2011年06月17日

練拳Diary#40 「推手について」その3

                       by 教練  円山 玄花



 私たちが対練の稽古を行うとき、繰り返し指導を受けることのひとつに、
 「もっと手を使わないこと。武術とは本来、相手に触れたくないのだ」ということがあります。なぜ ”触れたくない稽古” をするのかと言えば、ひとつには、太極拳が武器による戦闘を前提としているために、武器に対しても有効な身体の状態を練っているからです。

 相手がナイフを持っている。脇差しを持っている。日本刀を持っている・・・。
 それらを目の前にしたとき、誰も真っ先に ”真剣白刃取り” をシンケンに思い浮かべたりはしないと思います。「近寄りたくない」、それが本音ではないでしょうか。

 実際に、相手が刃物を持っているという、決して好ましくない状況に居合わせたとき、刃物を持つ相手の手を払うとか、掴むとか、隙を見て相手の懐に入るとか、第一撃目をかわしてから仕留める、というような、例えばそのような発想の持ち方では、とても間に合いません。
 特に「触れてから」という考え方を基本として持っていると、それだけで一動作も二動作も遅れてしまいます。自分が相手を不意に掴んでしまえば、居着いて動けなくなるのは、実は自分の方なのです。もし相手が ”居着き” の少ない、掴まれても動けるような人であれば、その人の手を掴んだところで、一体何ができるというのでしょうか。

 高度な武術では、武器をどうしたらよいかではなく、武器を持つ相手そのものをどうしたらよいか、という考え方をしますから、当然触れに行かないという、”触れたくない稽古” になるわけです。触れられてしまってからでは遅いのです。それが刃物であれば既に斬られていることを意味しますし、触れられるまで、斬られるまで、相手を自由にさせておくことそれ自体が非武術的であると言えます。

 もうひとつは「拙力を使わないため」です。言い換えると、拙力を使えなくするために、 ”触れたくない” という考え方が必要になってきます。
 たとえば、お互いに向かいあって足を肩幅に開いて立ち、両手の平を合わせて崩し合うという「グラウンディング」と呼ばれる対練では、初めのうちは必ずと言っていいほど前傾して相手に寄り掛かる状態が見られます。
 「相手を少しでも動かしたい」と思えば思うほど、自分の身体は前傾し、手のひらの感触は強くなる・・・と、そうなると、後はエイヤッと寄り掛かりと落下の力を使って相手を押すしかなくなってしまうのです。これでは、立身中正も何もありません。もちろんそこには勁力の体験や理解など、何ひとつ生じるはずがないのです。
 触れたところに寄り掛かりたくなってしまうのが人間の性質なのかどうかは分かりませんが、ハイハイをしていた全ての赤ちゃんに「立つこと」の課題が与えられたように、既に立ち上がったはずの私たちにも、いまだに「立つこと」の課題が与えられ続けていると思えてなりません。

 私たちの稽古に、実際に「触れたくない稽古」というものが用意されているわけではないのですが、なぜここまで ”触れたくない” ことについて述べてきたかと言いますと、太極拳では、この、相手にできるだけ触れたくないという考え方が、「相手に触れずに崩す」ことを可能にするからなのです。

 普段の生活では、身の回りの物を動かそうとするのに、その物に触れないわけにはいきません。それを触れずに動かせるようなら、話は勁力ではなくて、超能力にした方が良さそうです。
 ところが、触れていないのに動かされる、ということが、実際にはあるのです。
 たとえば、階段を下りているとき。トントントン、と、テンポ良く下りているその途中で、一段欠けていたらどうなるでしょうか。あると思った段が実はなくなっていて、その次の段にまで足が伸びてしまったとしたら。おそらく派手に転んでしまうか、身体が一瞬ビクッと反応して大きな緊張を強いられることでしょう。
 あるいは、暗い山路を走行中に、目の前にいきなりタヌキの親子が飛び出してきた・・・なんていう時には、やっぱり急ブレーキか急ハンドルを切らざるを得ません。
 何れの場合も「思いもかけなかったこと」によって、自分のそれまでの行為を継続することが出来ずに、自分側を変える必要があったということです。

