2013年09月01日

連載小説「龍の道」 第117回




第117回  T A C T I C S (5)



 しっかりとロープが繋がっていると思えても、10メートルのステージから後ろ向きに身を乗り出すのは、なかなか勇気が要る。身長の6倍近くの高さがあるのだから、無理もない。

 高所恐怖症というわけではないが、雷(らい)士官長が言っていたように、確かにこれは高度15,000フィート(約4,500m)のセスナからパラシュートで飛び降りた時よりも、すぐそこに地面が見えている分だけ、かえって恐怖を感じるのかも知れなかった。


「クラマぁ!!、何だぁ、そのヘッピリ腰は!、もう少し腰を伸ばせっ!!」

「・・い、イエッサー!」

 ステージの縁(へり)のところに足を掛けて、ピンと張ったロープを持ちながら降下塔の外へ身を乗り出し、ピタリと空中に静止した恰好で、潘(パン)曹長から注意を受ける。


 クラマとは、宏隆に与えられた ”コードネーム” である。
 コードネームは暗号名や被匿名のことで、人の名前に限られず、ありとあらゆるものに使われている。例えば、研究開発中の車は156(アルファロメオ)や911(ポルシェ)などのように、商品名ではなくコードネームで呼ばれるし、パソコンの Mac OS-Xや Androidのように、コードネームがそのまま商品名になったものもある。
 また、世界初の女性宇宙飛行士・テレシコワのコードネームは ”チャイカ(カモメ)” であり、有名な「私はカモメ」というのはここから来ている。
 軍事的な計画や作戦にも、常にコードネームが使われる。
 300万人の兵士がドーバー海峡を渡ってフランスのノルマンディに上陸した、有名なノルマンディー上陸作戦は、コードネームが「Operation Overlord(オーバーロード作戦)」だったし、日本がポツダム宣言の受託と全面降伏を拒否した場合に決行が予定されていた上陸作戦は、ダウンフォール作戦(Operation Downfall)だった。
 ダウンフォールとは、失墜、転覆、破滅といった意味である。


「ふむ、屁っ放り腰がシリやコシの問題ではないということは分かっているようだな。
 ──────────そうだ、もっとハラを伸ばせ!!」

「イエッサー!!」

「よし、まずは壁を歩くようにして、ゆっくりと下まで行く。ブレーキングの時はしっかりと右手を腰の後ろまで回して止めること。分かったか!?」

「イエッサー!!」

「いくぞっ!・・降下準備──────────」

「降下準備よしっ!」

「降下っ!!」

「降下ぁ────────!」

 10メートルのステージから、ロープ一本で、壁を ”歩いて” 下まで行く。
 いや、ロープを二重にした ”ダブルロープ” だから、ロープ二本で、と言うべきか。

「静止っ─────────!!」

「静止!」

「降下っ─────────!!」

「降下ぁ!」

 サッ、サッ、サッと・・壁を這うヤモリのように、歩いては号令と共にブレーキを掛けてピタリと停まり、停まってはまた降下をする。これを何度も繰り返す。

 横から潘曹長に確認されながら数回降りた後は、今度は独りで降りる訓練をする。


(これは武術と、太極拳と同じだ─────────────────)

 降下を繰り返しながら、宏隆はある事に気付いた。
 身体の使い方や足の運び方が、たとえロープでぶら下がって壁を歩いているような状況でも、それは武術の稽古と何も変わらないということである。

 壁を歩くと言っても、自分の体はステージの支点からぶら下がっているわけで、壁を直角三角形の「対辺」とすると、ロープは「斜辺」、底辺に当たる自分の体は「隣辺」となり、斜辺であるロープに掛かっている力は、当然ながら地面と壁の両方に向かっている。

 ロープ降下とは、この地面と壁に向かっているふたつの力を利用しながら行うわけだが、実際にやってみると、単にロープにぶら下がっていることよりも、壁を歩こうとした時に、自分の ”身体の状態” によって随分と状況や効率が変わってくるのが分かる。

