2011年05月11日

連載小説「龍の道」 第64回




第64回 入 門(5)


「・・・さて、大切なことを言っておこう────────────
 それは、私が君に与えるこのイニシエーション(入門の儀式)は、それ自体、何も特別なものではない、ということだ。
 そもそも、この世界に ”特別なもの” など、何ひとつ有りはしない。だから、たとえ私が ”特別” という言葉を使ったとしても、そこには取り立てて何も意味は無い。
 入門とは、天がその人に与えた ”学びのかたち” に過ぎない・・・・分かるかね?」

「では、拝師入門というのは、特別な武術を修得した特別なマスターに、特別に学んでいくことが許される特別な機会、ということではないのですか?」

「そうではない──────入門というのは、入門者に特別な機会が与えられることではなく、それが決して特別なものではない、ということをきちんと認識できるようにするための機会が与えられるものなのだ」

「よく分かりません────────────」

「今は分からなくとも、やがて分かるようになる。
 入門とは、ようやくそのようなことの理解が始まる機会でもあるのだ」

「入門ということ自体、花が自然に開くように、起こるべくして起こっているものなので、そこに取り立てて格別な意味づけをする必要はない、ということでしょうか?」

「それは、そのとおりだが────────しかし、もっと理解されるべき重要なことは、太極拳が ”特別な武術” ではない、ということだ」

「ええっ!・・・・ぼくは、太極拳はものすごく特別な武術だと思っていました!!現に、王老師にちょっと触れられただけでも、天井際まで吹っ飛んでしまって・・・・」

「門の外側から見れば、それは、ある意味では特別なものだと言えるかもしれない。
 しかし、そのような私の修行の成果も決して特別なことではないし、それ自体、私が特別なことに身を委ねた結果として得られたものでもないのだ」

「うーん、何だか混乱してきました────────────」

「私も始めは、太極拳は特別な武術だと思っていた。君と同じように、私の師である人に強(したた)かに吹っ飛ばされてからは、太極拳はそれまで自分が学んできた武術とは天地の差がある、と思えた」

「そんなに凄いことでも、特別な修行によって得られたことではないのですか?」

「その頃の私から見れば、太極拳はとても特別な武術だった。師の驚異的な功夫も、特殊な修行でしか得られないに違いないと思えたものだ。しかし、入門を許されて学んでいくうちに、それを ”特別なもの” として見ているうちは、太極拳というものの実体など、何ひとつ理解できないことに徐々に気づかされてきたのだ」

「───────────────」

「よく覚えておきなさい、太極拳は決して特別なものではない。
 人が人として存在する、その本来あるべき有りのままの自然な姿で・・・その有りのままであるがゆえに修得が可能となる武術─────────────それは、この宇宙の中で、この地上に生きる人間というものの存在を、まるごと、トータルに受け容れるからこそ可能になる・・・・まったく何ら特別ではない、特別ではないがゆえに、最高のものであり続けることの出来る、至高の武藝なのだ」

「はい────────────」

「今は分からないかも知れないが、やがて君にもそれを正しく実感し、理解する日がやってくることだろう」

「・・・それは、どのようにして理解されるのでしょうか?」

「ただひたすら、人として当たり前に、正しく整って、有りのままに────────
 早い話が、二本足できちんと立つことが出来れば、誰にでも理解できることだがね」

「人として正しく整い・・・・有りのままに・・・・二本足で立つ・・・・・」

「そうだ。人間に与えられたこと─────────つまり、二本足で立ち、歩くことが、そのすべてだ。人間は、本来の有りのままに正しく立ち、正しく歩くことで、心も身体も、ありのままの正しい状態で存在することが出来る。人の正しい考え、正しい行動とは、人が人として本来持っている、有りのままの正しい構造から生まれるのだ」

「・・・よく考えてみればそれは、何も特別なことではありませんね」

「そのとおり、そして、それを核心とする武術が、何ら特別なものであるわけがない。
 その、有りのままに整っている状態のことを ”太極(tai-ji)” と呼ぶのだ。
 良いかな・・・それは、すでに整っている────────────
 ただ、ほとんどの人は ”そのこと” に気付いていない」

「それは、すでに整っている────────────
 ぼくは、世に言う秘伝とか真伝などというものは全て、人間一般の能力を遙かに超えたところにある、まったく特別なものだと思っていました」

「人間が、人間の能力を超えることは出来ない。人間に出来るのは、吾々に与えられたものが何であるのかを正しく識り、それを正しく生きること、ただそれだけだ」

「では、太極拳もそのように、人間として自分に与えられているものを正しく識ることによって学んで行くのでしょうか?」

「そうだ。本来、太極拳の構造は非常にシンプルで、とても修得し易いものだ。
 だから、それを特別なものとして見てしまえば、それが誤りの始まりとなり、どのように修行しても、どうにもならない。正しい構造を見つけるには、それが決して特別なものではない、という認識から学習を始めなければならない」

