2011年08月01日

連載小説「龍の道」 第70回




第70回 構 造(5)


「 ”順身” と書く──────────────」

 王老師が指でそれを宙に書いて示した。

 宏隆にとってそれは、一度も耳にしたことの無い、新しい言葉だった。
 その、 ”初めに理解すべき、身体の正しい在り方” とは、いったい何であるのか。

「・・その、順身(shun shen)、というのは、どのようなものなのでしょうか?」

「太極拳が武術として成立するための、身体の正しい在り様(よう)のことだ」

「日本の武術で ”順体” と呼ぶものと、同じでしょうか?」

「ほう、日本にもそのようなものがあるのかね────────────それと同じかどうかは分からないが、現在では陳家溝でもそんな概念はすっかり忘れられていて、今では誰もそれについて触れなくなってしまった。もし日本に同じ意味の概念が存在するのだとすれば、かつて海を越えて日本に伝えられたものが、大陸の本家では失伝の危機に瀕している、ということかも知れない」

「・・では、それは文化大革命以前にあった秘伝なのですか?」

「順身というものがいつから失伝してしまったかは知らないが、少なくとも第15世の陳清萍の頃まで存在していたことは確かだ。趙堡鎮(ちょうほちん)に残る太極拳譜にはその文字が散見できるし、たとえ拳譜にその言葉が見当たらなくとも、たとえば中国拳術の母といわれ、陳氏との関係も深い ”心意六合拳” の動きは順身そのものだし、太極拳と共に内家三拳と呼ばれる形意拳や八卦掌も、順身の構造でなければ出来ないものばかりだ」

「順身とは、どのような意味なのですか?」

「 ”順” とは、したがうという意味だ。つまり順身とは、自然の法則に順(したが)った有りのままの身体、自然の構造に沿った、自然な人体の在りようを意味している。
 意識を収斂(しゅうれん)して身体を放鬆し、それによって体の中心が働き、その構造の中心の働きに順って身体各部が自然に動き、技法を滞りなく自然に用いることが出来るような身体の状態のことをいうのだよ」

「・・・つまり、人体の構造に順って自然に動く、ということでしょうか?」

「そのとおりだ。そして、”順” の反対は ”拗” と言い表される。
 拗とは、滑らかではない、ぎこちない、ひねくれている、などといった意味で、体を捻(ひね)る、拗(ねじ)る、振り返る、体を左右に振って歩く、などという意味にも用いられる。また詩歌の世界では、絶句や律詩の変格として、平仄(ひょうそく)の法則に合わないものを ”拗体” と呼んだりもする」

「なるほど。日本語でも拗と書いて、ヒネルとかネジルと読みますね・・・・
 それでは、順身というのは自由に、何処へでも、何の束縛も受けずに、どんな風にも自在に動ける身体の在り方を表している、ということになりますね。
 うーん、そんな風に自然に、自由に、相手の攻撃に対してどのようにも動けるのが太極拳なのですね─────────────いやぁ、スゴイや!、これはスゴイことです!!」