(床と壁の違いはあっても、これはまさに ”歩法” そのものじゃないか・・・・)

 身体の状態と言っても、早い話が「構造」なのである。

 その「構造」を使えるかどうか─────────────────
 ケンカだろうが、ロープ降下だろうが、すべてはそれにかかっている。
 いや、壁もロープも無いところをパラシュートで降下する事だって、ひたすらその構造にかかっているのだと宏隆には思える。

 そう考えると、垂直の壁を歩いて降りるような訓練も、また違う興味が湧いてくる。
 初めて降下訓練をする者は、降下すること自体に懸命で、兎にも角にも一応地面まで辿り着ければ良いと思うものだが、慣れてくるにしたがって、どのように身体を使うことが最も降下に適しているのかが分かってくる。決してアクション映画に出て来るような、ササササッと恰好よく、素早く降下できれば何でも良いというわけではない。

 つまり、降下のための確かな身体の使い方があるわけであって、それが高度な技術になればなるほど、”自分なりに” 運動神経や筋力に頼って適当に行うことには自ずと限界が出て来てしまう。やはりここでも「基本」が最も大切なことで、基本の内容がどのような意味を持つかを理解できる者だけが、高度な次の段階へ進めるのだと思える。

 また、この訓練は、登山のためのロープ降下ではないので、いかに効率よく敵地に潜入することが出来るか、ヘリコプターや建物から如何に素早く目的の場所に降りることが出来るかという目的で行われている。
 要するに、すぐそこに敵がいることが前提に行われているわけで、当然ながら自分の心身は常に ”実際の戦闘モード” であることが求められるのである。
 そして、その戦闘モードとは「闘うための身体構造」が最も優位に発揮できる状態であることは言うまでもない。

 これは歩法や套路と何も変わらない訓練だと、宏隆には思える。
 訓練の散手であれ、実際の白兵戦であれ、この基本の構造がしっかりと身に付き発揮できなくては何も出来ないと思えるのだ。

 宏隆には、初めに雷(らい)士官長が訓練場を案内してくれた時に、市街戦と室内戦闘のセットの入口で示してくれた ”あの動き” が忘れられない。
 『このように銃を構えて、先ずこうして内部を確認します・・・』と言いながら示されたその動きに、洗練された武人の身体の軸を嫌というほど感じさせられたのだった。
 そしてそれは、いつどのような時でも、どのような状況でも戦える、本物の「武術」の質を表していると思える。

 宏隆は、心身が正しく戦闘モードになっていれば、そして基本をきちんと学んできていさえすれば、このような ”宙吊り” という非日常的な状況でも正しく身体が動いてくれるということを改めて実感できたような気がした。


「よぉし、少しは壁を歩けるようになってきたな─────────────────」

 何本目かの降下を終えてステージに上ってきた宏隆に、潘(パン)曹長が声をかけた。

「ありがとうございます!」

「次は、途中でロープをロック(固定)する練習だ。一緒についてこい!」

「イエッサー!」

 再び、潘曹長が一緒に降下する。

 さっきと同じように10メートルの垂直の壁を中ほどまで降りて行って、号令と共にピタリと静止し、今度はフィギュア・エイト(エイト環)にグルリとロープを巻き付け、両手を離してもロープが動いていかないようにロックすることを練習する。

