2011年06月08日

連載小説「龍の道」 第66回




第66回 構 造(1)


 ゆうべ、あんなに綺麗に星が夜空に瞬いていたのに、朝にはもう、今にも泣き出しそうな空模様になっている。

 宏隆は、新生南路の森林公園の中を、足早に歩いていた。
 昨夜、拝師入門式の後の祝賀会で、陳中尉と一緒に稽古をつけて頂くことを王老師にお願いすると、すぐに笑顔で快く応じて下さった。
 今朝はそのために、「白月園」の訓練場に向かっているのである。

 昨日とは打って変わって怪しい空模様になっていることが、今の自分にはむしろ好ましく思える。自分の若さが、有り余る元気や可能性ばかりではなく、反対にそれ故の甘さや至らなさを嫌というほど思い知らされている宏隆にしてみれば、これで清々しい晴れの天気でも続いたら、お天道様まで自分に味方していると、嬉しさの延長ですっかり良い気になってしまうかもしれない、と思えてくるのだった。

 雨が降り出す前の、少し蒸れ始めてきた公園を歩きながらそんな事を考えていると、傍らの樹の幹にじっとしている大きな毛虫がふと目に留まる。こんなグロテスクな虫が、あの美しい揚羽蝶にガラリと変容するのだと思うと、それが不思議でならない。
 この虫のように、どのような物事もやがては変容し、再びまた過ぎ去って行くのが世の常なのだろうか。

 そう思うと、自分が王老師と出会ったことや台湾に来たこと、北朝鮮の偽装船から襲撃を受けたり、拉致されて危ういところで救出されたことなどが、日常の世界から見ても決して有り得ないことではなく、すべては自分の生きる姿勢や、人生を歩む軸、己の学ぶべき事によって決定されているのかも知れない、と思える。

 刻(とき)は常に移ろい続けている。本当に、この世で永遠に続くものなど何ひとつ無いのだと改めて思えるし、そして、だからこそ、現在(いま)という刻が二度と還ってこないからこそ、人はこの時この瞬間を大切に、誠実に生きなくてはならないのだ。

 油断をしてはならない────────────
 襲ってくる敵にではない、何よりも先ず、己自身に対して油断を許しているような者に、高度な武藝の真髄など、どう足掻いても修得できるわけはないのである。
 気を引き締めて自分自身を観つづけ、己の在り方を自身の光で照らし続けることが出来なければ、王老師のような高みの境地には、いつまで経っても決して届くはずがないのだと、心の底からそう思える。


 すっかり歩き慣れた道で、すぐに瑞安街の『白月園洗衣店』の白い看板が見えてくる。 
 秘密結社の世間向けの顔としてつくられた洗濯屋ではあるが、実際の商売としても大小のホテルを顧客に持つ、台北でもよく知られたクリーニング店であり、大武號の廻漕業と同様に、玄洋會の大切な収入源でもあった。

 相変わらず、クリーニング店の朝は早い。
 いつもどおりの、大きな洗濯機や乾燥機が回っている音や、シューッというプレスの音、そのスチームに混じって鼻をつく独特の臭い────────────
 こんな店の地下に、秘密結社の訓練場があるなどとは、一体だれが想像できるだろうか。

 白月園の玄関に近づく前から、もう中の店員が宏隆の存在に気づいて、それとなく表の通りに注意を払っていたが、宏隆自身も尾行が無いことをじっくり確認してから店に入って行き、皆がにこやかに宏隆を迎えた。

「やあ、ヒロタカさん、昨日はおめでとうございました」

「おめでとうございます────────────」

「尾行を確認してから入店して来られるところなどは、もうすっかりウチの人間ですね」

「本当に─────拉致事件からは、さらに逞しくなられましたね」

 白月園の中で仕事をしている人たちが、仕事の手を休めては、思い思いに祝福の言葉を投げかけ、笑顔で迎えてくれる。
 もちろん、この店の従業員はひとり残らず、全員が結社の人間なのである。そして誰もが年下の新米メンバーである宏隆に一目を置き、尊敬さえしているような接し方をしていた。

