2011年08月21日

練拳Diary#42 「推手について」その5

                        by 教練  円山 玄花



 推手の訓練目的は、推手の状態から相手を吹っ飛ばすことではなく、太極拳における相手との関係性を多角的に学び、勁力を理解することにある───────ということは、これまでに様々な例を挙げて述べてきました。

 推手に対する正しい認識を持つことが出来たら、次には実際の稽古と理解が必要です。
 自分がどの程度推手を理解したかということは、そのまま太極拳を理解した度合いと同じであるはずですし、それはたとえば套路だけをやっていれば分かるとか、身につくというものではありません。站椿を練り、基本功を練り、太極拳の学習システムを感じられるようになってきたら、ようやく推手の稽古も実のあるものとなり、そこで初めて、套路の訓練であっても推手で練り上げられるものから外れない、推手と同じ内容を稽古し、練っていくこと が可能になるのです。
 まだ学習システムが見えてこない初心のうちから、ただ推手の形だけを繰り返して練習することは少々乱暴であると思いますし、推手そのものの訓練目的を取り違えてしまいかねません。太極拳の学習システムから見れば、他のものと変わらないひとつの練習方法、ひとつの練功ではあっても、一歩間違えてしまうと、そこから推手が内包している真の武術性を理解していくことは、とても難しいことになってしまいます。


 さて、実際に推手をどの程度理解しているのかは、簡単に確認することができます。
 その方法には様々なものがありますが、今回はお馴染みの《平円単推手》を例にとってみましょう。

 《平円単推手》は、お互いに向かいあって右足を前に出し、お互いの右手を塔手に構えたところから始まります。一方が前方に相手の胸に向かって右手を出していき、相手はそれに対して弸勁で受けながら、手を右後方へ引きます。さらにそこから相手の胸に向かって右手を出していって、一巡となります。
 この動作を繰り返していくわけですが、パッと見ただけでは、ただ平円方向にグルグルと手を回しているだけに見えるかもしれません。しかし、実はその動作の中では四正手の勁が用いられ、架式ごとにカタチがしっかりと決まり、決して架式が流れることがない状態がお互いに循環して繰り返されていなければなりません。

 そして、その架式が正しく取れていれば、推手の途中で相手を崩す事が可能になります。それも、何処でも、どんな瞬間にも、好きなところで、思い通りの方向に崩すことができるのです。
 もちろん、塔手をしていた相手の手を突然掴んで引き下ろしたり、反対側の空いていた手を添えて突き飛ばす・・・などということは一切必要ありません。初心の頃には、むしろそのような動きを加えてしまうことで推手の架式から外れてしまい、拙力しか出せなくなってしまいます。ここでの確認方法は、平円の単推手を行っている中で、その形や動きから少しも外れることなく、相手を崩せるかどうかを見る、という方法なのです。

 動きは比較的ゆっくりと、お互いの架式を感知できる速さの方が分かり易いと思います。
 そこで、たとえば相手がこちらの胸に向かって手を出してきたとき、その途中でフッと相手を崩すことができます。
 それは「どうやって」というテクニックではなく、それが推手の形であるが故に可能となる「崩し」なのです。ですから「崩した」と言うよりは「相手が立っていられなくなった」と言った方が正確かもしれません。それほどまでに、日常的な視点から考えられる「崩す」という動作が全く必要ないのです。
 反対に、平円単推手の中で《押す・引く・突き飛ばす》など、小手先で相手に力を加える方法を取ると、相手もまた小手先で攻撃を去なす(いなす)ことができてしまいます。
 あるいは、明らかに力(拙力・腕力)の差がはっきりとしている場合には、相手は去なすことはできませんが、そのような場合には崩し方も平凡で、日常的なものであることが一目瞭然です。もちろん、生卵などは簡単に潰れてしまうことでしょう。

 以前に師父が、「なぜ推手からの発勁を紹介している老師たちは、平円単推手からの発勁をやって見せないのだろうか」と、仰ったことがあります。なるほど、そう言われてみれば四正推手からの発勁は数多く出されていても、平円単推手からの発勁はちょっと見たことがありません。もし機会があれば、私たちの平円単推手からの崩しや発勁を、動画でご紹介したいと思います。


