2011年11月01日

連載小説「龍の道」 第76回




第76回 構 造(11)


「お、これは──────────────」

 さっき向かってきたときとは、まるで軸の在り方が違っている。
 陳中尉はちょっと気を引き締めて、急いでその軸に合わせた。
 
「ススッ──────────────」

 ゆっくりとではあっても、宏隆は確実に、これまでになく繊細なところに入ってくる。

「おっと・・・・」

 まだ稚拙ではあるが、初動を認識するのが難しい、紛れもなく歩法の構造から出された見えにくい拳打に、陳中尉はその動きを少しばかりぎこちなく制限された。


「ははは、危ない、危ない────────────しかし、大したものだ。架式をきちんと取って動くことの大切さに気が付いて、師父に従いて一緒に歩いた感覚をそのまま使って、私の軸に入ってこようとしている」

 心の中でそう呟(つぶや)きながら、この後輩を頼もしく思う。

「今のは中々良かったですが、もっとです。もっと ”半身” を明確に取ろうとして!」

「はい!」

「スッ、スサッ──────────────」

 再び攻撃を連続して仕掛けていくが、今度は簡単に陳中尉に崩されてしまう。

「だめだめ、それではさっきと比べて、架式がなっていません」

「あ、はい──────────」

 ふう・・・と、宏隆は溜息をついた。

 分かりかけている事について、早くそれを取りたいと思う余りに、焦ってしまっている。
 しかし、焦ってはダメだ。もっと自分自身を整えなくてはならない。
 やらなくてはならないのは、如何に相手に巧く拳を打っていけるかということではなく、如何に自己を正しく整えることが出来るかということなのだ。
 その、正しく整えようとする意識と、それによってもたらされる整った身体(からだ)こそが、順身、順体といわれる、武術として高度に整備された身体に他ならない。

「よし──────────────」

 そう自分に言い聞かせると、宏隆は大きく息を吸って、ズシリと腹を据えた。

「ススッ、スッ、スッ、スッ・・・・・・・・」

 より丁寧に、架式を繊細に見守りながら、歩く。

 王老師の後ろに従いて歩いたときに最も驚かされたのは、前後左右があっという間に入れ替わる、不思議な身体(からだ)の使い方であった。

 もちろん、まだ王老師のような、洗練された歩き方は出来ない。
 しかし宏隆には、たとえ見様見真似ではあっても、可成りのレベルで王老師の歩法を初めから真似ることの出来る能力があった。

 その能力は、祖父の代からの『己を挟まず、物事をただ物事として見よ』という家訓どおりに、幼い頃から何事に付けても丁寧に物事の本質に関わろうとするよう育てられて来たゆえのことであろうし、勝手な解釈や余計な考えを挟まずに、先ずは物事をそのままに、ただそこにある通りの有りの儘に学ぶ、という習慣が身に付いているからに違いなかった。

 加えて、家庭での躾や育て方が厳しかったのも幸いしていると思える。
 加藤家にあっては、子供のみならず、使用人の執事からコック、メイドに至るまで、そこで働く者までが皆、代々この家に受け継がれてきたスピリットを徹底的に叩き込まれ、加藤家に相応しい使用人として教育されたのである。

 父は無論のこと、神戸で ”北野の小町” と呼ばれた清楚で美しい母もまた、その美しさの根幹には己への厳しさと生きる逞しさが感じられる。知的で物事に動ぜぬ胆力のある、一本筋の通った大和撫子・・・正に日本女性の鑑とでも言うべき女性であるが、その母が茶道を教授する姿には、宏隆が子供心に、こんなに厳しくてよく弟子が辞めずに通ってくるものだと思えるほどの厳格さがあった。

 しかし、子供も、使用人も、そして茶道に通ってくる母の弟子たちも、加藤家にあっては誰もがその厳しい精神性を不快や窮屈に思うことなく、己を律することで初めて見えてくる大きな世界をそこに来て初めて知らされ、かえってその律されることに心地良ささえ感じ、厳しくはあっても誰もが家族同様に暖かく扱われながらそこで学び、そこで団居(まどい)しているのであった。

