2011年09月15日

連載小説「龍の道」 第73回




第73回 構 造(8)


 もう、陳中尉に向かって、幾度打ち込んで行ったことだろうか──────────

「何がなんでも、今、この場で、これを取らなくてはならない」

 そんな強い気持ちに貫かれていて、繰り返し、繰り返し、どれほど壁や床に叩き付けられても、コマに弾かれたようにキリキリ舞いにさせられても、懲りずにまた陳中尉に向かっていく。

「これは・・・この少年は、やはり並の人間ではないな」

 気の済むまでやりましょう、と言いはしたが、向かってくる宏隆の勢いは少しも衰えないばかりか、むしろだんだん激しく、鋭くなってくるようにさえ思える。何度も、何度でも、解るまでは決して止めようとしないその執念には、さすがの陳中尉も少しばかり驚きを隠せなかった。

 しかし、その幾度となく打ち続けていた拳打の、さらなる一本を打とうとした時に、突然王老師が声を掛けた。

「さかさまだよ、それは────────やるべきことと、ちょうど正反対だ」

「え・・・は、反対───────?」

 いったい何を言われているのだろう、と宏隆は思った。
 ”正反対” とは、何のことをいうのか。宏隆には、まるで見当がつかない。

 だが、それから幾度か向かって行くうちに、ふと────────

 陳中尉が宏隆を崩そうと、そのための変化を始めた、まさにその瞬間の動きが、それまでとは違って宏隆には妙にゆっくりに感じられて、その僅かばかりの時間の余裕を、自分の身体をもっと正しく、さっきまでとは違った変化のために使ってみよう、と思えた。

 いや、使ってみると言うよりは、王老師の言葉を耳にしたために、ほとんど無意識的に、勝手に体が動いたと言って良い。

 そしてそれは、それまでの宏隆の動きとは、ちょうど ”反対” の変化だった。

「スッ───────────」

「そう、それだ・・・!」

 宏隆が動作を始めたか始めないかという、その瞬間に、王老師がつぶやいた。

 それは、あのときの動き──────────基隆(キールン)の海軍基地で宗少尉と対戦したときに宏隆が見せた、あの居合いの型のような動きと似ていた。

「むうっ・・・・」

 すでに相手を崩すための動きを始めていた陳中尉は、それまでとは違った、宏隆の思わぬ変化に体の軸を狂わされ、さらに反射的にそれを戻そうとした為に反対に崩され、固く巻かれた紐から瞬時に放たれたコマのように、二、三度、クルクルと渦のように素早く旋転し、ボールのように身体を弾ませながら、壁際まで数メートルほど飛ばされていった。

「え・・いったい、いま、何が──────────?」

 驚いたのは、当の宏隆の方である。
 自分が原因で人がこんな具合に飛んでいくのは、宏隆にとって初めての経験であった。
 それも、飛ばした相手は、あの陳中尉なのである。

「それだ、それですよ、ヒロタカ!・・・とうとう出来たじゃないですか!」

 戻ってきた陳中尉が言った。

「出来たんでしょうか・・・?」

 ちょっと呆然とした顔で、宏隆が言う。

「だとしても、何が出来たのかよく分かりません。自分がどう動いたのかも、全然憶えていませんし」

「はは・・そんなものです。でも、これからだんだん分かっていきますよ。大切なことは、それを憶えておくことではなく、それが何であるかを分かろうとすること。上手に出来ることよりも、正しく内容を理解しようとする態度なのです」

「はい──────────」

「その動きが可能となるのは、身体構造が正しく使われた時だけです。自分の体がどのように変化したか・・・いや、それ以前に、どの位置で立てていたか、どれほどの精度で立てていたか、それが正しく動いていたかどうかを、きちんと認識する必要があります」

「今のは、マグレみたいなものかもしれません。陳師兄、もう一度お願いします!」

「いや、マグレではない──────────これで君は、もうそれを取る。
 ほどなく君は、このシステムを理解することだろう。だから今はもう、それ以上陳に向かって行くこともない。後は自分で研究をしていくのだ」

 陳中尉に代わって、王老師が宏隆に言った。

「は、はい・・・・」

「君は、なかなかよく動けている。それに、近ごろの若者にしては根気や忍耐力もある。
今の君に足りないのは、構造への理解だけだと思える。色々なものを見せて煩雑になったかもしれないが、今日ここで站椿を教えようと思ったのも、その理由からだ」

