2011年05月25日

連載小説「龍の道」 第65回




第65回 入 門(6)


「─────さて、君はさぞかし、今のような体験を ”神秘的” だと思うことだろうね」

「はい、もちろんです。とても神秘的で、とても特別な体験だと思います。でも、先ほど王老師は、この世に特別なものなど何ひとつない、と仰いました」

 眼を輝かせながら、宏隆がそう言った。
 これを神秘と言わずして、いったい何だというのだろうか。こんな体験が特別でなくて 何を特別というのだろうかと、素直にそう思えるのである。

「君の言いたいことは分かる────────────
 この世界に特別なものは無い、太極拳は何も特別な武術ではない、と言われても、現実に生卵が割れないほどのチカラで天井際まで吹っ飛ばされ、額に指を当てられただけで強烈な光や電気ショックが身体中を駆け抜けるのだから、それはどうしたって特別なことにしか思えない、と────────────」

「そ、そうです、いくら特別ではないと説明されても、自分にはどうしても特別なことにしか思えません」

「────────では、君はこの部屋を照らす灯りを、特別だと思うかね?」

「電灯が?─────いいえ、部屋に灯りが点いていても別に何の不思議もありません。
 今はランプの時代じゃありませんから・・・」

「では、飛行機が空を飛び交っていることは────────────?」

「もう何度も飛行機に乗っていますから、ちっとも特別なこととは思えません」

「太陽が空に昇って沈むのではなく、この地球が動いているのだということは?」

「もうそれは常識なので、ごく当たり前のことだと思えます」

「そうだ────────そのように、事実や現象が世によく識られるようになり、ごく当たり前のことになれば、それは何ら神秘でも特別なものでもなくなる。
 しかし、それらがまだ当たり前のことでなかった時には、とても特別なことだったのだ。 
 それは個人の物の見方や価値観に因るところが大きいし、凡庸で通俗な位置から見れば、ほんの少しでもそれ以上高い所にあるものは、すべて特別に思えてしまう」

「自分がそれらと同じ位置にあれば、それらは特別ではなくなる、ということですか?」

「そのとおり──────────この時代、人間は堕落の極みにあって、人として当たり前のことでさえ特別なことだと思う人間が増えた。そして貧しさからは豊かさが、弱さからは強さが、脆(もろ)さからは靱(つよ)さが、神秘的で特別なことに思えてしまう。
 太極拳もそうだ。文化大革命はそれまでの伝統武術の中身を根底から覆すことになった。考えてもごらん、革命を起こした為政者が自分を脅かす危険性のある武術をわざわざ振興するわけがない。幾百年もの間大切に保存されてきた拳理拳学は、武人の誇りと共に悉(ことごと)く破壊され、地に埋められ、河に流され、劫火に焼かれて失伝し、為政者の顔色を窺いながら、多くの人々の価値観が変わっていった。武術はただその名前だけを残し、人々はただ単に無難な、形式だけの体操を練るようになっていったのだ──────」

「そんなことが────────────」

「他人事(ひとごと)ではないよ、日本も同じことをされたじゃないか。日本が戦争に負けた時、アメリカは、GHQ(占領軍総司令部)は真っ先に、日本人が日本の武道を学ぶことを全面的に禁止したことを知っているだろう?」

「そのようなことを聞いたことがありますが、ハッキリと認識していません」

「そう、日本人に全ての武道を禁止したその事実さえも、日本国民に意識させないようにすることが占領政策の意味だった。それを知る世代は、次の世代にそれを伝えることが虚しくなるように教育された。現に、戦後わずか十年後に生まれた君でさえ、そのことをよく知らない、あまり興味を持てないような教育をされているのだ。今の日本に、古(いにしえ)の伝統を十全に受け継いでいる本物の武術がどれほど残されていることだろうか・・・」

「はい、張大人にも言われました。ぼくはもっと日本のことを知る必要があります。そして仰るとおり、十全な形で日本に残されている武術はとても数少ないと思います」

「繰り返すが、太極拳は何ら特別なものではない。今日、この世に特別なものや神秘があるとすれば、人間が人間として有りのままの姿で生きていることこそが特別であり、それがすでに正しく整っていること自体が、その当たり前の構造こそが、真の神秘だと言えるかもしれない────────────」

