2011年05月08日

練拳Diary#39 「推手について」その2

                       by 教練  円山 玄花



 さて、それではここで、太極武藝館で学ぶ「推手」の基本的な認識を挙げてみます。
 私たちが推手を学ぶとき、真っ先に指導されることは、

 『推手で人を飛ばせるのは当たり前である』ということです。

 推手の動作から発勁できることが凄いことなのではなく、推手の形を用いれば誰でも当たり前に発勁することができるものだと、それは元来そのようなシステムとして構成されているのだと、師父は仰るのです。

 推手の形を覚えて、そこからどうやって発勁をできるようにしていくのだろうか?・・と漠然と考えていた私にとっては、正直なところ”推手で人を飛ばせるのは当たり前”、という言葉に少なからず驚き、それが自分の太極拳観を変える、ひとつのきっかけとなりました。

 『推手で人を飛ばせるのは当たり前である』などと言うと、間髪を入れずに「そりゃあ、そうに決まっている、人を吹っ飛ばすために推手はあるのだから」という声が聞こえてきそうですが、早まって結論づける前に、そう言われる本当の理由を太極拳の訓練体系から見直してみることにします。

 ──────お互いに向かい合って同じ側の足を出し、同じ側の手を出して、同じように触れて構える。上級者同士による、塔手(とうしゅ)と呼ばれる推手に入る前のこの構えには、美しくも鋭い切れ味があります。道場内が一瞬ピンと張り詰めるような気配さえ漂い、それを目にした誰もが、推手は架式が整わなければ何ひとつ始まらないことを悟るのです。
 それにしても、この形はどう見てもナゾナゾです。形だけを見ても十分謎に満ちているのに、そこからグルグルと腕を回している様子は、もう奇っ怪としか言いようがない・・そう思うのは私だけでしょうか。

 グルグルと腕を水平に回す推手、つまり一般的に《平円単推手》と呼ばれているものを、例として見てみましょう。
 繰り返しになりますが、お互いに向かい合って右の足を前に出し、右手を塔手にして構える。実は、ここまでのところで正しく動けたかどうかが、まず第一に問われる問題です。
 いや、実際には塔手までも行けません。精々がお互いに向かい合って足を出すところまでです。そこまでを正しく動くことができたら、ようやく馬歩の姿勢を取りながら、相手と塔手を取るまでに行き着けるわけです。

 太極武藝館では、推手の稽古に入ったかと思いきや、最初の「構え」が成っていないということで、そこまでをやり直して繰り返し指導されるということは、よくあることです。
 それでも正しく修正されないという場合には、推手の構えを取りに行くことを止めて、もう一度基本の訓練、つまり「立ち方」と「歩き方」に立ち返っての、本当の”やり直し”になるわけです。

 それが、たとえ深夜の零時を過ぎていても、稽古として当然の如く行われるわけですが、それは問題を次回の稽古に持ち越さない、何ごとも「延期しない」という、円山洋玄師父の生きている軸、その精神性が、稽古にも徹底されているためだと言えるでしょう。
 そのお陰で、私たちのような現代スポーツ的な発想しかできなくなっていた、このどうしようもない固いアタマにも、ようやく伝統武藝というもののエッセンスが少しずつ染み込んでくるわけです。

 「構える」こととは、武術的に見てそれほどに重要なことなのです。
 言ってみれば、推手の本質が理解できるかどうかは、この最初の構えが正しく取れるか否かに掛かっているわけで、そこのところをスイと通り越してグルグルと腕を回していても、推手の訓練目的は分からず、まして化勁や発勁の理解など到底有り得ない話です。
 当然、上級者になるほど構えの重要性は深く認識されますから、推手で動く前の構えに鋭さが感じられるのは、ごく当たり前のことなのかもしれません。

