2011年07月20日

連載小説「龍の道」 第69回




第69回 構 造(4)


「・・た、太極拳では、質量中心が・・・その位置が、予め決められているのですか?」

「そうだが、それがどうかしたかね────────────」

「あ、いえ・・・つまり、それが立つ位置である、ということなのでしょうか?」

「そのとおりだ」

「あらかじめ、決められている──────────────!!」

「何もそんなことに驚くことはない。人間が立つべき位置は元々ただひとつしかない。
 武術家だろうが八百屋だろうが、人間として立つ位置は初めから決まっている。物質や機械の文明に浸りきった現代人は、自らの立つべき位置を全く忘れてしまっているのだ」

「では、昔の人や、もっと大昔の人は、現代人とは立つ位置が違っていたのですか?」

「違っている、などという程度ではないはずだ。現代の人間たちは、構造的には人間というよりも、サルの方に近いと言えるかもしれない」

「えっ───────さ、サルですか?!」

「そうだ。今どきの人間は、進化というよりは、サルだった頃に逆戻りしているようにさえ思える。もっとも、赤ん坊のころには、誰ひとりとして、そうではなかったのだがね・・・」

「赤ん坊の頃には、誰もが正しい構造を持っていたのですか?」

「そうだとも。人間は生を受けてから一年ほどの時間を掛け、自ら立ち上がって歩くように仕組まれている。その構造や、それ故に生じている軸は、紛れもなく二本足で自立して歩く人間としてのもので、サルとは大違いだ。それは武術的にも、とても高度な軸だと言える」

「赤ん坊が・・・武術的に高度な軸・・・・・?」

「ちょうど良い機会だから、君がどんな風に歩くかを見てみよう。
 此処から向こうの壁に向かって歩いてみなさい──────────────」

「ただ歩けば良いのですか?」

「そうだ、あの壁に向かって、真っ直ぐに歩いて行ってごらん」

「はい・・・」

 格闘訓練場の奧の壁は、大きな鏡張りになっている。
 宏隆は鏡に映る自分に向かって数十歩ほど、ごく普通に真っ直ぐに歩いた。

「さて、どうだったかな?」

「別にどうということもありません、ただ普通に歩いただけです」

「ふむ───────何か気付いたことはなかったかね?」

「いえ、特に何もありませんが・・・・」

「では、今度は、陳と一緒に並んで歩いてみなさい」

「陳師兄と一緒に?」

 二人で並んで歩いてどうするのかと不思議に思ったが、言われるままに、宏隆は陳中尉と並んで立ち、右、左、と出す足を合わせて、同じ壁に向かって歩いて行く。

 しかし──────────────
 
「あっ・・・ああっ・・・・・!!」

 歩き始めてすぐに、宏隆は鏡に映る自分と中尉との余りの違いに、驚きの声を上げた。
 陳中尉の歩く姿には、ほとんど上下動が見られない。それどころか、左右にも、まったくと言って良いほどブレていないのである。
 陳中尉は、まるで動く歩道か何かにでも乗っているかのように、スーッと移動しているような動きなのだ。それと比べると自分の歩き方は、動く歩道と平行した通路でジョギングでもしているように、大きく軸がブレている。

 それほどまでに、自分と陳中尉の歩き方は違っている。
 多寡が普通に ”前に歩く” という行為なのに、何故これほどの違いが出るのか。

「さて、どうだったかね──────────?」

 壁ぎわまで歩いて振り向くと、王老師が訊ねた。

「驚きました。ぼくの歩き方は左右に大きくブレているし、上下にも動いて頭がピョンピョン飛び出してしまいます」

「何故そうなるか、分かるかね?」

「ぼくの軸がブレているのだと思います」

「では、君の軸はどうしてブレてしまうのだろう?」

「それは・・・うーん・・・・・・」

 呻(うな)ったまま、しばらく腕を組んで考えていたが、

「・・そう、人間は、もともと真っ直ぐ歩ける構造ではないからだ、と思います!!」

 やがてキッパリと、自信たっぷりの顔で、宏隆がそう答えた。

「ほう・・それは、どういうことかね?」

「人間の足は体の真ん中にではなく、左右に付いています。足の付け根である大腿骨の上端は、骨盤の左右に大きく離れて付いています・・・ですから、そもそも人間が真っ直ぐに、一直線に歩けるワケがありません!!」

