2015年02月23日

練拳Diary #59「武術的な強さとは その3」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花



 「武術的であること」とは、「生き残れること」。

 昼夜を問わず、サンダル履きで、ズボンのポケットから分厚い長財布を半分出しながら街を歩いていても平気で居られるこの時代、この国を想うと、武術の必要性はどこにあるのかと、考えさせられます。

 それは決して他人事ではなく、私たち研究會クラスの稽古でも、師父から度々問われることでもあります。「君たちに、一体どれ程武術の必要性があるのだろうか?」と。
 もちろん、何を言われているのか分からないわけではなく、言われている我々が一番よく分かっていると思うし、自分自身でも度々問うているに違いないはずです。

 戦いが必要な時代に生まれなかった。
 内乱や紛争がある国に生まれなかった。
 戦地に送り込まれるような状況に遭遇しなかった。

 ・・この差は、確かに大きいのでしょう。
 実際に戦場に行ったことがある人の存在感は、一般人とは確かに掛け離れているし、何度も死線を潜り抜けてきた人たちの話は、一言一言がとても重く、どこかにピリリとした緊張が残るようでいて、果てしなく広く深い優しさが感じられます。
 彼らは、自分の望みなどとは関係なく戦いの場に身を置き、そして武術性ということさえもチラリとも頭を掠めることなく、生き残ることに没頭していたのではないかと思えます。
 その「必死に」というところ。それこそが、私たち現代人が武術を学びながらも、武術性を容易には理解できないという問題の核であるような気がします。

 他にどうしようもなく、必死になるしかないとき。
 頭の中で考えている事は何ひとつとして無い状態なのに、身体が次々に勝手に動いているという経験をしたことがあります。
 その時はひどく疲れていて、全身が大きく脈打っているように感じられ、隣に居る人の声がずいぶん遠くから聞こえるような状態でしたが、そのことについて憂うことも恐れることも必要なく、非常にクリアな心地でした。そこで課せられていた課題は、決して楽なものでも単純な作業でもありませんでしたが、考えずとも身体が動くのです。それも自分独りではなく、パートナーと一緒に、ひとつの作業を手際よくこなしていけるのです。

 なんとも不思議な体験でした。下手な表現をすれば、まるで自分の中の自分がワッとそれまでの自分を越えて出てきたような感覚です。
 それ以後、いつでもその時のような状態を自分で造ることが出来れば、不可能なことは何もないのではないかとさえ考えるのですが、やはりそう簡単にはいきません。その体験は自分で引き出したものではなく、与えられた状況によって否応なしに発揮されたものであり、また同じ状況を造れば同じことが起こるかといえば、そうではないのです。
 けれども、新しい自分を知るには、十分なきっかけになりました。
 
 武術を学ぶ上で、自分の潜在能力が引き出されるほどの必死な状況がない現在、私たちが武術を極めようとすることは、実は何の意味も意義も無いのではないか。せいぜい一生モノの趣味として、自己成長に役立つ程度の追究が出来るくらいではないのか。
 ・・そんな想いが浮かんでは消えて行くのを、吐き出したくなるようなモヤモヤとした気持ちのまま眺めていたとき、一冊の本に出会いました。

 ジャック・ロンドン著の「To Build a Fire(火を熾す)」は、このブログでお馴染みの連載小説『龍の道』で紹介された、短編小説です。
 野外生活の中でも、取り分け火を造ることに大きな興味を持っていた私は、“マイナス60度の世界で・・” という魅力的な表現の誘惑も手伝って、そのタイトルにすぐさま飛びつきました。

 あらすじは、こうです。
 ひとりの男が、経験したことのない極寒のアラスカで一匹の犬を従え、子供たちが待つキャンプまで独りで歩いて行こうとする中で、自然の罠(雪の下の薄い氷の下に隠されている水)に嵌まらないように、本当に慎重に一歩ずつ歩を進めます。
 時おり、ミトンを外して素手を外気に晒したときの、感覚が失われていく早さや靴の中で足先の感覚がなくなっていることに驚き、怖くなりながらも、ランチを食べる為に焚き火を熾します。

