2013年09月25日

練拳Diary#54「学び方 その7」

                        by 教練  円山 玄花



  太極拳を学習する上で、理解しなければならないことのひとつに「意識」があります。
 それは、改めて理解しなければならないと言うよりは、学習の過程で否応なく身につき、高められてゆくものでもあります。

 たとえば、站椿に代表される立ち方ひとつを取り出してみても、意識的でなければ細かい要訣を整えていくことはできず、自分なりに長時間立ってみたところで、自己満足にはなっても練功にはなりません。
 言い換えれば、“自分なり”の工夫や努力では、「意識」が養われずに、「自我」がどんどん養われるわけです。

 日々の稽古を振り返ってみれば、深遠なる纏絲勁の原理を勉強する前に、やるべきことは山積みであり、真似が出来ない、手の位置が違う、腰の向きが違う、足が出る構造がまったく違う・・などなど、どういうワケか、毎回同じようなことを指摘されている光景を、よく目にします。
 その様子を注意深く観察していると、手の位置は変わってもそれによって全身が変わるわけではない。体幹部の状態が変わるわけではないから、しばらくするとまた元の位置に戻ってしまう、ということを繰り返しているのです。
 これでは、根本的な解決にはならず、ましてや手の位置を修正したために構造そのものへの理解が深まる、といったことはまず起こらないわけです。

 この場合、指摘されて手の位置を修正したために生じる身体全体の変化に気がつき、それが普段から指導されている「在り方」に対して、どのような働きかけに変わったのかを認識しなければなりません。それなしに、部分的な修正だけを行っているために、同じ指摘が繰り返されてしまいます。
 まさに、師父が日頃から仰る、「問題は太極拳にあるのではなく、自分自身にある」という言葉の通りだと思います。

 しかしながら、自分の状態は分かっても、さて、それをどうしたら解決できるのか皆目見当が付かない、という声を耳にします。
 だから、修正したために生じる自分自身の変化に耳を澄ませて・・・と言っても、なかなか分かってもらえないのが現状です。どうしたらよいのでしょうか。

 ここで見えてくるのは、自分自身に対する興味の薄さと鈍感さです。
 他人の視線や言われる言葉には敏感でも、自分自身のこととなるとさっぱり分からないようなのです。
 太極拳の考え方で言うと、人は元々ひとつであり、物事によって自分を変えることは出来ないので、何かに対しては敏感で、他の何かに対しては鈍感だということは、厳密にはないわけです。つまり、本当は自分で、”これは敏感に、これは鈍感に”と、好きなように選択しているのです。そしてそんなことさえも、人は意識的に認識することができなくなっているのです。

 人間が元来持っている「意識」の基盤を、高めてきたのか、それとも眠らせてきたのか。
 その差を生み出す要因は、家庭や環境や年代など、様々なものがあると思いますが、その中でも、何かひとつのことに打ち込んだことがあるか、我を忘れて病的に熱中したことがあるかどうか、というところがポイントになっていると、私は思います。

 たとえば、りんご農家の木村さんは、少年時代には機械の構造を知ることに夢中でした。
 小学校低学年の頃から、ロボットを買って貰えば、帰りのバスの中でバラバラにしてしまうし、玩具の車も飛行機も、また時計からラジオまで、大人の目を盗んでは分解していったといいます。
 玩具で遊ぶことよりも、玩具そのものの仕組みを解き明かすことに面白さを感じていた木村さんは、やがて説き明かしたメカニズムを自分で組み立てることに興味を持ち始めます。

 中学生のときには、電波がなぜ音になるのか不思議で、無線器を作ったといいます。
 家の中でやっていると怒られるからと、外で、電柱から直接電線を引っ張ってきて実験していた時には、回路をドライバーでショートさせてしまい、電信柱のヒューズが飛んでしまったこともありました。おかげで、周りの家が40軒くらい停電になったといいますから、大目玉を食らっても仕方ありません。
 他にも、原始的なコンピュータを作ろうとして学校から真空管を拝借したり、三日三晩不眠不休でアンプを作ったり、高校生の時には、バイクのエンジンを改造したり・・。

 とにかく、ひとつのことに夢中になると、他のことは一切見えなくなってしまう。
 小さい頃は、そのような経験の一つや二つ、誰にでもあると思いますが、木村さんは大人になっても、その情熱が消えることはなかったのです。むしろ、年月を重ねるごとに、我武者羅ではなく、きちんと熱中していけるようになったに違いありません。