「そうではない────────────」

「えっ・・・・?」

「太極拳は、自由自在になど動かない────────────」

「・・・いま、何と仰いましたか?」

「太極拳は、敵の攻撃に対し、自由自在に、どのようにでも動ける身体の状態を練るものではない、と言っている」

「でも、たったいま、人体の構造に順って自然に動くことが ”順身” だと・・・・」

「自然に順うとは、何でも出来る自由な状態をいうのではない、その正反対だ」

「は、反対・・・・?」

「そう、不自由で、動きにくく、ひどく拘束された身体の状態を、”順身” というのだ」

「え、ええっ──────────────!!」

「驚いたかね?」

「・・お、驚くなんてものじゃありません、太極拳の訓練は、不自由極まる、拘束された身体をわざわざ練っていく、と仰るのですか?!」

「そのとおりだ────────────」

「で、でも────────そんなこと、とても俄(にわか)には信じられません。だって、そんな体では、武術として何も成立しなくなってしまうと思いますが・・・・」

「それはあべこべだよ。もし思い通りに自由な動きの出来る身体を造ってしまったら、それこそ、武術としては全く何の役にも立たなくなる」

「うーん、そこのところが、よく分かりません──────────────」

「良いかね・・・・順身とは、構造に順う(したがう)、という意味だ。
 構造とは、人間として誰もが持って生まれてきた、人間としての構造に他ならない。
 言い換えればそれは、誰もが既に、生まれながらにしてその構造に束縛されているということになる。それに順うこと、本来ある構造に逆らわず、それに従うことで初めて人間としてトータルに、自然に動ける思い通りの身体を手に入れられる、ということだ。
 つまり、人間にとって自然に動けることというのは、人間本来の構造に有りの儘に束縛されている状態のことを言うのだ。それを外して動けるようになることを、自由自在な動きとは言えない───────少なくとも太極拳では、そうでは有り得ない」

「僕は、これまでやってきた戦いの中で、自分が自由自在に動けることこそが、相手に勝てることだと思ってきました・・・・」

「高度な ”術理” の世界を知らなければ、そうするしかない。かつての私もそうだった。
 素早く動けるフットワーク、目にも留まらない神速の拳打、一撃で相手を屠ることができるような強力な打撃を身に着けることこそ武術の真髄だと、そう信じていたものだよ」

「王老師にも、そんな時があったのですか?──────────────」

「ははは・・・私だって大宇宙の法則から観れば、哀しい凡夫のひとりに過ぎないからね」

「僕は、そうしていることで、ある程度なら使える戦い方を身に着けたのだと思います。
 しかし、それはやはり、精々が街のケンカでしか通用しないものに過ぎませんでした。
 そして王老師と向かい合った時に、そのようなレベルでは本物の武術には全く通用しないことをイヤというほど味わわされたのです」

「ふむ、初めて神戸で会った時のことだね・・・」

「はい、いま想い出せば、確かに王老師は自由自在には動いて居られませんでした。
 何か予め決められたもの、揺るぎのない法則に従って、それを決して外さず、その中だけで動かれて居られたように思えてきます─────────それが ”順身” ということなのでしょうか?」

「そのとおりだ。法則とは、すなわち拘束であり、束縛ということに他ならない。
 そして、従うべき、揺るぎない法則とは、ひたすらそれに順ってこそ、大いなる法則として、その妙を得られるのだ。
 自分の都合の良いところだけを取り出して、法則を上手く身に着けようとしても、それはすでに ”法則” にはならない。その法則の中に身を置き、法則に雁字搦めに拘束されて、ついには法則そのものになる事こそ、その法則を十全に使えるようになる唯一の道なのだ」

「何処かでは、自分はそのようなことを学ぶべきだという気がしていました。
 居合の稽古をしていると、そこには型の稽古しかありません。その型に自分を当て嵌めていくこととは、つまりは王老師の仰るような、不自由に拘束され、束縛されることによって法則を得ていくことを意味しているのだと思います」

「そうですよ・・・そして、ヒロタカがそのことの重要性を何処か意識の奥深くで理解しているからこそ、基隆(キールン)の海軍基地のリングで宗少尉に勝つことが出来たのです」
                   *編集部註:「龍の道」第38回・武漢(10)参照

 すぐ横に立っている陳中尉が、宏隆にそう言った。

「ああ、そうだ────────────そう、あの時は、どうしてあんな恰好で宗少尉と戦ったのか、自分でもよくワケが分かりませんでしたが・・・・ただ居合の構造を借りて、その中で自分が学んでいる太極拳を試してみようとしたのだと思います」

「宗少尉との一戦は、見ていても凄かったですよ。とても高校生とは思えませんでしたね。
 通常、リングでのスパーリングは、お互いに訓練を積んできた技法の応酬と捉えてしまうのですが、あの一戦に限っては全くそういうものとは違っていた。
 戦いと言うよりは、陶芸家が無心に土を捏ねているような、画家が絵筆を取ったり、刀鍛冶が一心不乱に鋼を鍛えているような、そんな感じに思えましたね」

