2013年04月15日

連載小説「龍の道」 第109回




第109回  鞆  絵 (ともえ)(7)



「あらあら、ダメだなぁ、そんな弾の込め方では・・・・」

 宗少尉がそう言って、宏隆が持っているマガジンを取り上げた。

「ほら、弾丸(たま)は、こうやってセットするのよ」

 9ミリのパラベラム弾を十五発、実にスムースに、あっという間にマガジンにセットしていくのを見て、宏隆は驚きを隠せない。

「・・すごいなぁ、よほど訓練しないと、そうは出来ないでしょうね」

「銃は、弾丸を標的に中てることが大事なんじゃなくて、先ずはきちんと銃の構造を理解しているか、きちんと弾を込められるか、というコトから始めなくっちゃね。弾込めやマガジン交換の出来不出来やそのスピードが生命に関わることだってあるんだから」

「そしてそれ以前に、銃とは何か、銃社会や銃を持つ意味を知り、銃の正しい扱い方を知った上で、それを行うことが大切、ということですね」

「そう、分かってるじゃないの────────────本当は、弾丸を込めて撃つ前に、銃の分解と整備をやらなくちゃいけないんだけど、ヒロタカはすでにそれをみっちりやっていたみたいだから、まあ、後にするかナ・・」

「銃の分解と整備は、陳中尉に教わって、ずっと繰り返して続けました」

「そして、マガジンに弾丸を込めるにも正しい方法があって、それをきちんと理解して守らないと駄目────────────自分なりにいくら早くセットできたとしても、そんなことは自慢にも何もならないのよ」

「弾丸など、好きなように込められれば良いと思いがちですが、そうではないんですね」

「この世界では、それが部隊レベルの戦闘でも、フェイス・トゥ・フェイス(サシの勝負)であっても、自分の思い通りに、好きなようにやって良い、というようなことはひとつも無いのよ。 ”自分なりの工夫” が入る余地などまったく無いの。教えられたことを、教えられたとおりに、いかに正確にきちんと出来るかどうか、それだけが問われるのよ。
 だから軍隊では、立ち方や歩き方はもちろん、制服の着方や靴の履き方、靴紐の締め方から帽子の被り方、敬礼の仕方、返答の仕方、言葉の遣い方までを最初から徹底的に仕込まれるでしょ。それは、そこから先の戦闘訓練を正しく修得できるようにするための重要な基礎となるのよ。その基礎が出来ていなければ、軍人として、プロの戦闘員として戦えないからなのよ」

「よく分かります。王老師の太極拳でも、全く同じことを注意されますね。基本功のフォルム、掌の形から、指先の向き、手の挙がる方向、身体の状態、鼻先の向き、足先の向き、身体構造の変化の仕方、示範されていることの全てと、自分がピッタリと合っているかが問われます。つまり、それこそが ”真に戦える人間” を造る唯一のシステムである、と言うことですね」

「そのとおり、よぉくキモに銘じておくことね!」

「はい────────宗少尉、もう一度、弾丸の込め方を見てもらえますか?」

 宏隆はテーブルにある紙箱から一発ずつ弾丸を取りだしてマガジンに詰めていく。
 ベレッタM92は、弾倉に15発の弾丸がジグザグに入る。
 宗少尉は、マガジンの前方を内側にして、左手に握って立て、弾丸を右手で摘まみ、リムと呼ばれる円形の弾丸底部を前にして、するりとマガジンに挿入していく。次の弾丸を入れるには、既に入っている弾丸を左手の親指で押し下げながら入れる。マガジンは強いバネが装着されているので、かなりの抵抗がある。宏隆は、射撃で標的に命中させる腕はなかなかのものではあるが、このような作業には未だ未熟さが目立っている。

「うーん、とても宗少尉のようには行きませんね。でも、実際の戦闘では、こんなふうに弾丸箱(たまばこ)から取り出すワケじゃないですよね」

「そう、任務の内容にもよるけど、普通は予備のマガジンを二、三本持って行くのよ。もっと必要だと思われるときにはマガジンを増やしたり、ズボンのポケットにも弾を入れて行くけどね」