 昼食後も順調に歩き始めますが、その時、男は全く予期せずに氷を踏み割り、足を濡らしてしまいます。足とブーツを乾かす為に火を熾さなければならず、それが如何に大事なことか、男は知っていました。
 失敗は許されない・・それほどの気持ちで慎重に行動し、火を熾すことに成功した男は、すでに指が利かず、小枝の一本も掴めない状態であることを、“火の前では些細なこと” と捉え、自分ひとりでアクシデントから身を守ったことに対して、にやりと笑うのです。
 土地に古くから住む古参者が言ってくれた、“マイナス50度以下のクロンダイク(*註)をひとりで旅してはならない”という忠告を思い起こしながらも。

 ところが、更なるアクシデントに見舞われ、火は一瞬でかき消えてしまいます。
 手足が凍りつき、自分の意志で動かせない中での、生命を意味する火を再び熾そうとするまさに死闘。けれどもそれは、またしても失敗するのです。
 ここは、犬を殺して両手をまだ暖かい身体に突っ込んで感覚を取り戻し、もう一度火を熾すか・・という考えさえ浮かばせるその状況で、しかし男の手は、すでにナイフを握ることもできなくなっていたのです。
 死の恐怖とともに、生きるか死ぬかの問題であることに気がついた男はパニックに陥り、走り出します。走ったおかげで一時調子は良くなるものの、ついには雪の中に倒れ込み、静かに覚悟を決めるのです。

 ・・読み終えたときの衝撃と、全身に感じられる寒さと言ったら、これ以上の作品には今までに出会ったことがありません。

 火は起きなかったのです。
 火を熾す為に必要な、たくさんのマッチも樺の樹皮も大小の枝も、皆揃っていました。
 けれども、火を熾そうとする人間の思慮の足りなさゆえに、なによりも、恐らくは高を括っていた自分にさえ気がつかずに、ひとりでこの地に足を踏み入れてしまったために、自然の猛威に晒されてしまうのです。

 わけも分からず、為す術もなく、刻一刻と自分の身体から運動機能と思考回路とが奪われていく状態を、皆さんは経験したことがあるでしょうか。

 作者のジャック・ロンドンは、実際にクロンダイクで金採掘(Klondike Gold Rush)をしていたことがあり、この作品はその時の彼の経験が活かされていると言われています。

 私は『望めば叶う』という言葉が好きです。それは、望んだら叶うというような安易な考えではなく、人が本気で望んだならば、それを叶える為にありとあらゆる力が発揮できるということを示していると思えるからです。

 ところが、この男は死んでしまいました。
 ただ気まぐれに極寒の地を彷徨っていたわけではありません。子供たちが待つキャンプに向かっていたにもかかわらず、途中で息絶えてしまうのです。
 読者は、望んでも叶わなかったその原因が、物語の冒頭に書かれていたことを思い出すはずです。『想像力の欠如、それが問題だったのだ。日々の物事には聡かったが、物事についてのみであり、その真意には疎かった』と。
 そして男が従える一匹の犬。この地で生まれた狼とのハーフであると説明が為された大型ハスキー犬の絶妙な描写によって、厳しい環境下で生き抜いてきた獣の本能と、人間の傲慢さゆえのあさはかな行動とが見事に描き出されています。

 読んだことのない人も居るかも知れません。
 普通、先に本の内容を書いてしまうのはためらわれますが、この本に関しては全く関係なく、たとえ内容をどれほど細かく紹介したとしても、皆さんが自分で初めて読んだときの衝撃は想像もつかないほど新鮮であると断言できます。


 戦いは、戦場に用意されているだけではない。
 また、外界との繋がりを絶った自分自身だけの問題でもない。
 この本は、そういったことをしみじみと味わわせてくれました。

