2011年07月06日

連載小説「龍の道」 第68回




第68回 構 造(3)


「何故こんなにも足を軽く使えるのか、ぼくは不思議でなりません。
 ただ、その軽さを生んでいるものこそが、”正しい位置” なのではないかと思うのです」

「そう、正にそのとおりだが────────────」

 王老師は宏隆の感性の鋭さに感心したが、それを表情には出さず、続けて説明した。

「忽雷架を君に見せたのは、それが小架式の内容をよく表しているからだ」

「小架式?・・・忽雷架も、私たちと同じ小架式なのですか?」

「そうだ。小架式の伝承を正しく受けた人間が、他にやることは何も無い。
 陳清萍(ちんせいべい)は小架式を四つの練法に分けて、代理架、忽雷架、騰梛架、領落架という架式に創りあげ、各々の架式を和兆元、李景延、李作智、任長春という四人の弟子に託して後世に遺したのだ」

「でも、どうして、わざわざそんな事をしたのでしょう──────────?」

「陳氏の小架式が、それほどの偉大な内容を持っていたからだよ。今日では老架式が陳氏太極拳の大元だと考えられているが、内容的に見ても陳氏の真骨頂は小架式にある。
 陳清萍は叔父に小架式を学んでいるうちに、その高度な内容を正しく後世に遺すためには、もっと分かり易い練習法を工夫する必要があると思ったのかもしれない。
 小架式は非常に密度の濃い内容を持っている。その途轍もなく緻密な内容を、十三勢というひとつの架式だけに頼って次の代に遺していくには、大いに不安があったのだろう」

「つまり、それら四つの架式は、小架式を展開して特徴ごとにまとめたものである、ということですか?」

「そのとおりだ。逆に言えば、その四つの架式の内容をひとつに纏めたものこそが、陳清萍が学んだ小架式であるということになる。小架式自体を遺していくためには陳復元や陳鑫など、陳有本の直系の人たちが陳家溝に存在していた。趙堡鎮を本拠にしていた陳清萍は小架式のシステムを四つの主要なものに分け、敢えてそれぞれ別の伝承系統を作っておくことで、小架式の真の内容が後世の人間にも解いていけるようにすることが自分の使命だと思ったに違いない」

「すごい!・・・・何て頭の良い人なのでしょう!!、学んだ小架式を練り上げるだけでも大変なことなのに、その内容を分析して四つの架式にまとめるなんて─────────そこまで出来るのは、本当に陳清萍は天才だと思います。王老師・・他の三つの架式も、僕に見せて頂けませんか!?」

「ははは・・・概要だけならやってやれないこともないが、私たちにとっては、それは飽くまでも参考にすべきものだ。それに、吾々の学習体系には既にそれらの架式の特長がたっぷりと入っている。なにせ、私の師爺(Shi-ye=師の師)は、陳清萍に直接学んだ弟子だったのだからね」

「ええっ!・・・で、では、私たちの太極拳は、陳清萍さんの系統も受け継いでいると?」

「そうだよ。だから陳に忽雷架をやらせて見せたのだ。陳が忽雷架を演じられるのは、小架式を正しく学んで、その内容を理解しているからこそ出来ることなのだ」

「ああ・・す、すごい────────本当に、これは凄いことです!」

「ヒロタカ─────陳清萍さんはとても魅力的で、私も歴史や套路の中身を教えて頂くうちにあっという間に虜になってしまったけれど、先ずは站椿が理解できなくてはね」

 陳中尉が、笑顔で宏隆に言った。

「あ、はい。王老師、その站椿ですが──────────」

「站椿が、どうかしたかね?」

「はい、今の站椿を拝見して、ただの思い付きに過ぎないのですが、半馬歩というのは馬歩の半分、つまり ”半身(はんみ)” の片側を示している、ということなのでしょうか?」