「しかし、それ自体が特別なものでないのなら、誰もが入門して学べそうなものですが、どうして滅多に入門を許される人が居ないのでしょう?」

「ははは・・・この世界では、老師によっては拝師弟子を百人も取ったりする人も居るよ。
 どこぞの有名な老師に至っては、拝師弟子の第一カテゴリーに五十人、第二カテゴリーには百人、その下には徒弟学生が何百人、などという具合にね・・・・だから、高名な老師に就いて太極拳の真伝を得たという者などは、世界に何十万人も居るに違いない」

「拝師弟子が・・百人も、ですか──────────!?」

「私の拝師弟子などは、君を入れても僅か三人しか居ない。私は滅多なことでは弟子を取らないからね」

「しかし、何故そんな?・・・・あまりにも人数が違いすぎます!」

「それは、その人の問題だよ。それに、人数で何かが決まるものでもない。私は、私に与えられたものを、与えられた分だけ、弟子と分かち合っているに過ぎない。
 きっとその老師は、功夫の至らぬ私と違って、弟子に与えるものを山ほど持っているのだろうね、はははは・・・・」

「・・・・何だか悔しい気もします」

「そうではない。人はそれぞれ、その人の課題を持ってこの世に生を受けているのだ。多くの拝師弟子を持つ人はそのような課題を、わずか数人ばかりに伝えようとする人もまた、それに見合った課題を持ってこの世に生まれて来ているのだよ」

「ですが・・・百人の拝師弟子に、数百人の門人徒弟が居て、一体何をどのように伝えられるというのでしょうか」

「それもまた、人それぞれ─────────私の知ったことではないよ、ははは・・・
 ただ、私の学んだ内容、私の教え方では、その人数では絶対に不可能ではあるがね」

「人間にすでに与えられている有りのままの在り方というのは、太極拳で云えば站椿・・・つまり、無極椿のことですね」

「そう、そのとおり。無極椿こそは太極拳の構造を、その根本の在り方を示すものだ。それは、人間にすでに与えられているものではあるが、必死に追求し、研究しなければその根本の在り方は見えてこない」

「─────それは元々すでに人間が持っていて、何ら特別なものではない、有りのままに整っている状態だというのに、どうして必死に追求しなくては分からないのでしょうか?」

「歪められ、逸れて外れてしまうこともまた、人間の性質だからだ───────────
 人は、何かをしたい、もっとこうありたい、と願うだけで其処から外れてしまう。
 それには手前勝手な考え方、都合の良い自分本位な解釈が含まれているからだ」

「・・・かといって、何もしなければ、願わなければ────────────?」

「自分の在る位置が、正しく認識されることもない」

「では、どうすればよいのでしょう?」

「整え続けるのだよ、本来あるべきところに────────────」

「それは、どのようにして認識できるのでしょうか?」

「人には、誰にでも、それを認識できる能力が備わっている。ただ、そのことを忘れているだけなのだ──────────── ”無極椿” はそれを正しく思い出させてくれる、とても素晴らしい練功だよ」

「・・・ああ、何だかすごくワクワクしてきました。これまでの自分の無極椿は、ただ要求に従って、何が何でもそのとおりに立とうと無理矢理に頑張っていたのだと思います」

「ははは・・・それでは ”無極” にはならないね」

「はい、今のお話で、ようやくそのことが見えてきました、ありがとうございます」

「さて────────────では、もっと此方に来なさい」

 言われるままに、王老師のすぐ前に跪(ひざまず)いて、老師を見上げた。

 何という奥の深い眼をしているのだろう、王老師の眼を見ていると、まるで大海の深みを覗いているような気持ちになる。
 その波乱に満ちた人生を自ずと物語っているような、そして、その波乱の渦中にあっても自分を見失わず、万丈の波濤に幾度となく翻弄されながらも、その度に其処から逞しく這い上がり、直向きな修行に身を委ね、常に己を厳しく律し続けることでその波乱を乗り切り、その果てに、人としての根本を、人としての本来のあるべきところを見出すことができたような────────────そんな眼をしている。

 その、人としての在るべきところこそ、この人が自分に伝えようとしている武藝の在処(ありか)の根本なのだ・・・と、宏隆には思えた。


「オンバザラダトバン、オンバザラダトバン、オンバザラダトバン・・・・
 ノウマクサマンダボダナンベイシラマンダヤソワカ、ノウマクサマンダボダナン・・・・
 ノウマクサマンダボダナンアビラウンケン────────────」