 幸いにもそんな家に育ち、物事を観る目を養い、物事の本質を学ぶことが普通の事として教育されてきた宏隆には、王老師の示すすべてを師の ”在り方” として捉え、現在只今、この瞬間、この他に有り得ぬ ”今” という場で、たった一度限りの機会として学ぼうとする向かい方は至極当然のことでもあった。
 宏隆にとっては、師と共に在ることは演劇やライブ演奏と同じことであり、二度と無いその瞬間を、師の活きた示範として全身に感じ、それを何の想いも挟まず享受することに無上の喜びを覚えるのである。それは、見聞きしたものを家に持って帰って考え直し、気儘にあれこれと自分の想いを挟む余地をのこす ”宿題” のようなものとは全く種類が異なっていて、常に新鮮で未知の可能性に満ちていた。


「スッ、スッ、スターン──────────────!!」

 素早い突きが、陳中尉の顔面を捉えて放たれる。そして、だんだん宏隆の歩き方が、波のように畝(うね)りを伴ってきているようにも見える。

「ハッ、ハァッ、イィ──────────────ッ、イァアッッ!!」

 どこからそんな声が出てくるのか、日本の武道からはちょっと想像の付かないような気合いの声が、繰り出される拳打と共に発せられる。

 そして、宏隆が次の歩を進めようとしたその瞬間・・・・陳中尉が、

「そう!、そこでもっと左右を・・」

 そう言いかけたのと、ほとんど同時に、

「フッ──────────!!」

 軽やかに、まるで一枚の薄絹がひらりと舞うように、その一歩を踏み出すと同時に、拳を突いた。

「うっ・・・ むむっ・・・・・」

 陳中尉は宏隆を崩すことも、その拳打を躱すこともできず、わずかに鎖骨のあたりに拳が触れた途端、大きく後ろにのけぞりながら飛び退(すさ)った。

「それだ───────────────」

 傍らで、王老師がポツリとつぶやく。

「ふぅ・・・すごいなぁ。こんな短い間に、よくそんな動きが出来ますね!」

 ちょっと呆れたように、陳中尉が言う。

「出来るだなんて、そんな・・・これが何なのか、ぼく自身よく分かっていません」

「いや、分からないかも知れないが、君がやろうとしていることは決して間違いではない」

 王老師が、静かにそう言った。

「もっと半身を正しく取って、左右を明確にするのだ──────────────
 さあ、忘れないうちに、もう一度、陳に向かって行きなさい」

 王老師はもう、宏隆が試みようとしていることが何であるかを見抜いている。
 まだ半身が甘いというのも、たった今、宏隆が感じていたことであった。

 そして、そう言われたとき、

「左右を明確に・・・ 半身を・・ 正しく・・・・
 そうだ、反対──────────── 反対だったんだ!!」

 ふと、何かを思い付いたように声に出して言うと、

「陳師兄、もう一度!、もう一度お願いします!」

 ペコリと頭を下げて、嬉々として陳中尉の前に立った。

「おや、何か重大なことでも見つかりましたか?
 良いですとも、存分にやりましょう────────さあ、打ってきて!」

「ササッ、サッ、サッ・・・・・」

 宏隆は、素早く陳中尉に向かって入って行く。

「うっ──────────────」

 その瞬間、陳中尉は急いで後退りをした。

「こ、これは──────────────!?」 

 陳中尉の顔色が変わった。

 決して鋭く早い攻撃というわけではない。しかし、その拳を躱そうとしても、陳中尉の体軸に吸い付いてくるように、おいそれと外れてはくれないのだ。

「ススッ、スサッ、スサッ─────────────」

 とりあえずは、素早く後退することで、どうにかその攻撃を外せてはいるが、陳中尉の架式は、宏隆の歩数が二歩三歩と増すごとに、徐々に乱れを見せてきた。

「む・・・・」

 腕を組んでそれを見守っていた王老師が、思わず小さく呻った。

「スッ、スッ、スサッ─────────────」

 もう宏隆の攻撃には、さっきのような淀みが感じられない。
 拳を打つ、その一本ずつが、打つための身体の力みを何ら必要としておらず、ただ架式の有りように任せて動かされており、無駄なく、淀みなく、またその所為で陳中尉には捉えにくいものとなっているのだった。