 自分の意志ではどうにもならないことがあります。
 後から振り返れば改善の余地はいくらでもあった、なんてことは、日常生活で山のように出てきます。けれども、この男には振り返ることは出来ても、改善する猶予は与えられなかったのです。もしかしたら、“改善の猶予がある”などと考えられるのも、知らずに高を括っていた男と何も変わらないためかも知れません。

 自然と自分。太極拳で言えば「陰」と「陽」、人間で言えば「自分」と「相手」・・と、たった二つのことでありながら、何とも難しいものです。
 けれども、いつも師父が仰るように人間は完璧ではなく、間違え、失敗し、反省しながらよりよい生活や関係を築いていくものだと、私も思います。
 改善も工夫も何もしないうちから、期待をしたり絶望するのは違うと思います。

 忘れてはならないのは、私たちは常に危険に晒され、死と隣り合わせであるということ。たとえ危険な国に近づかなくとも、武器や危険物を扱っていなくとも、家の中にだけ籠もっていようとも、危険は誰にでも平等に存在しているのです。
 そしてもうひとつは、その中でも今日まで生き残れているという事実。これも、忘れてはならないと思います。

 たとえ現在の環境に戦いがない国に生まれても、そこで武術とのご縁を頂戴できたことはそれ自体が意味のあることであり、自分たちが武術を志す意義もそこにあるはずです。

 今日まで生き残れてきたから、これからもこのままで良いというわけではなく、生き残れてきたことに感謝し、これまでよりさらに学び、より意識的に生きること。そうして初めて本当に「生き残れること」が分かるのだと思います。


                                (つづく)


 

【註*:クロンダイク/Klondike】
  アラスカ州とカナダの境界近くにある、カナダ・ユーコン準州に広がる地域。
  一年のうち約7ヶ月は吹雪が続き、厳寒期はマイナス50〜60℃になる。
  かつてゴールドラッシュで10万人がこの地を目指したが、厳しい気候のため、
  そこに到達したのは3〜4万人、実際に金を採掘できたのは約4,000人であった。


xuanhua at 22:55コメント(17)練拳 Diary | *#51〜#60 

コメント一覧

1. Posted by まっつ   2015年02月25日 23:32
日々の物事には聡くとも、その真意に疎いのは、
自分も含めた現代人の特徴だと感じます。

分業化され自動化の進んだ社会では、
生きる為の直接的な労力は減る一方です。
システムに乗って労無く生きられていますが、
その実は自覚も希薄なまま、
薄氷の上を歩いているのかもしれません。

現代は人間が社会システムと一体化し、
更に深く依存を高めていく時代である事は疑いようもありません。
これが世界だと疑う事が無く、危機が感じられなければ、
想像力も居眠りをするに違いないとは思います。

「火を熾す」は、
野生を失い彷徨の果てに死に墜ちていく人間と、
本能に従い生き残る犬の対比が鮮やかです。
生き残れる本能を磨く事が武術性の根本である事が、
身に沁みて感じられて、とても感銘を受けました。
 
2. Posted by マルコビッチ   2015年02月26日 21:16
生きていることが当たり前になっている毎日で、例えば体調が悪くなったり、精神状態が不安定になったりすると、人が生きていることはギリギリのバランスの上に成り立っていることなんだと感じてしまいます。
そして、自分の身体に対して随分と乱暴であることに気付きます。
その事は同時に、自分の考え方も周りに対しても同じなんだろうと思います。
「武術的であること」に関しては、今なお探求中ではありますが、与えられた生に感謝し、与えられた時間を一生懸命に生き、欲望ではなく自分を大事に出来ることと繋がっているのではないかと感じます。
ちょっと的外れのコメントかも・・・
「火を熾す」 読んでみます。
 