「では、陳はどうして君よりも真っ直ぐに、あまりブレずに歩けるのだろう?」

「それは、きっと陳師兄が、特別な歩き方を修得しているからなのだと思います」

「太極拳には、特別な歩き方など存在しない──────────────」

「で、でも・・・」

「太極拳は特別な武術ではないし、特別な構造など何も無い────────────
 そう言ったのを、もう忘れたかね?」

「・・・は、はい、人間はすでに整っている、と王老師は仰いました。でも、どうして陳師兄があんなに真っ直ぐ歩けるのか・・・僕には、そこに特別な歩き方があるのだとしか思えませんでした」

「では、今度は私が歩いて見せよう。正面に立って、よく見ていなさい」

「はい!!」

 急いで向こう側の壁へと走って行き、王老師に真っ直ぐに向かい合って立つ。

「良いかね───────もう一度言うが、太極拳に ”特別な歩き方” があるわけではない。
 考え方を変えなさい。特別な歩き方を訓練するのではなく、"正しい在り方" を整えていくのだ。太極拳を修得するためには、先ず初めにそれが理解されなくてはならない」

 そう言いながら、もう王老師は歩き始めている。

「ああっ・・・す、すごい────────────!!」

 人間がこんなふうに歩くのを、宏隆は見たことがない。
 まるで水禽(みずとり)が水中の水かきの動きを見せずに静かに水面を移動するような、或いは何かがスーッと氷の上を滑ってくるような・・・或いはまた、列車が真っ直ぐな線路の上を一定の速度で向かって来るような、相対していれば距離感さえ狂わされてしまうような、そんな不思議な歩き方なのである。

 さっきの陳中尉の歩き方も、ほとんどブレがない歩き方だと思えたが、王老師の歩き方は、歩いている、歩いてこちらに向かって来る、などという認識を、見ている側から明確に持ちようがないほどなのである。

 けれども、かといって頭や肩がまったく揺れていないかと言えば、そうではない。
 それらの部位は普通に揺れてもいるし、何より身体が動いているのが見えるので、取り立ててそれを動かさないようにしているとか、故意にブレないようにしている、などといった操作や緊張などは微塵も感じられない。
 そして、頭や肩がごく自然に動いているにも拘わらず、肝心の軸はまったくブレることなく、真っ直ぐに移動してくるのだ。


「・・・さて、どうだったかね?」

 宏隆のところまで歩いて来た王老師が、にこりと笑って言う。

「こんな動きを、人がこんな風に歩くのを、ぼくは見たことがありません。
 どうしてそんな歩き方が出来るのでしょうか。とても不思議です」

「中心だよ───────足で歩くのではなく、中心が使われるのだ」

「中心・・・?」

「そう、人間には構造があり、その構造には中心がある。当たり前の話だがね」

「もしかして、それは ”中心軸” のことですか?」

「・・ほう、日本の武術ではそう言うのかね。私たちは ”上下一条線” と呼んでいるが」

「上下一条線・・・・初めて耳にします。それはどういう意味なのでしょう?」

「そう、それは──────────────
 例えば、職人が壁を造るときには、そこらの煉瓦のカケラに糸を結んで錘(おもり)にして、壁の上端に固定して下に垂らす。その糸で鉛直線を出して、それに沿って煉瓦を積んでいくのだ。そうすれば真っ直ぐ立った壁を造ることが出来る。
 人間も同じことだ。身体を一本の糸に吊り下げるように立てば、自ずと中心が生ずる。その、上下に一条に張られた線によって認識することの出来る ”中心” で歩くのだよ」

「ああ、とても分かり易いです・・!!」

「その、糸の上端を固定することが、要訣にある ”虚領頂勁(きょれいちょうけい)” の意味であり、糸にぶら下げた煉瓦のカケラは ”気沈丹田(きちんたんでん)” を意味している。上と下で張られた糸───────この二つの要訣をもって ”立身中正(りっしんちゅうせい)” の理解の目安とするのだ」

