2015年01月24日

門人随想 「今日も稽古で日が暮れる」 その27

   「 意識とはナニカ」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 太極拳では、用意・・意を用いるというけれど、
 そもそも、その用いられるといわれている「意」とはなんなんだろう?

 意識的であること。
 単純なことなのだけど、日常の中ではすぐに見落とされてしまう。
 日常の考えに慣れ切った頭では、
 「意識的になろう。では意識的とはどういうことだろう?」
 そう考え始め、何かの定義を求めはじめたときにはすでに思考となっていて、
 肝心の意からは離れてしまっている。
 
 では、感じるままに・・・
 などとニューエイジにかぶれたような思想のもとで行ってみても、 
 立っていればなんだか脚も痛いし背中も痒い・・・
 相手が来れば相手を受け入れたときにはやられているなんてこともしばしばだ。
 
 そこに至って、ふと立ち止まらざるをえなくなる。
 こいつは、何かがおかしいぞ、と。
 

 僕たちが子供のころから、ラジオ体操はじめ、学校教育によって嫌でも西洋運動理論がいつのまにか身体に染み付いてしまっている。
 
 西洋的な運動、スポーツの始まりをさかのぼれば、一体どこに行きつくのかはわからないけれども、古代ギリシアやローマ時代に行われていたという古代オリンピックにその起源の一端があるかもしれない。
 
 古代オリンピックは神々に捧げる儀式としての意味合いを持っていたらしいが、競技の内容を見れば、円盤投げ、やり投げ、走り幅飛びに短距離走、ボクシングやレスリングなど、明らかに戦闘のための技術を競技にしたものが行われていた。
 中には盾や鎧を装備して行われる武装競争なる競技もあったというから、それらの意図していることは明らかに、兵士を鍛えるために、戦闘に必要な技術を細分化して競い合わせるということだろう。
 
 
 もちろんすべてのスポーツの起源が戦争のための訓練だったとは言わない。
 サッカーで戦うなんて、某少林サッカーじゃないんだから、さすがの中国人も考えないだろう。
 
 ただ、発想の根底として、ある全体の枠組みの中で、ここで言えば戦争に関する闘争技術の中の一部を取り出して、鍛練していくことが目的だったというものがあるように感じる。
 とすれば、そもそもにおいて、個々のスポーツ競技ひとつひとつは、断片的な身体操法と言えるのではないか、と感じるのだ。
 
 ここにはギリシャローマから始まる西洋的な思考哲学、分析などの萌芽が一緒に含まれているように思える。細分化し断片化したものひとつひとつを丹念に調べ上げていけば、結果として全体に関する知識も得られるだろう、という発想だ。
 いわばそれは、現代にも通じる科学的な思考方法とも言えるだろう。
 
 
 では、東洋の思想はどうだろうか。
 といってもそれらに関して、僕はまったく無知の素人なのだ。東洋の思想に関してはせいぜい鈴木大拙の本を何冊か読んだことがあるくらいである。
 どうもそれによると、東洋というのはいわば禅の思想に通じるものがあるらしく、それがそのままぽんとあるというか、我も彼もなくただあるといったようなこと、らしい。
 端折ってしまってるのでほとんど何も伝わってないが、時間があったら鈴木大拙の著書を読んでみてください。いろいろと面白いです。
 
 とにかくそういった思想の根底が東洋には流れているようで、当然それは太極拳にも通じる何かがあるのではないだろうか、と感じるのだ。
 
 ではそれはすでに取り上げた西洋的な思想と混じらないかというと、実は混ざり合う。
 ヨーロッパとアジアが中東あたりでじわっと混ざって独特な文化を作り上げるように、それらは境目なく溶け合っている。
 アプローチの方向性が違うだけで、それらは同じ物事の両面を取り扱っているもののようにまるで見えるのだ。
 