「ほう──────────────」

 思いがけない宏隆の言葉に、王老師は思わず陳中尉と顔を見合わせた。

「ヒロタカ、まだ正馬歩しか教わっていないのに、よくそんなことまで考えられたね」

 陳中尉がちょっと驚いたような顔をして訊ねる。

「はい、王老師の半馬歩の、その ”高さ” が理解できれば、その両側を用いている ”正馬歩” も分かってくるのではないかと思えたのです」

「よろしい・・・さっきは忽雷架に脱線してしまったが、半馬歩の站椿に戻ろう」

「はい、お願いします!」

「まず足先を閉じて立つ────────────この時、すでに正しい位置でなければ、そこから先は、何をどれほど工夫しようと、站椿にはならない」

「しかし、その立って居る位置が正しいかどうかは、いったいどのように判断すれば良いのでしょうか?」

「ふむ、そう言いたくなるのも無理はないな・・・
 君は、手のひらの上に、箒(ほうき)を逆さまに立てたことがあるかね?」

「あります。子供の頃からよく、そうして遊んでいました」

「ならば話が早い、そのホウキのように立つのだ」

「え・・・?」

「手のひらの上の、逆さまにしたホウキだ。站椿とは、そのように立つのだよ」

「手のひらの上に・・・立てたホウキ・・・ですか?」

「そうだ、別にホウキでなくとも、何でも良いがね」

「うーん・・・・・・」

「陳よ、其処いらにある、棍か何かを持ってきなさい」

「はい、ただいま───────」

 陳中尉が走って、壁ぎわに立てかけてあった六尺の棍を取ってくる。

「師父、これでよろしいでしょうか?」

「うむ───────さあ、これを手のひらの上に立ててごらん」

「・・・こうですか?、こんな事くらい、小学生でもやれますよ」

 その六尺の棍をピンと張った手のひらに立てて、棒が倒れないように、手足を忙(せわ)しく動かしてバランスを取りながら、宏隆が答える。

「そう、とりあえず棍は倒れずに立ってはいるが──────────しかし、そうしている君自身は、及び腰で忙しそうに動き回っていて、決して武術的に正しく立てて居るとは言い難いだろう?」

「あ・・・・・」

 そう言われて、宏隆はようやく自分の姿に気付き、すぐにそれを止めて棍を下ろした。

「だから、そのように絶えずフラフラと歩いていなくては、棍を立てて保持できない」

「はい、そのとおりです。棍を立てていることにばかり夢中で、自分の身体がどのようになっているか、全く気づきませんでした」

「その棍のように───────まるで棍自体が何の支えもなく立っているように、自分を立てて、其処に立つのだ」

「は、はい・・・・」

 手のひらの上にホウキを立てることなど、誰にでも造作なく出来ることだが、それが自分の身体の在り方と深く関わっているとは、到底考えが及ばなかった。ましてや武術的に重要な立ち方の要点がそこにあるなどとは、思いもよらなかったのである。

 しかし、何度やっても、棍を立てておこうとすればするほど、自分は不格好にならざるを得ないし、とても站椿で立つ正しい位置を探すことなど出来ないのである。

「陳よ、ちょっとお前がやって見せなさい」

「はい────────────」

 陳中尉が宏隆から棍を受け取って、すぐにヒョイと手のひらに載せて立てる。
 しかし、足がフラフラしないどころではない。棍を載せている手もほとんど動かない。

「ふむ・・・ただじっとしているだけでは面白くない、飛んだり回ったりしてごらん」

 さらに輪を掛けるように王老師がそう命じると、中尉は棍を手のひらに立てたまま、その場でピョンピョンと飛び跳ね始めた。しかし手のひらの棍は一向にバランスを崩す気配がない。陳中尉はさらに、スキップをしながら訓練場の中を軽やかに走り回り始めた。

「うわぁ・・・すごい・・・・」

「君も、あんな風にやってみるかね?」

「はい、やってみます!」

 見ている分には、中尉がいとも簡単にやっているように見えるので、つい自分も出来そうな気になる。
 さっそく陳中尉から棍を受け取って、まずは手のひらに立てた棍を倒さないように、その場でそっと小さなジャンプをし始めるが、すぐに棍がフラフラと倒れそうになるので、とてもリズミカルには飛んでいられず、ヨタヨタしてしまう。

