2014年06月24日

門人随想 「今日も稽古で日が暮れる」 その24

   「 認 識 の ワ ナ 2 」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 私とは何か? 

 いま私は一体何をしているのか。
 そして、私はそのことをどれだけ知っているのだろうか。
 
 私はいま、この文章を書くためにパソコンディスプレイの前に座り、
 指先はキーボードをたたき続けている。
 外では鳥の鳴き声や車の走る音が聞こえる。
 
 キーボードを叩くたびに表示される文字に集中し、時折止まりながら書いている間、
 私はひととき、自分が自分の身体を持っているという感覚が希薄になっている。
 
 イスと触れあっている接地点、身体にまとっている衣服の感触、
 忘れずに続けられている呼吸、瞬きは自動で行われている。
 これを書いている私は、呼吸をし、生命を維持し続けようとしている私なのだろうか?
 
 それとも、指先から繰り出され画面に表示される、
 文字の中に息づいている精神こそが、私の在りかなのだろうか?
 ありふれた光景、ごく日常的な生活の中に、神秘の種は潜んでいる。
 
 
 提示されているはずの物事が見えないということは、一体どういうことなのだろうか。
 
 稽古中、目の前で模範され、それを真似している中で、いっこうに形が合わない時。
 見る角度を変え、自分の姿を鏡に映し真似しようとするのに、
 それでも同じ状態にはならないというとき、そこで何が起きているのだろうか。
 
 少なくとも道場で稽古をしているとき、だれでも服を着ているし、靴を履いている。
 このことを稽古中に意識する瞬間は、服が引っかかったり乱れたり、靴が足に当たる、
 ないしは脱げたということがない限り、ほとんどないはずだ。
 
 当たり前のはずなのに、そのことをまったく意識していない。
 そこまで意識に上らせていたら、こちらの処理能力を超えてしまうからだ。
 だから自分の脳は、感覚は本来上がってきているはずのそれらの情報を、
 意図的に遮断するように出来ている。
 そして、何かイレギュラーな事態が起きたり、着替える必要がある場合などには、
 意識に上るように仕向けている。
 
 誰でも、自分が今着ている服を感じるように言われたら、
 それを感じることが出来るはずだ。
 
 ところが、太極拳においてはそうはいかない。
 
 基本功をやっても歩法や套路で動いても、なかなか師父とは同じようにはいかない。
 ましてや対練や散手などで相手がいるとなれば、
 もうそこには稽古で培われた動きではなく、自分のやりたい動作が出てきてしまうのだ。
 
 それについて、神経学的なメカニズムで少し見てみようと思う。
 
 
 人間の身体は、行き当たりばったりで動かしているわけではない。

 脳が全身の感覚を処理し、
 自分がどのような状態にあるのかを常にリアルタイムで演算している、
 いってみれば、高度な情報処理システムとして機能している。
 
 とくに上であげたような身体が感じる感覚や、
 姿勢などの状態を処理している神経のメカニズムのことを、
 「ボディ・スキーマ(身体図式)」という。
 
 我々の脳は、自分が感じている情報を基にして、
 自分の脳内に、自分の身体が今どういう状況なのかを「図式化」しているのだ。
 服を着ていれば、それも自身のボディ・スキーマに組み込まれる。
 帽子をかぶれば帽子も、道具を持てばそれも、
 自身の身体の一部として処理するように機能しているのだ。
 
 もうひとつ、「ボディ・イメージ」というものがある。
 これはボディ・スキーマより分かりやすくて、
 自分の身体がどのような状態にあるのか、
 自分で意識的に抱いているイメージだと思ってもらって良い。
 
 脳の情報処理システムは階層的になっていて、
 全身にある感覚器官を通じて得られた感覚は、
 脳内の低次な処理過程から、高度な処理過程へと段階的に進み、
 それからまた低次の処理過程へと下って、
 また全身の感覚器、運動器官に伝えられることになる。
 
  あまり見慣れない言葉の羅列に、
 「よし、読み飛ばそう!」と斜め読みした方もいるかもしれないが、
 もう少しだけ辛抱してもらいたい。
 ここからが話の核心になる。
 
 
 身体から脳に送られた情報は、
 低次の領域から高次の領域へと送られ、ボディ・スキーマを形成する。
 それから逆のルートをたどり、自分の動きや姿勢を実際に決めることになるわけだが、
 それぞれをつないでいる神経線維の数、そこに大きな違いが見られるのだ。
 