 問題になるのは恐らく、どちらかに極端に偏った見方になっているときなのではないだろうか。
 恐らく我々日本人は、西洋的な運動理論のみに偏ってしまっている、そこがそもそもの問題の始まりなのだと思う。
 
 現代の欧米では、盛んに東洋の神秘を科学的に研究するという、一見矛盾するような取り組みがかなり本気で行われている。
 マインドフルネスという、「今、ここに生きる」という、あたかも仏教の瞑想のようなものが心理学として本気で研究され、取り組まれていて、いま何かとブームになっているらしい。
 なんでも流行りのものに飛び着いちゃうのが欧米、おもにアメリカらしいのだが、それでも彼らの、問題に対して本気で取り組む真摯な姿勢、そしてそれを容認する文化は日本人は見習うべきだと思う。
 
 それらの精神文化が流行するのも、物質文明として栄えた西洋の文明が、相対的にバランスを保つために精神のほうへシフトしていくという流れの一つなのだろう。
 
 それに比べると、いまの日本の精神性はいかがなものだろうか。ハロウィンやクリスマスなど、向こうでは宗教的なイベントとして行われているものが、日本には完全にただのイベントとして入ってきてしまっているように感じる。
 日本の宗教は神道で、八百万の神を祭っているのだから問題ない、という見方も出来るのかもしれないが、そこにあったはずの精神性はどこにいったんだろう、と思うと首をかしげざるを得ない。
 
 
 えぇと、宗教や文化の話はともかく、である。
 (クリスマスぅ?・・昼は仕事して、夜は稽古してましたが、何か?)
 
 太極拳の稽古を行っていると、そういった、今の日本では価値観として忘れ去られてしまったような精神性にも目を向けざるを得ない、というのは、実に面白いことだ。
 そして同時に、太極拳は実際に身体を使う、実学としての面もちゃんとあるということを忘れてはならない。
 精神だけでも身体だけでもダメで、それらが調和しないことには、本当の意味での太極拳は習得できないように強く感じる。
 
 
 じゃあ自分は頑強な肉体に、聖人君主のような精神を持っているのか?
 というとぜんぜんそんなことはない。
 はや入門して何年も経つというのに、ダルダルの体とグダグダな心をいつまでも引きずったままである。
 ・・とそれはそれで問題なのだが、ひとつだけ変わったことがあるとすれば、自分は今、どうなのかということに、『嫌でも』目を向けざるを得なくなった、ということだろうか。
 そう、これがすごく嫌なことなのである。自分の本当の姿なんて、だれも知りたくはないものだ。理想とはぜんぜん違う、これが自分!、そんなのはNO!だ。
 
 ところが、一度これを始めてしまうと、自分という人間は、そして回りの出来事まで含めて、いかに面白いんだろう、とだんだんと感じはじめてしまうのである。
 良い部分はあんまりないように感じるが(笑)、ダメなところはダメなところで、意外と愛嬌があってよろしい。完璧なものなどないと知れば、これはこれで、まぁ味があると言えるんじゃないだろうか。
 
 それでも、うん。
 もうちょっと武術的にどうにか腕を上げたいものだから、いくつか注意点を絞って、自分のことを見てみよう。
 
 そうすると、少しずつだけど確かに変化が現れ始める。
 
 そうなっている時の、まさにいまの自分。
 
 
 冒頭に戻るが、ほんの少しだけ意識的になれているような気がした。
 
 意識的とはどういう状態か、と考えていてもダメで、かといって悟りを開いたような微笑で立っていても恐らく意味はないんだろう。
 
 自分が求めることの情熱の中で、わからないなりにも少しずつ、固まっていたものが解けだしていくような感覚だ。
 こうした味をちょっとでも味わえたのは、いまの日本の中にいて、ものすごく稀有なことで、素晴らしいことなんじゃないかと思う。
 そして一度この味を知ってしまうと、もう一口、もう一口と、なかなか止まらなくなってしまうものである。
 