「はい、そのことは分かります」

「よく覚えておきなさい─────── ”それ” は、すでに整っているのだ。
 今日から君が入門する太極門というのは、すでに君自身の中にある。
 入門とは、君自身の内側以外の、どこか他のところにある門が開かれることではないし、その門から先に延びている道も、君自身以外のどこかへ向かって続いているのではない。
 それは君自身の道であり、君自身の道とならなくては、真の大道とは言えないのだ」

「ぼく自身の道────────────」

「そうだ、それは ”道” という言葉で表されてはいるが、むしろ ”川” という方が分かり易いかもしれない。
 川は、山奥の源流から下流へと向かって流れて行き、やがて大きな流れとなって大海へと注ぐ。川を下る時に必死に舟を漕ぐ人は居ない。それと同じように、道を歩くのに必死に歩く必要はない。本当の道は川のように流れているのであって、そこに舟を浮かべて流されて行けば、やがて大海に辿り着ける。そこを必死に歩んでいくようなものではないのだ。
 ただ吾が身をその ”道” に委ね、流され、大海へと運ばれるのを許すことだけが必要だ。
 もし君が ”道” を見出したら、決してその流れに抗ってはいけない。上流に向かって頑張って舟を漕ぐような愚かさを戒め、”道” というものの性質をよく理解することだ」
 
「はい────────────」

「うむ、君はとても素直だ──────────── ”特別” ということに対して屁理屈をこねようとはしないし、言葉としての定義を求めようともしない。ただ私の言っていることに耳を傾け、その意味を感じようとしている。
 大切なことは、そのような ”向かい方” や ”あり方” であって、言葉自体の意味を求めることには何の意味もない。君はそのことを、すでに知っているようだね」

「もしぼくがそうであるなら、それは自分を育ててくれた父や母の、そして王老師やK先生のような師のおかげだと思います」

「大切なことだから、もう一度繰り返しておこう。
 学ぶためには、どのような場合も、決してあれこれと自分の思考を挟んではいけない。
 ものごとを、思考によって意味付けたり、判断しようとすることを止めることだ。
 そうすれば、君はもっと大きなものを手に入れることが出来る。
 自分の貧しい思考で判断することを、間違っても ”理性” だなどと思わないこと。
 本当の理性というのは、もっと大きなもの────────────
 自己という個人の心のはたらきではなく、宇宙を司っている原理のことだ。
 ちっぽけな己の論理、思考する能力で物事を判断しようとするのをやめなさい。
 そうしなくては、本当の ”道” は見えてこない」

「ありがとうございます。
 王老師の教えを、生涯大切にいたします────────────」

「よろしい───────君を私の正式な弟子として、心より喜びをもって迎えよう」

「ありがとうございます」

「これから君が学んで行くことは常に真新しく、日々に新しいものとなる」

「そして、何ら特別なものではない────────────」

「───────そう、そのとおりだ、はははは・・・・・」



 入門式は、瓢箪形の窓に囲まれた部屋で、延々と続けられてゆく。
 戸外(そと)は台湾の夏には珍しく涼風がそよぎ、夜空いっぱいに星が瞬いている。


 やがてそれらの儀式も無事に終わり、式場は宏隆の入門や玄洋會への参入を祝う宴の席へと設えが変えられ、照明がより明るく灯され、胡弓を中心とした三人の楽団が、心が洗われるような優しい音楽を奏でている。


 見たこともないような、見事な中華料理と美酒の数々──────それらが用意された八つの円卓を囲む人々は、みな和やかに、宏隆の入門や参入を心から祝福する表情に溢れていた。


「おめでとう、ヒロタカ・・・これで今日から、私たちは義姉弟ね!!」

 ポンッと、座っている宏隆の肩を後ろから叩くと、後ろからその肩を抱くようにして、嬉しそうに宗少尉が言う。もうどうにもこうにも、じっとしていられずに、宴の席になるとすぐ宏隆のところにやってきたのである。