「その、”太極拳の構造” を理解するには、どうすれば良いのですか?」

「大切なことは、やはり站椿で正しく立つことに尽きる。私の言うとおりに、私の教えることをひとつも漏らさず、ひとつも自分なりの勝手な解釈を交えず、ひたすら正しく立つ位置を取ることだ。站椿の最大の目的は、立つことの正しい位置を取るためにあるのだ」

「はい・・・」

「しかし、ただ見様見真似で立っているだけでは駄目だ。正しい位置はたったひとつしかない。身体構造の理論を学んで、その理論に則って正しい位置を実感しなくてはならない。
 それを実感することが出来たら、今度は常にその位置で動けるように、どのような場合でも構造が正しく変化するように、纏絲勁の基本功と歩法を丁寧に整備していくのだ」

「結局、答えは常に ”基本功” にあるのですね」

「そうだとも。決して基本を軽んじてはならない。この世界には、套路を学んでいさえすれば全てが理解できるという考え方や、宗家に生まれて幼少から武藝に慣れ親しんでいれば下地は自然に形成され、敢えて基本は必要とされない、などといった意見も存在する。
 そういう人たちは、まるで基本功というものを、初心者やなかなか理解できない人間たちのための、専用の救済手段のように捉えていたりもする。
 しかし、それはとんでもない間違いだ。套路は基本の集大成であり、基本功という、武術の最小単位の中身を、その精緻なメカニズムを理解しない限りは、套路はただの ”自分勝手に流して行える運動” に成り下がってしまう。
 それは平和な世の中では心地良いことかも知れないが、見栄えのする表演競技には使えても、真の武術としての内容にはほど遠い。そもそも、套路自体が指し示しているものは太極拳の ”基本” そのものなのだ。基本の中身こそが武術としての戦い方であり、武術は基本以外に何もない。基本こそが武術なのだ。そして何より、基本の存在無くしては、その武術は何の進歩も発展も望めない。より高度な拳理に到るための研究を後世に伝承し、次世代にさらなる昇華を希むには、基本の整備こそが何よりも必要となってくるのだ」

「太極拳で最も重要な ”基本” は、やはり站椿でしょうか?」

「正しい位置が確立されてこそ、正しい動きが生じる。站椿で得られる正しい位置は、武術では最も重要なものだ。それが無くては斬られる、殴られる、斬れない、打てない・・・」

「正しい位置は站椿で求めて、正しい動きはどのように求めていけば良いのですか?」

「君は、”正しい動き” というのは、どのような動きだと思うかね?」

「先ほどより教えて頂いている ”順身” によるものだと思います」

「では、その順身とは、どのようなものだろうか?」

「人間本来の、自然な構造に順(したが)って動ける身体である、と教えて頂きました。
そして、それは勝手気儘に動ける自在を得ることではなく、その構造に拘束され、法則に雁字搦めに束縛された、極めて限定された動きであり、それを取れなくては法則そのものにはなれないのだと・・・」

「そのとおりだ。そして、順身を理解するには、真っ直ぐに歩いてみることが一番手っ取り早い。真っ直ぐに歩くのが如何に困難かを知ることが必要だ」

「先ほど見せて頂いたものですね。自分は当たり前のように上下左右にブレてしまうのに、王老師は真っ直ぐにブレずに歩けるので、非常に驚かされました。それは中心が使われるゆえに可能となる・・・足ではなく中心が使われて歩くのだ、と仰いました」

「よろしい・・・では、私と一緒に歩いてみようか──────────」

「えっ・・・?!」

「どうしたかね? 私と歩くのでは不服かね?」

「い、いいえ、そんな・・・・不服だなんて・・・その、驚いただけです」

「ははは、自分の師匠と歩くのに、何を驚くことがあるものか」

「は、はい・・・」

「さて──────────まず、先ほど君は、もともと人間は真っ直ぐ歩ける構造ではない、と言ったね」

「はい。しかし、その後すぐ王老師が示して頂いた歩き方は、全くブレていませんでした。自分には未だそれが不思議でなりません。特別な歩き方ではない、と仰いましたが・・・」

「構造的には何も特別な歩き方ではないが、日常性から見れば、それは信じられぬほど高度なことに見えるかも知れない─────────君は、サーカスを見たことがあるかね?」