「ポケットに?、弾丸をそのまま入れていくんですか?」

「そうよ、だからそのタクティカル・パンツ(訓練や任務に使われる戦闘ズボン)も、後ろのポケットが斜めに切れ込んでいて、ポケット自体も深く大きく取られているでしょ?」

 宏隆の履いているオリーブ色のパンツを指差して、そう言う。

「ああ、なるほど。そのために、こんなカタチをしてるんだ・・」

「予備のマガジンは、ベルトに専用のマガジンポーチを装着するか、任務によってはタクティカルベストを着てマガジン用ポケットに入れておくの。普段はそんなモノを着て歩けないけどね、あはは・・・」

「宗少尉は、普段は拳銃やマガジンをどうやって持ち歩いているんですか?」

「オフの時は小型の銃をバッグに入れるか、脇の下にぶら下げているわね。予備のマガジンは無しよ。最近はシャツ自体が拳銃を入れる為のポケットの付いたものが出来たから、大仰なホルスターを着ける必要が無いのですごく便利。上にジャケットを羽織れば、見た目はごく普通のTシャツに見えるのよ」

「へえ、それって市販されているんですか?」

「バカね、そんなもの、一般向けに売っているワケがないでしょ」

「あ、そうか・・・」

「欲しかったら用意してあげるけど、日本じゃ、そんなのを着て銃を持ち歩いちゃダメよ」

「そうですよね─────────────────」

「それで捕まったら、ま、すぐに出してあげるけど、もう二度と日本に帰って来られなくなるわよ・・・・さあ、次に行こうか。弾丸を込めたら、次はいよいよ銃の撃ち方ね」

「ホイ、待ってました!!」

「撃つときに大切なのは、まず・・・」

「はい、銃の持ち方と、立ち方、構えとポジションでしょ?」

「いいえ、その前に分かっておくことがあるのよ」

「え、まだ他に何かあるんですか?」

「自分以外の周りの人への安全確認と安全確保よ。銃の訓練では、どのような場合にも常にコレが欠かせないの。よく覚えておいてほしいわね」

「隣のブースと厚い壁で区切られている、こんなシューティング・レィンジでも、いちいち安全の確認が必要なんですか?」

「そのとおりよ。それはいつ如何なる場合でも、たとえ実際の戦闘中でも、仲間との安全を確認できなくてはならないこと。訓練中のあらゆるシューティング・レィンジでは、常に安全のためのルールを守らなくてはならないの」

「安全のために守ることは、例の四つのルールだけじゃないという事ですか?」

「あれは銃を安全に扱うための、最低限守るべき基本。
 私たちの行う射撃訓練には、このような、一人ずつが真っ直ぐ標的に向かえるシューティング・レィンジと、様々な障害物や建物を模したタクティカル・レィンジがあって、さらに屋外と室内に分かれているの。屋内でも相当な広さを持つ射撃訓練場もあるし、反対に屋外でも狭くて小さなトコロもある。個別ブースの無い射撃場もあるワケよ。
 そして、それら様々なタイプの訓練場では、標的をセットし直したり、散乱した薬莢を掃除したり、倒れたり破壊されてしまった障害物をセットし直したり、自分が撃った標的に命中の度合いを確認しに行ったりする場合がたくさんあるのよ。そんな時にまさかの事故が起こらないように、きちんとルールが決められていると言うコトね」

「具体的には、何をやれば良いんですか?」

「第一に最も大切なことは、その場で指導されることを注意深く聴くと言うこと。そして言われたことに従い、それを絶対に守る、と言うこと。
 ここでも、”自分なりの解釈” は絶対に通用しない。訓練が高度になればなるほど事故の度合いも大きくなるのよ。思わぬ事故を引き起こしてしまうような人は、普段からあまり注意深くない人であることは無論、必ずと言って良いほど身勝手で、他人とは違うことを好んだり、常に何でも自分なりにやりたがる人が多いのよ。そして、銃の場合は事故が起こってから後悔しても、もう遅い。自分の足を撃ち抜くなら馬鹿にされるだけだけれど、敵でもない人を自分の銃弾で殺すことになるかもしれないわけだからね」