 推手に入る前に正しく構えることができれば、相手と手を触れたその瞬間に、お互いの架式の状態を察知することができます。初心のうちは難しいかもしれません。基本功で馬歩や弓歩などの架式を練り、歩法でひたすら「歩くこと」を追求してきていれば、それは比較的容易なことでしょう。
 さらにそこで注意深く観察をしてみれば、その形が、二つの同じ架式が向かい合ったものであることに気がつくはずです。それも、頭でなんとなく分かったようなつもりになるのではなく、確かな実感としてです。それが実感されて後に、ようやく平円単推手として前後に弓歩を取りつつ、腕を平円に回していくことの意味が、少しばかり浮かび上がってくるはずです。

 平円の中に四正手(ポン・リィ・ジィ・アン)が入っているとか、アンにはポンで返すなどといった細かいことは、取り敢えず措いておいて良いと私は思います。
 先ずは馬歩で正しく構えられること。そして相手と手を触れた状態で、お互いの架式が実感できること。架式が実感されないのであれば、それは站椿の稽古と理解がまだ不十分であるためだと言えるでしょう。
 次には架式が実感されて、尚かつ弓歩へと動けること。しかも相手と手を触れているままで、その手を平円方向に動かしながらです。これがまたムツカシイのです。
 架式が実感できる人であれば、自分が動き始めたその途端に架式の実感が失われていくことを感知できると思います。
 自分ひとりでなら、馬歩であっても弓歩であっても難なく動けたはずなのに、相手と手を触れているだけで、それがままならない。実はここに、推手が「戦闘訓練」になり得る要素を、見て取ることが出来るのです。

 「自分ひとりでなら難なく動けた」ということは、例えば套路をきちんとこなせる、というところだと思いますが、そこには相手が入っていません。
 本来は、套路の学習を正しくこなせていれば、太極拳の構造を十全に学ぶことができますから、当然太極拳の戦闘理論、つまり相手との関係性も学べるはずなのですが、恐らく昔の人はそれだけでは足りないと判断したのでしょう。太極拳の構造を確認し、また相手との関係性を理解する方法として、推手が編み出されたのだと思います。
 事実、相手と手を触れただけで、もう架式が疎かになってしまうのです。推手のように架式も形も動きも定められている中でさえ、動き出した途端に架式が崩れてしまうのであれば、実際の戦闘に於いてはどうなることか、言わずとも知れています。

 私は、太極拳の学習に於いて、「相手との関係性を学ぶ訓練が必要である」と先人たちが判断したときに、そこで戦闘の模擬訓練のようなことを訓練体系に取り入れずに、推手という訓練方法を取り入れたことについて、本当に感動しました。
 例えば、パートナーが一本拳打を突いてくるのをどの様に受け、捌くのかといった、そのような訓練ではなく、相手と同じ架式を取り、同じ手を触れているという、この形を以て関係性の訓練を行ったのです。何故でしょうか────────────

 それは、太極拳が站椿功を重視すること、そして勁力、即ち纏絲勁を特徴としていることに深い理由があります。
 他の拳術が日夜筋力を鍛え、足腰を鍛え、激しい対練を繰り返している間に、太極拳家はひたすらジッと立っていたのです。肩幅で、一横脚(いちおうきゃく=つま先から膝までの幅)で、またあるときは半馬歩で、站椿功で練られることに、ひたすら目を向けていたに違いないのです。そうして練られた意識で、身体でもって相手と手を交えれば、そこには武術における相手との関係性がありありと見て取れたことでしょう。
 だからこそ、そこからその関係性を練ること、つまり「推手」の訓練が始められたのだと思います。

 太極拳における相手との関係性────────────それは「触れずに崩れる」ことを可能にするものです。だからこそ、その関係性を養う推手では「生卵を潰さない程度の力」で行う必要があるのです。
 さらにはそこに、「推手で人が飛ぶのは当たり前である」と言われる理由があるのですが、ナマタマゴのお話をする前に、まずは「触れずに崩れる」という関係性について、少しばかり考察してみることにします。