「はい、神戸に毎年、”木下大サーカス” が来て、よく父に連れられて見に行きました」

「ロシアのボリショイ・サーカスと並んで、世界三大サーカスと言われる、あのキノシタ・サーカスだね」

「そうです。小さい頃から、ぼくはサーカスが大好きです」

「ふむ、ところで、サーカスには ”綱渡り” が付き物だが、それをどう思うかね?」

「すごいと思います。あんなに高いところに張られた一本のロープの上を、人間が平然と歩いて─────── あっ・・・ああっ!!・・・・・」

「どうかしたかね?」

「つ・・綱渡りをする人が、少しでも左右にブレたら、すぐ下に落ちてしまうじゃないか、と思いました・・・なぜ今まで、そんなことに気が付かなかったのでしょう」

「ははは・・・そう、サーカスの団員たちは、”人間はもともと真っ直ぐに歩ける構造ではない” などとは言ってはいられない。それでは綱渡りの芸はできないからね」

「では、なぜ綱渡りが出来るのでしょうか?」

「それは、人間がもともと、”真っ直ぐ歩ける構造” を持っているからだ」

「もともと、持っている──────────」

「そうだ、元から持っていないものなら、誰がいくらやっても出来るわけがない。人間は、その本来の構造を正しく自覚することで、非日常的と思えることさえ可能にしてきた」

「太極拳は、綱渡りのように歩くのですか?」

「ははは、君は、なかなか面白いね・・・・まあ、やってみようか。
 後ろから、私が歩くとおりに従(つ)いてきなさい─────────」

 王老師は脚(ジャオ)を閉じて真っ直ぐに立つと、そのままヒタヒタと歩き始めた。

「うっ・・な、何なのだ、これは・・・・?」

 王老師と一緒に歩き始めてすぐ、宏隆は自分の体にひどく違和感が感じられた。
 前を歩く王老師は、まるでピンと張られた釣り糸のようで、付き従って歩く自分だけが釣り針に掛かった魚みたいに、ユラユラと翻弄されて揺れているのが分かる。 

 それほど、王老師の歩き方は真っ直ぐで、ブレない。
 老師の歩き方なら、きっとサーカスの綱渡りでも可能だと思えるが、自分の歩き方では、まず、ほんの1メートルでさえ、ロープの上を前に進めないに違いない。

「さあ、どうだったかね、後ろから従いてきた感想は?」

 反対側の壁際まで歩いてきて、振り返って言う。

「まったくダメです。特に左右にフラフラしてしまうのが、よく分かります」

「では、今度はこう歩いてみようか・・・」

 王老師は、さっきと同じように直立したが、腰の前で両手で球を抱えるように構えると、次の一歩をちょっと不思議な足の出し方で出して、静止した。

「さあ、用意はいいかな?」

 見様見真似に、慌ててその立ち方に似せて、コックリと頷く。

「まず初めは、ゆっくりと歩くとするか」

 王老師は一歩ずつ、初めての宏隆にもよくわかるように、ゆっくりと歩いてくれる。
 だが、宏隆の足はわずか二歩目で、もう縺(もつ)れそうになってくる。

「な、な、何だ・・・この歩き方は・・・・・」

 何より、さっき普通に歩いて従いて行ったときよりも、もっとブレがひどい。
 自分が明らかに足で上に蹴り上げ、横方向に撓(たわ)み、落下して前に落ちてしまうのが有り有りと分かる。

「ひどい─────自分の歩き方は、こんなにお粗末なものだったのか!!」

 前をゆく王老師は、一定のリズムで、ヒタ、ヒタ、と歩いている。
 それは、さっきのような普通の歩き方とは違い、一歩ずつ、連続して架式を正しく繰り返しているように思えた。



                                (つづく)




  *次回、連載小説「龍の道」 第74回の掲載は、10月1日(土)の予定です

noriko630 at 22:42コメント(10)連載小説:龍の道 | *第71回 〜 第80回 

コメント一覧

1. Posted by bamboo   2011年09月18日 23:26
読ませていただくたびに、宏隆君の修行はどんどん進んでいきますね。ご教授も彼だからこそこんなに進むのでしょうか。
拝師の持つ意味深さに少し想いを馳せてみました‥。

稽古ではいつも次から次へと課題が浮き彫りになりますが、しっかり身に修めるべく、精微な原理をもっと整備しようと思います^^
 
2. Posted by ゆうごなおや   2011年09月22日 17:05
今回も楽しく勉強させていただきました。

自分は、外門という形で稽古に出させていただいているため、某フルコン空手の稽古も並行してやっています。その中で組手(スパーリング)をするのですが、ほぼ全員上下左右にブレまくります。つまり、ボクシングのダッキング・スウェー・サイドステップを常にしている状態で間合いを詰めたり、外したりしているのです。