「虚領頂勁と気沈丹田によって、中心軸が出来ているのですね・・?」

「そのとおりだ。この二つの要訣が理解できなければ、太極拳は何も始まらない」

「王老師・・・虚領頂勁と気沈丹田の意味を、もっと詳しく教えて下さい」

「良いだろう──────────太極拳の学習を始めた頃に、姿勢について細かく注意を受けたはずだ。頭部を真っ直ぐに立てて、頭を低くしたり、俯いたり仰向いたり、左右に傾けたりしてはならない、頭部を真っ直ぐにするために顎を少し内側に収め、目は水平に前を見る、それによって頭部の表面的な姿勢の要求が守られる・・・などということを学んだわけだ」

「はい、そのように教えて頂きました」

「虚領頂勁と気沈丹田は、”中正” という身法を理解するための要訣だ。
 中正というのは、太極拳で最も重要な身法の概念だ。太極拳ではいつ如何なるときにも、この中正の身法を要求される。中正が修得されなければ、決して太極拳にはならない。
 今喩えた、糸に吊り下げた煉瓦で綺麗な垂直の壁が造られるように、人間の身体も、虚領頂勁と気沈丹田によって正中の、曲がらず、拗(ねじ)れず、偏りのない軸が出来上がる。
 虚領とは頭頂を、百会穴のところを虚(きょ)で領(ひ)くという意味であり、頂勁とは上に向かうチカラのことだ。
 虚領頂勁の要訣は、頭部の内側の勁をどのように用いるかを示している。それはすなわち、虚で上に領(ひ)く、ということだ。度が過ぎないように、力まないように、虚で領き上げるのだ。もし実(じつ)で領いてしまえば、足許が不安定になる。
 上虚下実(じょうきょかじつ)と言って、頂勁には虚が、気沈丹田には実が存在していなくてはならない。このような身法が完成することで、はじめて太極拳は武術として戦えるようになるのだ」

「立身中正こそが、正しい身体軸の有り様なのですね──────────」

「そのとおりだ。しかし、理屈を聞いて分かったような気になるのは容易いが、実際に立身中正を身体で理解するには大変な時間を要する。その為にはまず、正しい立つ位置を確立しなくてはならない。太極拳を始めとする内家拳が皆、站椿を重んじるのはそのためだ」

「先ずは、実際に散々立ってみなくては身体の構造は分からない、ということですね」

「そうだ。站椿で立つことに一体何の意味があるのか。それは自分でひたすら立ってみることによってしか見出せない」

「僕はきちんと站椿を練ってきたつもりで居ましたが、站椿のやり方自体に問題があったような気がします」

「たった今、理屈だけでは分からない、と言ったばかりだが──────────────
 本当の立ち方を修得するには、本当の理屈を教わる必要がある。
 そして、最も重要な ”立つ位置の秘密” は、君には未だ何も教えていない・・・」

「えっ、そんな秘密があるのですか?」

「正式に拝師入門式を済ませるまでは、それを教えることは出来ない。
 それは特別なことではなく、人間が遠の昔に忘れてしまった、身体の神秘だと言える」

「・・そ、それは、自分にも教えて頂けるのでしょうか?」

「教えるとも。君は吾々の後継ぎとして真の教育を受けていくのだ。その内容は、伝承者に選ばれた者だけが研鑽と研究のために与えられる、先人たちによって何百年も掛けて高められ、まとめ上げられた叡知なのだ」

「やはり、秘伝というものがあるのですね──────────────」

「如何なる伝承も、真の伝承は必ず秘密裡に行われなくてはならない。
 もし伝承者以外に、その他大勢の立場の人に広くそれを伝えたら、正しい伝承は後世には全く残らなくなってしまう。それを正しく守り、正しく発展させていくことの出来る、選ばれた人だけが、その伝承を授かる資格があるのだ」

「はい、とても気が引き締まる思いです」

「それは途轍もない叡知だ。君の立ち方や歩き方は、それを知識として得るだけで、その瞬間から何もかも変容してしまうことだろう」

「そんなことが・・・・・・・」

「いちばん初めに君が理解しなくてはならないのは、立つ際の身体の正しい在り方・・・つまり、”順身(shun shen)” ということだ」

「順身──────────────?」



                               (つづく)