「ありがとうございます。こんな立派な式をして頂いて・・・皆さんのお陰です」

「本当によかったわねぇ・・・・ついさっき、部屋で着替えをしていた時とは、まるで別人のように見えるわよ」

 目を潤ませながら、上から下まで宏隆をながめては、嬉しそうに言う。

「でも・・・・」

 しかし、宏隆は急に肩を落としてうなだれ、深刻な顔をしてそう言う。

「でも・・? どうしたの、何か問題があるの・・・?」

「いえ・・・ ただ・・・・・・」

「ただ? ・・・・ただ、どうしたの・・・?」

「宗少尉の弟になったら、さぞかしオッカナイだろうなぁ、と思って・・・・」

「こ・・コラァ、人が心配しているのに───────!!」

 宗少尉が拳を振り上げて、宏隆を打(ぶ)とうとする。

「うわわっ!、ごめんなさい・・・でも、ほら!、やっぱり怖いじゃないですか!!」

「あ・・・・ほんとだ」

「ハハハハハ・・・・・」

「アハハハハハ・・・・・」

「───────おお、楽しそうにやっていますね!」

「あ、陳中尉!───────今日は本当にありがとうございました」

「おめでとう、ヒロタカ。これで僕たちは正式に師兄弟(兄弟弟子)になったわけですね」

「何だか、とても畏れ多いですが───────どうぞよろしくお願いいたします」

 真っ直ぐに立って、深々と頭を下げて、宏隆が丁寧に礼をする。

「うーん、王老師も仰っていましたけど、やっぱり日本人のお辞儀は世界一美しいですね。
 特に日本の天皇や皇后のお辞儀は、どこの国の君主よりもずば抜けて美しいものです。それは、もっと日本人が誇りに思って、大切にすべきことだと思いますよ」

「ありがとうございます・・・・」

「ところで、今日で無事に入門式も終えて、あとどのくらい台湾に滞在できるのですか?」

「さあ・・ぼくはただ、台湾に行くよう王老師から命じられただけなので、その後のことはさっぱり分からないのですが」

「・・・ははは、相変わらずのんびりしていますね。では、ヒロタカの台湾滞在中に関しては私に一任されているので、これからのことは私がスケジュールを決めましょう」

「あの拉致騒ぎのおかげで、まだトレーニングもロクに受けさせて頂いていません。
 拳銃も、ライフルも、実戦のための格闘訓練も・・・・・」

「そうですね─────────しかし、最も訓練してもらいたいのは太極拳です」

「太極拳のご指導も、ぜひお願いしたいと思っていました。
 陳中尉の・・陳師兄の太極拳を、拝見したくて仕方がありませんでした」

「あはは、ついに私のことを師兄と呼ぶようになりましたね、とても嬉しいです・・・
 太極拳をきちんと練られるようになることが、結局は他の訓練が上達する一番の近道ですよ。さあ、それでは二人でお願いをしに行きましょう」

「二人で、お願いをしに・・・?」

「そう、せっかく王老師が台湾に来ていらっしゃるのだから、二人でご指導を仰ぐのです」

「えっ────────────!!」

「何も驚くことはないですよ。私たちは弟子なのだから、当然じゃないですか・・・・」

「で、でも・・・・陳中尉と・・陳師兄と・・・王老師にご指導を・・・・・・」

「ハハハハ・・・・何だか、ヒロタカには珍しく、とても緊張してきましたね?」

「はい、そんなことが実現するなんて、本当に夢のようです。
 今まではずっと王老師と二人だけで、マンツーマンでご指導を頂いていたので、自分以外の人がどう立つのか、それをどう動くのか、どう指導されて、どのように訓練していくのか、とても興味がありましたし・・・何と言っても陳師兄とご一緒に老師のご指導を受けられるなんて、思いもよりませんでした」

「ははは・・・まだお願いする前なので、そうして頂けるかどうか分かりませんけどね。
 さあ、一緒に王老師のお席へ行きましょうか────────────」

「はい!!」

「あ、そうだ・・老師の前に参上したら、このように手を組み、頭上に掲げながら、片膝を着いて、このように礼を取ります。このような礼をするのは拝師をした弟子だけに許される正式な礼儀作法ですから、よく覚えておいて下さいね」

 陳中尉は両手を使って、複雑な指の組み方を宏隆に見せ、跪く動作を示した。

「あ・・その作法はもう、神戸で王老師に教えていただきました。初めてご指導を受けたときに、今後はそのように礼を取るように言われたのです」 
                       (*編集部註:「龍の道 第16回」参照)

 「え、そうなのですか?、すごいなあ・・・私なんか、その礼法を教わったのは拝師をしてからですよ。やっぱり、ヒロタカは別格なんですねぇ────────────」

「でも、きちんと礼式が出来ることはもちろんのこと、最も大切なのはその人の心なのだと、老師に言われました。自分を教え導く師を敬って、心を込めて丁寧に行うことで、はじめてその礼法も活きるのだと」

「うん、良い教えを受けましたね。さあ、それでは王老師のもとへ行きましょう!」

「はいっ────────────!!」



                               (つづく)