 話を《平円単推手》による推手の確認方法に戻しましょう。
 先ほど、「どこでも好きなところで、思い通りの方向に崩せる」と述べましたが、そうなるまでには当然時間(功夫)が必要となります。しかし、架式を正しく守り、要訣から外れなければ、平円単推手の中で相手を崩すことはそれほど難しいことではないのです。

 推手として正しく相手が崩れた場合には、

 1,生卵が潰れない程度の力で、

 2,力みで相手を押したり引いたりすることなく、

 3,動きが突然加速することもなく、

 4,影響が小さくても相手が身体ごと崩される。

 ───────ということが起こります。これら四つの条件に当てはまらないものは、推手としては間違いであると言えるわけです。

 正しく守られるべき架式とは、即ち「順体(順身)」であることを意味しています。
 「順体」とは太極拳に必要な正しい身体の在り方であり、当然「勁力」も順体によってしか理解され得ないものです。言い換えれば「順体」と反対の「拗体(ねじれた身体)」からは、どう頑張っても拙力しか出すことができない、ということになります。

 たとえば、平円単推手の中で崩そうとする場合、相手が胸を突いてきた状態で、こちらがそれを右の後方へ引いてきた状態があります。普通、この状態は右足が前で右手が後ろですから、身体の状態としては拗(ねじ)れています。そのとき相手は右手で突いていった格好ですから、普通は身体に拗れはありません。此方が拗れていれば劣勢で、相手は優勢です。そのままの格好で相手をどこかへ崩そうとしても、拗れている自分の身体に負荷が掛かり、崩そうとすればするほど、自分が崩れていってしまいます。
 しかし、太極拳で推手が熟達してくると、普通は拗れてしまうような姿勢でも、順体によって劣勢とはならずに、その格好から相手をリィすることも、ポンすることも、床に崩すことも可能になるのです。ここが太極拳の面白いところだと思います。

 散手の稽古に於いても、特に対複数で行われる場合には、常に正対して向かい合っているわけではないために、師父があたかも劣勢であるかのように見られることがあります。
 しかし、その一見拗れているように見える、一見不利な姿勢に見える、一見そこからこちらには動けないように見える・・・・というようなことは、次の瞬間の師父の変化や発せられた一発の拳打によって全てひっくり返され、そう思ったときに動けなかったのは、実は自分の方だったことを嫌と言うほど思い知ることになります。
 このような「散手」については、また原稿を改めて、日々の稽古で思うことを述べてみたいと思います。

 散手では、自分勝手に動けてしまえる要素が多くても、推手ではそうはいきません。
 相手と手を触れることで間合いは決められ、活歩で動くときでさえ相手と一緒に決められた歩数を決められた方向に動かなければなりません。そのことを反対に見てみると、それだけ基本に忠実に、要訣から外れることなく練ることの出来る練功だということになります。
 だからこそ師父は、『推手で人を飛ばせるのは当たり前』だと仰るのです。

 太極拳を学ぶにあたって用意されている様々な要訣は、たとえば発勁のための、あるいは纏絲勁を理解するために必要な ”ルール” である、と言い換えることができます。
 一丁のナイフや拳銃を扱うにも、そこには自分が正しく安全に扱うための、周りの人に迷惑を掛けないためのルールが存在するわけで、そのルールは、初心者にとっては必至に覚えて自分の身に染み込ませなければならないものです。
 太極拳の推手もまた同じで、まだ太極拳の身体ができていない場合には、とても動きにくく、窮屈に感じられるものです。そこで初めて自分の身体が「拗体」であることに気がつけるわけです。
 その窮屈さとは、取りも直さず、太極拳の基本的要訣が守られていないために生じる身体の状態であって、要訣と自分の身体とをひとつひとつ丁寧に照らし合わせて行けば、誰でも「順体」を理解し、手に入れることができます。そのような稽古方法をシステマティックに残してくれた先人達には、本当に頭が下がる想いです。

