2014年07月25日

練拳Diary #58 「武術的な強さとは その2」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花



 武術を学んでいながら、時折「武術とは一体何であるのか」という想いが頭を巡るのは、それ自体が日々を平和の中で過ごしていることの顕れなのかもしれません。

 『武術性は生命の危機のもとでしか味わえない』とは、常々師父が研究会や武藝クラス、健康クラスの区別なく一貫して仰ることですが、そのことを意識して稽古に臨むのとそうでない場合とでは、身に付き養われることが格段に違ってきます。

 また、武術を学ぶにあたっては、自分がケンカに強くなりたいのか、武術を極めたいのかを、自分自身で明確に認識している必要があります。
 なぜなら、武術とは単に「戦いの技術」に留まらず、生き残るための総合的な考え方のシステムの集大成であると感じられるからです。

 私は、最近になってようやくこの拳法が「太極」と呼ばれる理由が見えてきた気がしています。そしてますます、太極拳を学ぶためには武術とは何であるのかということを明確に理解する必要がある、という思いが強くなっています。


 私が太極拳を学んできた中で、最も印象的であった「武術性」と「日常性」の違いとは、「触れたくない」ということでした。
 強力な打撃を加えることよりも、先ず相手に触れないというところでもって稽古しなければ、武術性は理解できないと言われるのです。

 敵と対したとき、それは既に武器を所持していることが前提となりますが、たとえば大きなナイフを構えて殺意を持って迫ってくる相手に対して、まず受け止めてとか、組み付いて倒すということを考えるでしょうか。
 親しい友人が隣で笑いながらナイフを取り出してもピリリと緊張が走るのに、赤の他人であれば言わずもがなです。

 触れたくない、触れれば切れるというところで行われる稽古は、たくさんのことを教えてくれます。
 ひとつは、相手の状態に関係なく制御できるということ。
 師父は、相手が素手でも、武器を持っていても多人数でも何も変わりませんし、こちらが受ける影響も何も変わらないのです。
 それでは私たち門人はというと、やはり変わってしまいます。
 たった一本のトレーニングナイフでも、切っ先がこちらに向いているだけで人はまず身構えてしまいますし、触れたくないということが、出来れば避けたいということに変わってしまいます。当然、身体は動かず足は居着いてしまうのです。

 それならば、実戦さながらのスピードでバシバシやり合う中で恐怖心を取り除き、胆力を養って敵に怯まずに突き進めるようにすれば良いかというと、太極拳ではそのようには考えません。
 まずはお互いにゆっくり動く条件を設けて、予め決められた幾つかの攻撃をランダムに繰り出す中で、架式をはじめとする歩法や身体各部の要求が基本の通りに動けているかを、確認していきます。つまり、武器を使用する訓練でも、武器に対する対処法や護身術の練習にはならず、あくまでも基本を養うことが徹底されるわけです。

 考えてみれば、私たちが刀や棍で稽古を行う際にも、それらの武器による戦い方など一度も教えられたことがありません。その代わりに、武器を持つと自分の身体はどのように変わるのか、相手に対したときには各自の考え方がどのように変わってしまうのかを、細かく追求して行くのです。
 その結果、自分と相手との間の武器の有無に関係なく、変わらない自分の在り方で対応することが出来るようになるのです。

 このようにして書いてみると大したことがないように思えますが、それを実際に実行することは、それほど優しくありません。何と言っても、相手がいるからです。
 自分ひとりだけならば、じっくりと基本を練る余裕があるので、他の練功で確認をしていくことが出来るのですが、たったひとり相手が入るだけで、それが敵ではなく同門の仲間であっても、自分以外の人が関わってくるとなると、簡単ではなくなるのです。
 
 対人訓練で、相手が思うように倒れないとき。あるいは、相手の突きや蹴りがこちらに入ってくるとき。その瞬間に頭をよぎるのは、相手に対する対抗心か、自分自身の見直しか、どちらになるでしょうか。

 私自身も経験がありますが、どのような状況でも最後まで「稽古」に専念出来る為には、ある精神状態にないと難しいということです。
 稽古に対する意識とそこで得られる実感、そしてたとえ僅かでも稽古を重ねることで得られる実感の変化に興味を持てないと、途端に意識は「相手」に向けられてしまいます。
 人間にはそもそも「やられたらやり返す」というDNAが組み込まれているのではないかと思えるほど、一度相手に向いた意識を自分に戻すことは難しくなります。