「よし、良く出来ているぞ。もうひとつの方法がある。より安全で確実な方法だから、そこで同時に真似をしてみろ」

「イエッサー!」

 潘曹長は壁に足を着けた宙吊りの状態で、その場でクルリとエイト環にロープを回し、手前のカラビナにもそれを通して固定すると、両手を離して見せた。

 宏隆も同じようにやってみる。見せるためにゆっくりとやってくれたのだろうが、その手際の良さに、真似をして覚えるのが大変である。
 

「そのとおりだ、なかなか覚えが良いな、クラマ──────────────」

「ありがとうございます!!」

「固定が確認できたら、そのまま、その場でこんなふうに体を真横にしてみろ!」

「・・こ、こうですか?」

 ロープに吊り下がったまま両手を離し、足も壁から離して、真一文字に体をピンと張って横にする。

「そうだ、次はこうやって逆サマになって─────────────────」

 今度は頭を下に、足を上に、壁に腹這いになるような恰好で、ピタリと静止する。

「・・よ、ヨイショっと─────────────このまま降下すれば、スパイダーという技術ですね?、初日に王老師に見せていただきました」

 潘曹長の模範に、何とかついて行けるが、やはりこの高さで宙吊りのままこんな恰好をするのは決して気持ちの良いものではない。

「そのとおりだ。まあ、これは静止してぶら下がっているだけだから、さしずめミノムシってところだな!、蓑虫の、蓑着て世間知らずかな、ってやつだ。ワハハハハ・・・・」

「あ・・あはは・・・・」

 厳しいだけではなく、潘曹長はユーモアもある人だ。
 そして、誰が詠んだ句か、こんな所で俳句を口にする余裕さえある。
 宏隆は玄洋會のメンバーから初めて俳句を聞いたような気がする。


「それでは一旦下に降りて、次はハングだ。壁を蹴りながら降りる練習をする」

「イエッサー!」

 ”Hang(ハング)” と呼ばれる、壁を蹴りながら降りる降下法は、まだほんの数回だが、さっき初心者用の壁面で教わったばかりだ。

 壁面を蹴って降下する方法は、蹴り出して壁から離れた時に少し怖さがあるが、その恐怖よりも遥かに面白さの方が勝っていて、一度出来てしまうと病みつきになる。

 宏隆はすでに、その面白さを経験していた。


「──────────同じように、初めのうちは私も一緒に降りて行く」

「イエッサー!!」

「ゆっくりと、何度に分けて降りても良いから、自分のペースで降りるのだ」

「イエッサー!!」

 てきぱきと、ハーネスのカラビナからエイト環を外して、ロープをセットし、潘曹長と共にステージの端に後ろ向きに並んで立ち、降下姿勢を取る。

「準備はいいか?・・・降下用意!」

「降下用意よしっ!!」

「降下っ!」

「降下ぁ─────────────────!!」

 潘曹長は、宏隆の降下するスピードにピタリと合わせてくる。

 ステージの縁から飛んだ初めの一歩は、綺麗に足が壁に着いた。

 だが─────────────────

「あ・・おっ・・わっとっとっと─────────────────!!」

 二歩目のジャンプで、ブーツの底が、きちんと壁面に着かない。
 つま先の方から壁面に着いてしまって、壁を正しく足でホールドできないのだ。

 焦って、壁面をブーツのつま先でわずかに蹴って、次の一歩で体を立て直そうとしたが、そのために三歩目はよけいに体勢が崩れ、ターザンのようにロープにぶら下がったまま、ドーンと壁にぶつかって行き、壁の前で正にミノ虫のようにぶら下がった恰好になった。

「う、むむぅ・・・・・」

「ははは、失敗したな・・・大丈夫か?」

 潘曹長がすぐに隣に降りて来て、声を掛ける。

「イエッサー!、大丈夫です。すみません─────────────────」

 答えながら、すぐに体勢を立て直して、元の基本姿勢に戻す。

「まあ、肘と膝にプロテクターを着けているし、大したジャンプじゃなかったから、激突しても痛くはないだろうが。それでも下手をすると怪我をしてしまうぞ」

「イエッサー!」

「何故そうなったか、分かるかな────────────?」

「体が・・・壁に対してきちんと垂直に近い角度に保たれていなかった為だと思います。
 蹴った時に充分に後ろに飛べず、少し焦ってしまってブレーキングを強くした為につま先しか壁に着地できず、次のジャンプも滑るように蹴ってしまいました。それで、こうなったのだと思います」