 推手を正しく練功として行うためにも、まずは推手の稽古がとてもやり難い、動き難いという実感が得られるようなところから始められなければならないと思います。
 なぜならば、その動き難さを自分勝手に変えて動き易くしてしまうような、ルールを無視した動きをしていては、推手からの発勁などは、夢のまた夢の話になってしまうからです。



                                (つづく)

xuanhua at 21:38コメント(11)練拳 Diary | *#41〜#50 

コメント一覧

1. Posted by 太郎冠者   2011年08月22日 20:43
やはり太極拳というのは日常とは真逆なのだなと感じます。

普通武術といえば、ルール無用の戦いの場でいかに生き残るかという技術であって、
そのためには当然自由に動けるほうが良い、と考えると思います。
しかし、そうなるための稽古体系は、いわばルールでがんじがらめの状態になるように
出来ている。
それらのルールを通して、順体の原理を浮き彫りにさせようとする体系なのでしょうが、
いやはや凄いです。

それにしても、推手というのはまた、他の対練と違う味がして面白いものですね。
個人的には、日本の古流剣術の型と比較してみると、ひじょ〜に楽しめます。
 
2. Posted by ゆうごなおや   2011年08月22日 22:17
「世界最強」と言われる?某フルコン格闘技の試合のルールとはまったく意味が違うのですね。
スポーツ的な試合用のルールにより、自由に動けているつもりが、実は居付かされてしまって
いる。
そのことに気付いてどれくらい経つでしょうか?それでも相変わらず以前の癖が抜けず、
散手の後は泣いてます。
 
3. Posted by マルコビッチ   2011年08月25日 21:26
考えようによっては、きちんとした要訣があり、守るべき形があるということは、
大変学びやすく簡単な事のように思えます。
しかし、まず正しい架式をとることにおいて、なんと困難な事でしょう!
基本功で少しとれてきたかな、なんて思っていても、対練になるとめちゃくちゃ・・・
自分の出来ていないところ、気付いていないところがもろに表れてしまいます。
そういう意味でも、私にとって推手はもっとも動きにくく難しい稽古のひとつでした。
以前は、「次は推手をやります・・」と聞いただけでテンションが下がったものでした。
(傲慢さゆえですね!)
でも、この「推手について」のシリーズを読ませて頂くに従って、推手がより身近なものになり
ました。全ての訓練が正しく太極拳を理解していくものであり、そのあらゆる訓練によって、
自分を正しい方向へ修正していくものなのですね。
本当に、太極拳の訓練システムはすごいと思います!
 
4. Posted by まっつ   2011年08月25日 23:59
稽古の向かい方、捉え方に関してとても勉強になります。

推手訓練において、
自分の自由にはならない、決められた形を交互に繰り返すというプロセスの中で、
相手と合わせよう、相手を感じようとする事で、
自分の架式が合う、自分を感じられる事が同時に起こる事が体験され、
不思議な感慨と共に、陰陽という言葉の意味が自分の中に響いた事が思い起こされました。

小生にとって架式の感覚とは、あまりにも繊細微妙で捉え難いのですが、
推手のように形の限定が厳しくなるほど、実感が明確になる事は経験させて頂いており、
その必要な限定こそ、身に付ける事に意を注ぎたいと思います。
 
5. Posted by とび猿   2011年08月27日 12:26
まだ架式というものに目が向いていなかった頃、推手の稽古で、訳も分からず、
ただ黙々と腕を回していた時、師父に立ち方を直して頂いたことを思い出しました。
そこですぐに気が付かなければならないのでしょうが、今思うと、站椿や基本功、套路や対練等も
別々のものになっていて、まだ稽古になっていなかったのだと思います。

型通りの推手で人を崩す映像をなかなか見たことがありません。
これはとても残念に思います。
 
6. Posted by 円山玄花   2011年08月29日 17:58
☆太郎冠者さん
そうですね、戦いの場では自由に動ける方が有利だ、と考えるのが普通だと思うのですが、
太極拳を学んでいると「自由」よりも「過不足なく」動けることを追求しているように感じます。
それ故に、老若男女を問わず誰でも戦うことが可能になったような気がするのです。