 そんな木村さんは、就職して上京した際、職場でコンピュータを観察します。
 コンピュータは当時の、パンチカードをリーダマシンに入れて操作するというものでしたが、その仕組みを見ていた彼は、「これは、過去のデータを利用する機械に過ぎないのではないか」と思います。どれほど高性能のコンピュータでも、データを入れないと使えず、データというのは過去のものでしかない。過去のデータをどれほど集めて計算しても、新しいものは生まれてこない。未来は開けない、と。

 「けれども・・」と木村さんは続けます。
 やがて、この機械によって人間が使われるようになるのだろう、と思ったそうです。そして、今の世の中はその通りになっていて、コンピュータと同じで、人から与えられたものしか利用できない人がすごく増えてしまった、と言います。自分の頭で考えようとせず、答えはみんなインターネットの中にあると思い込んでしまうのだ、と。

 確かにそうである、と思えます。
 指摘されれば修正しようとすることの裏側には、指摘されなければそのままでも良い、という意識が働いており、自分自身の必要性で修正していくということには、なっていないのです。

 そうなってくると、指摘されることが日々増えてきて、或いは毎日毎日同じことを繰り返し指摘されるので、だんだんイヤになってきます。
 ・・そもそも自分がそれを修得したいからとその道を選んだのに、嫌になってくるとは何事かと、客観的に見ればそうも言えるのですが、渾沌の渦中にいるときにはそんなことをチラとも思えないのが現実です。

 自分自身への興味と認識。それは何か一つのことに打ち込めることと、きっかり一致するように思います。言い換えれば、馬鹿になれること。
 言われたことをきちんと守るイイ子にはなれても、とことんのめり込む正真正銘の馬鹿には、中々なれないものです。

 ひとつ、「馬鹿になる」お話をしてみましょう。

 あるところで、私が野外に於ける軍事訓練を受けていたときのこと。
 よりによって、最も暑い一週間と時期が重なってしまったその夏の訓練は、体力に自信のある若者でも動けなくなってしまうような、非常にハードな内容でした。
 訓練の終盤、しまいには病院に搬送される者まで出て、仲間達の士気もついにダウン。どうにか引っ張ってきた気力にも、とうとう限界が見えてきたそのとき、教官は言いました。

 「馬鹿になってやってくれ。どうやろうとか、間違えたらどうしようとか、一切考えなくていいから。ひたすら馬鹿になって、もう、とにかくアホみたいにやってくれ」と。

 身体も気力もクタクタだった私たちは、その一言によって、まるで予備電源に接続されたかのように生き返り、その場に居た全員が、訓練第1日目のようなガッツのある、俊敏な動きに変わったのです。
 教官の言葉を、決して頭で理解したわけではありません。むしろそんな余裕はなく、疲労で真っ白になっていた頭に、ストンと入って来たと言えるでしょう。

 炎天下、ひどく足場の悪い地形の中を、あらん限りの大声を振り絞り、指導されたばかりの、不慣れな数々の動作をこなしながら駆け抜ける。
 身体の隅々まで研ぎ澄まされた感覚が冴え渡り、毎回変えられるシチュエーションに対しても、頭で考えなくても的確な判断ができ、同時に自然と動きが伴っている状態です。
 身体と精神と行動とが、ひとつの意識で弛みなく統御されている感覚だと表現すればいいでしょうか。
 もちろん、後からじっくり振り返ってみれば、の話ですが。

 今までの自分は、馬鹿になることと意識的で在ることとは、まるで相反することのように思えていました。しかし、ここでの経験は、私に“意識的に在る”ことと、“馬鹿になる”ことが重なる、その一筋のラインを見出させてくれたのでした。

 自分の人生も日々の生活も、間違いのないように、失敗しないように生きることは不可能です。同じように、正しく稽古することは、間違えないようにすることではありません。
 この、呆れるくらい当たり前のことが、一体どの程度認識されているのでしょうか。

 「意識」は自己を統御しようとする中で養われていきます。
 自己統御は、何もカンフーズボンに履き替えて帯を締めなくとも、今、この場でできることなのです。つまり、日々の生活の中で、自分の一挙一動が、意識的に統御されているかどうかに懸かっています。
 私たちにとって馴染み深い、「今やろうとしていたんだけれど」とか、「後でやっておきます」などという自分の都合を一切持ち込まずに、今、この瞬間に、この場でそれをやろうとできるかどうか。
 そのとき、自分に“危機感”があるのとないのとでは、実行力がまるで違ってくるというわけです。

 そんなことをしなくても生きられる・・・そう思う人はたくさんいると思います。
 けれども、自己統御ひとつできない状態で、本当に生きていると言えるのでしょうか。
 それは、意味もなく目的も分からないまま、ただ歩みを進める牛に跨がっているようなものです。しかも、その牛は自分の言うことを聞いてはくれません!