 低次から高次に向かう神経線維の数が1本だとすると、
 それに対して高次から低次に向かう神経線維の数は、なんと10本(!)にもなる。
 
 「だから…なに?」
 
 という声が少なからず聞こえたが、これは人間の情報処理過程において、
 かなり面白い示唆的な内容を含んだ数字だといえる。
 
 というのも、外側から上がってくる情報が1つだとすると、
 自分の脳内から外に向かっていく情報が、単純に言って10倍あるという事なのだから。
 
 
 つまり、どういうことかと言うと、

 太極拳で例にとると、
 師父の姿を見て、自分の姿を鏡で確認して、
 それでも足りなければ、外側から誰かに直してもらったとしても、
 自分が真似しているつもりになっていることの10倍は、
 自動的に、自分で勝手に思い込んだ動きをしている、ということになってしまうのだ。
 
 これは驚くべき、そして悲しい結論でもある。
 神経的なメカニズムから言っても、
 人間は「自分勝手に自分の動きをすること」に特化したような仕組みを持っている、
 というのだから。
 
 自分の動きの根本にあるのは、「次はこうする」と、
 自分で立てた「予測」と、「思い込み(ビリーフ)」がメインなのだ。
 
 ましてや、二足歩行を初めてから何年、何十年も経ってしまい、
 好き勝手に動くことを憶えてしまった我々の脳と身体である。
 「こういう状態のときは、こうでしょ!」と、
 勝手に自分の身体を制御してしまうことに慣れ切ってしまっている。
 
 
 これでは、どれだけ高度な学習体系を有し、精妙な身体操法を提示されたとしても、
 真似できっこないのは、むしろ仕方のないことのように思える。
 
 基本功で動きを示されたとき、あなたの手はどこにある?
 歩法で歩く時、足はどこに出ている? 身体はどっちを向いている?
 そんな一見単純なことも真似できないのは、自分で勝手に思い込み、
 予測して動きたがる我々の神経に問題がある。
 

 「じゃあ、どうすることもできないじゃないか・・!!」
 
 だが、あきらめるのはまだ早い。
 我々人類は、学習することで現在の文化を作り上げてきた。
 そこもまた、意識的に学習していくことで改善していくことは可能なのだ。
 
 自らが抱いているボディ・イメージを修正してあげることで、
 ボディ・スキーマが行っている情報処理の過程に変更を加えることが可能なのだ。
 
 ボディ・イメージは、後天的に学習された自分自身の在り方、
 状態に対する考え方だと思ってもらいたい。

 そう、「考え方」なのだ。
 
 師父がおっしゃっている「太極拳は、考え方で決まる」という言葉が、
 ここにおいて大きく響いてくるのが感じられる!!
 
 なぜこうも多種多様な練功が示されているのか。
 それらはすべて、自分の「考え方」を変えるためなのだ。
 
 自分がどう在って、どう変化するのか。
 意識的な領域のアプローチによって初めて、自らが変質しはじめる。
 脳と神経というメカニズムで表現すれば、
 ボディ・イメージの変更がボディ・スキーマに影響を与え、
 実際の姿勢や動きに変化が起こる、といえる。
 
 また、人間の脳は可塑性があり、
 学習していくことで、生涯にわたって変化していけるものである。
 ここにおいても「受容性」が重要となってくる。
 
 自らから発することではなく(高次領域から低次領域に向かう命令ではなく)、
 受け入れること(外界で得られた情報を高次領域に届け、変化を促すこと)で、
 自身の目の前に展開されている本当の現実と向き合っていく事が可能になっていくのだ。
 
 
 自らの在り方に目を向け、現実を受け入れることで、脳は変化を起こし始める。
 それは、太極拳への取り組み方のみならず、
 人生に対する態度にまで影響を及ぼさずにはいられないだろう。


                               (つづく)


noriko630 at 20:39コメント(16)今日も稽古で日が暮れる  

コメント一覧

1. Posted by MIB(▼_▼¬   2014年06月27日 00:47
稽古をしていると毎回が、思い込みや予測との戦いだと思えます。拙力の力学イメージを抜け出せない、自分の体を定位するのに今の自分を基準にしてしまう、あげく師父の動きにまで自分の図式を投影してしまいます。いやはや。
脳が捨象した基本的なところを日の下に引っ張り出してきて壊していかなくてはならないですね。そこで何となく折り合いをつけて稽古の時だけ真似ができるようになっても、とっさの時には慣れ親しんだ動きが出てくるのでしょう。