「うっ、くくっ・・・・・」

 陳中尉は、宏隆の拳打を懸命に外し続けてはいるが、徐々に追い詰められてきている。

 そして、次の攻撃を躱すために歩を移そうとした、まさにその位置に、

「ハアッッ──────────────!!」

 同時に、スッと踏み込みながら、宏隆が真っ直ぐに拳を放つと、

「うわっ────────────!!」

 ドシンと、ついに陳中尉は尻もちをついて、床に転がった。

「・・・こ、これだっ、これに違いない!」

 足もとに転げた陳中尉には見向きもせず、打ち出した拳を握り締めたまま、呆然と立ち尽くして、そう呟いた。


「ははは・・・陳は大変な後輩を持ったものだな」

 王老師が微笑みながら二人のところに歩み寄ってくる。

「はい、まったく、大変なことです」

 陳中尉もまた、微笑みながら起き上がって、

「ヒロタカ、とうとう取りましたね!」

「はい、取ったのかどうかハッキリとは分かりませんが、自分がずっと気になっていたことが、こうして散手をして頂いたお陰で、より明確になってきたと思います。それもこれも、陳師兄がずっと導いてくれて、受けに回って頂いたおかげです。海軍基地で行われたような普通の散手だったら、とてもこんなことは出来ませんでした」

「いや、しかし大したものですよ。教わってもいない心意六合拳の動きを、自分で自然に使い始めるなんて、常人にはまず有り得ないことでしょうね」

「心意六合拳・・・ですか?」

「そうです。今のヒロタカの動きは、心意六合拳そのものでした」

「えっ、これが心意六合拳?──────────────」 

「まだ君にはそれが認識できないだろうが、陳氏太極拳は心意拳の構造と一致するのだ。
 三三拳譜が陳氏の極秘伝書とされるのも、その理由からだ。君はこれまで全く余所見をせず、ひたすら太極拳の基本功をきちんと訓練してきたから、ここでその原型とも言える心意拳の架式構造が自然と導き出されてきたのだろう」

 王老師が言った。

「師父の仰るとおりですよ。多分それは、基隆(キールン)の海軍基地で宗少尉と対戦したときには理解が始まっていたのでしょう。宗少尉を倒したときのヒロタカの動きは、そっくりそのまま心意拳の動きだと言い換えることも出来るのです」

「自分では、居合の形を借りて、王老師に教わった太極拳の構造でそれをやってみただけなのですが、それが心意拳と同じだとは・・・・不思議な感じがします」

「陳氏はその昔、心意六合拳を取り入れたと言われていますが、これまでに誰もそれを証明した人は居ないのです。精々が心意拳の剛猛な発勁動作を真似たのだとか、やれ頭突きだ、体当たりだ、いや呼吸法を取り入れたのだとか、その程度のことしか発想されてこなかったのです。しかし王師父は、陳氏太極拳が心意拳を取り入れた理由を、遂に解明されました。
 それは、おそらく斯界では初めてのことで、学術的には無論、隠された歴史を紐解いて行くにも、非常に価値のあることに違いありません」

「ええっ────────────!!」

「師父は、それは科学的に、構造的に証明できるものだと仰っています。つまり、私たちは陳氏がそれを一族の武術に取り入れた時の、正にその時点から学ぶことができるのですよ」

「うわぁ、すごい。それは本当に凄いことですね!!」

「ところで、君はいまの動きが ”順身” であったことを理解できたかね?」

 王老師が宏隆に訊ねた。

「順身かどうかは分かりませんが、半身を正しく取ろうと気をつけていました。半身が正しく取れることが、自分が分かりたかったことを理解する鍵だと思ったのです。
 そしてそれは、王老師の後ろから従いて歩かせて頂くことで、だんだん見えてきたように思います。ただ────────────」

「ただ・・・どうしたかね?」

「はい、王老師が言われた、順身が不自由で動きにくく、酷く拘束された状態というのが、未だによく分かりません。拘束されることが真の自由な身体を得ることだというのは、自分にとって中々武術とは結びつかないのです」