 その状態がエスカレートしていくと、対人訓練の「稽古」が、まるで「試合」のようになっていきます。
 たとえば、今日の稽古のまとめを散手で確認したいということが、相手に何発入れられたかとか、何回倒せたかということにすり替わってしまい、果ては感情と感情のぶつかり合いになってしまいます。結局、肝心な “相手が居ても自分の稽古が出来ること” には、なかなかならないのです。
 太極拳を練る際の大原則とされる「用意不用力」が、容易に「用力不用意」になっていくと言えるでしょうか。
 師父は常々、『勝たなければならないのは敵ではなく、自分自身である』と仰いますが、まさに最も制御することが難しいのは自分自身なのだと思えます。

 稽古で相手を殴ったり倒したりするために時間を使っているうちは、まだまだ武術を分かっていないと言えるでしょう。
 なぜなら、今目の前にいる相手は自分と同様に同じ学習体系の下で拳理を学び、共に訓練に励んでいる仲間だからです。その相手を倒せたからといって、一体どれほど武術的に強くなったと言えるのでしょうか。
 自分の目的がちっぽけなその場限りの満足を得ることなのか、武術の深奥を極めることなのか。はじめにも述べた通り、その認識を明確にすることが大事だと思います。
 打ち合いに馴れるよりも、打ち合いが成立しない原理を分かること。怯まずに前に出る精神を養うよりも、自己を見つめられる精神を養うことです。
 軍隊の訓練で最初に指導されることは銃の撃ち方ではなく、どのような状況下でも任務を遂行できる精神力と持久力を養うことであるという点も、同じことであると思います。

 「触れたくない」という考え方は、武術がそもそも相手とぶつからないところのものであることを教えてくれます。正確には、ぶつかっている暇がないと言えるでしょうか。
 これは、たとえば5〜6人に次々に襲いかかってもらえばすぐに分かることですが、一人の人とぶつかっている間を狙って次の人が来ます。またその人の相手をしている間に次の人・・と、実際にぶつかっている暇がなく、相手とぶつかっている時間は自分の身体が止まって居着いている時間になります。動けないことは則ち死を意味するということが、否応なしに実感させられるのです。

 ただし、ここで間違えられやすいのは「相手とぶつからないようにしていればいい」という考え方になることです。強い力でぶつかるのが武術でないというなら、ぶつからなければよいのだと短絡に考えてしまい、相手との接点に力が加わることを避けるというものです。
 これも試してみれば分かりますが、小手先や足先の工夫が主な動きになってしまい、身体は動いてくれません。
 さらに、この考え方だと相手に頑張って踏ん張らせた場合には、何の影響も与えることが出来ないのです。自分からぶつかることを避けていたので当然の結果なのですが、やっている本人にしてみれば大いに疑問が生じるわけです。
 相手とぶつかるのは武術的ではないとされるのに、相手とぶつからないようにしているのも武術的ではないという。それではどうしたら良いのだろうか、と。

 すでに答えは出ているようなものですが、ここで必要なことは相手との接点の工夫ではなくて、教えられた架式や基本に忠実に動いているかということだけです。
 そして、示範されている動きを注意深く観ることです。思考するためではなく、意識的になるために観るのです。示されている動き、指示されている言葉を全て受け入れて、自分で再現してみるのです。
 すると、相手が影響を受けたかどうかに関係なく自分に発見が起こります。自分と太極拳の考え方の違い、思い込んでいた動きとの違いや今までの自分には無かった動きなど、たくさんの発見があるはずです。それを大事にします。正しくても間違っていてもその発見を大事にして、尚かつ執着しないことです。基本功から対練まで、常に新しい目で観て発見と検証を重ねていきます。

 その過程には、相手を倒せたことや、倒せなかったことは入っていません。お互いに自分の稽古をしているだけなのです。
 そしてその上で生じている関係性を学び、相手がいるからこそ分かる自分の状態を省みては修正することを繰り返すために、お互いに勉強になり、稽古になるわけです。



