2013年01月23日

練拳Diary#49 「学び方 その2」

                        by 教練  円山 玄花



 農薬を散布しないりんご畑では、りんごの木の病気と共に、ありとあらゆる虫が、天国とでも言わんばかりに湧いてきたと言います。
 
 自分が無農薬栽培に挑戦しているからと言って、隣にある他の人のりんご畑に害虫を飛ばすわけにはいきません。木村さんは、日の出から日没まで、来る日も来る日も手作業で駆除を続けました。
 一本のりんごの木から取れた害虫は、スーパーのビニール袋三杯分。全部で800本あるりんごの木を、家族四人の手作業では到底間に合うはずもないのです。
 虫への対処法など、本を読んでも書いてないので、木村さんは畑に顕微鏡を持ち込んで、虫の「観察」を始めます。
 それに加えて大敵のハマキムシには、ダンボールに『これ以上被害を与えたら怖い殺虫剤を散布する』と警告文を書いて木に下げたりもしました。ところが、そのダンボールにハマキムシが卵を産み付けていたと言いますから、自然というものは容赦ありません。
 けれども、こうして虫の生態を観察することで、たとえば「卵を取ればいい」という対処法が見えてきたと言うのです。もちろん、木村さんが本当の意味で自然を「観察」出来るようになるまでには、もう少し年月を必要としたのですが。

 稽古では、私たちも度々「よく見るように。細かく見比べること」と、指導されます。
 見る稽古の中でも、特に師父と門人とを見比べるものでは、自分では見ているつもりでも実は見えていなかった、ということがよく分かります。
 それは、自分と師父とを比べて修正しているとき、往々にして感覚と想像とに任せていることが多く、実際的なものが伴わないためであると言えます。それに対して他人同士を見比べる場合には、感覚も想像も使えません。そうして初めて「見ること」が何であるのか、どのようにしたら本当に「見比べること」が出来るのかを、体験しながら理解していくことが出来るのです。

 かつて弓道の稽古をしていた頃、弓を射る姿勢を見て問題点を指摘するという稽古がありました。
 一人の姿勢について十人ほどが指摘をした後、先生に「いま自分で目に付いた問題点は、そっくりそのまま自分の問題点でもある。自分が日頃から気にしている点に、目がいくものだ」と言われ、妙に納得したものです。それ以来、私は人に見えた問題点を、同時に自分の問題点でもあると思って稽古を進めてきましたが、とても勉強になっています。

 さて、木村さんの目標は、害虫駆除ではなくて無農薬でりんごの実を成らせることです。
 周りのりんご農家はバブル真っ盛りで、りんごの木は“金のなる木”と呼ばれるほど、裕福な生活を送っていました。木村さんの畑だけが枯れ木の山で、とうとう「町でもっとも貧乏な家」と言われるようになりました。
 電話は通じず、健康保険料も払えず、子供のPTA会費も払えません。穴のあいた靴下をはき、一個の消しゴムを切り分けて使う。義理の両親と妻、娘三人を抱えて、収入のない極貧生活を送りながらも、木村さんは無農薬栽培の研究を続けます。
 新聞屋で余ったチラシを分けてもらい、チビた鉛筆で書きとめた研究資料は、りんごの木箱二箱以上になりました。

 水田をいよいよ手放すまでは、酒屋でもらったワンカップ200個と田んぼの泥、そしてイネ科のヒエを使って、お米の無農薬栽培が、どのような育成条件を与えれば稲の育ちがよくなるかを実験しました。ヒエは稲よりも成長が早いので、一年に何回も実験することができるのです。

 その結果分かったことは、常識とは正反対のことでした。
 一般的には、土を丁寧に耕し、泥がお汁粉のようになるまで代掻きをするのが良いとされていますが、実験では、最も粗く耕し、代掻きも適当に二,三回掻き混ぜただけのガラスのカップが、一番ヒエの発育が良かったのです。
 同じ実験を三回繰り返しても同様の結果が出たので、木村さんはそれを自分の水田で試してみたところ、稲は驚くほど良く育ち、収穫は前年の倍近くになったと言います。
 大きな土の塊がゴロゴロ残るほど粗く耕し、代掻きも軽く表面を混ぜるだけ。その結果、稲は通常よりも根の数をもの凄く増やして地中にびっしりと張り、充分に栄養を吸収できるようになり、地上の部分は通常よりも強く大きく成長しました。