「ふむ・・・順身は、おそらく日本語で言う ”順体” と、ほぼ同じ意味だと言って良いと思うが、それを英語では何と表現したらよいか、分かるかね?」

「順身、順体を英語で、ですか?・・・うまく適した言葉が見つかりませんが、True Body などと訳すのは陳腐でしょうし、 follow というのも違いますね。abide は甘受するという意味がありますが、うーん・・・」

「順身は ”Immovable Body” と呼ぶべきだと、私は思っている。よく覚えておきなさい」

「Immovable [imúːvəbl]・・・イムーバボゥ・・・イムーバブル・・・・
えーっと、Immovable Property、つまり ”不動産” という使われ方なら知っていますが」

「そのような意味もあるが、ここでは、動かせないこと、固定されていて、それ以外に変化できない、変更できない身体、という意味でこの言葉を用いている。
 それに、不動産とはまさに、決して動かせない土地のことを指している。地面を切り取って何処かへ持っていっても、その土地を持っていったことにはならない。それは土を運んだだけのことだ。動かせないとは、そういう意味だ」

「固定された、動かせない身体──────────────」

「そうだ、何か思い当たらないかね?」

「固定されて、動かせない・・・・ 変更できない・・・ 変化できない身体・・・・
 あ、ああ・・・・ぼくが今やっていた動きは、王老師を真似たあの歩き方は、よく考えてみれば、左右各々に、まったく変更の出来ない固定された状態でした!!」

「そう、そのとおりだ」

「だから ”順身” と・・身体(からだ)に順(したが)うと、書くのですね。
もともと固定されているのだから、それに順うしかない、という・・・・」

「そうだ。その固定された、拘束された身体が存在するが故に、そこからの法則もまた生まれてくる。最初から自由気ままに動くことを前提とした身体からは、人間の精密な構造から得られる法則など、何も有り得ないに違いない」


    
                                (つづく)



  *次回、連載小説「龍の道」 第77回の掲載は、11月15日(火)の予定です

taka_kasuga at 21:10コメント(14)連載小説:龍の道 | *第71回 〜 第80回 

コメント一覧

1. Posted by 太郎冠者   2011年11月03日 21:33
小さな頃から宿題は大嫌いで、やらずに学校に行ってよく先生に怒られてましたっけ・・・。
ここでの話とはちょっと違いますけどね(笑)

今回の話を読んで、ふいに腑に落ちたように感じるところがありました。
厳しく躾けられることで、それまで自分勝手にやっていた物事同士の間に、今まで気付けなかった関係性が見えてくる。
それは、物事の奥底に潜む原理を見つけ出すのと、変わらないのではないかと思いました。

無秩序の中から秩序が立ち現れる現象、それは即ち生命であって、それまで見えなかった一挙一動、立ち振る舞いの中にさえ命の螺旋が紡がれる。
昔の人は、生活・文化の教えの中になんて美しいものを残してたんだろうかと、勝手に感動してしまいました。
 
2. Posted by とび猿   2011年11月03日 23:45
心意六合拳と陳氏太極拳は関係があったらしいという記事は読んだことがありますが、
技がどうである、名称がどうであるといったものが多かったように記憶しています。
我々は太極拳を学ぶことを通じて、身を以ってその関係を感じることができます。
陳氏が心意拳を取り入れた理由が明確になるということは、さらにこれから先の研究も
一本明確になるように思い、明確な研究の上に正しい発展があるのだと思います。
 
3. Posted by まっつ   2011年11月03日 23:59
順身が「固定された、動かせない身体」であると伺った時に、
師父が半身に槍を構えて歩かれる姿がイメージされました。
上下の軸がブレず、構えた槍がブレず、歩み行く線がブレない姿です。
歩いているのだから動いていないはずは無いのに、
ピタリと定まって静かな佇まいには、思い起こしても寒気を覚えます。
その軸上をブレずに歩かれる姿からは、
確かに「固定」あるいは「不動」が感じられたように思います。
・・・その印象が「何」から生まれているのか?
見えないその奥を見たいと思いました。
 