 自己を統御できる者だけが、敵を制することができる。
 武術修得のカギは、まさに日常生活における、在り方次第だと言えるでしょう。



                                (つづく)


xuanhua at 23:32コメント(16)練拳 Diary | *#51〜#60 

コメント一覧

1. Posted by 太郎冠者   2013年09月26日 22:43
>答えはみんなインターネットの中にあると
本当ですね。最近では「人生、宇宙、すべての答え」にグーグル先生が答えてくれる時代ですから・・・。
(わからない人はググってみると良いかもしれません)

冗談はさておき、何かに熱中する、馬鹿になる、ということは、意識的に物事に取り組むことと共通する性質があるように思います。
もちろん、それは後になってから冷静にみてみるとわかることだったりするのですが、自分がのめりこんでしまっていることには、ふだん漫然と生きているときでは到底発揮されないような集中力・注意力が使われているように思うからです。

自己鑑賞・自己修正も経験を積んでいけば少しずつ磨かれてくると思います。
しかし、こうして改めて学習過程にまで目を向けさせてくれる太極拳の奥の深さには、すごいと感じさせられます。
 
2. Posted by マルコビッチ   2013年09月28日 11:07
太極武藝館での稽古が、カルチャーセンターなどで行われている習い事と大きく違う点として、意識的であること、「意識」を養うという点にあると思います。
そして、それが自分の在り方に目を向けていくことになっていくことだと思います。
しかし、あらゆる情報や常識でいっぱいになっている社会の中で、漫然と仕事をし、家事をしと日々を過ごしていると、なかなか意識的になると言われてもわかりにくいのだと思います。
そんなわからんちんの私たちにとって、この記事はシンプルに響いてきます。

我を忘れて何かに夢中になること、自我など出せる余裕などない極限状態・・・
あるいは人間関係の中で、いろいろな問題に悩んだり苦しんだりするようなとき、人の営みの虚しさを感じ、”自分って何だろう・・” と考える・・
そんな内向きへの意識の始まりを、より高めていくことが出来、それが何故必要か、どういう事なのかをはっきりと示してくださり、理解できる場はそうそうないと思います。

師父と玄花さんの御苦労に答えられるよう精進していくぞ!!と言う勇気を頂きました。
ありがとうございました。
 
3. Posted by とび猿   2013年09月28日 13:20
>「馬鹿になってやってくれ。どうやろうとか、間違えたらどうしようとか、一切考えなくていいから。ひたすら馬鹿になって、もう、とにかくアホみたいにやってくれ」

この言葉、大事な言葉だと思います。

物事に取り組む時、「どうやろう」「間違えたらどうしよう」と考えている状態は、どちらとも自分の都合があって、それに沿って行なったり、考えたりしている状態であると思います。
これは物事に対し、純粋にそれを行っている、熱中している状態ではなく、その中で養われるものは意識ではなく自己の思考であり、本人は真面目なつもりでも、やればやるほど自我が養われ、本筋から外れていってしまう、負の連鎖に陥ってしまうと思います。
私自身が、よく、そのような馬鹿(これは違う意味ですね)をしてしまうのですが。(汗)

私の感じたことなど、とてもちっぽけなことなのかもしれませんが、この言葉は、とても大きなものだと思います。
 
4. Posted by 円山玄花   2013年10月01日 01:41
☆太郎冠者さん

>グーグル先生
当たり前ほど、恐いものはないと思います。
インターネットにしても、何処かの誰かが載せている一情報にすぎないわけで、その情報源は、
専門家から一般人まで幅の広いものです。
ヘタをすると、偏向したテレビや新聞を見ることと、何も変わらなくなってしまいますから、
やはり自分の力で勉強するという意識が必要であると思います。

また、分からないことをネットで調べることが当たり前になると、自分の手で実験して確かめたり、実際に検証するということが少なくなってくるような気がします。
知識や情報を広く浅く取り入れて満足するのではなく、自分が興味を持った事柄に対して、自分の望む実力がきちんと身につくような取り組みをしてほしいものですね。
 