「・・・どの軍隊でも、まず上官の命令に完全に従う訓練をして、服装から言葉遣いまで、すべてが ”正しく規律を守る” ということの中で行われる、というのは、そのような意味があるんですね」

「そのとおり。訓練中に身勝手や不注意で仲間を撃ってしまうような人間が、敵に向かって戦えるワケがないでしょ。敵を撃つ前に仲間を撃ってしまうようなバカには、銃を扱う資格なんか無いというコトよ。まあ、ヒロタカにはそんな心配は無いでしょうけどね」

「はい、充分に心します─────────────────」

「そして、次に守るべきことは・・・ま、実際にやりながら教えていこうか」

「はい、お願いします!」

「まずは復習よ。銃を扱う四つのルールを言ってごらんなさい」

「はい。第一に、全ての銃は弾丸が装填済みとして扱う。第二は、自分が破壊したくないものには決して銃口を向けない。第三は、撃つ直前まで安全装置をオンにしておく。第四は、実際に銃を撃つまではトリガーに指を掛けないこと・・以上です」

「よろしい。そしてルール・ナンバー2の、如何なる時も決して銃口を人に向けないと言うことは、具体的には、標的に向かうまでは必ず銃口を下方または上方に向けておくということね。それは、例えばこのように行うのよ─────────────────」

 宗少尉は、テーブルの上の安全装置の掛かった銃をゆっくりと取り上げた。銃口はずっと下を向いたまま、もちろんトリガーには指を掛けていない。この伸ばした人差し指はセイフティ・フィンガーと呼ばれる。
 そしてそのままシューティング・ブースまで行くと、標的の方へ銃口が向くようにして、スライドを引いてチャンバー(弾丸を発射させる場所=薬室)に弾丸が残っていないか覗き込んで確かめ、さらに指を入れて二重にチェックをし、マガジンキャッチのボタンを押してマガジンを外し、弾倉内に弾丸が残っていないかを確認し、マガジンウェル(弾倉を挿し込む所)が空であることまで覗いて見た。

「流石ですね・・・生意気を言うようですが、それらの動作のすべてが美しく見えるのは、単に安全に扱っているだけではなく、それが完全に身に付いているからだと思えます」

「あはは、まあ、長年やっているからね。それじゃ、今やって見せた基本は、陳中尉にも習ったということね?」

「はい、特に教わったというわけではないですが、陳中尉の取り扱いの様子を見て、覚えて真似しました」

「へえ、大したものね。普通、新隊員なんかは、銃を勝手に手に取って、勝手に彼方此方へ向けて、危なっかしくて仕方がないものだけれど・・やっぱりヒロタカはその辺りが違う。王老師に伝承者として認められるだけのことはあるわね」

「陳中尉には銃口を下に向けるように教わりましたが、いま、銃口を ”上方にも向ける” と言われましたよね?」

「ああ・・ほら、ジェームス・ボンドなんかが、ワルサーPPKをこうやって上に向けてポーズをつけているのを見かけるでしょ?、アレよ」

「あ、あれは安全確保をしているんですか、てっきり撮影用のポーズだと思いました」

「いいえ、実際に行うわ。たとえば敵地で仲間と突然向かい合ったときにも、お互いにすぐに銃を上に向けて、手信号やジェスチャーで次の行動を決めたりする。銃口を下に向けていると歩きにくい場合があるし、下向きだけとは限らないわね」

「わぁ、プロの話はリアルですねぇ・・・・」

「な〜に言ってンの、もうヒロタカだってプロの一人なのよ」

「あ、そうなんだ─────────────────?」

「そんなまで恰好して銃の訓練を始めたんだから、少しは自覚しなさいよ、もぉ・・」

「はい。それじゃ、今度こそ、銃の持ち方と立ち方ですね?」

「そういうコトね。銃を正しくブースまで運んで、新しい銃はドライファイアを行って様子を見て、正しく弾丸をセットできたら、次は標的に向かって構えてみる、ということになるわね。ちょっと銃を構えて見せてよ」