「謝謝、シェシェ────────ありがとうございます、よろしくお願いします」

 一人ずつに丁寧にそう返して、少し照れながら店のカウンターや作業場を通り過ぎ、廊下を奧へ奧へと突っ切ると、やがて菩提樹が美しく繁った中庭に出る。

「クゥォォン・・・・」

「おお、阿南!!・・・あははは、こら、そんなに舐めるな・・・おい、久しぶりだなぁ、元気だったかい?」

「ワォン、ワォン・・・!!」

「うほほほほ・・・おい、コラ、よせったら!、そんなデカい図体で寄り掛かかられたら、倒れてしまうだろ────────」

 犬は自分と気が合う人間をよく知っている。
 阿南は宏隆がここに初めて訪れた時以来の、とても良い友達だった。

「ヒロタカさん、お帰りなさい」

「あ、明珠さん・・・ただいま帰りました!!」

 このクリーニング店の主人であり、女ながらに地下の秘密訓練場を護っている陳中尉の姉、陳明珠である。

「あらためて、この度は本当におめでとうございます。ゆうべは素晴らしいお式になって、本当に良かったですね」

「明珠さんにもご出席を頂いて、ありがとうございました。明珠さんに来て頂いて、とても嬉しかったです」

 明珠さんの、その滲み出る人柄の良さや品の良さに、宏隆はいつもホッとする。

「これでヒロタカさんも正式に私たちの家族ですわね、よろしくお願いします」

「こ、こちらこそ・・・これからも、どうぞよろしくお願い致します」

「さあ、皆さんが階下(した)でお待ちかねよ──────────」

「えっ?、ぼくの方がよっぽど早いと思ったのに・・・・」

 慌てて腕時計を見るが、指定された時間までには未だずいぶん間がある。

「あら、弟は今から一時間くらい前に、老師はその少し前から到着されていますよ。
 そうね、大体結社のメンバーは、いつも集合時間の45分くらい前には顔をそろえるわね」

「よ、45分前ですって?、うわわっ・・・たっ、大変だっ!!」

 待ち合わせの約束には五分前に、よその家を訪問する時にはかえって五分ほど遅れて行くのがマナーだと思っている宏隆にとっては、45分前というのは全くの常識外であった。
 まだ纏わり付いている阿南を慌てて放り出し、中庭を突っ切って ”総機室” のドアを開け、急いで地下の訓練場へと下りて行く。

 地下に続く石段は、相変わらず薄暗くて、ひんやりとした独特の空気が漂う。
 たとえもし此処を敵が襲ってくることがあったとしても、なかなか下まで降りていく勇気が出ないかも知れない。この秘密訓練場への長い石段は、いつ来ても、どんなに急いでいても、もう二度と地上に戻れないような、まるで何処か異界へと続く階段であるかのような、そんな感覚に襲われてしまう。


「・・やあ、ヒロタカ、ずいぶん早かったですね!」

「お早うございます、今日はよろしくお願いします。
 陳師兄こそ、ずいぶん早くから来られていたようですが────────────」

「いえいえ、王老師は、私よりもっと早く到着されていましたよ」

「はい、明珠さんにそう伺って、慌ててすっ飛んできました」

「約束の時間にはまだ早いから、慌てなくてもいいのに・・・・」

「いえ、明珠さんが此処では45分前が当たり前だと仰るので、王老師をお待たせしてはいけないと思って、とても焦って下りてきたのです」

「ははは、姉がそんなことを言いましたか・・・まあ、それは任務に就く者たちの習慣ですけどね。普段はそんなに早く来なくても大丈夫ですよ」

「そ、そうですか────────────」

 そう言われて少しホッとしながらも、王老師がどこに居るのか、気が気ではないが、

「老師はもう格闘訓練室で朝の稽古をされていますよ。ヒロタカが来るのを待っていてやりなさい、と老師に言われて、私はここで身体をほぐしていました────────────」

 気持ちを察するように、陳中尉が言う。

「そうでしたか・・・」

「まあ、汗でも拭いて、もう稽古着に着替えておくと良いですよ」

「はい」

 そんな話をしていると、

「おめでとう、ヒロタカくん────────────」

 不意に、誰かが後ろから声をかけた。

「あっ、強さん────────────!!」

 徐の兄貴分であった強が、いつの間にか後ろに来ていた。
 強と会うのは、あの事件以来、初めてである。

 こうして間近に強の顔を見ていると、ついこの間、壮絶な最期を遂げた徐のことを思い出さずにはいられない。宏隆の拉致を指揮した張本人であり、玄洋會に潜入したスパイだったとはいえ、同じ仲間としての時間を過ごした徐を、そう簡単に憎めるはずもない。
 そして、兄貴分として慕われ、弟分として徐を可愛がっていた強にとっては、それは尚更のことであった。