 これを読んだとき、私は人を指導する立場から、思わず「人の成長」にも同じことが言えるのではないだろうか、と考えました。人が学び、成長するという過程や環境に於いて、土を丁寧に耕すことと、粗く耕すことの違いは何であるのか。代掻きを充分にしてあげるのとサラッと表面を撫でるだけの違いは、いったい何であると言えるのでしょうか。

 木村さんが挑戦を始めてから5年。
 実の成らないりんごの木を、家族四人で朝から晩まで世話をする日々が続きます。
 虫を取り、薄めたお酢を撒き、りんごの木に「すまない、頑張ってくれ」と声を掛ける。終には満足に食べられる物もなくなり、薄めて伸ばしたお粥に、畑で取ってきた雑草を茹でて入れ、食べるという有り様。
 婿養子に入っておきながら、一家を貧窮に追い込み、畑は常に害虫だらけ。周りの人からはのけ者にされ、カマドケシ(竈消し=破産者)という津軽弁で最悪の渾名で呼ばれ、陰口を叩かれます。とうとう親戚にまで付き合いを拒まれるようになってしまいました。
 収入を得るため冬場は東京まで出稼ぎに行き、公園で寝泊まりしながら日雇い労働者として働きますが、たいした稼ぎにはなりません。
 何の結果も出せない日々が続き、頭の中では、無農薬栽培への挑戦を「やめろ」という自分と、「続けろ」という自分が、常にせめぎ合っていたと言います。

 6年目。害虫と病気は一向に良くなる気配を見せず、家族は困窮の中。とうとう実家からは勘当されてしまいました。
 無農薬栽培への挑戦を許可してくれた義父に報いたい、農薬に苦しむ妻を救いたい。
 ただその目標のために突き進んできたけれど、自分は失敗したのだ。もうすべてを諦めて農薬を使うしかない。それが唯一の答えだと分かっているけれども、諦められない。なぜ自分は諦めることができないのか、それも分からないままに、800本のりんごの木は、枯れかけていました。

 万策尽きて、それでも諦められない木村さんは、これ以上生きていても家族に迷惑をかけるだけだと思い、自ら死ぬことを決意します。
 夜、りんごの作業に使うロープを三つ編みにして、目の前の岩木山に登ります。
「死んでそこから逃げようとしたわけだから、死ななきゃ夢を諦められなかったと言えば恰好良いけどよ。卑怯と言われても仕方がない。ただ、それですっかり気持ちが軽くなった。思い残すことなんて何も無い。何日も風呂に入っていなくて、久しぶりに風呂に入ったときのように、さっぱりした気分で岩木山を登っていったんだ」
 と、木村さんは当時を振り返ります。

 2時間くらいは登ったという頃、具合の良い木を見つけて、ロープを枝に投げかけましたが、その瞬間、ロープが手からすり抜けてしまったのです。
 拍子抜けし、自分は本当に馬鹿だなぁと思ってロープを取ろうとしたそのとき、木村さんの目の前に、りんごの木のシルエットが見えたのです。

 「”気づき”とは、ふとした時に起こるものです」と、木村さんは言います。
 山の中で、農薬も肥料も一切使っていないはずなのに、害虫の被害も、ひどい病気も見られないその木の根元からは、いいにおいが漂っていました。その木は、実はりんごの木ではなく、自生したドングリの木であったのですが、木村さんにとっては同じことでした。
 なぜこの木は元気なのだろうか。自分の無残な畑と、一体何の条件が違うというのだろうかと、ロープのことも忘れて問いかけました。

 麓の畑のりんごの木と、このドングリの木の決定的な違いは、「土」にありました。
 雑草が生え放題で、足が沈むくらいふかふかした地面。
 自然の中の環境で立派に育っている光景に、木村さんはついに答えを見つけたのでした。

 この山の姿に気づいたことは、木村さんにとって大きな大きな進歩であったと言います。
 今までは、土の上のことしか見えていなかったのです。今まで見ていなかった土の中にヒントが隠されているとも知らずに、虫を取ったり葉っぱに食品を撒いたりと、対処的なことばかりやっていたことに気がついた木村さんは、すぐに土の研究を始めます。