「そう言えば、台北で強(きょう)さんと腕試しをした時に、僕の恰好を見ていますよね」

「そうだったわね。でも、あれはちょっとへっぴり腰で、あんなのでよく良いところに中ったモンだなぁと思ったけど!」

「うわ、ひどいこと言うなぁ、もぉ・・」

 宏隆はゴーグルとイアマフを着けると、足を肩幅大に開き、ピタリと両手で銃を構えた。
 その姿はもう、高校生の少年の姿ではない。

(サマになっている─────────────────────)

 口にこそ出さないが、宏隆が構えると同時に、そう心の中で呻(うな)った。

 無論、見てくれの格好さえ良ければすなわちウデが良いということではない。
 その証拠に、役者がいくら恰好よく銃を構えようと、実際には本人が映画の役のように撃ったとしても、そう上手く当たるわけもない。役者は役柄を作るためにポーズを取り、その恰好がどれほど自分の役に相応しいかを観客に見せるために演じているのであり、常にそのための不断の努力をしている。それは役者の仕事なのだ。

 しかし、本当に銃のウデのよい人間は、別にポーズを決めようとしているわけではないのに、その格好が ”決まっている” ものである。これは銃に限らず、武術においても同じことであって、たとえ何かの武術を全く知らない人間で、本人がそれを初めて試みるカタチや動きが内容的に下手でも未熟でも、きちんとした武術性を持っている者は、理屈抜きに ”サマになっている” ものなのである。
 言い換えれば、いつまで経っても ”サマにならない” 者は、武術性が何も開発されていないことになる。拳学の道に「黙念師容」という言葉があるように、指導者の姿形に己の存在自体をピタリと合わせられるような感性が無ければ、武人としての大成は難しいと言わなくてはならない。

 宏隆の銃弾を撃った回数は宗少尉や陳中尉には遥かに劣るはずだが、その武術性においては二人の先輩を脅かすような、絶対的な質を持ち合わせている。そして、いま銃を構える宏隆にもその ”質” がありありと見えるので、宗少尉はつい呻ってしまうのであった。
 

「撃ってもいいですか─────────────────?」

 ほんのちょっとの間に違いなかったが、ふと、そんな事をぼんやり考えていたので、急に宏隆にそう声を掛けられて、宗少尉はハッとして、

「いいわよ・・」

 つい、そう返事をかえしたが、

「ズダダダダダダァ──────────────ン!!」

 宗少尉が返事を言い終わるかどうかのうちに、宏隆はあっという間に、立て続けに全弾を標的に向けて発射した。

(まあ・・・なんて子なんでしょう!)

 こんな時は普通、生徒は一発ずつゆっくりと撃つもので、散々海軍の荒くれ男たちを指導してきた宗少尉も、こんな機関銃のような撃ち方をする人間には、流石にまだお目に掛かったことがない。

 しかし、その呆れ顔の宗少尉を前に、宏隆は足を開いたポジションをそのままに、さらに素早くマガジンをリロード(再装填)しようとした。

「・・ちょ、ちょっと待ちなさい!」

 慌てて宗少尉がそう命じる。
 黙っていれば次のマガジンも、あっという間に空にしてしまいそうな勢いなのである。

「え、何ですか─────────?」

「何ですかじゃないわよ、ちょっと銃を置きなさい・・・!」


 言われてしぶしぶ、ブースの台に銃を置く。
 少し以前から宏隆の心の中に、もやもやとした様々な物事が去来し続けている。
 あの薙刀の女性師範の見えない動き、王老師や陳中尉に散々見せつけられた、夢にまで見る高度な武術原理の数々・・そして、それを解く鍵がそこにあると思えたあの歩法・・・