「ついに昨夜、王老師に正式に拝師したんだってね・・・・これでヒロタカくんも俺たちの仲間だ、おめでとう!!」

「ありがとうございます。それと、その節は自分の救出をして頂き、本当にありがとうございました」

「うん・・・・大変な目に遭いましたね、もう体調は元に戻りましたか?」

「はい、お陰さまで、三日もしたら元通りに回復してしまいました」

「ハハハ、それは良かった、やっぱり若さだね」

「強さん─────────徐さんのことですが・・・」

「いや・・・もうすべて、終わったことです」

「ヒロタカ────────────強はね、君が拉致された時に、徐のことを見抜けなかったのは兄貴分である自分の責任だから、自分がケジメをつける・・・たとえ北朝鮮に潜入してでも、必ずヒロタカを捜して取り返して来る、と言っていたんですよ」

 陳中尉が言った。

「だから最後に、強が自分で徐を撃ったのです───────」

「そうだったんですか・・・・」

「俺は今まで反日感情の塊だったけど、ヒロタカくんが徐に拉致されてから、日本人だろうが何だろうが、同じ志を持つ、同じ結社の仲間だという意識が強く芽生えてきたんです。
 そんな私情に左右されているから、徐の正体を見抜けなかった。兄貴、兄貴と慕われて良い気になっていたんですよ。今はとても反省しています。日本についても、もっと拘らずに、正しい歴史を勉強します。これまでの暴言を、どうか許して欲しい──────────」

「許すだなんて、そんな・・・・僕はただ、後輩として強さんにも色々教えて頂きたいと思うばかりです」

「ありがとう、ヒロタカくん」

 晴れ晴れとした顔で、強が宏隆に握手の手を差し出した。

「陳師兄、今度いつか、あの海に、お花を捧げに行きたいのですが」

「そうですね、私もちょうど、入門式が無事に終わったら、ヒロタカが台湾に居る間に、みんなで徐の弔いに出かけたいと考えていたところです」

「ありがとうございます」

「みんなで行ってもらえれば、きっと徐のヤツも喜びますよ────────────」

 目頭を熱くしながら、強もそう言う。

「そうだ、強さん・・・いつか僕に格闘の訓練を教えて下さい」

「おお、いいとも!、銃では君に負けてしまったけど、格闘ならドンと来いだ!!」

「おいおい、ヒロタカは宗少尉を倒してしまうほどのウデなんだぞ!」

「え?、そりゃ弱ったな、それじゃ俺の立場がまるで無い・・・」

 強が頭を掻きながら、笑ってそう言う。

「わはははは・・・・・」

「あははは・・・・・・・・」

「さて、ヒロタカ、そろそろ王老師のところへ行かなくては」

「はい────────強さん、では行ってきます!」

「おう、しっかり学んで来いよ、早く一緒に仕事が出来るようにな!!」

「はい、頑張ります───────────────!!」




 「戦闘訓練室」は、地下訓練場の一番奥に設けられている。
 この部屋は、射撃場のように入口が分厚い二重の防音ドアで仕切られてはおらず、頑丈な木製の扉になっている。

 室内は五十畳ほどはあるだろうか。日本の道場のように、壁に腰板が張られているが、床にはボクシングのリングのようなマットが敷き詰められている。
 神戸の南京町の地下訓練場よりも遥かに広く、天井も高く取られていて天窓まで付いている。天窓の位置がちょうど一階の足元だとすれば、この訓練場は地下のかなり深いところに造られていることになる。

 

 中に入っていくと、部屋の中央に、王老師が静かに立ち尽くしていた。


「站椿 ─────────────────」

 
 その端正な姿に圧倒されて、兄弟弟子は、しばしその場に佇んでいたが、

 ようやく、

「ただいま参りました・・・」

 二人揃って師から少し離れたところまで進み、

 跪いて、深く頭を下げ、そのまま師の言葉を待つ─────────────────


 王老師が独りで站椿を練っているところを、宏隆は初めて見た。


「何という、整った姿勢なのだろう・・・」

 自分は、とても、こうは立てない───────
 自分の站椿の姿勢とは、全く何もかも、形さえ違っているように見える。
 しかし、これこそが紛れもない、真の站椿のあり方に違いなかった。

 もちろん、自分も站椿は指導されている。
 けれども、その指導された姿勢と、まったく同じものであるはずなのに、
 どうしてこんなにも、自分のかたちとは異なって見えるのだろうか・・・

 そう思った途端、


「一緒に、やってみなさい──────────────」


 立った姿のまま、王老師が静かに声をかけた。




                               (つづく)