 その結果、山の柔らかな、微生物が豊富で深く掘っても温度の変わらない土の中でこそ、根が豊かに育つことを確信しました。
 その後は、衰弱したりんごの木が、自らの力で地中深く根を張り、成長し実をつけるために必要な養分を吸い上げ、農薬に頼らなくても病気や害虫に打ち勝てるだけの、山の木が当たり前に持つ”元気”を、りんごの木が取り戻せるように、山の土を畑で再現することにしたのです。

 どのようにしてそれを可能にしたのか、興味がある方は是非とも木村さんの本を読んで頂きたいと思います。とても分かりやすく、システマチックに書かれています。
 私も作物を育てるのは好きですが、作物の栽培に必要な肥料の三大要素は・・などと聞くと、それでは人間の成長に必要な三大要素は何だろうか、と考え始めてしまいます。

 生命が成長するというシステムは、作物であってもヒトであっても、基本的に同じであると思うのです。この地球上に生を受けた全てのものは、「成長」という逃れようのない法則に縛られているのではないか、とさえ思います。ただし、育てる環境や整えられた条件によって作物の味が変わるように、人もまた、自らを太く大きく育てるための条件を見抜かなければならないのではないでしょうか。

 木村さんは、農薬がなければりんごは実らない、という常識を捨てて、どうしたらりんごの木が正常に育つのかを、それに必要な条件を、6年の歳月をかけて見抜きました。
 相変わらず害虫も病気もあるのですが、りんごの木は少しずつ元気を取り戻してきたと言います。

 私たちは、ともすれば傲慢にも「自分は見えている」と思ってしまいがちです。
 それが葉を食い荒らす害虫であったり、病気であったりと、表面的なことであったとしても、「自分はこんなに観察している」「一日たりとも努力を怠ってはいない」と胸を張って言うのです。

 りんごの木を育てることと、りんごについた虫や病気を払うことは違います。着眼点を間違えると、木村さんのように何年も苦しまなければなりません。そして、誰もが木村さんのように答えを導き出せるとは、限らないのです。

 私が最初に、木村さんの”気づき”には大いに学ぶところがある、と言ったのは、まさにこのところです。
 自分が見ている(と思っている)ものに疑問を持ち、自分に見えていないものを見ようとすること。そこにある全体を見ることと、自分が見たいものを見ていることを混同しないこと。

 「分からない」「見えない」と言う前に、自分は何を分かりたくて、何を見たいのかが明確になっているかどうかを、問い直す必要があります。


                                (つづく)


xuanhua at 23:30コメント(18)練拳 Diary | *#41〜#50 

コメント一覧

1. Posted by マルコビッチ   2013年01月24日 17:02
”気づき”とは、ふとした時に起こるもの・・・私もそう思います。
でも、それまでに求めて探して必死になって追いかけていないとその時は来ないのだとも思います。
そして、追いかけている最中でさえ「自分は正しい!」と思ってしまうのが人間の恒のようにも思います。
先日も師父の動きを拝見していて、「自分と違う!」というところがあり、「ウワァ〜(@_@;)」と言う思いでした。
自分の感覚に溺れて見えていなかったのです。
しかし、マイナスの発見はプラスの発見と思い、今一度見方合わせ方を修正していきます。
また、学んでいくなかで、”謙虚さ”がないと受け取れないということは、誰もがわかっていることだと思いますが、”謙虚さ”とは、ただへりくだって周りの言うことを聞いていたり、小さくなって返事をしていればいいのではなく、心底「自分は何もわかっていない」ということに ”気付いた”時に起こることなのではないかとも思います。
私も常に初心に戻り、注意深く、気付いたことに溺れず、もっと広くて大きい世界が見えるように学んでいきたいと思います。
きっと木村さんも今なお、追い続け学び続けているのだろうと思います。

玄花さん、お忙しい中ありがとうございました。
また次回も楽しみにしています (^o^)
 