 銃の訓練のために南京町の地下基地へ行くと言われて喜び勇んだのは、宏隆の潜在意識の中で、そんな未解決のことがらの全てを、小さなひとつの標的にまとめて打ち砕いてしまいたかったからかも知れない。
 本人の心の奥底がどうなっているのかは、実は当の本人にもよく分からないのだが、兎も角そんな勢いで、宏隆は一気に銃を撃ってしまったのである。


「もう・・いきなり、そんなマシンガンみたいな撃ち方をして────────────」

「・・あ、いけなかったですか?」

「イケナイことはないけど。今日はゆっくり、じっくりと撃つ練習をしなきゃでしょ。まだまだ覚えることがいっぱいあるのよ。ブースに立っていきなり、一気にマグ(マガジン)を空っぽにして喜んでいる場合じゃ無いでしょう!!」

「すみません、つい─────────────────────」



                                (つづく)




  *次回、連載小説「龍の道」 第110回の掲載は、5月1日(水)の予定です


taka_kasuga at 23:58コメント(15)連載小説:龍の道 | *第101回 〜 第110回 

コメント一覧

1. Posted by 太郎冠者   2013年04月18日 21:48
自動拳銃の早撃ち→マガジン交換からまた撃つ、という動画を見た事がありますが、あれはまるで「居合」のようでした。

シューターは確か現役の警察官だったと思うのですが、構えから撃ち終わり後の残心と思える間の取り方まで、一連の動作が武術として成立しているように感じられました。
急いでいるようには見えなかったのですが、撃ち始めから終わりまで無駄がなく流れるようで、
それがものすごい早いものに見えたのに驚きました。

急がば回れといいますが、本当に早い動きを行うには、ひとつひとつの動作をていねいにゆっくり練習しなくては、本当の速さは身に付かないですね。

本物の武術を身につける、本物の人生を生きるには、いろいろと味わわないといけないナァ〜、
と、改めて感じている次第です。
 
2. Posted by とび猿   2013年04月18日 23:54
先日、私の周りで、急病人が出て救急車を呼ぶ騒ぎがありました。
そちらは、一先ず事なきを得ましたが、そのような非常時において、個人個人の思い付きでの行動には、あまりに無駄が多く、場合によっては邪魔であったり、逆効果なことがありました。
これが戦闘であれば、大きな隙であり、命取りであることは、想像に難くありません。
自分なりとは、平和な日常の中でならはある程度通用するのかもしれませんが、いざという時には何の役にも立たないものですね。

>自分の思い通りに、好きなようにやって良い、というようなことはひとつも無い
>”自分なりの工夫” が入る余地などまったく無い
>教えられたことを、教えられたとおりに、いかに正確にきちんと出来るかどうか、
 それだけが問われる

このことは、専門家を目指すのであれば、どの分野においても変わらないと思いました。
 
3. Posted by まっつ   2013年04月19日 00:28
武術にせよ銃の取り扱いにせよ、
一芸を身に付けるとは如何に大変な事かと、
最近特に身に沁みて感じます。

少なくない時間を稽古に向けてはいますが、
少し進んでは壁に当たって、頓いてを繰り返し、
あまりにも出来ない自分に愕然とします。

これまでに基本という壁を越えてきていない自分を、
改めて強く実感しています。

自分を自分が制御できる手許に留めていて、
原理原則に沿う変化を妨げている、
「変化を嫌う自分」=「頑固で臆病な自分」が居ます。

変化が出来る所まで自分を投げ込んでみる、
その大胆さと勇気が必要なのだと強く感じます。
 
4. Posted by 円山玄花   2013年04月19日 02:49
“弾丸くらい、好きなように込めてもいい”という考え方が、どれほど危険な事であるかは、普通はなかなか理解してもらえませんね(笑)。ましてや靴の磨き方や帽子の被り方が、戦いや生き残れることと何の関係があるのかなんて、やはり経験した人間でないと分からないと思います。
でも、昔はどの様な武術でも、師匠に弟子入りした人は、薪割り、風呂焚き、師匠のご飯を作ることからやらされたといいますから、それもまた同じことなのかなと思います。