太極武藝館の先輩たち、もちろん師父もですが、それとはまったく逆で、「一定のリズムで、ヒタ、ヒタ」と間合いを詰められてしまいます。しかも構えが無く、オーソドックス・サウスポーのどちらのスタイルも無い。非常にやりづらく、恐ろしさを感じてしまいます。

相対的な稽古と絶対的な稽古ということでしょうか?今の自分の課題ときちんと向き合い、逃げずに行きたいと思います。
 
3. Posted by まっつ   2011年09月23日 00:22
真っ直ぐ歩ける事や、
真っ直ぐ歩く運動ではなく、
”真っ直ぐ歩ける構造”なのですね・・・

しげしげとその言葉の意味を吟味させて頂き、
唐突にですが「あっ!」と物事のピースが繋がって、
ふっと新しい認識が腑に落ちました。

これまでも折に触れて、
その構造の意味について丁寧にご教授頂いていましたが、
今、改めてその意味を捉えられていなかった事が認識されました。

もちろん今回頂けた認識を直ちに再現など出来ませんし、
その認識自体がより大きな全体の一部に違いないのでしょうから、
更にその認識をこそ深めていかないといけないとも思います。
その為にも站椿に還らないといけない。と改めて感じています。
とても貴重な気付きを頂けました。ありがとうございました。
 
4. Posted by とび猿   2011年09月24日 13:10
>大切なことは、それを憶えておくことではなく、それが何であるかを分かろうとすること。上手に出来ることよりも、正しく内容を理解しようとする態度なのです

この違いは大きいですね。
これが違うと、全く何も分からなくなってしまいます。

サーカスの綱渡りは、一度見たことがありますが、誰一人として、部分的な筋肉や関節でバランスを取ろうとはせず、膝も伸びたままでスタスタと歩いていたのが印象的でした。
以前は、才能のある人がバランス感覚を磨き、運動能力を高めてできるようになっていくのかと思ったこともありますが、今では、身体を正しく整備し、人間としての構造が機能することによってできることで、これも一つの型なのかなと思えてきます。
 
5. Posted by 円山玄花   2011年09月26日 18:27
>「大切なことは、やはり站椿で正しく立つことに尽きる。・・・」
何か稽古で行き詰まったときに、站椿に立ち返れないうちは何も分かっていない、
と言えます。
・・歩法が違うのかな、基本功の動きが反対かもしれない、いや、套路で快練の動きが出来ない
からかも・・と、私も初学の頃にはなかなか站椿には目が向きませんでした。
当時はそれほど「站椿、站椿」とは言われず、むしろ気がつかせるための稽古だったと思えます。
自分で「そうか!、站椿だ!!」と閃いたときには、思わずニンマリしたものです。
それが、今ではブログの連載小説で描かれているのですから、いやはや何ともすごいことですね。

本当に、この小説「龍の道」は勉強になると思います。
歩法から始められた宏隆くんの站椿の勉強、今後も楽しみにしています。
 
6. Posted by 春日敬之   2011年09月28日 17:11
☆ bamboo さん

>ご教授も、彼だからこそこんなに進むのでしょうか

勿論、人によって学習の「進み具合」というのは異なるのでしょうが。
教授されることがどんどん高度になっていくと言うことは、その弟子もまたどんどん教授内容を
吸収しているということであり、師たる人は、弟子の吸収の程度内容によって教える内容や方法を
そのつど選んでいくわけです。
拝師というのは、特別な内容を特別な人に教える機会、などと思われがちですが、継承すべき高度な内容を取れる可能性の高い人に、その可能性自体を高めていく機会だと捉えれば、私たちにはより分かりやすいかも知れません。
拝師には、その上にさらなる「真の拝師」がある、と聞いたことがありますから、弟子というのはどのレベルにある人でも、ずっと試され続けているということになりますね。
 