2. Posted by ゆうごなおや   2013年01月24日 21:44
まだまだ甘ちゃんだなぁと思います。
「土を丁寧に耕し、泥がお汁粉のようになるまで代掻き」
してもらわないと考えられない、何も出来ない。
そんな状況で育ってきた習慣が、3年経っても抜けないですね。

木村さんは6年。自分も悠長なことを言っていられる年齢ではないです。
日々自分に問いかけて、前に進みたいと思います。
 
3. Posted by 太郎冠者   2013年01月26日 00:46
目標をあきらめなかった木村さんもすごいですが、それに文句も言わずに支え続けた周りの家族も、すごいと思います。
家族の生活があるから、と、あきらめる言い訳にしようと思えばそれもできたはずです。だけど、木村さんはそうしなかった。
家族も、やめさせようと思えばそうできたのでしょうが、むしろ彼の夢に協力し、それどころか、折れそうになる木村さんを励ます場面もあったと、記憶しています。

一人の思いや気づきは、同じ土で生きる周囲の人にも伝わっていくものなのだと、感じます。

>「分からない」「見えない」と言う前に、自分は何を分かりたくて、何を見たいのかが明確になっているかどうかを、問い直す必要があります。
おっしゃる通りだと思います。人間は、何か疑問に答えるつもりでも、その疑問そのものにこたえるのではなくて、自分が答えられる疑問に変えてしまうという、器用なことを無意識的にしてしまうものです。

だから本当に自分は何を疑問に思っているのか?それさえもわからない状況に陥ってしまうのだと思います。

なので、まずそれをどうとらえているのか、見ようとしているのか? それが大事なのだと思います。
 
4. Posted by まっつ   2013年01月26日 01:34
誰に強いられた訳でもなく、自らの信念に殉じて、
報われる保証などない道を往く人の生き様には、
胸を突く感慨を覚えます。

木村さんの「奇跡」は、涓滴岩を穿つが如く、
絶え間なく自らを注ぎ続けた果ての成果だったのでしょう。

続ける事は難しいとつくづくと思います。
自分が強いだけだと、進むほどに自分の弱さに足を取られます。
でも「気づき」が起これば、強さでも弱さでもなく、
その間を通って進む事が起こると思います。
気づきが連なればそれは道になる事でしょう。

「奇跡のリンゴ」
読んでみようと思います。
何か気づけるかもしれませんので!
 
5. Posted by とび猿   2013年01月26日 11:40
木村さんのように常識とされ、それまで当たり前に行われてきた事も検証し、新しいことを直ぐに実行し変えていけることは凄いことだと思います。
自分の行動を振り返っても、新しく出て来る問題に対して対応することに時間を浪費することが多く感じます。
例えば同じ6年という時間でも、自分には何ができたのだろうか、もう一度考えなければならないと思います。
 
6. Posted by ユーカリ   2013年01月26日 14:55
コツコツと土づくりをしている門人の皆さんの傍で、「これをまずしなければ!!」と害虫駆除に躍起になっている自分の絵が浮かび上がってしまいました…。
つり下がった糸に丁寧にビーズを通していけば、簡単に首飾りがつくれるものを、穴をそろえて並べたビーズに糸を四苦八苦しながら通している自分。
今の自分の状態がそのまま太極拳に表れていると思います。
折り紙に印の折線をつけたり切ったりしなくても、きれいに正方形や正三角形を作ることができ、それを組み合わせることにより一つの美しい形ができる。陰と陽が常にかみ合った状態で一つの図形ができあがっている。
木村さんは六年の血の滲むような努力の末、構造や法則に気づき「自然」とかみ合うことができたのですね。
「中心の線を折らなければ、正方形は作れないよ〜!」
と言うことをやめて、示して頂いていることを守る事に切り替え、その真の意味を理解できる状態になりたいです。
 
7. Posted by おこじょ   2013年01月28日 18:06
木村さんの信念と、決して諦めない強い心には感服しました。すごいですね。

学ぶとはどういうことなのか。
文字で上手に表現できませんが、自分自身の傲慢さを見せつけられている気がします。
何を学びたくて、自分がどのようにそのことに向かっているのか。自分の側の積極性が、
かなり希薄だったことや、一生懸命やっていると言いたい勝手さ。
言われたことだけをそつなくこなしていればO.Kだと思えてしまう自分の創り上げた安心と安全。うわー、自分って、一体何をやっているんだろう・・・。こういう自分の根っこの部分をないがしろにしないで取り組んでいかないと、学べない原因が分かってこないことがやっと分かりました。
大切に丁寧に、物事に向かうこと。何に関しても自分の都合の良さを優先にして、しめしめと生きてきたことを戒めていきたいと思います。
 