3. Posted by タイ爺   2015年02月27日 11:57
武術的な強さは生き残ること。君子は危うきに近寄らず、宮本武蔵は神仏は尊ぶが頼らない。
いつも冷静沈着に行動し、何が起きても良いように万全の準備をする。
この「何が起きても」という部分の危機感や想像力が現代の日本に生きる我々がもっとも欠けているのではないでしょうか?
状況の分析と判断、戦術、戦略が習慣にならなくては。
そうなると「一発当てられてもアドレナリンが出てるから痛くない」という状況はすでに武術じゃなくなりますね。
 
4. Posted by 太郎冠者   2015年02月28日 01:56
「火を熾す」を読んでみました。・・・寒いというか、痛みさえも感じられるような小説でした。

こういった自然の猛威、危険から逃れるために、人間は文明を築き上げ、人々が相互に助け合うシステムを作り上げたのだと考えると、なんというか、腑に落ちるものがあります。
土地に古くから住む古参者からの言葉は、過去の人々の叡智と取れなくもないように思います。

そう考えれば、この平和な日本はある意味、戦略としては成功していると言えるかもしれませんが、実際はその裏で起きていることに目をつむっているだけなのでしょうね。

>『望めば叶う』
そもそも、本当は何を望んでるの? というところから始めないといけないのが、現代日本の病でしょうか。
 
5. Posted by MIB(▼_▼¬   2015年02月28日 10:57
ニュースによると欧米の人間がISILに多数参加しており、これからもその数は増えていく見込みだそうです。イスラム原理主義でなければ日本からももっと多数行ったのでは無いでしょうか。必死さや生きる目的、実感といったものを実際の武装闘争に求めている面があるのかと思います。
時代が全然違いますが、日々戦いの中に生きていた戦国時代の日本人が、茶の湯や禅のような、現代からすると戦いと関係の無いことに熱心だったのが対照的に感じます。

余談ですが、朝寝過した時に身体が自動的に動いて、普段では考えられないスピードで作業とその優先順位付け、最短になる組み合わせを同時に行っていく時があります。自分は自分のやることをただ見ているだけ、という不思議な感覚になり、そんな時にまだ知らない自分自身に気付きます。
 
6. Posted by とび猿   2015年02月28日 12:27
>頭の中で考えている事は何ひとつとして無い状態なのに、身体が次々に勝手に動いているという経験をしたことがあります。

同じかどうかは分かりませんが、似た様な体験をしたことがあります。
その時は何も考える余裕もなく、意識はとてもはっきりしていて、危険な状況なのに何の恐怖も感じず覚めていて、自分の体はまるで機械の様に勝手に動く不思議な状態でした。
後から思い返してみても、何も考えておらず余裕のない状態とはいえ、場当たり的な事をするのではなく、その時の自分にできた最良のことを、その時の自分にできた最高の精度で行っていました。
同じことをもう一度やっても、とても成功するとは思えないし、そもそも、その時は成功や失敗などという考えは微塵も頭にありません。
反面、普段の自分には不必要に考えてしまう=考える余裕を持ってしまう為に行動が伴わなかったり、鈍ってしまう事が多く感じます。

「火を熾す」の男のような状況に置かれた時、果たして自分はどうなるのか。
思考に留まっている余裕があるのか。
折角貴重な体験をしたのだから、それを活かせるようになりたい、そう思います。
 
7. Posted by ユーカリ   2015年02月28日 15:06
>望んだら叶うというような安易な考えではなく…
私は言葉の奥に秘められる意味をとらえようともせず、安易な方をあえてその意味としてあてがっていました。まさに「念じる」だけであったと思います。

「龍の道」でこの著書が紹介されたから、読んでみたいと数件の書店をまわり、絶版なので発注ができないといわれ、近所の書店で発注ができたものの、何日か後に「絶版なので申し訳ありません」と電話がありました。
その後でネットで中古を発注し来週到着予定…
その間、一軒目で絶版とわかってすぐに、ネットで注文していれば、今頃既に読み終えていたであろうこの間に、私は「それでも、在庫のある書店があるかもしれない」と無駄足を踏んでいました。
どこかで、ダメ出しを待っているような態勢の自分がここにも表れています。