 
 そう思わせてしまう太極拳は、ある意味、禁断の果実かもしれない。
 一度味わってしまえば、もうもとには戻れない。
 先へと進むのみである。 


                                 (了)

disciples at 21:03コメント(14)門人随想 | 今日も稽古で日が暮れる 

コメント一覧

1. Posted by 円山玄花   2015年01月29日 19:49
意識についての研究は、かつては科学の対象にはならないという理由からタブー視されたこともあったようですが、現在は脳科学者を中心に様々な研究が進められていますね。
そのきっかけが、DNAの二重螺旋構造発見者として知られる、フランシス・クリック博士が意識の研究に本格的に取り組むことを宣言したためだというから面白いです。

いまだに定義どころか、何を解明すれば意識を解明したことになるのかさえ、科学者の間で合意されていないという「意識」ですが、彼らのアプローチの仕方は、太極拳を学習する私たちにとっても発見するところが多いように思います。

例えば、「無意識」を研究することで「意識」を浮き彫りにしようとしたり、ロボットと意識の研究では、身体の構造や感覚器官の在り方が、何かの行動をする上で重要な役割があることが分かってきたり、睡眠の研究からみると、意識というものはその状況に応じて適切な行動を選択するという機能とともに、するべきではない行動を制限するという意味で大きなはたらきをしているということ・・などなど。

「するべきでない行動」を太極拳で考えると、間違った身体の使い方とされるものと言えるでしょうか。何回指摘されても直らない足の向き、回転運動、力みなど、太極拳の修得にブレーキを掛ける自分自身の問題は、「意識」に目を向けることで自分自身をみつめることに繋がり、解決の糸口になるように思います。

出来ればまた、第二弾を書いて頂きたいですね!
 
2. Posted by MIB(▼_▼¬   2015年01月29日 21:35
太極拳の言うところの意をどう定義したらいいのか自分にはよく分かりませんが、
現代日本語で意識と言われると抽象的で難解なイメージを抱いたり、高尚な精神性ばかりを
思い浮かべてしまいがちなように思います。
太極拳は、もっと即物的というか、実際的と言えばいいのか、
ごく普通の意識について言っているような気がします。
ポイントになるのはむしろ、意識がきちんと機能するにはどういう条件が必要か、
身体がどのような状態に無ければいけないか、
ひとつひとつの条件は特別難解なものではないが、それらを理解して、
全部が揃うのはどういうことか、という辺りにあるのでは無いでしょうか。
今の自分がどのように立っていて、どういう歩き方をしているか、
どういう意識が前提にあるか、
自分をまるで複雑な機械のように観察していけるのが面白いですね。
 
3. Posted by とび猿   2015年01月29日 22:42
高レベルのスポーツ選手は別でしょうが、少なくとも学校体育では、
意識的であることは、あまり必要とはされないのではないかと思います。
その点、太極拳では、最初に学び始めた時から真似をすることを求められ、
真似をする為には、自分はどうか、相手はどうかが感じられなければならず、
意識的であることの重要性を、初心者のうちから感じられるのではないかと思います。
初心者であろうと上級者であろうと、武術として学ぶ者も健康クラスで学ぶ者も、
レベルや目的を問わず、意識的であることの重要性をはっきりと感じられ、
さらに高めていけるものに出会えることは、滅多にないことだと思います。
 
4. Posted by マルコビッチ   2015年01月29日 23:35
「意識とは何か」・・この問題は何年も前から私の中にあります。
意識には、顕在意識と潜在意識があって・・等の事は言えても、実際私自身がその全貌を感じたわけではありません。
そんな人はいないのではないでしょうか。  
クルマを運転しているとき、たまに、本当にたまにですよ、「あれ、もうこんな所・・」ってことがあってハッとします。
考え事をしてしまっているんですね。
その間の風景などまったく記憶にないのですが、ちゃんと走っているから凄いです。意識なんですかしら・・・(^_^;
よい子の皆さんは決して実験などしませんように!
運転しているとき、お皿を洗っているとき、稽古をしているとき、どんな考えで、どんなやり方で、どんな格好でと自分に注意深くしていくことで、今まで知らなかった自分に出会えていくのかと思っています。
 