8. Posted by 円山玄花   2013年01月28日 23:44
☆マルコビッチさん

人間誰しも、最初から全てが見えるような人はいないわけで、
自分が見ているものに疑問を抱き、まだ見えない世界を肌で感じ、
見えるように自己を整えていくことにこそ、人生の意義も喜びもあると思います。

『不安と焦燥とは傲慢な心のことであり、静けさと安(やすら)けさとは謙虚な心のことである』
と、言った人がいましたが、何かが見えるようになるための条件もまた、自分が静かであること、
そして騒がしくないことだと言えるのでしょうね。
 
9. Posted by 円山玄花   2013年01月28日 23:45
☆ゆうごなおやさん

習慣というのは恐ろしいですね。
でも、その習慣に気がついたわけですから、一歩前進です。
人間、1回気がついてしまうと、なかなか元には戻れません(笑)
その調子でガンガン行きましょう!
 
10. Posted by 円山玄花   2013年01月29日 03:08
☆太郎冠者さん

>一人の思いや気づきは、同じ土で生きる周囲の人にも伝わっていくものなのだと

同感ですね。
私も周りの人たちの気づきに、ずいぶん助けられています。

個々の人間は、見えている世界も、色も、香りも異なるはずなのに、
伝わるものがあったり、追究する方向が共通するというのは、とても不思議ですね。
 
11. Posted by 円山玄花   2013年01月29日 03:19
☆まっつさん

確かに、続けることは容易ではありません。
それこそ私は、何かひとつのことをコツコツと継続することが、人一倍苦手な人間でした。
そのような自分が、少しずつ物事を継続できるようになったのは、
継続することによって得られる、自身の変化を実感してからのことです。

それともうひとつ。
「継続しない・できない」という継続もまた、自分に影響を及ぼすことを知ったからです。
…ちょっとややこしいですね。(^_^;)

「継続は力なり」と言われるように、継続することは自分の力になるのですが、
続けようと思って続かないこともまた、負の力として同様に自分の身についてしまいます。
一旦止めてしまうと、なかなか戻れないのはそのためですね。
また悪いことに、そのような負の力が蓄積されてくると、人はもっともらしい“言い訳”が、
出来てしまいます。
「道」を直向きに求め続けることの、なんと難しいことでしょうか。

まっつさんの“気づき”が、
一個の蕾が開花する兆しに気がつけるような“気づき”となりますように!
 
12. Posted by tetsu   2013年01月29日 11:37
「見ているようで見ていない」、「見えているようで見えていない」ことは稽古を通じて痛いほど実感します。
師父に合わせて動いているつもりでも、全然速度が違っていたり、足の位置、手の高さ、形が指摘されて「全然違っている!」と気づくこと多々ありです(汗)。

愚鈍な自分は後々になり気づいたり、ハッとすることも沢山あります。「これはもうずいぶん前に言われていたことではないか!」「これは初めから言われていたことではないか!」と・・・。

ただ、自分は木村さんのように情熱をもって諦めない気持ちを持ち続けるからこそ「気づき」を得られるのだと思います。

武藝館には「本物」を師父が目の前で指し示してくださっているのですから、とにかくその示してくださるものに向き合っていくしかないですね。
 
13. Posted by 円山玄花   2013年01月31日 18:46
☆とび猿さん

たとえば、軍隊が戦地に赴き、行軍している最中に突然、「ガス!」の声が掛けられたとします。
隊員は、即座に仲間に声掛けをし、眼を閉じ息を止め、同時にヘルメットを外し、防護マスクを取り出し装着、マスク内に残った毒ガスを排出して、最後にマスクの密閉性をテストします。
ここまでの手順を踏んで、ようやく目を開け安全に呼吸をすることが出来るわけですが、その全手順に設けられる所要時間は約8秒間。8秒以内で全ての作業が終了していないと、命の保証は無いと言われ、神経剤の類だと、命は助かってもひどい後遺症が残り、とても任務を続行できません。