とはいえ、「自分で勝手に思い込んだ動き」をできないと、生きていくうえで不都合があったんでしょうね。その辺のところがわかれば、ボディ・イメージの訂正の勘所が掴めるんじゃなかろうかな、と思っていました。
 
2. Posted by まっつ   2014年06月27日 06:24
人工知能の最大の難問であるフレーム問題は、
無限の可能性から選択肢を選べない事が課題ですが、
認識のフレームが固定してしまった人間の課題は、
無限の可能性にアクセスできない悲喜劇にあるのでしょう。

状況に応じて不必要な情報を自動的にカットする人間の機能は、
複雑化、細分化、専門化が進む現代社会では、
特に有用ではあると思います。

身体感覚から離れた抽象的な理を対象として生業を営むと、
当に冒頭に述べられているように、
加速、集中する思考が「私」であるかのように感じられます。
身体感覚が無くても生きられるという錯覚も現代の特徴ですね。

でも人間が身体無しで生きられる訳は無いので、
身体を顧みない生き方は、結局は心身を損なってしまいます。
自動化された一面的な認識と身体感覚の罠(虚像)を理解し、
自分自身の実像を知ろうとする姿勢が重要なのだと、
改めて強く感じました。
 
3. Posted by タイ爺   2014年06月27日 11:28
成長過程においていろいろな知識や方法を身につけて行きますが、それを専門に行おうとすると邪魔になる場合もあります。
子供から大人になる過程で知らず知らず人はその人の知識や経験によって自然とバイアスがかかった視点と行動が身についてしまう。師父の動きと合わせている積りでも合わせられず、どこが違うかも認識できない。余分な知識や学習などで混乱したボディイメージが邪魔をしていたんですね。
体と頭をリセットします。
 
4. Posted by bamboo   2014年06月28日 08:19
子どもって凄いですね…。何も知らないからこそ、興味をもてば真っ白なアタマで受け入れていける…。
もう子どもには戻れませんが、子どものように楽しんでいられる在り方を、脳がイカレることなく楽しめたらと…思います。
 
5. Posted by 円山玄花   2014年06月28日 11:43
これぞ太極拳の科学的な検証と言えるでしょうか。
”太極拳の”というよりは、太極拳を学ぼうとする人間の、ですね。
とても興味深く読み進めました。

物事をただ物事として受け取ることが難しい原因が、脳の神経メカニズムにあったとは、
なぜだか笑ってしまいます。

何かの問題や悩みが生じたとき、人はまず他人や環境のせいにすることが多く、常に自分側に問題を見出すという「問題の見方」が出来る人は少ないですが、それも納得できます。

さてそれではどうしたら良いのか、というところですね。
続きを楽しみにしています。
 
6. Posted by とび猿   2014年06月28日 13:29
>低次から高次に向かう神経線維の数が1本だとすると、
それに対して高次から低次に向かう神経線維の数は、
なんと10本(!)にもなる〜

これは驚きです。
確かに日常生活を円滑に行う為には必要なことだと思いますが、
意識的に身体が統御されていることが必要ならば、
これは分かっておかなければならないことだと思います。


以前、「積極的受容性」が必要であると御指導を受けたことがあります。
その時、「積極的受容性」とは、例えばここに赤い花があったとして、
それをそのまま「ああ、赤い花だ」と受け取ることであり、
その為のアンテナを張り、広げることが必要である。
それに対し、この花びらは何色の赤で何枚でと分析する状態は、
エネルギーの向きが違うと言われたことがありました。
これは考え方や向かい方の問題であり、これを正していく必要を感じます。

それにしても、人間は多くの可能性を秘めているのですね。
 
7. Posted by ユーカリ   2014年06月29日 11:42
師父や玄花后嗣の動きを見ながら動いていて、鏡に映った自分の姿を見て、毎回愕然としてしまいます。
とても図々しいのですが、自分は真似ているつもりになり、まさか、これほどまでに貧相な動きをしているとは…↓と思うのです。
そこには、予測や思い込みが観たものの10倍となって身体に反映されているのですね!
いつもご指導頂いている、「受け入れる事」「自分の状態・在り方を認識する事」の大切さを再認識させて頂きました。
稽古でも、日常でも、感覚や部分に偏りがちなので、目で見て確認し、自分の状態を実感して、感覚とのギャップを認識して修正し続けたいと思います。

今からでも「脳が変化しはじめる」きっかけをつかみ、生涯変化し続けていけるんだと思うと、嬉しいです(^^)
頑張ります!
 