5. Posted by ユーカリ   2015年01月30日 23:03
小学校で「気を付け」の姿勢を、「かかとをつけ、爪先を45度開き肘・膝・指先をぴんと伸ばし、少し顎を引きまっすぐ前を向く」と教わりました。
一生懸命、精神的な緊張と、筋肉の緊張を保つことで気を付けの正しい形をとろうとしました。
そして、それが少し上手にできたようで、先生に褒められて嬉しくなって、「物事には正しい完成形があり、部分的な調整を総動員して頑張れば、褒められるんだ!」と何とも単純な思考回路で物事をとらえ、褒められることに喜びを見出してきたのだと思います。
幼い頃に染みついたそれは、なかなか拭いきれずに今に至り、ここに書くのは本当に本当に恥ずかしいのですが…自分の目標とするものが、未だどこかで正しいといわれる形を表現したい、褒められたいという幼稚な精神性が基になっています。
苦しい事ではありますが、自分を意識的に見続けてゆかない事には、太郎冠者さんのように、太極拳を禁断の果実と受け取り、味わう事はできないのだとも思いました。
 
6. Posted by タイ爺   2015年02月04日 15:25
先日、元陸上の十種競技記録保持者(現芸人)がコップの水を飲む動作も意識ですべてコントロールすれば立派なトレーニングになる。と力説していました。逆に何も意識せずただ水を飲むのであればそれは何も役に立たないだろう、とも。
なるほど「用意」ですね。
往年の名ギタリストのN.イエペスも演奏旅行中に列車の中で協奏曲の譜面をじっくり読みしばらくしてから「これで準備はできた」とおっしゃたそうな。うむ、「用意」ですね。

では我々太極拳家が意を用いて何をしなければならないのか?そう考えたとき、動かない訓練ー站椿の重要性が見えてくる気がします。
 
7. Posted by まっつ   2015年02月04日 23:24
自分に向き合う事は、
否応なく無意識に沈めていた葛藤に直面する事であり、
自分を変える覚悟無く見るには痛すぎます。
でも同時にその葛藤の先にある自分を知る事ができたら、
それはその人にとっては、この上ない祝福になろうと思います。
本来、何も確かな事は無いこの世界で、自分を知るという認識は、
錘として自らを律する力になると思います。
たとえその答えが「ダメダメ」なのだとしても。
 
8. Posted by 太郎冠者   2015年02月13日 00:08
☆玄花さん
コメント返信遅くなりました。すいません。

意識の研究はまだ発展途上なので、まだ科学的に意味のある段階ではない、と言う科学者もいます。
しかし何はともあれ、やっていかないことには始まらないわけで。

おっしゃる通り、ロボットの制御に関して身体=外界から得られる情報が、内部=ソフトウェア=心?に与える影響の多さは指摘されています。

そういう面では、太極拳とは身体から意識に働きかける、実に分かりやすいアプローチの仕方なのかもしれません。

太極拳で我々が感じる不思議な現象?を、客観的にデータ化出来たら面白いかもしれませんね。
 
9. Posted by 太郎冠者   2015年02月13日 00:13
☆MIB(▼_▼¬ さん
>もっと即物的というか、実際的と言えばいいのか
街で通りがけに見た女の子、だと思ったら実は長髪で細身の男だったと気づいたときの衝撃ときたら・・・!(電話してたので声でわかりました)

一見、何気ない瞬間にも、我々は無意識のうちに瞬時に判断してしまっている、そこを太極拳は突くのかもしれないですね(笑)