つまり、戦闘状態だと、”問題に対して対応することに時間を浪費”している余裕はないわけです。
ましてや単独任務ではなく組織で行動しているときには、たった1人の僅かな”遅れ”が、一部隊の全滅にも繋がりかねないのです。

そのため、軍人は日々自分に訓練を課し、常に磨き上げ続けているわけです。
そしてそれが苦ではなく、喜びになっている。

私たち武術家もまた、同じであると思います。
 
14. Posted by 円山玄花   2013年01月31日 23:37
☆ユーカリさん

折り紙は面白いですね。
最初に付けた、一見何の関係もないように思える一本の線が、最後の仕上げに重要な意味を持っていたりします。少し太極拳の戦い方に似ていますね(笑)。

何をしていても稽古と同じで、取り組む人間の考え方が出てくるものです。
同じパーツを十個作ろうとしても、紙の大きさも折る手順も同じはずなのに、同じ仕上がりにはなりません。このことが、如何に規矩に嵌めることが難しいかを物語っていると思います。

しかし、本当に何でも稽古になってしまいますね!
 
15. Posted by 円山玄花   2013年02月01日 02:39
☆おこじょさん

そうですね、”根っこの部分”が大事ですよね、人間は。枝葉じゃありません。
枝葉がどれほどピンシャン艶々していても、根っこが細く短ければ、ちょっと風が吹けば倒れてしまうので支えてもらわなければならず、栄養を自分で吸収できないので、誰かに養ってもらわなければなりません(笑)。
まあ、そんな木は千年杉になれないのはもちろんのこと、子孫を残し、繁栄させていくなんてコトもできませんよね。
そして、おこじょさんが思う通り、それでは学ぶことも分からない・・というか、
そもそも学ぶ必要性がでてこないわけです。

だから、今学びの機会を与えられている人は、何かしら自分の側に必要性が生じているためだと言えます。それが環境であっても、人であっても、仕事であっても、です。
後は、その機会を無駄にすることなく、与えられていることに感謝して、全うに生きることだと
私は思います。
 
16. Posted by 円山玄花   2013年02月01日 03:18
☆ tetsu さん

後々になって気がつくことは、私も山ほどあります。
一度、自分のあまりの不甲斐無さに、師父に、
「自分は指導されていることがすぐには理解できず、ともすれば三ヶ月後に気がつく有り様です」
とお伝えしたところ、
「どれほどかかろうと、気がつくのだから良いではないか」
と笑って仰いました。

それを聞いて、なるほど、「何か」にいつ気がつくかが問題なのではなく、「自分」が気がつける状態であるかどうかこそが問題なのだと思い至り、それ以来不安や焦りを感じることがなくなりました。
学ぶ対象ではなく、学ぶ自分側に向き合うことを教えて頂いた、貴重な時間でした。

「学び方」については、もう少し書いていこうと思っています。
次回もどうぞよろしくお願いします。
 
17. Posted by bamboo   2013年02月01日 22:41
色々起きますが、謙虚に、誠実に、大切に、太極拳を通じてこの生を楽しみたいです。
 
18. Posted by 円山玄花   2013年02月07日 19:44
☆bambooさん

以前もどこかに書いたかもしれませんが、『望めば叶う』という言葉が私は好きです。
それは、望みだけ持っていれば叶うという意味ではなく、本当に本気で望むのなら、それを叶えるのに必要な力が、その人の内側から湧き起こってくると思うからです。
『棒ほど望んで針ほど叶う』という言葉もありますから、自分の望みが叶うほどの力とは並大抵の大きさではないと思えます。それでも、人間にはそれを達成するだけの力があると思います。

それを引き出してくるには、bambooさんが言うように、「謙虚に誠実に大切に…」という心の在り方が大事になりますね。
人生で色々起こるのは避けられないことですが、むしろそれらの出来事が自分の力を高めてくれるとも言えるでしょう。

私は、どのような事も、今の自分に必要なこととして与えられた、自分自身の望みなのかもしれない、と思って日々を過ごしています。
そんな風に考えられるようになったのは、やはり太極拳のおかげです。
 

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