  *次回、連載小説「龍の道」 第67回の掲載は、6月22日(水)の予定です

taka_kasuga at 23:42コメント(7)連載小説:龍の道 | *第61回 〜 第70回 

コメント一覧

1. Posted by Blog Tai-ji 編集室   2011年06月09日 00:53
☆愛読者の皆さまへ

編集室の都合により、今回の「龍の道」の掲載が遅くなってしまいました。
お待ち頂いた読者の皆さまには、大変ご迷惑をおかけしましたことを心よりお詫び致します。
 
2. Posted by bamboo   2011年06月09日 14:32
自分を整えること、受け取る姿勢の在り方は、どんなことにも通じる生き様ですね。
考えてみれば、猫の動きですら剣術の参考にする方もいたそうですし、相手が師であれば尚更
ですね・・。

(昔の達人や門人の方々たちは、自分の内面とどう向き合っていたのかな)などと想いを
馳せつつ、その品格に憧れます。
それにしても、葉隠・論語・孟子・孫子・道徳経など素晴らしい書物があったというのに、
いまいち響いてなかったことを恥ずかしく思います。赤面してます。
自分の学んだ医療古典ですら、(まさかこれも響きが小さかった・・・?)と急に読み直し
たくなりました^^;

東洋の伝統藝や古典は、本来「感じること、身に通し修めること」をとても大切にしている
ような気がします。
王老師は在りのままでそれを体現されている。いま名古屋でも流行りの「コーチング」などと
異なる、憧れる生き様です。
 
3. Posted by 円山玄花   2011年06月13日 22:24
小説「龍の道」の、戦闘シーンの描写や細かい歴史のお話もさることながら、
今回の前半部分に描かれていたような、宏隆君の人生に向けた呟きのような言葉に、
いつも引き込まれてしまいます。
ふと、第一回目の「龍の道」を思い出して懐かしくなりました。

さて、いよいよ站椿ですか・・・。
いつかは出てくると思っていましたが、いざ始まると何やら緊張しますね(笑)
今後、一体どのように展開されるのか、楽しみにしています!
 
4. Posted by まっつ   2011年06月17日 01:14
>油断をしてはならない────────────

本当に最近ですが、小生もそのように感じてハッとする事があります。

身体は欲し、心は自由に動こうとする性質を有していますが、
その状態に無自覚で、自分に流されて生きていると太極拳が分かりません・・・
自分に流された分、鏡に映る像は歪んでしまうのだと知りました。

それなら身体や心の動きを意図して止めていれば良いのかというと、
これはまた違うようで、生きた像を結ばないようです。

「いま、ここ」から離れて流される事でもなく、
「いま、ここ」を塞き止める事でもない。
ただ剥き出しの「いま、ここ」に立つ事・・・
それは自分を観る意識でしか出来ない事なのだとつくづくと思い知りました。

まだまだ自分が分からないという事が少し分かって、
太極拳も少し分かったような気がしています(勘違い?)。
引き続き、油断しないで精進したいと思います。

>「站椿 ─────────────────」

・・・なのですね(ゴクリ)。
楽しみです。
 
5. Posted by 春日敬之   2011年06月20日 17:05
☆ bamboo さん

>コーチング

「コーチング」が流行っているとは、流石は「名古屋コーチン」の本場ですね。(笑)
いやいや、冗談ですよ。
そのコーチングというのは、いわゆるライフ・コーチングと呼ばれているモノのことでしょうか。

>いまいち響いてなかったことを・・・

「響き」というのは良い言葉ですね。
私なども、かつて読み耽った書物を本棚から取り出して再読する度に、ああ、何も読めてはいなかったな、と恥ずかしくなることばかりです。
「感じること、身に通し修めること」というのも、「響かせること」に通じますね。
 
6. Posted by 春日敬之   2011年06月20日 17:13
☆玄花さん

>第一回目の「龍の道」を思い出して・・

そうそう、ブログ編集室で、龍の道を十回ずつカテゴリーに表示して頂き、バックナンバーがとても読みやすくなりました。感謝しております。

>いよいよ站椿・・・

いやはや、私に站椿のことなんぞ書けるのか、
やっぱり、站椿のことは「のら」さんに任せた方が良いような・・・・
 
7. Posted by 春日敬之   2011年06月20日 17:29
☆まっつさん

>油断をしてはならない────────────

・・・ホントに、油断をしてはならないですね。

油断をしてはならないのですが、
ヒトはどうしても油断をしてしまう生き物なのでしょう。

だから、いくら油断をしないようにしようと思っても、
やっぱり、油断は足音を忍ばせてやって来ます。

だから、油断しないことというのは、油断をするまいと思うことではなく、
油断がどのようなことであるのか、理解することなのだと思います。

これは、放鬆でも、中心軸でも、勁力でも、拙力でも、
みんな同じことですね。
 

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