5. Posted by 円山玄花   2013年10月01日 01:45
☆マルコビッチさん

興味や追求の対象となるものは、お金、地位、名誉、仕事、恋人、お酒・・・などなど、
様々なものがありますが、その対象が「自分」になる人は、希なのだと思います。

ところが、太極拳の学習は、まず自分の在り方から始められます。
一撃必殺の技とか、相手を屠れるコツとか、そういうのは出てきません。
自分の考え方、自分の立ち方、自分の動き方。すべて自分の追求になります。
だから太極拳は、「道」になるのだと思います。
 
6. Posted by 円山玄花   2013年10月01日 01:50
☆とび猿さん

>この言葉は、とても大きなものだと思います

ありがとうございます。
そう言って頂けると、記事に書いた甲斐があります。

人間とは、本当に不思議な生き物で、自分が全く知らない新しいことに取り組むときにでさえ、
間違えたり、失敗したときのことを考えて不安定な精神状態に陥ることがありますね。
しかも、そのことを意識的に自覚できていない場合には、不安の要素を他人のせいにすることも、何ともなくなります(笑)
自分が今どのような状態で、何に取り組んでいて、どのような問題が生じているのか。
目的意識が明確であれば、ひとつふたつの失敗や間違いなど、次のステージへの踏み台にしかならないと思います。失敗のない成功など、有り得ないのですから。
 
7. Posted by ユーカリ   2013年10月01日 05:56
>自分の人生も日々の生活も、間違いのないように、失敗しないように生きることは不可能です。同じように、正しく稽古することは、間違えないようにすることではありません。

私は、間違えたくはないから、できるだけ曖昧にできるところで物事と関わりたい、失敗はいやだから、すべて無難な方法でやりたい、と動きの少ない方へ少ない方へ、関わりの薄い方へ薄い方へと、自分の言動を傾けているように思います。
また、結果を最初に決めたがる事も特徴の一つです。
稽古に、正しくその生き方そのものが表れています。

その日は新しい一日であり、日々コンディションは変わります。決まりきった日常、決まりきった自分であるわけがないのに、そのようにしたがっていたのだと思いました。
今までどれほどの物事を受け入れそびれたことだろう、発見しそびれたことだろう、何て勿体ないことをしていたのだろう。

失敗や間違いを怖れずに、目的意識を明確に持った生活に切り替えてみる、勇気を出して一歩を踏み出してみたいと思います。
 
8. Posted by bamboo   2013年10月01日 21:53
こうなるともはや、自分が本当に恐れるのは何なのか、何が本当の失敗なのか、本当に大切にしたい事を常に明確に意識する馬鹿になりたいです…。
「変人」と呼ばれることは時々ありましたが、「馬鹿」にも喜びを見出しそうです(笑)
 
9. Posted by まっつ   2013年10月03日 00:00
本当の馬鹿は取捨選択をせず、
「今」を生きる事に全力かつ真摯なので、
見ていて気持ちが良いです。

大人になって分別を覚え、
敢えて自分を鈍くする事で、
自分を守って生きている自覚はあり、
馬鹿になれる事の偉大さは一際感じます。

最近、何かと忙しい中で、
思わず文句や愚痴が口から飛び出す事が多い自分です。
馬鹿になれていない証しだと思いました。
今一度、立ち位置を見直したいと思います。
 
10. Posted by タイ爺   2013年10月07日 10:00
久々に稽古に参加させて頂いた後に読み返すと実感として心に刺さります。
上手くやろう、注意を受けないように動こう、少しでも上達してやろう・・・・。その結果、全体が見えず、体は硬直し動きは小さくなってしまう自分だったとおもいます。
自我が肥大した状態では何も取ることが出来ず、自分を乗り越えることなんて不可能なことと強く反省。

よおし次回は後先考えずに思いっきり間違えるぞお!(なんか違う気が・・)
 
11. Posted by 円山玄花   2013年10月08日 12:13
☆ユーカリさん

>その日は新しい1日であり・・・

これは、とても大事なポイントですよね。
私が、本当の意味で”1日として同じ日はなく、毎日が新しい1日なのだ”と実感できるようになったのは、ここ数年のことです。
それまでは、日々も、環境も、人も、みな同じ繰り返しの毎日だと感じていましたが、まったく間違っていました。1日として同じ朝はなく、同じ自分も居ないはずなのですが、“同じことの繰り返しだ”と思い込むことによって、”同じ1日”にしてしまうことは可能だと思います。

人は、毎日死んで、毎日生まれ変わっている。
そう思えるようになると、一瞬を疎かになど、出来ないものだと思います。
間違いや失敗を恐れて行動しなければ、もうその瞬間は二度とは戻ってこないのですから。
 