8. Posted by マルコビッチ   2014年06月29日 12:30
太郎冠者さんには、いつも人のメカニズムについて教えていただき、ありがとうございます。
人間には自分の意志とは別に機能していることや、もっと深い意識があるように思いました。

>自分の動きの根本にあるのは、自分で立てた「予測」と、「思い込み」がメイン・・・

自分を振り返ってみても確かにその通りで、それまでの自分がこうだと思っていることに従って動いていることが多いですね。
そこで師父との違いに気付いたり、違和感を感じたりしたときは良いのですが・・・(__;)

私は、以前は父親の立ち方、母親の歩き方にそっくりでした。(太極拳を始めてから気が付いたのですが・・)
それがだんだん少しずつ改善されてきたのは、師父の姿を頭に焼き付け、構造を理解しようとしながら、自分に意識を向けてきたからかな、なんて思います。(もちろんまだまだまだまだ遠いですが・・)
見えることが増えてくれば、ボディ・スキーマに影響を与えるってことですよね!

 
9. Posted by 太郎冠者   2014年07月07日 22:47
☆MIB(▼_▼¬さん
厳密なことを言ってしまえば、人それぞれ体格は違うので、物理的に他人とまったく同じ動きをすることは、不可能ですね。

じゃあどうしたらいいかというと、やっぱり真似をすること以外にはないわけですが、真似をすることで示された動きが、自分の体の使い方として身についていく。
そういう機能が、人間にはちゃんと用意されているというところが、我々にとっての救いでしょうか(笑)

そして面白いことに、真似をすればするほど真似をすることがうまくなっていく。これもまた、人間の脳が持っている特性です。

同じ時間、同じように師の後ろについて動いていても、自分の思い込みで動きを続けてしまうか、はたまた下手でも上手でもとにかく真似し続けようとするか。

それが回数、時間を重ねればどうなっていくかは、明らかですよね!
 
10. Posted by 太郎冠者   2014年07月07日 22:58
☆まっつさん
フレーム問題に関する顛末は、いまだに研究者の間でも意見がまとまっていないみたいですが、個人的な意見を言わせてもらえれば回答はシンプルだと思います。

人工知能研究者が問題にしているフレーム問題の問題は(ややこしい)、人工知能をソフトウェアの領域からとらえているという点で、フレーム問題で問題になっているのは実際的にはハードウェアの世界に属している、という点でしょうか。
人間がフレーム問題に関してどのような解決策を呈しているか、それは簡単です。
人間は身体というハードウェアによって、かなり不自由に拘束されているわけです。脳というのもまた、そのハードウェアの一部分がある領域の処理のために特化しただけのものにすぎないわけですね、言ってみれば。
つまり特定の物事に対して、無限の領域からの処理をはじめなくても、最初から限定的な領域でしか処理ができないようになっている、それが体を持った人間の脳のメリットなのだと思います。

ごちゃごちゃ考える前に体を動かせ、体の声を聞け!
っていうことなのでしょうねぇ。
 
11. Posted by 太郎冠者   2014年07月07日 23:07
☆タイ爺さん
脳内の神経接続数の数なんですが、1歳ころから、実は意図的に数を減らしていくそうです。
1歳頃から減らして10歳頃まで下降し、それからはほぼ横ばいで進んでいくということらしいです。

1歳頃というと、人間にとって難業ともいえる二足歩行が行われはじめる時期でしょうか。そのころまであった多大な回路を、減らしていくことで現実の世界に適応できる脳のカタチに作り上げていくというのは、なかなか面白いことだと思いませんか。
人間にとって、柔軟に対応できるだけが能じゃないということなのでしょうね。