  *次回、連載小説「龍の道」 第70回の掲載は、8月1日(月)の予定です

taka_kasuga at 23:47コメント(9)連載小説:龍の道 | *第61回 〜 第70回 

コメント一覧

1. Posted by ゆうごなおや   2011年07月27日 21:54
今回も楽しく読ませて頂きました。

そうです、この歩き方なんですよね。
師父と散手の稽古でいつも壁際に追い込まれてしまい、無理に飛び込んでも、パンチは空を切り、キックは足さえ上がらず崩されてしまいます。

ブレない歩き方。一つの道から外れない歩き方。
師父がよく言われるような、「太極拳の道から外れないで歩んで行くこと」が果たして自分は出来ているのだろうか?いつも不安に思い、考え込んでしまいます。今はやるしかない!とは分かっているのですが…
 
2. Posted by 太郎冠者   2011年07月28日 21:07
コメントをご無沙汰してしまいました。

うぅむ・・・。小説としてのみならず、太極拳のテキストみたいになってきてますね。
果たしてこれ、師父の許可は出ているのでしょうか?(笑)

>”順身(shun shen)”
稽古の中でも、だんだんと濃い内容で教わっています。
不思議な話ですがやればやるほど、それが人間本来の、普通の状態なのだと感じます。

まぁ、実際のところ家に帰っても何をしてても、うんうんと悩み続ける毎日ですけども(笑)
 
3. Posted by まっつ   2011年07月29日 00:55
>真っ直ぐに移動してくるのだ────────────

常の稽古で示して頂く師父の歩行を、前方から拝見する機会がありましたが、
歩いているというより、ただ師父の輪郭が大きくなるようにしか見えず、
まるで影絵がズームアップしてくるような印象でした。
距離も、時間も、意図さえも測り難く、
戦闘で対したら相手はさぞかし嫌だろうなと思いました。
(実際に・・・とても困りました!)

上下にも左右にもブレない軸、
自らで再現しようとすると軸をブレさせない事になりがちで、
その為に動けなくなってしまいます。

>人間として立つ位置は初めから決まっている────────────

それこそが鍵であり、答えであるのでしょうけど・・・
うーむ、難しいです・・・
 
4. Posted by 春日敬之   2011年07月29日 15:33
☆ゆうごなおやさん

>散手の稽古でいつも壁際に追い込まれてしまい、
>無理に飛び込んでもパンチは空を切り、キックは足さえ上がらず崩されてしまいます。

自分を想い出しても懐かしいです。ヨソから来た人の誰もが経験することで、
それが吾々のような、他の武道をある程度自信を持ってこなしてきた人間であるほど、
此処で経験させられるショックは大きいものになりますよね。
まあ、武藝館では「回し蹴りをどう躱すか」ではなく、
回し蹴りをそもそもヒットさせない、いや、蹴りに行くその足さえ上げさせない、
というところの稽古を、1年に2,000時間もやっているのですから。

もっとも、門の外から見ていても、入門して師父と相対さなければこんな事は全く信じられず、
インチキか、はたまたアヤシイ気の武術、などと思えるだけなのでしょうが・・・(笑)

・・・ですから、

>果たして自分は出来ているのだろうか?
>いつも不安に思い、考え込んでしまいます。

歩き方ひとつを取っても、そう思われるのも無理はありません。
この物語が、何らかの練拳のお役に立てて頂けるなら、とても幸せに思います。
 
5. Posted by 春日敬之   2011年07月29日 15:45
☆太郎冠者さん

>果たしてこれ、師父の許可は出ているのでしょうか?