  *次回、連載小説「龍の道」 第66回の掲載は、6月8日(水)の予定です

taka_kasuga at 23:53コメント(8)連載小説:龍の道 | *第61回 〜 第70回 

コメント一覧

1. Posted by bamboo   2011年05月27日 23:58
流れに委ねる。原理を大切にして、あれこれ考えない。
‥楽です‥よね‥ そういえば脱力と放鬆の違いのような。
(なんで気付かなかったんだろう)唖然としております‥。考えなくていいのでちょうどいいですね^^;
これから頭を叩くといい音がしそうです(笑)
 
2. Posted by 春日敬之   2011年05月31日 15:36
☆ bamboo さん

>脱力と放鬆の違いのような

うん、そうですね。言えてますね〜!

>考えなくていいのでちょうどいいですね

確かに、それは楽であり、それはそうなのですが────────────
しかし、本当にあれこれ考えないようになるまでには、
気が遠くなるほど、本当に考えに考えなくてはならないものだと思います。

ちょうどそれは、筋肉コントロールで何とかなると思い込み、
力みに力んで、そこで得られる力への快感を止められず、徹底的に力みまくって、
四頭筋を使いまくって、落下をしまくって・・・
けれども、真実は全くそうではないことを証明できる師の許で、
すべてがナンセンスで、そのままではいつまで経っても、
本物の「勁力」などカケラも手に入らないことに気づかされて、
そのショックの果てに、ようやく「真の放鬆」を探す気になるように・・・・

考えに考えて、考えまくって、
もう、これ以上アタマを使えないんじゃないか、ってほどに考え、
悩みぬいて、脳ミソが、容量オーバーでハチ切れそうになって、
もうこんな辛気くさい武術なんか辞めてやらぁ、って思うほど苦しみぬいて・・・
人はやっと、委ねるべき「流れ」に気づき、
理解すべき「原理」の大切さに行き当たるのだと思います。

それは、放鬆が理解できるまでの過程と、とても似ています。
だから人は、取り敢えず「脱力」をしたがるのだと、僕は思いました。
 
3. Posted by まっつ   2011年06月03日 00:18
自身の内側にある門、その門から先に延びている道────────────

”それ” は、すでに整っている────────────

思考によって判断しようとすることを止めること────────────

そうしなくては、本当の ”道” は見えてこない────────────

・・・その意味に近づこうとすると、
なんだか「自分」が砕けるような感覚を覚えます。
砕ける事を恐れる「自分」も居れば、砕けてしまえという「自分」も居て、
不確かで心許ない心地です。

ただ、砕ける事が ”道”であるならそれを引き受けたいと思います。
 
4. Posted by 春日敬之   2011年06月03日 16:33
☆まっつさん

>・・・その意味に近づこうとすると、
>なんだか「自分」が砕けるような感覚を覚えます

それは、きっと、「正しい感覚」でしょうね。

ご存じの通り、古今東西のマスターたちは、

 死に死に死に死んで死の終わりに瞑し
 大死一番、大活現前
 直到你死
 Until You Die ……

などと、自分が死ぬまでは何をやってもダメだし、
ただ生まれて死ぬことを繰り返していても、もっとダメだよ、
と言ってのけますよね。

ウチのマスターも、

 如何にも ”太極拳風” に歩こうと思うから歩けないンヨ
 ハッケーが ”ツオイモノ” だと信じてるから、分からないンヨ
 ヤメル子羊さんたちよ、先ずはヤメルことだネ・・・

と、日頃から ”ヤメル” と口にされるのもまた、同じイミだと思います。

けれども、武術の極意にも、

 切り結ぶ太刀の下が地獄であっても、
 身を捨てて、其処に一歩進んでみれば極楽がある、浮かぶ瀬もある、

とアルのですから、思い切ってそれを ”引き受けて” みるのも良いかもしれません。
所詮私たち人間には、それを受け容れるか、受け容れないかの、
ふたつにひとつの選択しかないのですから。
 
5. Posted by とび猿   2011年06月04日 13:21
>ただ吾が身をその ”道” に委ね、流され、大海へと運ばれるのを許すことだけが必要

つい、何かおかしなことをやりたくなってしまい、有らぬ所へ行ってしまったり、
陸から川を眺めていたりと、なかなか、運ばれるのを許すということは
難しいことだなと思います。