現代は、自分の思い通りに、好きなように、どのようにでもできると思えることがたくさん転がっていて、それを本当に思い通りに出来ているかというと甚だ疑問なのですが、結果として、物事を物事として観たり、聞いたり、身につけたりしていくことが難しくなっているように感じます。
やはり、一度自分に疑問を持つことが必要でしょうね。

訓練で全弾を一気に撃ち込んだ宏隆くんの気持ちが、わかる気がします。
次回も楽しみにしています。
 
5. Posted by ユーカリ   2013年04月19日 13:37
毎回の稽古の後、「龍の道」を読んだ後はいつも、生活の中に、いかに「自分勝手な解釈」や、
「自分なりの工夫」が溢れている事か…と冷や汗が出ます。
日常がこれでは、とても道場で稽古にはなりえていなかったのだ、と省みます。

ぴたりと師父に合わせられなかったり、違いを修正できなかった、違いに気付けなかったりは、
それらの繰り返しを許してしまえる緩みから生じています。
師父が示して下さる事にぴたりと合わせ、違いに気付き、間違いを繰り返さないチャンネルに
切り替えなければいけません。

学んだ事を頭で思い巡らせるのではなく、実際に自分で説明ができ、動きとして反映させる事が
できるまで繰り返し、諦めない粘り強さを持って向かい合いたいです。
 
6. Posted by 春日敬之   2013年04月19日 18:33
☆太郎冠者さん

>まるで「居合」のようでした

もちろん射撃も「武術」であって、
どのような武術でも、その高みは同じニオイがしますね。
太極拳がゆっくりとした動作で練習するので、まるでゆっくりと敵を倒すような武術に思われているフシもありますが、然に非ずで、本物の武術を修得するには「ゆっくり」と訓練しなければ身に付かないし、本当の速さも出てこないわけです。
だから武藝館でも、台湾の特殊部隊でも、システマでも、同じ訓練をしますね。

>いろいろと味わわないといけないナァ〜

様々な経験に対して、自分を開いていることは大切なことだと思います。
自分が好きなこと、安心できることだけを選んでいる人生は、
「危機」に対してとても弱い人間を作り上げてしまいますね。
 
7. Posted by 春日敬之   2013年04月19日 18:34
☆とび猿さん

本物の戦場に立ったことのある人は、何が命取りになるかを思い知っていますし、
それがどのような事であるのか、予め学習し、訓練を受けているわけですが、
たとえば、格闘技の選手がそんな経験があるかと言えば、全く畑違いなワケです。
武術を格闘技のように学ぶことはできないし、
格闘技を武術のようにやることもできない。
そして、格闘技なら「自分なりに」やることも許されるのでしょうが、
軍事訓練を頂とする武術は、自分なりに出来ることはカケラも存在しない。
多くの人は、正しくこのことを認識していないと思います。
 
8. Posted by 春日敬之   2013年04月19日 18:35
☆まっつさん#1

「一藝を身につけること」の基本が、「個人の身勝手な工夫」には無いということを、
さんざん思い知らなければ、その道に入って行くことはできません。
それに気付いただけでも、とても尊いことであると思います。

>少なくない時間を稽古に向けてはいますが
>あまりにも出来ない自分に愕然とします

その「少なくない時間」のうち、「基本」に向けられている時間の割合が
果たしてどれほど取られているのか、ということこそが大きな問題です。

例えば、週に五日間稽古に来ていて、そのうち四日間は稽古の終盤だけに参加し、
始めから終わりまで稽古に参加できるのは残りの一日だけ、というのであれば、
やはり着実に「功夫」が養われていく筈もありません。
同門人で明らかに自分よりも上達が早いと思われる人を、よく観察してみることです。
彼らは必ず、自分よりも多く「基本稽古の時間」に出席していて、
きちんと初めから終わりまで稽古に参加している回数が遥かに多いはずです。