「ヒロタカ、もっと大きく飛んで──────────!!」

 陳中尉が声を掛ける。

「は、はい──────────」

 そう言われて、より大きくジャンプしようとすると、棍が手のひらの上から飛び上がりそうになるし、何より棍を倒さずに保っていること自体がまったく困難になってくる。

「ほら、頑張って・・・今度はスキップで走ってごらん!!」

「あ、はい・・・・」

 その場で飛び上がることさえ、この始末なのである。
 スキップで走ればどうなるか、分かりきったことであったが、

「うわ・・わわわっ・・・だっ、ダメだぁ──────────!!」

「ハハハハハ・・・・・」

 必死の形相で走り回っては、棍を派手に落とす宏隆の恰好のあまりの可笑しさに、王老師と陳中尉が顔を見合わせて笑う。

「ハア、ハア・・・・駄目です、陳師兄は、よくあんなことが出来ますね・・・」

 息を切らせて帰って来た宏隆が、不思議そうに訊ねる。

「ははは・・・えらい目に遭いましたね。でも、あれくらいのことが出来なくては、これからの訓練には、とても付いて来られませんよ」

「でも、どうやったら、あんなことが出来るんでしょうか?」

「要は、立つ位置です。まずは正しい位置で立って、自分が手のひらの棍と一体にならないと、なかなか難しいでしょうね」

「あの・・・つまり、ぼくの位置は全くなっていない、ということですよね?」

「まあ、そういうことになりますか・・・・」

「うーん・・・・」

「さて、立つ位置がまるでなっていない事が分かったようだから、站椿に戻るとしよう。
 私のやるとおりに、真似てごらん」

 王老師はふたたび、両足を閉じて真っ直ぐその場に立った。

「先ほども言ったが、全ての架式の整備は、こうして真っ直ぐに立つことから始まっている。ただ足を揃えて閉じて、自分で真っ直ぐ立っているつもりになっても駄目なのだ。これには正しい位置があり、正しい構造が理論として存在している・・・分かるかね?」

「はい・・・」

「ここで最も重要なことは、重心(Center of Gravity)が何処にあるか、ということだ」

「重心、ですか──────────」

「質量の中心(Center of Mass)と言った方が、より分かり易いかも知れない」

「質量がそこに集中している、と見なせる中心点のことですね?」

「そうだ。物理学が得意なのかね・・・?」

「いいえ、まったく不得意ですが、台湾に来る前に、ちょうど重心のテストがあったので、偶々(たまたま)憶えていただけです・・・」

「これからは、学校の物理ではなく、自分自身の肉体の物理を嫌というほど勉強することになる。正しく立つためには、物理としてそれを理解しようとすることも大切だ」

「はい」

「質量の中心を自分の身体に探すのは大変なことだ。物は吊り下げればその線上に重心位置を求めることが出来るが、人間は吊り下げるわけにはいかないし、重心点が分かったとしても、実際にそれを感知して使うことが出来るわけでもない」

「・・では、なぜ重心が、質量中心が何処にあるかが重要なのですか?」

「武術では、太極拳では、その位置があらかじめ決められているからだ」

「え、ええっ・・・!!」



                               (つづく)



  *次回、連載小説「龍の道」 第69回の掲載は、7月20日(水)の予定です

taka_kasuga at 23:43コメント(6)連載小説:龍の道 | *第61回 〜 第70回 

コメント一覧

1. Posted by まっつ   2011年07月08日 09:40
手のひらの上の棍のように立つのだ・・・とは、
日々の稽古でも度々ご指導頂く概念ですが、
特に初心の頃にはよく「それで戦えるのだろうか?」と、
悩ましい思いを抱いて稽古に臨んでいました。

兎にも角にもそのように念じて站椿に向かいますが、
時を経るに程に身体は固まり、足腰は居着きがちになってしまいます。
四肢に走る緊張を解こうと調整は試みるのですが、
あちらを立てればこちらが立たずの状態を抜け難く、
苦心惨憺としていました(トホホ・・・)。
「位置」を合わせる事だと、繰り返しご指摘を頂きますが、
それが「何」かを捉える事が出来ず、
身体に矯正を強いるほど緊張はいや増すようでした・・・

今思えば、身体をナントカしようと「する」ことが、
そもそも手の平の上の棍で「ある」こととは違いました。
棍は緊張していません。軸を保てば立ち続けるし、傾けば倒れる。
でも自分は傾けば倒れるように立っているのでしょうか・・・?
いいえ、断じて否でした。
何に対しても倒れる事を強く否定していました。

そうか、自分の強さをほどかないといけないのか・・・!
太極拳はそんな自分の性質から観直す事を求めていて、
これまでにない覚悟が必要なのだとようやく気が付きました。
次元の違う難しさに戸惑ってばかりではありますが、
なんとかこの道の先に進んでいきたいと思います。
 