12. Posted by 円山玄花   2013年10月08日 12:21
☆bambooさん

>「変人」と呼ばれることは時々・・

「変態」でなければよろしいかと。(^^)
吉田松陰さんの言った言葉に、次のようなものがあります。

---
「狂愚」とは現実の常識にとらわれないで、
自分の信念に従い行動することである。

常識を疑い、分別を忘れ、狂ったように自分の信じる道を往く。
世の、有名無名の変革者には、常に狂があった。

ちなみに、狂うという字は、クレイジーという意味ではなく、
本来は「自分でも持て余してしまうような情熱」という意味だ。
---

「馬鹿」にも通じるものがあるように感じられましたので、載せておきます。
 
13. Posted by 円山玄花   2013年10月08日 12:29
☆まっつさん

確かに、人間、鋭いだけでは生きていけない、と思います。
けれども、鈍いだけでもダメだし、ましてや鈍くすることで安心を買っていたら、
命が幾つあっても足りません。

必要なことは、鈍くしたがっている自分、鋭くしようとしている自分の、
両方の状態に意識的であることだと思います。
 
14. Posted by 円山玄花   2013年10月08日 12:42
☆タイ爺さん
先日は遠方からの稽古参加、お疲れさまでした。

>その結果、全体が見えず・・

機会があれば、また記事に書こうと考えているのですが、
人間、極限状態になると、「上手くやろう」とか、「間違えないようにやろう」なんて、
ちっとも思えないものです。反対に、どうしたらこれをクリアできるのか、どうしたら身体を最後まで維持できるのか、という、言ってみれば生存本能が全開になります。
そうすると、否応なしに全体が見えてくるのです。

それまで、全体を見ようと思っても、どう頑張っても見えなかったものが、
勝手に見えてくるのです。

これこそが、師父が常々仰る「危機感」の必要性なのだと思います。
ですから、「間違えちゃイカン」という危機感ではなくて、
「自分が(稽古を)取れなければ明日はない」という危機感が必要なわけですね。
 
15. Posted by さすらいの単身赴任者   2013年10月16日 13:05
こんにちわ、さすらいの単身赴任者です。
日々の稽古、ほんとうにおろそかにできません。

なぜ師父、玄花后嗣の見せてくださる架式がとれないのか?
形だけそれらしく取り繕っても、自分の架式は、そのお手本とは全く異なった偽物であるということを思い知ることになりました。
その架式モドキによって得られたものは膝をいためたり、肩のこりが生じたりといった身体的違和感だけでした。
対練では当然相手に影響を何も与えることができないことで強い自己嫌悪にもなりました。
あせりとジレンマ、もちろん現在もあります。

しかし入門1年、自分の中のまがいものから、ほんのほんの少しでも真実に近づくと、上記の違和感がなくなることにも気付きました。
靴の減りが平らになり、仕事柄人と接触しても、急に引っ張られても体が身構えて緊張することによって生じる危険がなくなる、今までふんばって押し返すことでしか対抗できなかった、意外に強力な子供の押しくらまんじゅうに腰相撲(稚拙ではあります)で耐えられる。
些細なことですが成果は間違いなくあると信じることができるようになりました。

入門さえすれば、たちまち四両撥千斤のちからが身に着くなどと考える人たちには理解できない道がそこにはあります。
太極拳は武術でありながら深遠な学問であり、文化遺産であり、それを習う過程は現代の教育が失ってしまった教育そのものであると信じます。
 
16. Posted by 円山玄花   2013年10月24日 21:46
☆さすらいの単身赴任者さん

入門から一年を経て、稽古の成果を少なからず実感されているとのこと、
とても嬉しく思います。

>入門さえすれば、たちまち四両撥千斤のちからが身につくなどと考える人たちには
>理解できない道がそこにはあります

まさに、私たちが学んでいることは、”相手を簡単に吹っ飛ばす方法”などというちっぽけなことではなく、ひたすらに自己という存在を探究し続け、生命として与えられた課題を真っ直ぐに受け取り、自身を省みる鏡として太極拳を使うことであり、その過程で養われた意識は初めて身体を十全に機能させ、ようやく日常では考えられないようなチカラを新たに理解することが出来るようになるわけです。
ですから、そのチカラだけを欲しがっていても、決して手に入ることはありませんね。

「結果」ではなく「過程」が尊ばれる学問であるからこそ、人の成長にも人生にも、
役に立つのであり、それ故に「道」となるのだと思います。
今後も、変わらず頑張ってください!
 

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