うーん・・・出ている、と言えば出ている・・・かなぁ・・・
シカシ、事務局長さんからは何度もイエローカードを出されるし、
実際に玄花后嗣からは内容変更についてのご指導も頂きましたし、
だから、たくさん書いても、直される方が多いんですよ、ホント・・・ひいっ(涙)

>うんうんと悩み続ける毎日

わはは、「若きタローカジャのナヤミ」、結構なことじゃないスか。
そも、「青年は荒野を目指す」ものですし、
ソックラテスもプラトンも、「♪み〜んな悩んで大きくなった」・・ンだし、
悩めば悩むほど、「オッキイわぁ、オーモノよぉ♪」・・ってコトに。(笑)

・・え?、分からない?
ま、ちょっと古いので、またグーグル先生サマに訊いて下さい。
で、今度いっしょに歌いましょう。

「♪オレも、オマエも、大物だぁ〜っ!!」
 
6. Posted by 春日敬之   2011年07月29日 15:56
☆まっつさん

>影絵がズームアップしてくるような・・・

フツーは、人間は股関節が左右に離れて付いているのだから、真っ直ぐには歩けない、
どうやってもジグザグにしか歩けない・・・と宏隆くんのように考えてしまいます。
だから、実際に師匠が真っ直ぐ歩いているのを見ると、これはもう、異様にしか見えない。
「人間は真っ直ぐに歩けないんじゃなくて、真っ直ぐに歩けるコトを忘れてしまったのダ」
と、師匠に言われてからは、オイも随分稽古したトでス。

>それこそが鍵であり、答えであるのでしょうけど・・・

ガートルード・スタインが死にかけていた時、別れを告げに集まっていた人たちに、
「What is the answer・・?」
と問い掛け、意味が分からず困惑している人々に、さらに
「What is the question・・?」
と、禅問答のような言葉を遺してこの世を去ったという、有名な話を思い出しました。(笑)

もっと分かり易いところでは、高名な経営学者であるピーター・ドラッカーが、
「正しい答えは何か」ではなく、「正しい問いは何か」を求めなければならない、
と言っておりましたですね。

ソレは鍵であり、ソレは答えである、というとき、
ソレに対して吾々が出来るコトとは、何か────────────?
 
7. Posted by とび猿   2011年07月30日 13:26
赤ちゃんの動きは、とても面白いですね。
先日、生後3ヶ月位の赤ちゃんが寝返りを打とうとするところを見ました。
まだスムーズにはいかず、やっと寝返りができ始めた状態の子です。
腕力や蹴りなど使わず(使えず)身体を目一杯使い、
その様子は、まるで武藝館の稽古のようでした。
その子も、今、その瞬間も、立つことを学んでいるいるのだと思うと、
微笑ましく思うと共に、その一挙手一投足に興味を引かれました。
 
8. Posted by 春日敬之   2011年08月01日 16:36
☆とび猿さん

>赤ちゃんの動きは、とても面白いですね

ホントに、とても興味深いです。
なぜ私たちは自分が立ち始め、歩き始めたときのことを忘れてしまっているのでしょうか。
そして、現代人よりは昭和初期の生まれの人の方が、昭和初期よりは明治の人の方が、
明治人よりは鎌倉時代の人の方が、立つ位置がより構造的に正しく、赤ちゃんに近かった
のではないか、などと思います。

>その様子は、まるで武藝館の稽古のようでした

武藝館では、拙力は丸っきり否定されますからね。
力まない、膝を抜かない、落下しない、落下を推進にも変えない、
蹴らない、踏まない、捻らない、拗らない・・・・
ひたすら身体の構造だけを使って────────────

うーん、誰もが赤ちゃんだった頃があるわけですが、
生まれて一年ほどの赤ちゃんに負けてはいられませんね。
きちんと、立ち上がることが出来なくては。(笑)
 
9. Posted by bamboo   2011年08月06日 00:03
2児の父です・・仰向けに寝ている息子の動きを見切れないことが多々あるのは、
そういうことが原因だったのでしょうか。
猫や犬でも同じような目に遭ったことがありましたが(猫パンチが避けられないなど)、
どうやら彼らの方が構造を使えていたようです・・。

考えてみれば、眼や拙力を用いて避けようとするために自分が大きく速く動くことが必要で、
そのために崩れ、疲れ、思わぬ怪我をする羽目になるのは当然の理ですね。

それにしても、要訣って心底大切なのですね・・。
ここまで具体的だと、巷の神秘的なイメージとはかなり異なる、しかし壮大な印象を受けます。
 

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