 ここで「肩取り」という対練(註:練拳Diary #1 / 2009.1.2 掲載)を考えてみますと、自分が相手の肩を取りに行ったとき、それまで取れると見えていた相手の身体が変わって、この間合い、この関係性では取れない、という状況が生じたとき、そこに入ってこられると自分側を変えるしかなくなり、結果として自分を保つことができずに動かされて(崩されて)しまうわけです。
 木製のスティックを用いた稽古ですと、そのことがより分かり易くなります。
 お互いに数メートルほど離れて立ち、長さ30センチほどのスティックで袈裟懸けに斬り合いに行くだけの対練ですが、これだと、どちらが ”斬れる身体” であるかが双方認識しやすく、斬られてしまう側、つまり身体や軸がまだ整っていない方が、それ以上歩を進めることが出来ない状態になって、そこを斬ってこられると崩れてしまうのです。

 ───────余談ですが、このスティックを用いた稽古では、各々の間合いが普段よりも広くなっていることに驚きます。例えば先述の「肩取り」に比べて、2〜3歩分は間合いを広く取ろうとしているのです。さらには動きまでが変わり、感覚もより鋭くなってくるのですから、不思議なものです。
 わずか30センチの棒きれ一本に、普段とは違った危機感を感じられるとしたら、いったい私たちはどれほど平和で生温い生活を送っていることになるのでしょうか。
 

 さて、先ほど「触れてから何かをしようとする考え方」では、自分の姿勢を崩し、拙力を生み出すようなものだと述べましたが、推手というのは「相手と触れていること」が条件です。
 最初の、構えた状態から触れているのです。しかも、足幅はしっかりとやや広めに取っていますから、少々の寄り掛かりは自分でも気がつきにくい状態だと言えます。そこで必要になるのが、生卵です。・・いえ、生卵が割れない程度の力で、推手を行う必要が出てくるのです。

 相手に触れれば寄り掛かりになる。即ち架式は崩れてしまいます。かといって、触れないようにしていては相手との関係性も見えず、ただフワフワと接している中で腕を回すしかありません。生卵が割れない程度の力で、なおかつ卵を落とさない状態でというのが、実に絶妙なところだと思います。つまり、もちろん寄り掛かることなく自分で立てていなければなりませんし、その中で相手とも関わり続けていなければならない、というわけです。

 何より、”生卵を割らない程度の力” で推手を行うことにより、この相手との関係性を練っていく練功において、初めから『四両撥千斤』の訓練になっていることが、すごいと思います。
 つまり、太極拳は最初から「勁力」の訓練しかしておらず、従って、太極拳の全ての練功は「拙力」を否定し、勁力を見出すためのものである、と言うことができます。

 たとえば、相手の手を逆手にとって崩し倒す、というものでも、相手の手首や肘関節に強いテンションが掛かって、その結果倒されるというものでは「拙力」です。
 反対に、非常に軽い力、つまり生卵が壊れない程度の力で優しく関わっても、相手が身体の中心から崩されて立っていられない、というものが正しい「勁力」であるはずです。
 因みに、その「勁力」が分かった人相手には、こちらがどれ程強い力で逆手を取ろうとしても、まったく掛かりません。掛からないどころか、掛けに行ったその瞬間に反対に返されてしまいます。もちろん、相手が瞬発力で返しているわけではなく、またこちらに強い力が返ってくるわけでもないのです。

 それでは、その推手でお互いに崩し合える、発勁出来る、「推手で発勁出来るのは当たり前」だと言われるのは、一体どういうことを意味しているのでしょうか。


                               (つづく)




 【 参考写真 】

    
    「肩取り」の稽古


          
          「スティック」を用いた稽古

xuanhua at 19:10コメント(10)練拳 Diary | *#31〜#40 

コメント一覧

1. Posted by ゆうごなおや   2011年06月18日 22:27
秋葉原のような暴漢が目の前に現れた時、「はたして自分はやれるのだろうか?」
この疑問を持ったことが、自分と太極武藝館との出会いとなりました。
「腕一本捨てればやれるかなぁ?いやまず前蹴りなら大丈夫かなぁ?」
まさに今回言われている「触れてから…」という発想しか出来なかった自分。
それを否定し、真の武術を身に付けようと稽古に参加させて頂いて早1年半。
まだまだ自分を確立させることも出来ず、相手との関係性も理解出来ず..
泣けてくる毎日ですが、この玄花さんの練拳Diaryをヒントに日々頑張りたいと思います。
 
2. Posted by 武 峰   2011年06月20日 22:11
>太極拳は最初から「勁力」の訓練しかしておらず、従って、太極拳の全ての練功は
>「拙力」を否定し、勁力を見出すためのものである、と言うことができます。

>非常に軽い力、つまり生卵が壊れない程度の力で優しく関わっても、相手が身体の中心から
>崩されて立っていられない、というものが正しい「勁力」であるはずです。

こんな当たり前のことさえ、斯界では中々表現する人が誰もいない。
そのことを書いた本も、それを実際に表現したり証明したりできる人もいない。
それは一体どうしてなのでしょうか・・・?