4. Posted by bamboo   2011年11月04日 00:28
黙然師容・・。深いです・・。でも、なんだか飛び込めそうな気がしてきました!
とりあえずドボンと“逝って”みて、生まれ変われたらと。流れに身を任せる・・ですね!!
前回の稽古から妙に歩くのが楽しいです。
 
5. Posted by マルコビッチ   2011年11月05日 22:26
かかか春日さ〜ん、こここんなこと書いちゃっていいんですかあ?
これって限りなくノンフィクションに思えるんですけど?!
いやはやなんとコメントしてよいものやら・・・
読みながら、「陳中尉!そこでもっと左右を・・どうするんですかあ〜?!」
とか、「宏隆くん!えっ、反対?反対って・・なに?なによ!なにが反対?!」
などと、パソコンの画面に向かって叫んでしまいました。トホホ・・

しかし、やはり宏隆くんはすごいですね!!
対練の中で、正しく半身をとって、正しい構造で動いていけることは、
本当に難しいです。
自分に対して非常に大きく強い意識がないと出来ない事だと思います。
今回は、私のまだ解っていない事が沢山詰まっていて、大変勉強になりました。
ありがとうございました。

と言う事で、「ササッ、サッ、サッ・・・・・」とか、
「ススッ、スサッ、スサッ─────────」という部分の映像が見たいです!! アニメでもいいんですけど・・・ ^_^
 
6. Posted by 円山玄花   2011年11月08日 18:13
>Immovable Body
私が初めてこの言葉を聞いたときには、「順体を英語で」という発想そのものが
すごいと思いました。
順体を中国語で説明されるのでもなければ、日本語訳で説明されるのでもない。けれどもそれは、ときとして自分なりの考えを挟むことなく、ストンと自分に入ってくるものだと思います。

しかし、この言葉は日常的な物の見方で捉えてしまうと、とんでもないことになりそうですね。
 
7. Posted by ユーカリ   2011年11月08日 18:27
宏隆君はじめ、登場人物の清々しさが心地好く、「龍の道」を読ませて頂いた後は、爽やか且つ前向きな気持ちになり、エネルギーが湧いてくるようです。
加藤家の様子は、太極武藝館と重なります。
皆が、師父が指し示して下さる「一つの物」を目指して日常を律して行こうとしているからこそ、整っている道場。「在り方」を大切にするからこそ得られる、整った身体と精神。
そこに身をおくことのできる幸せを噛みしめ、常に自身を挟まず、その瞬間を大切にして、精進したいと思います。
 
8. Posted by 春日敬之   2011年11月08日 18:30
☆太郎冠者さん

>宿題

ぼくも大嫌いでしたね、宿題というヤツは。ぼくの場合は、嫌いでやらなかったと言うよりは、
それが面白くないので簡単に忘れてしまえるのでしたが。
特に夏休みの終わりなどは毎年大変でした。(笑)

>無秩序の中から秩序が立ち現れる現象、それは即ち生命であって・・・

宇宙以前の全ては無秩序の渾沌(カオス)であったということですが、
禅や武道では、厳しい秩序の中に渾沌への解決を見出そうとしている、
とも言えるでしょうね。
厳しく躾けられる環境は、自己を観照する能力を植え付けますが、
勝手気儘に何でも許される環境からは、何かを追求する能力は芽生えてきません。
真正な武術は、現代にそのことを教えてくれていると思います。
 
9. Posted by 春日敬之   2011年11月08日 18:35
☆とび猿さん

心意六合拳と陳氏太極拳の関係は、太極武藝館によって益々解明されていくことでしょう。
特に、実際に構造的にそれが証明されるとしたら、これは大変なことです。
今の小架の伝人は、陳有本や陳清萍と小架式が何の関係も無い、なんていう人も居るくらいですから、それこそ纏絲勁から心意拳まで、何ゆえ太極拳の源流とされるのか、きっかりと証明していく必要がありますね。
 
10. Posted by 春日敬之   2011年11月08日 18:41
☆まっつさん

>見えないその奥

見たいですね、その奥を。
しかし、見えない「その奥」は、もはや神秘でもブラックボックスでもありません。
私たちの門では、その奥の実体がどうなっているのかを詳細に説明され、
そこへ辿り着くための案内地図を渡され、
その為に必要な道具や乗り物さえ、きちんと用意されているのですから、
普通の人たちが「その奥」を探しに行くよりも、遥かに、遥かに、
極めて容易で有利な立場にあるわけです。