今まで、改善や工夫もせず、無理だからと諦めていた自分を変える勇気を持ちたいです。
 
8. Posted by tetsu   2015年03月01日 16:44
今回の記事を読みながら、非常に心にグッとくるものを感じました。
自分も「なぜ武術を今の時代に学ぶのか?自分は何を望んでいるのか?」を自問し続けたことがありました。
日本は今戦争に参加しておりませんし、巻き込まれているわけでもありません。しかし、イスラム国で起こったように、いつ誰がどんな状況で死を迎えるか、死に直面するかはわかりません。日本の国内においても、報道されていない事件や事故は沢山あると思います。「平和な時代」「平和な土地」に暮らしているからといって、自分自身が危機や死とは程遠いと考えるのはまさに「平和ボケ」している証拠です。
本当に今生かされていることに感謝をし、そして真の武術を学べる機会が与えられているというこの意味を自分自身が十分噛み締めながら、今後も全てにおいて学んでいかなければならないと思いました。
 
9. Posted by 円山玄花   2015年03月06日 00:17
☆まっつさん

>自覚も希薄なまま、薄氷の上を歩いているのかもしれません。

私もそう思います。
だから、見える人は忠告してくれるわけですね。「おまえさん、足下が見えているかね?」と。
せめて、忠告をきちんと受け止めて、日々センサーを磨ける自分でありたいと思うものです。
 
10. Posted by 円山玄花   2015年03月06日 00:19
☆マルコビッチさん

「当たり前」って、恐いですよね。
マルコビッチさんが言うように、自分の体調も精神状態もそうですし、人との関わりでも、
いつの間にか自分の考え方が当たり前になっていて、自分が相手の考え方を知ろうとしていないのに、「なぜ人は自分のように考えないのか?」などと思ってしまったり。
これでは、太極拳の「考え方」を理解することは出来ませんね。
一度、「当たり前」を全てやめてから世界を観てみる必要がある、と私は思いました。
 
11. Posted by 円山玄花   2015年03月06日 02:19
☆タイ爺さん

>「何が起きても」

最近は、「何が起きても、その時にはその時で何とかなるでしょ」などという考え方が濃くも薄くも浸透している様子で、そもそも有事には自分が何とかしなければどうにもならない、という意識が失われている気がします。本当に恐ろしいですね。

>「一発当てられてもアドレナリンが出てるから痛くない」という状況

やはり、明るい試合場の臭いがしますね。
訓練でも稽古でも、自分の状態を常にベストに保つための方法が教示されますし、
指先に切り傷一つ負っても自分の力が削がれることをよく知っている人は、「一発当てられても」とは、絶対に言わないと思います。
 
12. Posted by 円山玄花   2015年03月06日 02:36
☆太郎冠者さん

戦略を考えるのは難しいですけれど、やはり法則があるように思います。
ひとつは、一度決めた戦略でずっと通そうとすると失敗するということです。
人生でも同じだと思いますが、こうと決めたことに邁進するだけでは躓きますよね。

先輩方の話を聞いていると、やはり戦略を実行しつつも全体を観て常に修正することが大事なのだとか。そして何よりも目的を明確にすることで、戦略の修正も可能になると言われました。
 
13. Posted by 円山玄花   2015年03月06日 03:15
☆MIB(▼_▼¬さん

>必死さや生きる目的、実感といったものを実際の武装闘争に求めている面があるのかと・・

武装闘争とまでは行かなくとも、自分にも生きる必死さや実感を求めて仲間たちとバカなことをした思い出があります。今思い返せば、生きる目的や意義を祖国にも文化にも、自分の人生にも見出せなかったことが原因だったかと思いますが、若くして「お国のために」と飛び立った人達が羨ましくさえ思えた時期でもありました。
今も、それほど大した目的があるわけではありませんが、何かのために、誰かのために動ける自分でありたく、その為には自分を鍛え、育て、磨かなければならないと思っています。
だから、戦国時代の武将に茶の湯が普及し、禅が取り入れられたことも、分かる気がします。
 