なぜそのような人の方が上達が早く、確実に成長するのかと言えば、
稽古というもの自体がひとつの「学習の流れ」を持っており、
学習者はその「流れ」の中で上達するように学習体系ができているからです。
 
9. Posted by 春日敬之   2013年04月19日 18:36
☆まっつさん#2(承前)

通常、稽古は次のように行われますね。

(1)稽古開始時間に間に合うよう参じ、整列して礼を交わす。
(2)柔功、身体開発訓練、架式、襠勁転換、纏絲勁訓練、
(3)歩法の訓練、套路の訓練、
(4)対人訓練、散手
(5)整列して稽古終了の礼を交わし、道場清掃をし、解散。

この内、自分がこれらの何処の部分から稽古に参加しているかをチェックしてみれば、
その「あまりにも出来ない」理由が明らかになってくると思います。

稽古は「ひとつの流れ」の中で上達を図るシステムであり、
途中から部分的に行っても、決して深い理解には至りません。
もちろん、個々の事情があってやむなく稽古に遅参・早退することは分かりますが、
今日は都合が悪い、今日は忙しい、今日は〇〇だから仕方がないと、
稽古に取られた「時間」を、自分なりに理屈を付けて気儘に変えてしまう事もできます。
始めから終わりまで、「稽古の流れ」の中に正しく自分を置くことは拳学の「基本」であり、
すべての学習者が超えなければならない「壁=課題」です。

最も重要なことは、何をやるかではなく、どのように在るか、であり、
「学習に向かう己の意識」がどのようなものであるかを、正しく識ることが大切です。
単に「大胆さと勇気」を持ち合わせさえすれば、原理原則に沿う自己の変化が起こる、
というわけではありません。
 
10. Posted by 春日敬之   2013年04月19日 18:37
☆玄花さん

私はいつも師匠に、

「殺せ、殺せ、自分を殺せ!」

「敵を撃つ訓練ではない、お前を撃つ訓練なのだ!」

「自分を殺せるようになったときに、初めて相手を倒せるのだ。
 うまく相手を倒す工夫をしているうちは、本物の武術にはならない」

・・と、よく言われました。
同じ内容のことを複数の師匠に言われましたから、
よほどアホな人間、駄目な弟子だったのだと思います。

若い頃は自分の思うままに、好きなように稽古をやることで、
単なる自己満足の小さな世界に浸っていたのだと思います。
自分勝手でも学習しているつもりになっていて、
ちっとも「本当に学ぶ」ことをしていなかった。

いま想えば、まさに汗顔の至りです。
 
11. Posted by 春日敬之   2013年04月19日 18:38
☆ユーカリさん

>日常がこれでは・・・

そう、日常を正していくことが、とても大事ですね。
何故なら「日常」は、最も自分の思い通りに過ごせてしまう時空間だからです。

 何度やっても修正されない
 多くの時間を掛けても理解することができない
 この前には出来たことが、今日は出来なくなってしまう

これらは、日常の生活に貫かれているスピリットが無く、
ともすれば生活にただ追われ、流されながら、
こうではイケナイと思いながらも、
結局は自分の思い通りに(気儘で楽な状況を選んで)過ごしているだけで、
自分の魂の軸が立った、規律ある生活をしていないことに起因しているはずです。

規律ある生活、などと言うと、何やら堅苦しく、重苦しく感じるかも知れませんが、
「規」とは、行動や判断の基準となる原則のことで、
「律」とは、その原則に沿うように自己を合わせ戒めていくことですから、
決してそんなにシャチホコ張ることではない、
社会人としても、家庭を持つ者としても、ごく当たり前の事だと思います。

太極拳に向かう前に、
先ずはどのように生活に向かっているか、
己の人生にどのように向かっているのかを、
私たちはもう一度、いや、何度でも、
何百回でも、何千回でも、粘り強く自分に問いかける必要がありそうです。
 