「ほう、それは是非この目で見たかったな──────────」

 王老師が、興味深げに言った。

「はい、もしご覧になれば、きっと師父も感心されたことと思います」

「あの時、僕は居合の ”一文字腰” という半身の構えで、宗少尉と対峙しました。
 それまでの、幾つかの宗少尉の戦い振りを見て、ケンカの若大将と呼ばれて良い気になっていた頃のテクニックでは到底太刀打ちできないと思ったからです。そして、居合の構えを取ったことが功を奏し、宗少尉が非常に戦いにくくなっていることに気が付きました」

「・・・うん、そうだったね。それまでの対戦相手はスピーディに、或いは華麗に動き回っていたのに比べて、ヒロタカは反対に ”不動” に見えました。そして、宗少尉の技をフットワークや反射で動いて躱すことをせず、落ち着いて間近で間合いを見切ることで、何もしていないのに少尉が勝手に崩されていました」

「もしかすると、あの時に、”コレだ!” と思えたことが、王老師が仰る ”順身” というものだったのでしょうか?」

「・・・いったい、何を ”コレだ” と思ったのですか?」

「半身に構えていた身体が、ある瞬間、まるで左右が入れ替わったように、驚くほど自然に動いたのですが・・・その半身の構えが、目の前の宗少尉とあまりにもピタリと一致したような気がしたのです。そして次の瞬間には、宗少尉がマットに倒れていました」

「師父・・・・・・」

 陳中尉が真剣な表情をして、王老師の顔を見た。

「うむ──────────────」

 王老師は、それに頷いて、あらためて宏隆の顔を見つめている。

「あの・・・・ぼくは、何か不味(まず)いことでも言いましたか・・?」

 それまでとは違うその場の雰囲気を察して、恐る恐る、宏隆が陳中尉に訊く。

「いや、そうではありません。私は同門の先輩として、ヒロタカが師兄弟であることを誇りに思います」

「はい・・・それは、とても嬉しいですが・・・・・」

「師父、ヒロタカに言ってあげてもよろしいでしょうか?!」

「うむ、お前の知ることを、伝えてやるが良い」

「そのとき・・・・ヒロタカが ”コレだ” と思ったことは、まさに ”順身の構造” を意味しています。宗少尉と対戦したとき、その半身の構えに起こったことこそ、私たちが順身という構造で学ぶべき秘伝なのですよ」

「ええっ──────────────!!」

「口で言っても、よく分からないかも知れない。ヒロタカ、私に向かって掛かってきて下さい。実際に散手でそれを確かめましょう────────師父、よろしいですか?」

「良いとも。お前が言い出さなければ、私がそうしようと思っていたところだ」



                               (つづく)



  *次回、連載小説「龍の道」 第71回の掲載は、8月15日(月)の予定です

taka_kasuga at 23:47コメント(8)連載小説:龍の道 | *第61回 〜 第70回 

コメント一覧

1. Posted by まっつ   2011年08月05日 00:23
自分の感性に任せて自由に動ける身体と、
人間の構造に縛られて自然にしか動く事が許されない身体とは、

喩えれば、子供が手遊びに作った紙飛行機と、
職人が丹精を込めて作った模型飛行機の違いにおいて、
その飛行に雲泥の差が生じるように、

また、悪評の高かった近年のゆとり教育と、
真性のエリートを育成する英才教育の違いにおいて、
身に付けられる知性に大きな格差が生じるように、

生死の際で生き残れる力に大きな隔たりが生じるに違いありません。

自由ではない事を自らに課す事は、
感覚や衝動に突き動かされる身体や、自由に動きたい心には難しく、
それ故にその道を往くには、
「身体」と「心」を含んで超える「意識」こそが大事なのだと、
つくづくと思います。
 
2. Posted by bamboo   2011年08月05日 23:38
道場で常に教えられることですが、改めて読んでみると自分の学んでいることの恐ろしさを
実感しますね・・。
また、太極の原理を受け継ぐのが玄門會でよかったとも思います。

それにしても宏隆君はどんどん進んでいきますね、自分も謙虚さを思い出すためにも、
ときどき耳を引っ張りながら稽古します^^
 
3. Posted by マルコビッチ   2011年08月06日 23:27
随分長いことコメントをご無沙汰してしまいました。m(_ _)m

「構造」という副題になってワクワクしていましたが、なんとすごい話に
なってきましたね!!
春日さん、大丈夫なんですかあ?