 ふと気付くと、さっき仏法の授戒を授けてくれた戒和上が、夜の闇に響く海鳴りのように、低く真言を詠み上げている。

「額を、こちらへ────────────」

 王老師が、跪いて頭を差し出した宏隆の方に、少し腰を折るようにして、手を差し伸べてきた。

「眼を閉じなさい────────────」

 静かにそう言い、親指を宏隆の額の真ん中に・・・ちょうど眉間の中心に当てた。

(ああっ!!────────────)

 驚いて、思わず大声を出しそうになった。
 眼を閉じて、王老師の指が自分の額に触れた途端に、身体中にビクリと、まるで感電でもしたように何かの衝撃が走り、目の奥から頭の中いっぱいに眩(まばゆ)い光が閃いて溢れたのだ。

(いったい、何なのだ、これは────────────)

「深く、息を吸って────────────」

 言われるままに、息を深く吸い込むと、その吸った息が止まると同時に、今度は背骨の下から上に向かって新たな衝撃が走った。

「うわっっ!!────────────」

 今度はつい、声を漏らしてしまった。

「どうかね、何かが起こったかね?」

「・・お、起こったなんてものではありません。初めの、額に指を当てられたときには凄い光が頭の中にパーッと閃いて、今のは背骨に電気ショックのようなものがビリビリッと、上の方に走りました」

「ほう、それはよかった・・・」

「・・よ、よかった、って・・・あれは・・・今のはいったい、何なのですか?」

「私だよ・・・私自身を、君に分かち合って与えたのだ────────────」

「王老師を、ぼくに・・・・?」

「仏陀釈尊は摩訶迦葉と拈華微笑を分かち合い、キリストは葡萄酒を自分の血とし、パンを自分の体として弟子たちと分かち合った。秘密結社では、ナイフで身を切り、血液を絞って義兄弟と信義を分かち合うが、私のやり方は違う・・・・・もっと実際的なエネルギーを、もっと君自身が体験できるエネルギーを、弟子として迎える君と分かち合ったのだ」

「これは、氣────────────というものですか?」

「何であれ、君が実際に体験したことについて、あれこれと思考を挟まないことだ。
 物事を思考によって意味付けたり、判断することを止めなくてはならない。
 それは、そのものごと自体を貧しくしてしまうだけで、何の役にも立たない。
 それに、いわゆる ”氣” については、今はまだ何も考えなくとも良い・・・」

「はい────────────」



                               (つづく)



  *次回、連載小説「龍の道」 第65回の掲載は、5月25日(水)の予定です

taka_kasuga at 22:41コメント(10)連載小説:龍の道 | *第61回 〜 第70回 

コメント一覧

1. Posted by マルコビッチ   2011年05月16日 21:15
私たち太極拳を学ぶ者にとって、この「龍の道」は単なる小説ではなく、
人生のテキストです。

私も何年か前までは、あんな人を飛ばすようなことは何か特別な訓練法が
あるにちがいない! 何か凄い秘伝を学んで、長い年月を稽古しないと
太極拳を習得することは出来ないんだ! と思っていました。
でも今は、師父の動きを拝見していると、とても自然に感じられて、
何とも当たり前な動き、宇宙の法則に逆らっていない、あまりに自然で
とても美しくさえ感じられてしまうのです。

損得やかけひきの人間関係で成り立つこの世の中において、戦う為の武術の
中にこのように美しく素晴らしい教えの太極拳というものに巡り逢えて
本当に幸せだと思います。

次回も楽しみにしています。
 
2. Posted by 円山玄花   2011年05月19日 21:14
王老師が宏隆君に向けた最後の言葉が、今の自分にとてもピタリときました。

「何であれ、君が実際に体験したことについて、あれこれと思考を挟まないことだ。
 物事を思考によって意味付けたり、判断することを止めなくてはならない。」

このことは、何かを学ぶ上でとても重要なことだと思います。
細かいことを教われば教わるほどに、それを解こうと躍起になる自分が居て、
そこに思考を挟んでしまい、教わったことそのものの味や香り、形や手触りを忘れてしまいます。
まるで、人体の理を教わっているのに人体を解剖しようとしてしまっていたかのようです。

・・ちょうど、そのような勉強が自分に起こっていたときだったので、
とても、ピタリと一致しました。

受け取ったものをそのまま何も挟まずに受け取ること。
それこそ何かひとつのことを学べるかどうかの、鍵であると思えます。
まさに、”入門”に相応しい言葉だと思いました。
 
3. Posted by まっつ   2011年05月20日 00:27
今回、宏隆君がイニシエーションで得た経験は、
神秘体験と表現するしかないような「特別」な内容に感じられます。
「判断することを止めなくてはならない」体験とは、
「特別」に他ならないのではないでしょうか?
・・・と、自分の中の理性万能主義者は囁きます。

でも、日々の稽古で師父の手を取らせて頂き、
起こる驚異的な事々は、否応無く「判断すること」を静かにさせます。
当に語りえぬものには沈黙しなければならない状態です。
Umm...Word is not enough...