「ふむ、よく分かってるじゃないか・・・よし、下まで行けるか?」

「大丈夫です!」

「下まであと数メートルだ、無理にジャンプしなくても良い、歩いても良いからゆっくりと降りて行け!」

「イエッサー!!」

 降下訓練を甘く見ていたわけではない。しかし、ハングという技術がそれほど難しくはないと、どこかで思えていたのも事実である。

 体の状態によってはこういったことも起こり得るので、結局は様々な経験を積んでいくしか無いのだと思う。
 これもパラシュートと同じで、回数を熟(こな)せば熟すほど、自分の身体がどのように在れば良いのかが、だんだん分かってくる。
 失敗は成功のもとだ、と宏隆は思い直した。

「ちょうどいい、少し休め。最初のうちは腕や手に余分な力が入って、思ったよりも疲れるものだし、背筋や腹筋も必要以上に使ってしまうものだからな」

 地上に降りて、エイト環からロープを外しながら、潘曹長が言った。

「イエッサー、僕はまだ大丈夫ですが・・・」

「自分がどれほど疲れているかは、訓練を積まなければ、なかなか自分では認識できないものだよ。そして戦場ではそれが命取りになる。自分では歩けているつもりでも、傍から見るとヨロヨロしていたり、まだ余力があると思えても、実際には倒れる寸前だったりする。
 特に新兵にはそれが多い。新米は気力も体力も一緒クタに思えてしまうからな」

「熟練の人たちには、そのようなことが無いのですか?」

「いや、熟練者だって同じだよ。ただ、熟練者はみな臆病だから、自分がどのような状態なのかを常に繊細に気にする習慣があるのだ。ははは・・・」

「臆病──────────────?」

「そう、本当に戦場で働けて戦えるヤツは、決まって臆病なのだ。臆病という言葉が適さないなら、用心深さや謙虚さと言っても良い。常に細心の注意を払って自分を見つめ、自分がどのような状態であるのか、自分が何を考え、何をどのようにやろうとしているのか・・・彼らは、まるで鏡に映すように、自分自身をキッカリと意識することが出来るのだ」

「それを ”プロ” と言うんですね・・・宗少尉にも同じことを言われました」

「そのとおりだ。まあ、ちょっとそこのベンチに座ろうか────────────」

「はい・・」

「戦士というのは、敵とどれだけ戦う能力があるか、いかに素早く銃を撃ったり格闘で相手を倒したり出来るかということではなく、実際の戦闘では、自分の事がどれほど分かるか、自分自身をどれほど認識できるか、ということに係っているのだ。
 その瞬間々々に、自分が何をどう見て、どう考えて、どう処理しようとしているか、そのものごと自体を熟(こな)す以上に、”自分が何をしているのか” をキッカリ意識できる事の程度こそが、そのまま戦士のレベルと言えるのだ。
 長年、多くの訓練生を教えていると、それが本当に良く分かる。
 だから戦士として大成していける人間ほど、決まって静かで優しく、人の面倒をよく見るし、常に全体を見ながら自分の取るべき行動を考え、決して身勝手な考え方や行動をしないという特徴がある。それは、掃除の仕方ひとつ、靴の履き方ひとつ、話の聴き方ひとつ、受け答えの仕方ひとつにも、実によく表れている」

「それが出来る人というのは、そのまま小隊を率いて敵地に赴くことのできる、リーダーの質そのもののように思えますが・・・」

「そのとおりだよ。だから軍隊では、どんな小さなチームでも、一人々々がリーダーとして機能できるような訓練を積んで行くのだ。リーダーとして動ける質こそが、最も強力な戦士の質であり、それこそが個々の戦士に最も求められているものだからな」

「単独行動なら自信がある、というようでは駄目なんですね。自分勝手な考え方は、ここでも否定される─────────────────」

「そうだ、リーダーシップが取れる者は、決して身勝手な人間では有り得ない。身勝手な考え方は部隊を全滅させることにも成り兼ねないからだ。そして、部隊を全滅させるような質というのは、実生活でも友情を崩壊させ、家庭を崩壊させ、経営を崩壊させ、国家を崩壊させることにも繋がっている。それらは全て同じ質であり、同じことなのだ」