>学ぶためには、どのような場合も、決してあれこれと自分の思考を挟んではいけない。
 ものごとを、思考によって意味付けたり、判断しようとすることを止めることだ。

なにかに対して、その瞬間に「ああ、そうだ」と、すっと納得できる時もあれば、
先ず、頭の中にゴチャゴチャと言葉が浮かんできて、
結局、訳が分からなくなってしまう時もあります。
思い返してみると、どちらも、自分の在り方次第なのだと気付かされます。

どちらの言葉からも、常に細心の注意を以て
己れを見ていかなければならないと思いました。
 
6. Posted by 春日敬之   2011年06月05日 12:43
☆とび猿さん

>有らぬ所へ行ってしまったり、陸から川を眺めていたりと・・・・

ホント、これは吾々凡夫の常ですなぁ。
岸から川を見ているだけで、すっかり「その気」になれたり、
川から離れて適当に歩くことが「自分の道」だと思えたり・・・・

何にせよ、ウイノオクヤマを超えて「大いなる海」に還るためには、
とび猿さんの言われるように、”細心の注意” をもって
自分を観ようとすることが最も重要なのだと思えます。

”自分” があるうちは「大いなるもの」は見えてこない、
と、僕はよく師匠に言われました。
 
7. Posted by マルコビッチ   2011年06月07日 01:23
”常識”ってとても曖昧だなあと子供の頃から感じていたのですが、
日本では当たり前で常識でも、世界のどこかでは違っていたり、
ある人にとっては常識だと思えることも、ある人には全然そうではなくて、
そういう人は非常識な人って中傷されたりしますよね。

大人になって、社会の中で上手く生きようとすればするほど、
”常識”っていうものの真実に目を向けようとしなくなっています。
道場では上手く生きようとする必要もなく、本来の自分に帰れるのでとても気持ちがいい! 
だけど、普段 ”道”でもないところで流され意識的でない分が、稽古に表れるんですよね。

最近、あれこれあれこれ考えて、頭の中がパンパンになってしまう時、
自分の ”質” みたいなものが、縮こまってネガティブになっているような感覚がします。
そんな自分に気が付いて、ハッとすると、自然に縮こまったものがパーっと広がっていくような
感じがするときがあります。
それでも懲りずに考えてしまうんですけどね・・・

本当の "道" が見えるよう、自分自身の内側に向かう道に身を委ねられるよう、
いつでも、どこでも、どんな時でも、自分を注意深く見ていかねばと思いました。

久しぶりに宋少尉や陳中尉が登場して、また次回が楽しみです!
 
8. Posted by 春日敬之   2011年06月10日 15:33
☆マルコビッチさん

> ”常識” って、とても曖昧だなあと・・・

いわゆる「常識人」という人たちが常識を盾にして非常識を断罪することがよくあります。
常識というのは社会人が当然のものとして持つべき価値観や知識、判断力のことですが、
属する社会や個人によっても常識は異なり、ある社会の常識が他の社会の非常識となる・・・
たとえば、中国の常識は国際社会の非常識、なんていうのは、もうそれこそ「現代の常識」
ですよね。(笑)

ある哲学者によれば、常識の上には「良識」というものがあって、
常識と云われるものに疑問を持てる知恵が良識だと言います。
そのような「常識」と違って、「真理」というのは、
いつどのような場合でも決して変わることがない「真実の道理」のことです。
哲学では思惟と認識の一致、なんて難しいことを言いますが、
仏教では「真如」と言って、永遠不変の真実の理法を指しておりますね。

>普段 ”道” でもないところで流され、意識的でない分が・・・
>道場では上手く生きようとする必要もなく、本来の自分に帰れるので気持ちが良い・・

そう、「道」は、社会の常識では成り立っていませんから、
「常識」で生きようとすれば、当然のごとく ”道” から外れてしまい、
「非常識」で生きようとしても、やっぱり ”道” から外れてしまいますよね。
・・で、道から外れるってのは、読んで字の如く「外道」ということだから、(笑)
そもそも、常識や非常識というのが存在する世界自体が「外道」ということになる・・・
のでしょうかネ?(笑)

道場は「道」を歩む場ですから、そこには「常識」も「非常識」も無く、
ゆえに、上手く生きようとする必要もなく、常識を気にする必要も無く、
「道」を必要とする人だけが、本来の自分に返ることでしか歩めない、
その「非・常識的」な道を、黙々と歩むのでありましょう。
 

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