合、
もしも、10メートルの距離を、たったの三歩のジャンプで、スゴい速さで、
天井に頭が付くほどの高さを保って、しかも後ろ向きに飛べるようなコトが
馴れ合いや感応でできたら、それが証明されるのかも知れませんが・・・

ウチの門人は、自分の目で間近で見て、
入門して、実際に体験しながら学んでいる人たちですから、
これが「ホンモノ」だということが、リアルに分かるんでしょうね。
 
15. Posted by のら   2015年05月12日 19:09
☆太郎冠者さん

一般的には、勁力はどのように説明されているのでしょうか。
どう見ても「グイッ」という力が感じられる映像が、勁力としてまかり通るのは、
如何に真の勁力が知られていないか、秘匿され続けてきたかを物語っているようです。

「若き飢えてる人」の勁力のナヤミは、きっと太極武藝館で解決できるはずです。
 
16. Posted by のら   2015年05月12日 19:10
☆とび猿さん

>これは太極拳の境地などではなく、前提なのだなと・・

本当にそうですね。
達人だけが到達できる「境地」とするか、
学ぶ者すべてに共通するべき「前提」とするかで、
話はずいぶん変わってくると思います。

「四両撥千斤」や「用意不用力」を前提としている門派は、
もはや大陸には見当たらないのかもです。
 

17. Posted by のら   2015年05月12日 19:22
☆ユーカリさん

>自分を夾んでいることに気付ける稽古をしてゆきたい

そういう思いは誰もが持つものですが
「自分を夾んでいること」に気付くのは、決して容易ではありませんね

なぜなら、示された事に自分を夾んでしまった時には
それ以前に既に「自分を夾みたい」という「選択」があったからです

自分を夾んでいることを分かるには
自分がどうして、何のためにそれを「選択」しているのか
ということが「第三者的」に分からなくてはならないのですが
私たちがそのことに関心が薄いのは
「選択したこと」を棚に上げているか、何も問題が無いと感じているからで
「自分を夾んだこと」こそ問題、と言うコトにしておきたいからだと思われます

例えば師父と対練をして「力を使わないことは弱々しく力を抜いた状態ではない」と
折角感じたにも係わらず、「力を使わない」ことを「力を抜く」に置き換えてしまうのは
「そうは言っても、力を使わなければ、相手に作用が伝わるはずがない」
という勝手な選択をした上で
「力を抜くことであれば、自分にも出来るかもしれない」
「そう言えば以前に ”もっと力を抜いて” と言われた事もあった」
などと勝手な理論を付け、自分なりの解釈を成立させるという「前段階」が
私たちのアタマの中に存在したからです

無論それも「自分を夾む」ということに他ならないのですが
都合よく、自分を夾んでいるとは思えないようにしているのです

それはユーカリさん一人の問題ではなく、人類の性格=脳の問題なのです
ヒトは限りなく不完全な生き物で、生きる行為を司る脳ミソはバグだらけ
よく故障するコンピューターのようなものだ、と言う科学者もいます

行き当った問題にその都度、ひとつずつ対処しようとするのではなく
「そもそもヒトとは何か」を科学的に観ることに興味を持ってみれば
根本的な「解決」に役立つのではないかと私は思っています
 
18. Posted by のら   2015年05月12日 19:25
☆タイ爺さん

>アダプターという概念がなくては使えない、戦えないなどということは、
>そもそも太極拳のチカラを否定しているに過ぎません。

全くそのとおりですね。
昔日の太極拳には、そのような概念が皆無であったわけですから。

だからと言って、太極拳が西洋の武術や現代の格闘技を知らなかった故に、それが成り立っていた、などと見るのも間違いでしょう。
何故なら、陳家溝のある河南省だけでも古くから160種類の武術門派があり、加えて東夷北狄西戎南蛮と言われる異民族・異文化との交流もあり、当然多くの武術文化エクスチェンジも盛んに行われた、と考える方が常識的です。
師父などは、システマの元になったコサックの武術やロシアバレーと陳氏太極拳との共通した武術構造について言及されているほどです。