「自分も頑固で我が強いので、耳が痛いです・・・」

「自分勝手や頑固さというのは、元々とても狭い考え方から来ている。
 それは自分がこうしたい、これが欲しい、こうでありたい、という個人のちっぽけな欲望から始まっていて、全体のために、個人を超えたもっと大きなものの益になるような考え方には決して発展できない。それは恋人のため、家族のため、民族のため、国家のため、人類のために何かをする、身を捧げる、などというものには繋がって行きようのないものだ。
 だからそんな人間で構成している家族や、チームや、国家というのはとても脆弱だ。
 身勝手というのは、あくまでも ”その本人個人の領域” だけで止まってしまうもので、言ってみればただの利己主義に過ぎない。だからその利己は本人に直接還ってくる」

「・・還ってくる、と言いますと?」

「キミは王老師の拝師弟子だが、もし強くなりたいという願望が、自分が強くなりたいだけに留まれば、君が武術で大成することは決して有り得ないだろう。もっと大きな、個人の利己を超える大きな望みがなければ、王老師が伝えるような偉大な伝承は絶対に取れない。
それは、個人が強くなると言うような、そんな子供じみたちっぽけなことでは無いからだ」

「物事は、自分が望んだ分だけきっかり還ってくる、と居合の師に言われました。
 それは物事の ”質” に於いても同じなんですね。きっかり自分が望んだ ”質” しか与えられない。自分が望むことの質の程度が低ければ、その低いレベルのものがやってくる。ちっぽけなことを望んでいれば、ちっぽけな成果しか得られない・・・」

「そうだ、よく分かってるじゃないか、あははは────────────」

「僕はまだ若造で、自分の思いさえ強ければ、やり抜く気力さえあれば後は何とかなるのだと、ずっとそんなふうに考えていました。自分なりに武術を追求して行けば必ず凄いものが手に入る、高度な武術を習得していけるはずだと、タカをくくっていたんです」

「まあ多かれ少なかれ、誰でも若い時はそうかもしれないが・・・」

「でも、王老師と出会って、それがひっくり返りました」

「ふむ・・・」

「自分の常識を遥かに超えた武術のレベルを、王老師が示して下さったのです。そのお陰で自分のような思い上がった人間も、謙虚にならざるを得ませんでした。
 本物の武術というのは、単に強さを教えるのではなく、人の在り方を教えるのだと、あらためて思いました。在り方が分からなければ、遣り方も取れないと思えます」

「良い勉強をしているようだな。あの王老師の拝師弟子になるだけのことはある」

「ありがとうございます。王老師や太極門の名を汚さないよう、頑張ります」

「先ずは降下訓練でA級を取ることだな」

「ロープ降下に、レベルの評価があるのですか?」

「ここの訓練場独自の評価だが、AからCの三段階で評価している。軍隊の空挺隊員などにもテストがあって、常に個人の技能レベルを評価される。それは射撃でも、降下訓練でも、格闘訓練でも、みんな同じだよ」

「なかなか大変そうですね─────────────────」

「他人事じゃないぞ。明日はクラマは学校が休みだから、午前中が降下訓練、午後が射撃訓練だ。3回訓練を受ける毎にテストをして、評価に満たなければそのレベルができるまで、何度でも訓練することになる。せいぜい頑張ることだな!」

「は、はい・・イエッサー!!」


                                (つづく)


  



  *次回、連載小説「龍の道」 第118回の掲載は、9月15日(日)の予定です

taka_kasuga at 22:45コメント(14)連載小説:龍の道 | *第111回 〜 第120回 

コメント一覧

1. Posted by 円山玄花   2013年09月03日 13:07
いつものことながら、細かい描写が心に響きます。

>心身は常に実際の戦闘モード

なるほど、自分が稽古や訓練である種の状態になったときに、ウソのように頭が働いたり、動けたりするのが不思議だったのですが、それが“戦闘モード”だとすれば、納得がいきます。
キーワードは「常に」というところでしょうか。