あっちだと思ったらこっちだった。

以上、まったく高尚な精神性のないコメントでした。
 
10. Posted by 太郎冠者   2015年02月13日 00:18
☆とび猿さん
少し話題がそれますが、鍼灸師の資格を持ってる友人が、サッカー部などの学生の身体のケアに関する知識、不十分さを嘆いていました。

一昔前の野球部ほどではないのですが、いまだに根性論というか、努力すればなんとかなる、という風潮が残っているそうです。

たとえ若くとも適切なケアを行わなければ身体はついてこないものです。
この点は、武藝館、とくに長時間の稽古を行う研究会においては徹底されていますね。
ケアを行うということは、自分の身体を知ることにつながり、より意識的に使うことが出来るようになるのだと思います。

自分もおろそかにしがちなところがあるので(笑)
大切にしないといけませんね。
 
11. Posted by 太郎冠者   2015年02月13日 00:28
☆マルコビッチさん
ナイフ好きには有名なマイナー映画(どっちだ)に『ハンテッド』という、トミー・リー・ジョーンズ出演の作品があります。
その中に「トラッキング」という追跡術があるのですが、ネタ元はトム・ブラウン・ジュニアという人の「トラッカー」という本で紹介された技術で、彼は少年時代からアパッチ族の生き残りのインディアンに自然の中で動物を追跡する技術や、何も持たずに野生で生き残るサバイバル技術、ネイティブアメリカンの精神などを学んだ人物です。

要するに、身の回りのあらゆることに気付くための技術で、それによって標的の痕跡を見つけ、追跡するわけですね。
ふつうの人が見落としてしまう痕跡を見つけ、それらをつなぎ合わせ、まるで超能力のように真相に迫っていく様は、現代において忘れがちな何かが残されているように感じます。

・・・まぁ、映画としては大味で地味なんですけどね(笑)
 
12. Posted by 太郎冠者   2015年02月13日 00:37
☆ユーカリさん
幕末の武士のモノクロ写真がいまも残っていますが、彼らの姿を見ると感じるものがあります。

不思議と、すっと軸は立っているのに、緊張して張りつめた様子があまり見られないんですよね。

・・・なぜかというと当時の技術では、写真を撮影するのに数十秒動かずに止まってなければならなかったので、楽な姿勢じゃないとやってられない、というしょうもないオチがあったりするのですが(笑)

冗談はともかく、外国からの脅威が迫り、腰に刀を差した旧来の武士は、一体何を思っていたのでしょうか?
それまでの自分たちの世界が文字通り揺らぎ変革していく中で、彼らが何を感じていたのか、少し想像してみるだけでも、面白いと思います。
 
13. Posted by 太郎冠者   2015年02月13日 00:45
☆タイ爺さん
>現芸人
その芸人は、何か進む道を間違えているよぉ〜な気もしますが、一定の地位を築いていることを見ると、実はコレで成功なのかもしれません。

>譜面をじっくり読みしばらくしてから「これで準備はできた」
そういえば吹奏楽部に所属していた学生時代、演奏会でやる曲は全部頭に入っていたので、譜面はとくに無くても演奏は出来ました。
けど、本番でもちゃんと譜面台は立てていました。
なぜかって?

・・・曲の順番を忘れるからです。

うむ、用意ですね。
 
14. Posted by 太郎冠者   2015年02月13日 01:00
☆まっつさん
>たとえその答えが「ダメダメ」なのだとしても
自分で評価をしない!と師父がおっしゃってたことがあります。
どの世界でも言われることなのだと思うのですが、自分で決めつけない。

ただ、やる。

それがいかに難しいか、ってところなんでしょうね。
自分で決めた価値観で物事を判断してしまう。
そうしてしまうことで、本来あったはずの現実と違ったことになっていく。そこに葛藤が生じる。

そうなっていくと、太極拳の稽古はムズカシイですね。
これ、根が真面目な人に多いような気がします。
だから僕も大変苦労シテマス…。

・・・冗談です。
 

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