2. Posted by とび猿   2011年07月09日 13:35
>それら四つの架式は、小架式を展開して特徴ごとにまとめたものである

>逆に言えば、その四つの架式の内容をひとつに纏めたものこそが、
  陳清萍が学んだ小架式であるということになる

これは凄いことですね。
この4つの架式だけでなく、一つ一つの練功も、太極拳を理解していけるよに、
物事を一旦丁寧に展開して示し、太極拳を学ぶ者を理解へ導いているように感じます。
たとえほんの少しでも、その繋がりが見えると、その凄さと面白さに興奮と感動を覚えます。
 
3. Posted by ゆうごなおや   2011年07月09日 15:01
いつも楽しみながら勉強させて頂いております。

ヒロタカ君の質問や「うーん...」と悩むところ。
毎回の稽古で自分が直面している事だなぁとニヤけてしまいました。
と言っても自分とヒロタカ君ではレベルがまるで違いますが。

まだまだ立つ位置すらままならず、一歩踏み出すことも出来ませんが、
とにかく今はやるだけです。

どこかの歌手が歌ってましたね。
♪やるなら今しかねぇ!やるなら今しかねぇ!66のオヤジの口癖は やるなら今しかねぇ♪
 
4. Posted by 春日敬之   2011年07月15日 15:00
☆まっつさん

>特に初心の頃にはよく「それで戦えるのだろうか」と・・・

格闘技出身の人は、ほぼ例外なくそう考えるようですね。
しかし、そんな皆さんは年齢を重ねても実戦として通用する武術や、敵が武器を持っていたり、
複数であっても難なく対処できる技術を学びたくて、ウチに入門して来るわけです。
彼らがやっていた格闘技ではどうにもそれらが不可能で、武藝館の噂を聞いたり、
ホームページの内容に興味を持ったり、見学に来てその事実を目の当たりにし、
入門して実際に師父や先輩門人たちと手を交えて、それが紛れもない真実であることを
イヤというほど身体で直に体験させられるわけです。

そしてその極意、つまり武藝館で説かれる「武術」の核心が、
強く力むことや、素早く動けること、技法の多彩な展開の仕方などにではなく、
ただ立つことに、己の心身の在り様に、己の考え方を変えることにあるのだと教わり、
一体何のことなのか全くワケが分からず、永々と暗中模索の日々が続くわけです。

しかし、その教えを否定せず、その考え方と根気よく関わることをあきらめず、
自分が学んできた内容を捨て、傲慢さを捨て、新しい価値の次元を見ることを希求し、
手っ取り早そうな外面の見栄えや即席の功夫よりも、内奥に秘められた真の宝を探求しようと
する人であれば、やがて時を経て、

>そうか、自分の強さをほどかないといけないのか・・・!

などといったコトに、ようやく気が付き始めるわけです。

「すること=doing」と「あること=being」の違いや、
手のひらの上の棍や、生卵の割れないようなチカラ、といった先人が示す要点を
実際に感じながら稽古していけることは、非常に幸せなことだと思います。
 
5. Posted by 春日敬之   2011年07月15日 15:22
☆とび猿さん

陳清萍の四つの架式が小架そのものであると言える人は中々斯界に存在しないと思います。
本当に小架の原理を知る人だけが言える、非常に重要な意味を持つ言葉ですね。
一人一太極、百人百太極、などという言葉は、何でも勝手気儘にやって良いと言う意味では決してないはずです。套路を現代風にアレンジした、真の原理原則から外れた太極拳が我が物顔で闊歩している時代に、真実の伝承を後世に正しく遺していく使命は非常に大きいと思います。
 
6. Posted by 春日敬之   2011年07月15日 15:33
☆ゆうごなおやさん

いつも拙稿をご愛読頂き、ありがとうございます。

>まだまだ立ち位置すらままならず・・・

ゆうごなおやさんが入門してどのくらい経つのかは存じませんが、
円山洋玄師父は、練拳40年にもなる現在もなお、
「立つ位置は果たして此処で良いのか、もっとこう出来るのではないのか・・・」
と、ひたすら修正に継ぐ修正に励んでおられ、稽古とは反省と精進を繰り返すことであると
口癖のように言われます。
きっと師父も、立つ位置がまったく儘ならずに苦しみ抜き、目前に高い壁が立ちはだかり、
そこから一歩も踏み出せない日々が続いた経験がたくさんあったに違いありません。

私たちに出来ることは、門人として、後輩として、
この道を志す修行者として、誠実に稽古に臨み、精一杯励むことだけです。
そう、やっぱり、「♪やるなら今しかねぇ!!」・・・ですね。
 

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