王老師の言う、「その法則の中に身を置き、法則に雁字搦めに拘束されて、
ついには法則そのものになる事こそ、その法則を十全に使えるようになる唯一の道なのだ」
・・・これこそが目指していくところなのだ!と思うと鳥肌がたちます。
その為には常に常に意識的になる意志の強さと努力が必要ですね!
気持ちが奮い立たされます。
普段、暑いと言ってはデレッ!疲れたと言ってはデレッ!となってしまう
私ですが、そういうときこそ自律して、自分自身に挑戦していける自分でありたいです。

次回も楽しみにしています!!
 
4. Posted by 春日敬之   2011年08月13日 13:00
☆まっつさん

>生死の際で生き残れる力に大きな隔たりが生じるに違いありません

そうですね。それこそが「武術性」というものであり、
私たちが日夜道場で探求し練り続けている武術の核心に他ならないものでしょう。

太極武藝館ではそれを得るためにはどうすれば良いのかが提示され、
その核心が詳細に亘って解き明かされるのですから、非日常性であるところの
「拘束」や「不自由さ」を感じさせる術理の世界にこそ身を置く勇気を持たなくては、
まったく何ひとつ始まらないのだと、学習者は理解するべきでしょう。
 
5. Posted by 春日敬之   2011年08月13日 13:02
☆ bamboo さん

>自分の学んでいることの恐ろしさを実感しますね

太極拳は、気持ちよさそうにゆったり動いて、
気のチカラや健康のチカラを身に着けられ、
(ついでに)武術的にも強くなれる──────────────

きっとそんなふうに思っている愛好者が大多数なので、
その恐ろしさに気がつくことが出来る人は、ご自分の「武縁」に感謝すべきでしょうね。
武縁もまた、自分に与えられた課題であると、私は思います。
怖ろしいものは美しい、美しいものは怖ろしい・・とは、師父の口癖ですが、
本物は、本物の武術であるが故に、本物の怖ろしさがあり、
本物だけが持つ美しさがあるるわけですね。
 
6. Posted by 春日敬之   2011年08月13日 13:08
☆マルコビッチさん

>なんとすごい話になってきましたね!!

むう・・・タカユキはナリユキとは言え、自分でも収拾が付かなくなってきました。
ど、どーしよーかな・・・・というのが本音カモです。

>そういうときこそ自律して、自分自身に挑戦していける自分でありたい

そういう人が、近ごろめっきり減りましたね。
しかし流石は武藝館の本部道場、マルコビッチさんのようなホネのある人が、
まだまだ沢山居られるんでしょうね。

どうぞ次回をお楽しみに、
・・・って、まだ書けてないぞ〜っ!!(ぞぉ〜っ!・寒気)
オーストラリアにお盆休みは無いっ!(何しろ今は冬ッス)
どうするんだ、次回!!(大汗っす)
 
7. Posted by とび猿   2011年08月13日 13:31
今回も凄い内容ですね。
この「順」「順身」ということも、今なら「ああ、そうなのだ」と素直に思えますが、
現代人よりも、昔の人の方が身近であり、切実であり、
先ず始めに当然の事としてあったのではないかと思えます。
この小説は、武術を学ぶ者の心得がぎっしりと詰まっているものなのだと、改めて思いました。

遅いコメントで、失礼しました。
 
8. Posted by 春日敬之   2011年08月14日 02:33
☆とび猿さん

とび猿さんの仰るように、「順」という概念さえ、遠の昔に消え去ってしまった現代の武術は、
もはや武藝でもなく術理でもない、ただの形骸化した武術もどきの運動、
いや、形骸さえ跡形もなく失ってしまった新種のスポーツ格闘技であるように思えます。
多くの武術が本当の意味で武術でなくなってしまった理由は様々でしょうが、
本家陳家溝の若い継承者が多く出場する散打大会の映像を観るに付けても、
私には形骸化した伝統武術、陳氏太極拳もどきのスポーツ格闘技に思えて仕方がありません。
 

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