>新米は気力も体力も一緒クタに・・

思い当たることが多々あります(汗)
けれども、自分が本当にマズイ状態や状況になったときには、感覚を普段の千倍くらい繊細に研ぎ澄まして自分を観たり、状況判断をしようとしますね。
そういうときは、千里先の敵の気配も感じ取れるような気がします。
裏返してみれば、普段からの危機感の乏しさが見られますので、精進したいと思います。

次回も楽しみにしています!
 
2. Posted by 太郎冠者   2013年09月04日 23:40
>クラマとは、宏隆に与えられた ”コードネーム”
カッコいいですね。
それがもし某アニメ映画の某有名キャラクター名とかだったら、目も当てられないッス(内輪ネタで恐縮ですが…)
聞いただけでズドーンと下まで落ちていきそうデス。

>”実際の戦闘モード”
これはいわゆる、頭に血が上って『キレ』てアドレナリンがドバドバ出ちゃってる、周りが見えない状態とはまったく違うのでしょうね。

一般では、そういうのこそを戦闘状態だととらえていると思うのですが、実際にそんな状態で戦おうなどと思ったら、即やられてしまうのだと思います。
がむしゃらに向かっていくだけなら子供の喧嘩でもできますが、子供の喧嘩で戦争などとは全く言えないわけで。

しかしこの小説を読んでると、意識と、訓練の大切さが身にしみるようです。
もっと自分を鍛えたいですね。
 
3. Posted by とび猿   2013年09月04日 23:55
武藝館で学ぶ前は、太極拳をはじめ様々な武術が、それぞれ全く別のものであり、特別なものであると思っていました。
その頭では、降下訓練と武術の稽古が同じであるとは思えなかったと思います。
そして同様に、今回、潘曹長が説いていることも、武術であると思えるようになりました。
これもとても難しいことだと思います。
つい最近も、みなさんにご心配をお掛けしてしまいましたが、これも、自分を把握せず、後々考えれば沢山の原因や警告があったにもかかわらず、用心深さや謙虚さを欠いた行動の結果であったと思います。
気が付かせてもらえたことを幸運に思い、今後に活かしていきたいと思っています。
 
4. Posted by マルコビッチ   2013年09月05日 00:32
今まで(龍の道を読むまで)、降下訓練のことなど考えたこともなかった私です
が、太極武藝館で稽古を積んでいると、細かく描写されたこの文章の中からでも、何となく、どんなことなのか、難しさと恐怖も含めてわかるような気がします。
宏隆君も「これは武術と、太極拳と同じだ・・」といっているように、身体を使えることは構造を使うことだと理解できるからです。
稽古中のある時、トレーニングマシーンを使って、山登りのオーバーハングをする格好を、門人と師父とで比べて見せて頂いたことがあります。
師父の形はとても綺麗で、身体全体でどこまでも登っていけそうでした。
それに比べると、門人はそれぞれ多少差はありますが、ほとんど腕の力と足の筋力で支えて、まるでぶら下がっているように見えました。
これが構造を使えるかそうでないかの違いかと驚きました。
もし、身体が使えず四肢の力で降下訓練をやったら、ぶら下がったまま動けないか、壁に激突するか、降りられたとしても腕と足の筋肉痛で二度目は無理でしょう。
武術は戦闘訓練であり、まさしく生き延びるためのものだということがよくわかります。
 
5. Posted by ユーカリ   2013年09月05日 04:15
>身勝手な考え方は部隊を全滅させることにも成り兼ねないからだ。そして、部隊を全滅させるような質というのは、実生活でも友情を崩壊させ、家庭を崩壊させ、経営を崩壊させ、国家を崩壊させることにも繋がっている。それらは全て同じ質であり、同じことなのだ