                                  (つづく)

xuanhua at 22:44コメント(14)練拳 Diary | *#31〜#40 

コメント一覧

1. Posted by ゆうごなおや   2011年05月14日 14:01
練拳Diary、毎回毎回楽しく勉強させて頂いてます。
今回はまさに常々感じている自分の課題が書かれていました。構える前の一歩踏み出すところ..
相手に何かしようと考えてしまう自分にとっては、簡単な事なのに非常にムツカシイ事です。
ドスンと落ちてしまうんですよね。

「触れずに崩れる」という関係性。相対的にならない絶対的な位置を探している現在の自分に
とって、相手との関係性は?
次回が楽しみです。
 
2. Posted by マルコビッチ   2011年05月16日 21:11
”推手の形を用いれば誰でも当たり前に発勁することができる・・ ” 
う〜む、その推手の形というのが深いのですな〜〜

二つの同じ架式が向かい合ったものである・・という謎かけのような言葉・・
なるほど!!とは思うのですが、確かな実感としてまだ感じられません。

それ以前に、対練で相手と向かい合い、一歩足を踏み出すことの難しさ・・・
以前、のらさんが「站椿」で ”放鬆の状態とは弸勁そのものを指しています”
と書いてくださり、目が覚めるような思いをしたのにも関わらず、
いざ相手と向かい合った時の、無極の位置を保つことの難しさ・・・

この非日常というか逆説的というか、今までの常識をひっくり返すような
考え方・・・なんとも太極拳とは面白いものです。
今回のこのブログはたくさんの宝石がちりばめられているように感じました。
 
3. Posted by マガサス   2011年05月17日 02:00
>『推手で人を飛ばせるのは当たり前』

初めてこの言葉を聞いたときには、わが耳を疑いました。
だって、なかなか相手を飛ばせないから、崩せないから、推手をすることで崩せるタイミングや
吹っ飛ばす方法、戦闘技術を身に着けて行けるのだと思っていたのですから。

それを師父は、『こうすれば崩せますよ、という事を示すために推手はアルんですよ』と仰り、
『・・だからネ、ホレ、推手で人が吹っ飛ぶのは、当たりマエダのクラッカ〜あるヨ!!』と、
意味不明の不思議なことを仰りながら、ヒョイヒョイ軽々とヒトを飛ばされるのです。

毎回の稽古では、実際に、師父がそれを何度も示されますよね。
例えば四正推手のカタチをゆっくりと分解して示され、ピタリと止めたところから、
押すでもなく、引くでもなく、もちろんグッと踏み込んだり、体を傾けて相手に押し込んで
いく・・・何てことはまったくカケラもないまま、ただひたすらに、
その静止姿勢のまんまで、相手がはるか窓際まで吹っ飛び、壁に激突し、
螺旋に捻られ、大の男が悲鳴を上げながら宙を飛び、天井近くまで放り上げられる・・・・

それが「推手なら出来て当たり前のコト」であると言われ、
ソレがどうして出来るかを構造的に解き明かしてくれているのが推手なのだ、と仰るのですから、
そりゃもう、門人としてはヨッシャぁ、取ったるゾ、とチカラが入らざるを得ませんよね。
あ・・いや、チカラが入ってはいけないんでした。(笑)

・・・というわけで、次回も楽しみに、心待ちにさせていただきます。
 
4. Posted by 円山玄花   2011年05月19日 19:15
☆ゆうごなおや さん
コメントをありがとうございます。

構える前の一歩踏み出すところは、確かに難しいですね。
きっと、正しく一歩を踏み出して構えられたときには、
拳であればすでに打てているし、刀であれば斬れているのだと思います。
つまり、踏み込む前に「オレはもう打てている」・・と、なるでしょうか(笑)

もちろん、そのようなことが簡単にポンと手に入るワケもないのですが、
何をどのように整えていけば良いのかを教わっている私たちはとても幸せだと思いますし、
それを学んでいる以上は、日々努力と精進あるのみですね。
 