「生卵が割れないほどの力」で相手が著しく崩れて吹っ飛ぶのは太極拳では極めて当然のことというのに、現代の武術家が見せる勁力は、まるで拙力のように力んだものばかり目立ちます。
この六十年の間に太極拳が失ったものは、とても大きいものだと思います。

推手とは正に「このようであれば誰でも発勁出来る」という構造を示すものであって、
決して押し合いながら機をうかがって押し飛ばすものなどではありません。
本物の推手の原理を正しく現代に伝える太極武藝館と、玄花后嗣の今後の記事に大きく期待しております。
 
3. Posted by tetsu   2011年06月22日 22:58
この文章を読んでいて稽古の風景がありありと頭に浮かんできます。将に普段から注意されていること、自分自身で気をつけねばならないこと、師父が示されているのものにどれだけ自分が合わせられているかということ・・・等々大切なことが書かれていますね。
と同時にこういった稽古こそが「武術的な稽古」といえると益々実感してきています。
相手に触れて(接触して)から何キログラム、何十キログラムのチカラをかけ倒すという発想を持っていたら、刃物を持った相手、または多人数に囲まれたという状況下ではとても闘えないと思います。
「実戦」を前提とした稽古とはどのようにしていくのか?という内容が武藝館の稽古ですね。
 
4. Posted by 円山玄花   2011年06月23日 17:31
☆ゆうごなおや さん
>秋葉原のような暴漢・・
武術や格闘技を稽古している人であれば、誰でも「もし自分であれば・・」と考えたと思います。
咄嗟の、思いもかけなかった出来事に対して、自分はどのように臨めるのか。
そのようなことを考えていくと、やはり先日の稽古でも師父からお話のあった、
日々四六時中の自分の心がけ、日常生活の全てを稽古として練り続けるというその精神の軸が
重要であり、そうあってこそ平常心が養われるのだと思います。

>泣けてくる毎日・・
よ〜くわかります。(笑)
でも、泣けてくるぐらいでは、全然足りません。
泣いて、泣いて、もう涙も出なくなったその後に、ようやく何かが見えてくる、と私は思います。
今この瞬間の悩みも涙も、ひとつも無駄にはなりません。
すべてが”ゆうごなおや”さんの血となり肉となっているはずです。
この練拳Diaryでは、日々の稽古のほんの一端にしか触れることができませんが、
それでも、何かのお役に立てるのであれば、たいへん嬉しく思います。
 
5. Posted by 円山玄花   2011年06月23日 17:33
☆武 峰 さん
道場で稽古をしていると、徹底した日常性の否定、拙力の否定、自分の中に形成されている
武術性の否定がなければ、真の太極拳はこの身に修めることができない、と思えます。
つまり、それらのことが骨身にしみて痛感させられるような正しい学習体系がなければ、
勁力を理解することも難しいのだと思います。

幸運にも正しい伝承を受け継ぐ師父とのご縁を頂けた私たちは、
日々の稽古をゆめゆめ疎かにすることなく、また自律を怠ることなく、功夫を磨き続けていくことが使命であると感じております。
 
6. Posted by 円山玄花   2011年06月23日 17:36
☆Tetsuさん
毎回、どのような記事を書いていても思うのですが、たとえば推手について書いていても、
あるひとつのことを表現しようとしたときに、まず推手とは違う稽古の要素を先に説明する必要が出てきたりして、中々本題に入れないことがあります。
そのようなことに直面する度に、つくづく稽古は分かれた物ではなくひとつのことを表しているのだと思えてなりません。

>「実戦」を前提とした稽古・・
そうですね。それが、日常の考え方だと、「実戦を”想定”した稽古」になるのだと思います。
その違いには、毎回の稽古でいまだに感動させられています。(笑)
 
7. Posted by まっつ   2011年06月24日 06:26
初心の頃を思い起こせば、
”触れたくない稽古”とは、
先ずその指示が「何」であるかを理解する事が、
そもそもの難事でした・・・

自分の中にはその指示に該当する実感がありません・・・
でも、確かに師父には触れたくても触れられません・・・
常に、「何故」か、崩れてしまう・・・
でも何で?