基本を無視して、無意識的に「ここではこう」「こういう場合はこう」と自分を通すための準備と操作を行って生きている自分が、そっくりそのまま道場でさらけだされていただけだったのか…と再認識し、稽古の中で、何度となくご指導いただいているにもかかわらず、その自分勝手さが国家の崩壊にまで繋がるものであるという事に結びついていなかった…と愕然とします。

今まで自分は、自分の身勝手さを直視しする事を避けるために無意識状態を選び、まるで自分が善人(善人の定義もないのですが…)であるかのように振る舞うことで、周りとの折り合いをつけていたのだと思います。
そこには、実は存在せず、虚の自分や生活があるだけでした。
自身が何をどうしたいのか、身勝手な自分に徹底的に面と向かってみます。
 
6. Posted by まっつ   2013年09月07日 01:34
確かに・・・どのような世界でも、
プロフェッショナルには謙虚で落ち着いた佇まいが認められると思います。
技術者の世界でも円熟した人ほど、
芯は強く、当たりは柔らかい印象を受けます。
好奇心を持ち続け、人の話を良く聞き、常に勉強し続けています。
仕事の都合で外部の専門家と関わる事が増えて、
そちらでも日々、自分の至らなさを痛感するばかりです。
そんな自分に与えられた自らを磨く機会を大事にしたいと思います。
 
7. Posted by taka_kasga   2013年09月10日 17:56
☆玄花さん

>そういうときは、千里先の敵の気配も感じ取れるような気がします

昨今の若い人なんかは、危機感のカケラも無いですけど、
玄花さんなどは、こんな↓コトが実感されるので、その感覚になれるんでしょうね。


   ∧_∧
  ( ゚∀゚)
  /二二Z二(二二二(O
`匚]:冖[]:[二二二]
/_/|:二二:\___\
◎^^^^^^◎)三)―)三)
丶◎◎◎ノ三ノ―ノ三ノ


危機感の無い社会は、たくさんのマヌケやフヌケをつくるようです。
 
8. Posted by taka_kasga   2013年09月10日 17:57
☆太郎冠者さん

「キレ」てアドレナリンがドバドバというのは、実際の戦闘モードなんかじゃなくて、
格闘技の試合のムード・・いや、モードだと思います。
実際の戦闘というのは、意外と冷静にコトが運ぶコトが多いもので、
それが映画なんかの表現とは全然違っているトコロですね。

格闘技をやっている人には信じられないかも知れませんが、
もし格闘技の「試合のモード」で戦場に行ったら、大変なことになります。
どれほど格闘技が強いか、などという問題ではなく、
どれほどモノホンの実戦の「意識」を訓練してきたかが問題なんですね。
酒場で暴れていた黒人の格闘家が、駆けつけたFBIの隊員に、あっという間に取り押さえられた、
なんていう事件を聞いたことがありますが、その例のように「試合競技の強者」程度では、
戦場ではあっという間に、簡単に敵に殺られてしまうと思います。
 
9. Posted by taka_kasga   2013年09月10日 17:57
☆とび猿さん

武術の種類は沢山あって、中国武術なんか、河南省だけでも六百もの門派拳派があるそうです。
世界中に、武術はいったいどのくらいの種類があるんでしょうね。

けれども、「武術性」というものは、たったひとつ。
民族も拳種も戦い方も、時代にも関係なく共通する性質であると思います。
ちょうどそれは、「宗教」というものが世界中に数あれど、
「宗教性」は、それら数々の宗教の教義や歴史と何の関係も無いことと似ています。