14. Posted by 円山玄花   2015年03月06日 16:45
☆とび猿さん

記事には書きませんでしたが、記事に書いたことと全く正反対のことも経験しました。
つまり、今すぐ行動を起こさなければならない危機なのに、頭は一向に働かず、身体を動かそうとしても無駄な動きの繰り返し。自分で引きつり笑いが出るほどどうにもならないのです。
マイナス60度のアラスカではないのに、徐々に身体を動かせなくなり、周りは灰色の霧がかかってくるようでした。
それで、そのときに何かを考えていたかというと、何も考えられなかったですね。

結局、思考・無思考に関係なく、自己統御ができるかどうかにかかっているのだと痛感しました。
 
15. Posted by 円山玄花   2015年03月06日 17:03
☆ユーカリさん

「火を熾す」は、読めたでしょうか。
私は、ネットで本を探しているときに、翻訳されている全文を日本語と英語とで見つけたので、それを読みました。もちろん名の知れた翻訳家が訳したものではなく、原文と照らしてみれば直訳とも思える文章でしたが、かえって脚色なく作者の言いたいことが伝わってきたように思います。

そうして書いた「龍の道」への私のコメントを読み、“これはネットで見つけたのだろう”と推測し、探し当てて読んだというツワモノも居ます。(さらにそれを聞いて“フツーだろう”という人も居ます)

要は、自分の望みに対してどれ程アンテナを張り、自ら受信しようとし、またアンテナだけに頼ろうとせずに行動もしたか。
それを私は、「望めば叶う」という言葉が好きな理由として書いたつもりです。
なぜなら、その過程では自分の変容が余儀なくされることが殆どで、自分をそのままにして何かを分かろうとか得ようということは、できないからです。
 
16. Posted by 円山玄花   2015年03月06日 17:27
☆ tetsu さん

ありがとうございます。
武術の必要性を考えるときに、自分のことに加えてもうひとつ、疑問が浮かびます。
それは、「なぜこんなにも武術を学ぼうという人が居るのだろうか」ということです。
本当に平和なら、単にストレス解消のためや自分を強くしたいならば、スポーツでもしていればいいのに、と思うのです。ところが、武術でも格闘技でも、「戦う」ということのために時間を費やしている人が大勢いるわけです。
それこそ、理由は様々なのでしょうけれど、どこか意識の深いところで危機を感じ取ってのことなのかもしれませんね。

太極拳の形だけ、技術だけではなく、「太極拳とは何か」を学べる機会は、本当に希なことだと思います。大事にしたいと思います。
 
17. Posted by ハイネケン   2015年04月11日 09:58
明治時代、北海道 道東で逓信省の郵便配達人が殉職。
吹雪の中、自分の外套で郵便物を包み、亡くなっていた。
小学生の社会科の授業で習いました。

同じ頃、冬、外で遊んでいると急に耳が痛くなりました。
耳は感覚が鈍く、遊びに夢中な私は霜焼けに気がつかなかった。
痛くなるともう凍傷の一歩手前、耳を素手で擦って温めると、今度は指が痛くなり・・・
凍傷への連鎖が始まります。
私を見つけた母にしこたま怒られました(苦笑)

自分にとって「いつも」の行動が、「なぜか今回だけ」蟻地獄のような状況へ

郵便配達人は、責任感を称えられ記念碑がありますが、
当時の記事にはアイヌ民族であった事は記されていないそうです。
雪原へと踏み出した本当の理由が知りたい気がします。

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