そもそも「神秘」とは「特別」なのでしょうか?
子供の時分の遠い記憶では、感じられる全ては「神秘」に充ちていて、
日々、何かを識ることは世界が啓いて光が差し込むような「神秘」でした。

そんな「特別」ではない「神秘」は忘れられて久しいのですが、
最近の太極拳の稽古では、
忘れていた「自分」、気が付かなかった「自分」に出逢える事もあり、
これはちょっとした「神秘」なのでは?・・・とも思います。
 
4. Posted by 太郎冠者   2011年05月20日 15:02
特別なこと、特別じゃないこと。

もうなんというか、生きているだけで色々な体験があって、
たまぁ〜に死にそうな気分になったりして(笑)、
自分の人生はまったく特別なものだという思いです。

しかし本当に特別なことなのか? と問われると、
誰しもが経験するようなごく普通のことを、
ごくごく普通に経験しているだけだったりもするのです。

>もっと理解されるべき重要なことは、太極拳が ”特別な武術” ではない、ということ
どこかで、自分とは全くかけ離れた特別なものだという思いがありました。

しかし、それでは絶対に、
>それは、すでに整っている────────────
ことには気づけないですね。
 
5. Posted by bamboo   2011年05月27日 23:35
そのまま受け取る。そのまま感じる。そのまま表現する。
(有りのまま‥そういう生き方、息子のほうがずっとできてるなぁ‥)と思いました。

有りのままで整っていることを、当たり前にしたいです。‥なんでしょう、不思議とワクワクしてきました!
 
6. Posted by 春日敬之   2011年05月30日 13:00
☆マルコビッチさん

>「龍の道」は単なる小説ではなく、人生のテキストです

いや、身に余るお言葉をありがとうございます。
これを目にした途端に、かつての連載漫画「練拳Diary」に登場した
「すげー館・名台詞集」のひとつ、

 『それは言い過ぎじゃない・・?』

という懐かしのシーンを思い出して、ひとりでウケてしまいました。(笑)
 
7. Posted by 春日敬之   2011年05月30日 13:05
☆玄花さん

>まるで、人体の理を教わっているのに人体の解剖をしようと・・・

そのとおりですね。
人間は万物の霊長であり、思惟する高等動物(らしい)ですが、
本当に高度なことは思考からは発想され得ない、と私は思います。
理屈で物事を理解しようとしているのはまだ幼稚なレベルであり、
それこそ、何ひとつ余分なことを挟まずに物事を受け取れるレベルがある、
摩訶迦葉のように、仏陀が花を手に持つ姿を大笑いできるようなコトが在る、
ということが感じられてこそ、次のステップに行けるのだと思います。
そうしたらきっと、太極拳の高度なレベルが見えてくるのでしょうね。
 
8. Posted by 春日敬之   2011年05月30日 13:13
☆まっつさん

佳い稽古をされているようですね。
「自分の中の理性万能主義者」は誰の中にも居ますが、理屈っぽかった私は、
己の貧しい思考で判断することを、間違っても”理性”だなどと思ってはならないと、
度々師に諭されました。

思考で判断せず、屁理屈を捏ねなくなったら、
自分が静かになったということですから、ようやく「静中の動」が可能となり(笑)、
忘れていた自分や、気づかなかった自分に出会える可能性も出てくる、
ということになりますね。
 
9. Posted by 春日敬之   2011年05月30日 13:25
☆太郎冠者さん

当たり前の日常は、常に特別に思えてしまいますし、
本当に特別な、滅多に有り得ないようなことはごく普通に見えてしまうか、
或いは────────────インチキだぁ!!・・ってことになる(笑)

やっぱり、
真っ直ぐなものは歪んで見え、真っ白な布は汚れて見える
・・ワケですよね。

そして、それがホントの「法則」だとしたら、
私たちはどうしていれば良いのでしょうか・・・・?
 
10. Posted by 春日敬之   2011年05月30日 13:36
☆ bamboo さん

>なんでしょう、不思議とワクワクしてきました!

・・・それこそが、「法則」と出会う、唯一の「法則」でしょうね!!
 

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