7. Posted by 春日敬之   2011年09月28日 17:18
☆ゆうごなおやさん

毎度ご愛読をありがとうございます。
フルコン空手系統の人は、ウチの太極武藝を相手にすると、さぞやり難いことでしょうね。
多くのフルコン空手では、ボクシングのフットワークや、ムエタイを真似たキックボクシングのような戦い方を基本としているように思えますが、そのような戦い方は太極拳にとっては比較的合わせ易く、間合いを制し易いものです。
ゆうごなおやさんが仰るように、太極拳の戦闘には決まった構えがありません。相手の状態に合わせた身体の状態が自然とそこに起こるだけです。そして一定のリズムで、ヒタ、ヒタと間合いを詰めていくだけなので、相手は非常に戦闘がしづらい状態に陥っていきます。
フルコンの人がそれを恐ろしく感じるのは、やはり「体軸の違い」と「戦い方の違い」、加えて戦いというものに対する「考え方の違い」によるのでしょうか。
そのあたりを「龍の道」でも、追い追いに書いていきたいと思っています。
 
8. Posted by 春日敬之   2011年09月28日 17:39
☆まっつさん

散々指導されて、説明されてもなお、
自分のやっていること、やりたいことを認識できない。
誤りを認めて、改めることが出来ない。
丁寧にそれを教授されても、その意味を捉えることが出来ない。

これは、多かれ少なかれ、誰もが経験することなのでしょうが、そこで私たちが学ばなくてはならないこと、何よりも注意すべきことは傲慢さであり、長い間野放しにしてきてしまった低劣な自尊心や未成熟な自我に他なりません。

弟子の力量を的確に判断し、常に技量向上のための適切な指導をするのはコーチやトレーナーにも出来ることですが、弟子が何ゆえに理解出来ないのかを看破し、その原因が弟子本人の傲慢さにあることを厳しく指摘し、常に反省を促すことが出来るのは、伝統武藝を正しく受け継ぎ、その道に人を導く本当の師であると思います。

弟子を程よく扱っておけばいつまでも月謝を払い続けてくれる、とか、あまり厳しくすると辞めてしまって商売にならないので弟子が心地良い処を外さず教えていよう、と本気で考えるビジネスマン先生も、この世界には沢山存在します。

私たちが本物の武藝を得るためには本物の道を歩むことが必要になり、本物の道を歩むためには本物のマスターと出会う必要があります。
本物の師とは、師自身が一修行者として常に本物を求めて歩み続けている人であり、自分に厳しさを課すが故に弟子にも厳しく、自身も人として苦しんできたが故に常に自分の傲慢さを戒め、常に自己を観照し続けているが故に弟子の痛いところを厳しく突いてくる人のことです。
そのような師と出会えてこそ、人は高みに向かって歩むことが出来、高度な武藝の深奥を極めていくことも出来る。またそのように鍛えられ、正しく育てられてきた人は、いつの日か自分の弟子と出会い、同じように育てていくことで、本物の武藝を絶やさず次世代に継承していくことが出来るのだと思います。
 
9. Posted by 春日敬之   2011年09月28日 17:51
☆とび猿さん

綱渡りは、空中ブランコ同様、下の観客が最もハラハラさせられるサーカスの見せ場ですね。

>膝が伸びたままでスタスタと歩いていた・・・

そう、コレですよ、コレ!!
うーん、コレ以上は、口が裂けても言えん。。。。。(命が惜しい・・汗)

站椿というものを、馬歩でしっかり腰を落として深く膝を曲げた辛い姿勢、などと考えていては、立ち方や立つ位置、軸の在り方などは、きっと百年修行してもワカラナイでしょうね。

ぼくらは幸せッス・・・(あれ? 猛王烈くんみたいになってきた・・・)
 
10. Posted by 春日敬之   2011年09月28日 18:11
☆玄花さん

>「そうか!、站椿だ!!」と閃いたときには、思わずニンマリと・・・

そうですよね(笑)
とび猿さんにもそのような返信を差し上げましたが、要するに、站椿ですよ、站椿!
太極拳・・というか、武術は站椿しかない、つまり立ち方しかないのだと思います。

四つん這いの赤ん坊が立ち上がったモノが「人間」ですからね。
二本足歩行の妙を解くことこそ、武術を解く鍵だと、ぼくは思っています。

・・あ、いけない、そろそろ次回の締め切りがぁ・・・(汗)
 

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