                                 (つづく)

noriko630 at 18:09コメント(14)練拳 Diary | *#51〜#60 

コメント一覧

1. Posted by まっつ   2014年07月28日 22:20
自分が強いと「稽古」は出来ないと、何度指摘を受けたでしょうか。
最近になって少し見えてきた事は、
自分の強さを追究する事では、自分を離れた強さには到達しないという事。
自分を自分で定義してもあまり意味は無いし、実は大して面白くもない事。
その面白くない事を随分やってきたなという事。
むしろ自分が弱い事を認めて「変えられてみる」事が実は意味深い事。
変化は面白い、変えられる事は面白い。
強さの追及ではなく、
強さで覆っていた弱さの追及こそが大事なのだと感じています。
 
2. Posted by マルコビッチ   2014年07月28日 23:32
>変わらない自分の在り方で対応する・・・
まさにこの事が一番難しく思います。

棍を持って歩いただけで自分の状態が変わってしまいますし、対練になりますと、無意識に逃げたり、対抗したりしているのを感じます。
日常生活の中でも、いろいろなことに左右され、一人でいても自分の思考に左右され、日々変わる自分の精神状態に翻弄されているように感じます。

太極拳が教えてくれている真の部分にチューニングし続け、自分という人間を知っていくことが、
”変わらない自分の在り方” に繋がるのかと思います。
 
3. Posted by MIB(▼_▼¬   2014年07月29日 16:24
対練では相手がいるために自分に向かう意識がどうしても少なくなり、基本に従うことが疎かになりがちだと思っていたのですが、どうやら自分は基本に従うことと相手に合わせることを分けて考えているようだと最近気付きました。相手に合わせることばかりにフォーカスしている時、逆に動きがとまっていると指摘を受けたことがきっかけになったのですが、言われる前に自分で気づかなくてはいけなかったと反省しきりです。
分からないなりにもこれは武術と言えるか?自分が戦いの合間に練習せざるを得なかったらこのように稽古に向き合うか?と自分に問い続けなくてはいけないと感じています。
 
4. Posted by 太郎冠者   2014年07月30日 00:42
>「触れたくない」ということ
武術、というより戦闘の歴史というべきですが、古来より磨かれて進化してきた戦闘技法の基本コンセプトは、
いかに離れた安全なところから相手を仕留めるか、というものです。
槍から弓、そして銃へと進化してきて、現代における戦闘の基本は、銃撃戦と言ってもいいわけですよね。

特殊な任務にでもついていない限り、兵士に格闘戦の出番はほとんどない、と。
そんな現代において、古臭い武術、近接戦闘を習得することになんの意味があるのか? と言う人もいるみたいですが、
戦闘における基本中の基本は、そこに人と人との争いがあるということだと思います。

戦闘を学ぶということは、人と人との関係を学ぶということ。
人を学ぶためには、まず誰より身近な人である自分を知る必要があるように感じます。

前置きが長くなってしまいましたが、なので太極拳
学習は深く、
かつ意味があり、面白いのだと思います。
・・・ぜんぜんまとまってないですが(汗)
 
5. Posted by とび猿   2014年07月30日 20:15
以前、自分は壁を背にし、相手に抜き身のナイフで掛かってきてもらう
という対練を経験しましたが、実際にナイフで襲われたら、
相手に触れて制しよう、力尽くで対処しようなどとは、とても思えませんでした。
何しろ、相手は本物のナイフですから、間違って当たれば簡単に切られてしまいます。
また、この時は1対1でしたが、これが1対多数であれば尚の事であると思います。
この体験は自分にとってとても大きなものであり、
少なくとも、上記の発想は武術性とは異なるということが、はっきりと分かります。

武術性から外れた頭でいては、折角教示して頂いたことも、
おかしな受け取り方をしてしまいます。
このずれを常に修正していかなければ、とても本物は見えてこないと稽古の度に思います。
 
6. Posted by ユーカリ   2014年07月30日 23:57
「ぶつかる事」と「相手と関わる事」の違いが明確になっていないと感じました。

対練では、ぶつかる事を避けて相手にきちんと関われず、噛み合う実感が持てなかったり、関わろうとして居付いてしまったり、自分の在り方と基本とを照らし合わせる意識が希薄である事に行き着きます。

師父や玄花さんの後ろで動いているときも、自分の在り方から目を逸らせてしまえる時間があります。

目を逸らせている自分に「今、逸れたぞ!」と曖昧にせずきちんと言えるように、なりたいです。
 
7. Posted by タイ爺   2014年08月05日 09:57
「触れたくない」為に推手のように触れた状態から訓練が行われる。
これは本当に興味深いですね。
「太極拳は先ず相手に接触する」と、ずーっと思っていたので、この発想は腰が抜けるくらい驚かされました。