そもそも自分が崩れる因果が分かりませんでしたし、
考えてみれば、見えないものは描けない、
分別できない物事は分からない事が道理です。
その「何か」を知りたい、感じたい、捉えたいと強く思いました・・・

・・・大層時間が掛かりましたが、
現在ではその「何か」が自分の内側にも在るのだと、
ようやく少しくは感じられるようになってきました(勘違いかもしれませんが!)。
今思えば、師父に散々に崩され、吹き飛ばされ、投げられ、打たれしたお陰だと思います。
物覚えの悪い人間なので、見せて頂いたまででは決して分からなかったと思います。
当に身体に覚えさせて頂いたのだと感謝しています。

推手の妙味は生卵にあり・・・
そんな謎も美味しく頂ける様になりたいと思いました!
 
8. Posted by 円山玄花   2011年06月27日 19:26
☆まっつさん
まっつさんにはもう分かることと思いますが、
”稽古”においては、指示されたことそのものを理解しようとする必要はなく、
その指示に該当する自分の実感を探す必要もなく、
ましてや自分が崩れる因果など、分かる必要はないのです。

それらのことは全て、”稽古”に全身全霊でただ飛び込むことによってのみ”生じる”ことです。
そして、何かを知りたい、感じたい、捉えたいという気持ちは、”稽古”に我が身ひとつで
飛び込むための、大いなるエネルギーになります。本当にそれを知りたい、身に付けたいと
心底思えた人だけが、飛び込むことができるというわけですね。

そこにあるのは一切の自己の否定。問われるのは、自分を捨てる覚悟であって、
難題(と思える問題)を自分なりに整理して解いていける頭の良さではないのです。
その「自分なり」こそが太極拳を理解する上での唯一の障害かも知れません。

ですから、師父に散々に崩され、吹き飛ばされ、投げられ、打たれたのは、
本当に良かったですね。
師父が日々示しておられる原理はひとつでも、その教え方はひとりひとり異なります。
それは、今そのときその人にとって最も必要な稽古をつけて下さるからです。
きっと、まっつさんにとっては、それが最も必要な、最も分かり易い稽古だったのでしょうね。
 
9. Posted by とび猿   2011年06月27日 23:37
太極武藝館で学んでいると、推手であろうと、散手や肩取り、站椿であろうと、
どのような練功も、全てが結びついていて、矛盾を感じません。
繋がりが見えないときは、自分の中に矛盾があったり、解決していない問題があるからなのだ
ということを、毎回の稽古でつくづく感じます。

全ての練功は、太極拳を理解し、練っていくためにあるように思います。
当然、相手が素手である、刃物を持っている、飛び道具である等、その時の状況によって、
こちらの状態が変わってくるものでもないし、相手と離れている、触れている、
組んでいるからといって、原理が変わるわけでもないと思います。

この様なことは、本来、当たり前のことなのだと思いますが、自分の視点が定まらないと、
おかしなことになってしまうように思います。
稽古中、たとえ小さなことでも、繋がりが見えたり、疑問が解決すると、
余りの凄さに感動を覚えます。
 
10. Posted by 円山玄花   2011年07月01日 02:18
☆とび猿さん
>・・当然、相手が素手である、刃物を持っている、飛び道具である等、その時の状況によって、
>こちらの状態が変わってくるものでもないし、相手と離れている、触れている、
>組んでいるからといって、原理が変わるわけでもないと思います。

その通りですね。
そしてそのことは、門人ひとりひとりがもっと重要なこととして受け取り、
学ぶ必要がある…と、私は思います。なぜなら、そこには太極拳を理解する為の、
大きなヒントがあると思えるからです。

私たちは、入門したその日から、
「太極拳の原理はひとつである」
「どのような練功も、ひとつのことを示している」・・ということを教えられています。
教えられていますが、しかし、それらのことは聞いただけでは分かりませんし、
どれ程分かったようなつもりになっていても、実感は湧いてきません。
そして、教わったことひとつひとつを、きちんと自分の身体で体験し、実感し、納得し、
ものにしていかないと、「自分の視点が定まらない」ということが起こります。

もの凄い原理を聞いただけでその気になることは誰にでもできますが、
それを自分の手に掴むまでには、たいへんな努力と精進が必要です。
その覚悟でもって稽古に臨んでいれば、毎回自分が新しく変化していけるのだと思います。
 

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