この環境で「その奥」を目指さない人は、本当にどうかしているのでしょうし、
その奥に行き着けない人は、余程のコトなのだろうと思います。
必死になって宝島の財宝を探したいにも拘わらず、
その在り処の説明を聞く気にならないのか、そもそも地図を見る気にならないのか、
必要な道具を自分の好みのカタチやブランドにしたいのか、
船でしか行けない所なのに、乗り物はどうしても飛行機にしたいのか・・・・
オリンピックじゃないけれど、「探すことに意義がある!」なんて、
それだけで満足だという人も居るのかも知れませんね。
 
11. Posted by 春日敬之   2011年11月08日 18:49
☆ bamboo さん

>とりあえずドポンと”逝って”みて・・・・

良いですね、その姿勢。
そう、取り敢えず、逝ってみましょう。(笑)
よく考えたら、生まれ変わるには、死ぬしかないんですから。
それをキチンと受け容れてくれるところがあるうちに、どうぞ。
 
12. Posted by 春日敬之   2011年11月09日 14:10
☆マルコビッチさん

>こここんなこと書いちゃっていいんですかあ?

あはは、良いも何も、

「この物語はフィクションであり、登場する人物や団体などは、全て架空のものです」

・・って、ちゃんと初めに断ってありますよ〜。

この小説の中身をどう取るかは、もちろん、読者の自由ですけどね。(^。^)


>ススッ、ササッ・・という部分の映像が見たい・・・

それこそ、
「こここんな映像、出しちゃっていいんですかあ〜〜〜〜!!」
・・・ってことに。
ぼくだって、まだ命が惜しいですからね (^◇^;)
 
13. Posted by 春日敬之   2011年11月09日 14:25
☆玄花さん

人は、自分の関わっている世界と全く関係のないことで真理を説明されると、
「ギャフン!」となってしまうことがありますよね。
医学で説明をされると、医者は「・・?」と思うかもしれないし、
物理で話をすると、工学部の出身者は「??」と思うかもしれないし、
中国語で解説すると、中国人は「ソナモノ、ナイアルヨ!」って言うかも知れないので、(笑)
順体を英語で解説するというのは、フツーの人にはとても有効だと思います。
重要なコトに余計な想いを抱かせたくない故の、師匠の温かな配慮なのかも知れません。
 
14. Posted by 春日敬之   2011年11月09日 14:47
☆ユーカリさん

>「在り方」を大切にするからこそ得られる、整った身体と精神

「律」が大切なのだ、と師父はよく言われますね。
律は、「法」や「掟」などと説かれ、その名も「律宗」という戒律を守り実行することを教義とした仏教の宗派もあります。法律という語が法(おきて)と律(刑罰)、律令という語が律(刑罰)と令(規定・法令)で出来ているのを見ても、自己をきちんと律していこう、誤りや身勝手を戒めていこうとする高い意識が、物事の追求には必要なのだという意味であると思います。

律には、もうひとつの意味があります。
音楽で言う音律(ピッチ)や、音程の単位、或いはリズムそのものを表したりします。
リズムが正しくなければ観賞に堪える音楽にはなりませんし、それは音楽に限らず、生活や仕事のリズム、人生のリズムに於いても同様であると思います。
たとえ些細なことでも何かをきちんと続けて行くことは困難ですが、それを出来る人だけが「その上」にある事を手にすることができる。
きちんとやり続けることで成されることを「功夫」と言いますね。

「在り方」の大切さは日々の稽古で説かれ続けていますが、私自身を観ても、何と野放図で、何と身勝手に、何と開き直って生きているのかと、呆れ返ります。
自分の内側にその「在り方」を律していく厳しさがあればこそ、いや、その必要性を強く感じられればこそ、それが理解でき、その結果得られていく整った身体と精神があるのだと、今一度自己を振り返る必要があると思います。
 

コメントする

このブログにコメントするにはログインが必要です。

Categories
  • ライブドアブログ