あまりに柔軟すぎて、長年かけてようやく体得した太極拳の原理を次の日にはすっかり忘れて違うことをやっていた、なんてことも防げますしね・・・。

>余分な知識や学習などで混乱した
おっしゃるとおり、余分なものはそぎ落としてスリムになると、今後が軽やかになるのかもしれません。
 
12. Posted by 太郎冠者   2014年07月07日 23:14
☆bambooさん
>脳がイカレることなく
先日、拝師弟子のNさんが四国からいらっしゃって、そういうときは大体、一日の稽古時間がトータル14時間ほどになるでしょうか。
後半になってくると、長時間の稽古になれている研究会のメンバーもさすがに、頭がだいぶハイになってきますね。

普段じゃ笑わないことでもすぐに笑いだしてしまい、その間にも対練で人がバシバシすっ飛んで転がりまわってるのですから、ある種、奇妙というか異様な光景かもしれません。

外側の仮面を取りつくろってる余裕がないとき、人はそうして子どものように無邪気に、全力で物事にあたれるのかもしれません。

童心に帰りたければ、れっつ、ロング稽古!
 
13. Posted by 太郎冠者   2014年07月07日 23:27
☆玄花さん
>太極拳を学ぼうとする人間の
僕はもともと武術などに縁がなく、人間のことをもっと深く知りたくて武藝館に入門した・・・

なんて書こうと思ったんですが、よくよく考えたら入門前に買った使いもしない木刀やら武器やらがゴロゴロしている部屋を見て、「嘘やん」と自分で言いたくなったので、書かないことにします(笑)

太極拳は人間の行うことであり、指令の中枢はその脳にある!
などと喝破して脳について調べたわけでもなく、もともと興味のあった分野から考察してみたわけですが、意外と面白いことが分かるものだと、自分自身思ったものです。

いや、もしかして最初から太極拳のために、それに興味を持ったのかもしれません・・・さながら室内の木刀のように(笑)
 
14. Posted by 太郎冠者   2014年07月07日 23:34
☆とび猿さん
妙な話なんですが、たとえば上述のボディ・マップに関する実験。
人間の脳神経と体の各部が、どのように対応しているかを調べる実験なんですが、なんと生きたまま意識のある人間の頭をパカッと開いて、脳に直接電気刺激を与えて、その被験者と会話しながらしてるんですよねぇ・・・。

なんでそんなことができるかというと、人間の脳は痛みを感じないのです。
痛みの情報を処理するのは脳なんですが、それ自体は痛みを感じない。

ちょっとした皮肉とでもいいますか。

脳が「ある」のと、「脳がある」のでは、全く違うということです。
禅問答みたいですが、受容性の話、ということでひとつ。
 
15. Posted by 太郎冠者   2014年07月07日 23:43
☆ユーカリさん
人間、好きなことに関わっているときには、勉強しよう!などと思わなくても、受容的に、かつ積極的に勉強するものですし、必然的に脳もそういうモードになります。

先日、稽古中にトレーニングナイフを使っていたのですが、どうも僕の目付きが鋭くなっていたらしく、目が鋭く「デビル」になってる、と言われました。
武藝館で、ましてや研究会で稽古している人間だったら武術好きというのは、わざわざ問われるまでもない当たり前のことですよね。
目つきも変わるというものです。

好きなものには脳のモードが変化する、それを覚えておくと面白いかもしれません。
そして、脳のモードが変化すると、目付きも変わる・・・かもしれません(笑)
 
16. Posted by 太郎冠者   2014年07月07日 23:51
☆マルコビッチさん
>もっと深い意識があるように
「自分」だと思っているものは、自分が受け取り、処理している情報ぜんたいの中で1パーセント以下だとも言われています。
その意味では自分とは違う別の意識ともいえるでしょうし、そこまで含めて自分だと思えば、本当の自分とはかなり未知の領域があるのだと思わされますね。

>見えることが増えてくれば、ボディ・スキーマに影響を与えるってことですよね!?
脳の構造で言えば、「見えるもの」とは自分が「見えたと思ったもの」です。
それはどこにあるかというと、すべて自分の「中」にあります。
人は、自分の中にあるものしか見えません。

太極拳について何かが見えたときには、実はすでに、それは自分の中にあるわけですね。
そこにはすでに、出来る出来ないに関わらず理解がある、と思うのです。正しいかどうかは別として(笑)

太極拳は気づいた者勝ち、見えたもの勝ち、というのはそういうことも含んでいるのかもしれません。
 

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