考えてみれば昔といえども素手で殴りあう戦はなく、それこそ触れると切られたり刺されたりするわけです、わざわざ自分から接触しに行くわけが無い。ましてや組み合うことで相手を無力化するなんて武術として如何なものかと・・・。
札幌稽古会の皆さんの前で行われる「礼」の中に、太極拳そのものがあると感じるこの頃です。
 
8. Posted by 円山玄花   2014年08月12日 10:03
☆まっつさん

太極拳の考え方からみますと、自分の強さを追究することと弱さを追究することは、実は同じことであると言えます。
自分を何も挟まずに太極拳の学習に向かおうとすると、まず自分の在り方を問い直さざるを得ず、
在り方を問い直そうとすると生活を見直さなければならず、生活を見直そうとすると自分の考え方に光を当てる必要が出てくると、私はそのように思い至りました。
 
9. Posted by 円山玄花   2014年08月12日 10:05
☆マルコビッチさん

私も、「変わらない自分の在り方」がとても難しく思えていました。
けれども稽古を通じて、それこそマルコビッチさんが言うように、棍を持っただけで変わってしまう自分の状態は、同じ自分の意識によって棍を持っても変わらない状態にできることが発見でき、
とても感動しました。
そのことが可能になるのであれば、その他の物事でも同じように「変わらない自分の在り方」を
追究できる可能性があると思えたからです。
 
10. Posted by 円山玄花   2014年08月12日 10:07
☆MIB(▼_▼¬さん

>基本に従うことと相手に合わせること・・

私も最初はその二つを分けて考えていました。
それは、どう考えても「基本は基本じゃないか」という頭があったからなのですが、決定的なことが抜けていたのですね。それが、「その基本とは、武術の基本である」ということでした。

武術として、戦闘として必要な考え方と身体を練るために編み出された基本が、相手(敵)と離れたことであるはずがないのですが、それを分けて考えられるほど生温い生活をしているのかと考えてゾッとした覚えがあります。
いつも言われていることですが、
『稽古のときには実戦であり、実戦のときには稽古であると思えること』が要ですね。
 
11. Posted by 円山玄花   2014年08月12日 10:10
☆太郎冠者さん

「自分を知る」ということは、「自分を観る」ことだとも言えます。
いつ、どこで、何をしていても、どの瞬間にも自分を第三者として観られること。
自分がどのような状態で、何を、何のためにどのように考えているのか、一切の誤魔化しや妥協なく観られること。その為には、その気になっているだけではなく、覚悟が必要です。
半端な覚悟では、気が狂いそうになります(笑)
そして人は、そのことを本能的に知っているのだと思います。
だから、それを本気でやろうと思える人もまた、少ないのだと思います。
 
12. Posted by 円山玄花   2014年08月12日 10:12
☆とび猿さん

>抜き身のナイフで・・

ぜひ次回は、そのナイフで生身の人間に斬り掛かっていく対練を経験してみてください!
また見える風景が一変しますよ。
 
13. Posted by 円山玄花   2014年08月12日 10:14
☆ユーカリさん

世の中には、歯を食いしばってもどうにもならないことがあります。
それはそれは、悔しいものです。
だから、せめて自分がやりたいと思うことに対して、
自分から逃げるようなことはしたくないと私は思います。

何が出来たかではなくて、今何をしているのか。
それが大切だと思います。
 
14. Posted by 円山玄花   2014年08月12日 10:21
☆タイ爺さん

発想の違いは大きいもので、本部道場で指導を受けている私たちも毎回の稽古で指摘されます。

推手もその他の組み合う稽古も、目的がその場での相手の倒し方みたいになってしまうと、「触れたくない」という発想は必要なくなりますし、高度な武術原理には成り得ません。
各練功の目的を明言でき、尚かつそれを体系的に説明でき、科学的にも証明できるところは、とても希なのだと思います。

「触れたくない」と言えば、他所では稽古の内容が激しく怪我が絶えないという話も聞きましたがマルチプルな訓練では、指先の怪我だけでも自分の実力がマイナスされることがよく分かります。
戦闘のための訓練で怪我をしていては、実際には動けないことになるわけですが、その認識があるのとないのとでは、やはり訓練内容や目的も変わってくると思います。
 

コメントする

このブログにコメントするにはログインが必要です。

Categories
  • ライブドアブログ