太極武藝館で指導されている武術は、陰陽太極をベースに、
陳氏太極拳をテーマとした、真の「武術性」の追求であると言えるかも知れません。

そして、そのように武術性から太極拳を科学しているが故に、
武術である太極拳の本質が拳学、つまり「学問」として研究され得るのだと思います。
 
10. Posted by taka_kasga   2013年09月10日 17:57
☆マルコビッチさん

>トレーニングマシーンを使って、オーバーハングをする恰好を・・・

この、師父と門人の違いこそが、上で書いた「武術性」の違いなんですね。
武術をきちんと理解してやっている人は、武術性が高まるけれども、
武術を格闘技のようなものだと考えている人は、格闘性しか高まらない。
そして格闘性では、逆立ちしても武術性には勝てないんです。
それがクライミングの恰好でも、パラシュート降下でも、水泳なんかでも皆同じです。
「トランスポーター」の Jason Statham さんは、水泳の飛び込み競技の選手だったそうですが、
アクションシーンをスタントマンを使わず演じることが多く、なかなか良い動きをしています。
これは飛び込みで養った、彼の武術性なのだと思います。
 
11. Posted by taka_kasga   2013年09月10日 17:58
☆ユーカリさん

土井健郎著の ”「甘え」の構造” を読んだことがあるでしょうか。

「甘え」が日本固有のロジックだとして、世界に知られた代表的日本人論の一冊です。
この本がベストセラーになったのは1971年、まさに70年代の幕開けですね。

本書は「甘え」は日本人の心理と日本社会の構造を理解するための重要なキーワードとして、甘えは周りの人に好かれて依存できるようにしたいという日本人独自の感情であると定義し、甘えを親に要求する子供にたとえて、親子関係と他の人間関係の関連にも触れていきます。

「甘え」という語は日本語にしか存在しない、というのは驚きです。
確かに、emotional や dependence とはニュアンスが違いますね。
自分以外の人間を身内と他人に分ける、日本人独自の視点が「甘え」を解く鍵だそうです。
例えばビジネスの世界では、論理や契約がなくても身内と言うだけで頼んでしまうのが「甘え」。
甘えられない場合には、拗ねたり、気恥ずかしかったり、恨んだりする。
他人には、甘えない。目上の他人には遠慮をし、目下の他人には舐めた態度を取る。
他人を無視できない時は身内への同一化を図る。
問題が発生した時には身内に対して「恥」の意識を感じる。

欧米社会には内と外の区別はなく、同僚でも甘えるべきではないし、他人でも遠慮すべきではないという意識が濃い・・というのはユーカリさんもご存知のはず。

賛否は別として、一読をおすすめします。
 
12. Posted by taka_kasga   2013年09月10日 17:59
☆まっつさん

本物のプロは、みんな謙虚ですね。
謙虚さというものが作られたポーズや外面では無く、その人の経験からくる実感と達観であるということが解るまでに、私などはずいぶん時間がかかりました。
傲慢に強く自己主張をしている間は、ただのガキなのだと心の底から思えるまで、つまり本当の意味で「オトナ」になれるまでには、恥ずかしいほどの歳月を要したものです。

でも、ヒトは誰もが「そうやって学んで行くこと」を与えられているのだと思います。
そして、それを学び続けて行ける学習体系のことを「道」というのだろうと、
ボクは ”自分勝手に” そう思っています。
 
13. Posted by bamboo   2013年09月10日 21:08
個人のちっぽけな欲望…>

グサッと来ます。…最近竜巻や豪雨が多いようですが、私にもまた大きなモノが迫っているようです。せっかくいただいた機会ですので、今までの私にないほど真摯に向き合い、次の稽古までには「雨降って地固まる」と成るよう、意識の変容に期待し、弱き心の支えといたします。
 
14. Posted by taka_kasga   2013年09月11日 22:43
☆ bamboo さん

上にも書きましたが、人は誰もただ独り、旅に出〜て♫・・(ふ、古いっ!)
その人生という旅で、「学んで行くこと」を与えられているのだと思います。

「雨降って地固まる」は英語の諺でも、

 A broken bone is the stronger when it is well set.
 (折れた骨は、上手く接がれば以前より丈夫になる)

などと表現したりしますね。
けれど、もし「折れた骨は以前より動き易くなる」のだったら、
ローキックで大腿骨を折られても良い・・・なんてコトは、流石に思いませんが。
 

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