12. Posted by マルコビッチ   2013年04月21日 14:31
宗少尉の銃を扱う動作のすべてが美しく見える・・そこまで身につけるには、毎回毎回意識的に、自分を挟まず、何回もやり込んでいかなくてはならないと想像します。
それはスポーツ等の数稽古とは違い、毎回真剣勝負で、意識的に何度も身体にたたき込むようなことだと思います。
私にはまさしくその ”やり込む” ということが出来ていませんし、まだまだ自分の考えがしゃしゃり出て来るために、師父の示してくださっていることが見えないのだと実感しています。

ここに記されている軍隊におけるルールは、事故を避けるためには絶対必要なルールであり、そのルールを守ることにおいて一つの妥協も許されない!
また、その規律を守ることにおいて、正しい考え方や強い精神が生まれるのですね!
生まれて初めて団体生活をおくる学校は、必要な規律と不必要な規律が混在し、深い意味も解らないまま、守れ守れと促され、しかもそこには沢山の妥協が存在するので、何が何だかわからなくなり、自分勝手な考え方や隙間だらけの精神が生まれているように思います。
 
13. Posted by bamboo   2013年04月21日 14:32
装備の扱い・日常の暮らし方。
(本質的にはどうなんだこれは…)と色々気になって毎日がもう^^;
でもなぜか面白いような…こういうのを「いとおかし」といふのでせうか(笑)…でもこんなことを言う余裕もないほどに、もっと自らを雁字搦めにするほどの必要性のなか、ひたすら稽古に明け暮れる方々がいらっしゃる…。いかに尊敬に値する厳しい稽古を積まれているかを想うと、武術も軍事訓練も、もちろん銃器のことも、気安く語れませんね。観光射撃の頃の軸も経験も消えはしませんが、今はなにかが変わった気がします…。
前回以降、身の回りがキレイになって、それがほとんど苦にならないことに、自分も周囲も驚きと喜びを感じております^^料理の質も上がったように感じます。
これも武藝館の稽古のおかげです。本当にありがとうございます!それにしても、こうした軸を幼少から養っている当門の”師兄・師姉”の方たちや、昔の武家たちはある意味幸せですね〜、物心ついたときには軸ができてるわけですからねぇ…。
そうなるといよいよ自分の息子を通わせられなかった自分の軸が目立ちますが…でもきっと、真摯にやっていけば「武縁」があるでしょうか…。そう願いたいです。
そういえば、名古屋だけに「シャチホコ張る」という言葉にはぴくっときました(笑)
 
14. Posted by 春日敬之   2013年04月23日 01:03
☆マルコビッチさん

どうしても「ルール」を守れない人もいますね。
ルールを守らずにいることは、自我にとってはとても心地良いことなのでしょうけれど、
そのルールを守らなくては絶対にこの技術が修得できない、と言われてもなお、
頑なにルールを守ろうとしないのは一体どういう心理状態なのか・・・
不思議で仕方ありません。

「銃を撃つためのルール」を守れずに、銃の正しい技術は修得できないのと同じように、
太極拳の「基本というルール」を守らずに、その術理は修得不可能なのですが、
ルールを守れない人というのは、どうしても、それが同じであると認識できないようです。

自分の「意識」と、きちんと向かい合えるかどうか、
それが高度な術理を得る上で最も重要なことなのですが、
誤った育てられ方や、誤った教育、誤った自分との向かい方をしてきたために、
野放しにしてしまっている意識のままで、自分なりに何かが出来るような気がしている人は、
永遠にそのような「高み」を観ることもなく、人生を終えるしかないのだと思います。
 
15. Posted by 春日敬之   2013年04月23日 01:03
☆ bamboo さん

身の回りを綺麗にすることは、とても大事なことですね。
自分の家、自分の部屋、自分の靴、自分のカバンの中、自分のノート、自分の携帯、
それらを観れば、一目でその人の人柄が見えてくるものです。
靴紐ひとつ結ぶことを丁寧に行うことが出来たり、
靴を脱いだり履いたりすることさえ、意識的に出来る人は、
きっと太極拳も上達が早いことでしょう。
だから禅寺の玄関には「照顧脚下」、
お前の足もとをよく見よ、と書かれているのだと思います。
 

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