>日本の古流剣術の型と比較してみると・・・
自分の稽古の意識が「型」に向くことで、他の武術、武道が何を稽古し、何を練りたいのかが
見えてきますね。とても面白いと思います。
 
7. Posted by 円山玄花   2011年08月29日 18:00
☆ゆうごなおや さん
癖というものは、なかなか厄介ですよね。
太極拳では病(やまい)などと呼ばれて戒められます。

”なくて七癖”などと言われるように、人は誰でも自分では気がつかないような癖を持っているものだと思います。
自分のことを考えてみても、癖というのは自分の好きなスタイル、好きな感覚が習慣化したものですから、当然何かを学び、身に付けようとしたときには障害になるわけです。
その障害を乗り越えるためには、まず自分の癖をよく観察し、理解すること。そして、その癖に気づいていることが大切です。
また、癖というものは、新しい意識の訓練によって修正されていきます。
つまり、普段の稽古の通り、「目ハ水平ニ、腰ハ捻ラズ、足先ノ向キハコチラ・・・」という、
自分の思うようには足一本動かせないという状況の中で、初めて自分の意識が変わっていくわけです。そしてその為にこそ、「道場」という場が必要になるのです。
さらに、「稽古する」ということが身についた人は、道場から離れていても、どこで何をしていようとも稽古の意識が変わることはなく、その人の居るところどこでも「道場」となるわけです。

あとは、ただひたすら自分と向き合うことですね。
♪泣くのがイヤなら、さあ歩け〜♪・・・と。
 
8. Posted by 円山玄花   2011年08月29日 18:04
☆マルコビッチさん
>この「推手について」のシリーズを読ませていただくに従って、
>推手がより身近なものになりました。

それは何よりです。
このシリーズの冒頭でも書きましたが、私自身、推手が分からず好きではない方でしたので、
今日まで勉強させてもらって、ようやく見えてきた推手訓練の意味や目的、そして推手の持つ練功としての素晴らしさを、皆さんにご紹介できればと思って書いています。
 
9. Posted by 円山玄花   2011年08月29日 18:06
☆まっつさん
まさに、相手と合わせよう、相手を感じようとすることで自分の架式が合い、自分を感じられることができます。そして同時に、自分を整えよう、自分を感じようとすることで、より相手を感じることができ、相手と合わせることが可能になります。当然のことのようでありながら、なお不思議な、「存在」というものをふと考えさせられるような感覚でもありますね。

架式を整えていくのは、確かに簡単ではありませんが、整えていくその過程で自分の中に養われるものこそ、太極拳の原理を見いだせるものだとしたら、焦ることなく、黙々と稽古を重ねることを大切にしたいと思えます。
 
10. Posted by 円山玄花   2011年08月29日 18:09
☆とび猿さん
>型通りの推手で人を崩す映像・・

そうですね、型ではたとえば四正手のポンは手の位置がココ、と決められているのですが、
映像ではそれを大きく外れて大振りになっているものが多く見られますし、
リィでは身体の振りが大きくて架式が流れているものもあります。
・・問題は、型から外れてしまうと、勁力ではなくなってしまう、ということです。
せっかく勁力を理解するにはこのカタチで、と言われているのですから、それをこそきちんと守りたいと思うところです。
 
11. Posted by ユーカリ   2011年09月13日 05:32
コメントが大変遅くなり、申し訳ありません。
太極拳の学習体系の繊細さと偉大さを改めて感じます。
相手との間合いや、足先の向き・位置、相手との接点などなど本当に細かく、
ご指導いただく一つ一つを忠実に守ってこそ正しく身体が練られてゆくのですね。
推手によって動きにくさをきちんと受け止めて自らの身体を観てゆくことができる。
推手によって気づかされた事を基本功や套路、対練に反映させてまた推手で確認できる。
すべてが循環しているのだと広がりを感じました。
稽古の意味や向かい方、その先への繋がりを示して頂き、自分勝手に作った枠にはまって
もがいている自分の小ささと、はまっている物が違っているではないか!という事に
今更気づきました(^^;)
 

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