太極拳は「アダプター」としての付属品を使わなくては戦えないような、そんな安物の武術ではありません。本物の太極拳は太極理論だけで戦える、非常に優れた高級武術なのです。

「重み」を伝えるというのも、私たちから見るとユニークですね。
物理的にどうなのかは分かりませんが、重みで打つと例外なく力の伝達が遅く見えます。
「重み」と「力み」は、玄門では反対に戒められるチカラの在り方ですね。

ただ、「四両撥千斤」と「用意不用力」を求めて行くに当たっては、注意すべきことも多々あります。
その辺りを師父直々の稽古で理解して行って頂ければと思いますが、今年還暦を迎えられる師父は、いみじくも「いつまでもあると思うな師と道場」と言われます。
その限られた時間の中で、真諦を修得するには何が必要になるのか─────
真の太極拳を究めたいと願う人は、今が決断の時かも知れません。
 
19. Posted by のら   2015年05月12日 19:25
☆まっつさん

>無極椿の理解を疎かにして、その先の動きや形、力や勝敗を求めてしまうと、
>どうしても稽古の誤解を抜けられないのだと思います。

まさに、そうですね。
上述のユーカリさんへのリプライではありませんが、
誤解、つまり「理解できないこと」には、それなりの理由があるわけで。

シールズにはシールズの、矢吹丈にはジョーなりの訓練課程があったように、
太極拳には太極拳を学ぶための順序と理解の仕方がある、
ということだと思います。

それにしても、「無極椿」の、何と深いことでしょうか。
 
20. Posted by のら   2015年05月12日 19:27
☆さすらいの単身赴任者さん

コメントをありがとうございます。

かつて「四両撥千斤」は、武術を追求する人にとって、大いなる憧憬でした。
でも、今ではどうなのでしょうか──────────太極拳がフルコンのような戦闘概念を持って相手とアダプトしなくては戦えないような、そして実際に散打の大会などでもそうするしかないような、マカ不思議な理論がマカり通るようなご時世となった今では、そんなものは夢物語、猛王烈クンの言うようにマンガの世界なのかも知れません。

しかし、そんな非現実にさえ見えるものを、リアルにきっちりと、私たちの目前で惜しみなく示されていることは、さすらいさんの仰るとおりに、何という僥倖であろうかと、心から感謝する他はありません。

沢庵禅師は、初めて禅で武藝の極意を説いた人ですね。
柳生宗矩のために書いた極意書には、
「打太刀を見ることは見れども、そこに心をとめず、
 向ふの打太刀の拍子に合はせて、打たうとも思はず、思慮分別を残さず・・」
などと、まるで化勁理論そのもののような事が書かれていて、大変驚かされます。

>歳とともに力は失われていきますが・・

もうすぐ還暦を迎えられる師父は、
「トシだけど、力が失われないように、もっと鍛えていくぞぉ〜っ!」
・・と仰って、寸暇を割いてガンガン鍛えられておられます。
二十代の若者が全力の拙力で掛かっていっても負けないだけのチカラが、
いまだに師父には保持されているのは、誰もが知るところですね。

私も、若い皆さんのお仲間に入れて頂いている熟年のクチですが、
まだまだ若いモンには負けたくありません。
彼らの模範になれるよう、一緒に頑張りましょう!!
 
21. Posted by のら   2015年05月12日 19:29
☆ bamboo さん

>こういう事を、さらりと言ってみたいです

ホントですね。
けれども、そうサラリと言えるまでに、陳鑫先生はどれほどの研究を重ね、どれほどの努力精進をされたかを想うと、やはり天才とは99%の努力によってこそ成されるのだと、つくづく思います。

>師父の冗談

これも、かなりの功夫がみられますね(笑)

「私のジョークは、由比のマグロの缶詰のように、
  常に中身が ”崩壊していない” のがその特徴だ」

と仰ったことも・・・(^_^;)
 

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