5. Posted by 円山玄花   2011年05月19日 19:17
☆マルコビッチさん
站椿をやり込むことで「立つこと」が見えてくるように、
推手もやり込めば、きっとその意味するところが見えてくるのだと思います。

>いざ相手と向かい合った時の、無極の位置を保つことの難しさ・・・
私は、このところを解決するためにも、推手があるのではないかと思っています。
誰にとっても、相手と向かいあった時に自分を保つのは難しく思われるものであり、
それは自分の状態を維持して変えずに、固定していようとするために起こる、
相手との衝突のように感じられます。
太極拳が見出した相手との関係性はどのようなものであるのか、それを教えてくれるものが、
推手に他ならないと思うのです。
まだ始まったばかりですから、焦らず、慌てず、しっかりと稽古して行きましょう!
 
6. Posted by 円山玄花   2011年05月19日 19:19
☆マガサスさん
時々、套路を稽古していれば推手は分かるから、推手にはそれほど時間を掛けなくても良い…
という話を聞きますが、推手の訓練システムの凄さに毎回目を白黒させている私にとっては、
ちょっと信じられない話です。
私には、これは套路を稽古しているだけではとてもわかりません(笑)

無極椿を精密に整え、基本功で丹念に練り上げてきたように、
推手もまたゆっくりじっくり、解いていく必要があると思います。
 
7. Posted by まっつ   2011年05月20日 00:25
套路は一人で架式の精度を追求する練功であり、
推手は両人で架式の精度を確認する練功である・・・
ナルホド、套路と推手は同じ本質の「表裏」と表現される事は分かります。
でも修行者にとっては両者が同じものであるという事は、
大いにヒントである筈なのですが、自らの感覚は同じとは捉えてくれません。
それらは一致せず、違うものとして現れてきて、
套路をする・・・推手をする・・・ではあっても、
架式になる・・・事に到りません。
トホホ・・・謎は深まるばかりです。
 
8. Posted by 太郎冠者   2011年05月20日 14:52
>その形が、二つの同じ架式が向かい合ったものであることに気がつく
まさに対練。陰陽。太極ですね。

相手と対になる稽古では、相手がまるで自身の鏡の役割をしてくれるように感じます。

推手に限らずですが、相手と対したときに「外れている」と感じたとき、状況を観てみると、
実際には相手との感覚以上に自分が大きく外れていることが多々あります。
つまり、まったく「構え」がなっていない。

もしそれがビシっと決まって構えることが出来て、相手との関係性もビシッと決まれば、
>『推手で人を飛ばせるのは当たり前である』
状態なのかもしれませんね。
うーむ、精進せねば。
 
9. Posted by 円山玄花   2011年05月26日 12:38
☆まっつさん
>謎は深まるばかりです。
そうですか…。
もしかしたら、推手を架式として実感するには、もう少し推手を練る時間が必要かも知れません。
套路が架式の連続であることは実感しやすいと思うのですが、たとえば四正手などは、
僅か四動作のとても短い套路だといえます。そして、その四正手はそのまま相手と手を交えての
推手にもなっているわけですから、当然、”架式にしかならない”のです。
つまり、套路も推手も実際には架式からしか始まらないわけですね。

厳しいようですが、しかし、自分の人生や家族の生命を守るためにこそ身に付け、
修めようとした武術にあっては、当然の厳しさであると思えます。
架式が取れなければ先へは進めない。けれど、その為のヒントが、そこかしこに転がっていると
思います。それはもちろん、推手の稽古の中にもあるのです。
 
10. Posted by 円山玄花   2011年05月26日 12:39
☆太郎冠者さん
>もしそれがビシッと決まって構えることが出来て、相手との関係性もビシッと決まれば、
>『推手で人を飛ばせるのは当たり前である』状態なのかもしれませんね。
まさにそうだと思います。だからこそ、推手を学ぶ必要があるのだと思います。

また、「構え」というものは、とても興味深いものだと私は思います。
何も武術の達人の構えに限った話ではなく、仁王像であるとか、ちょっと極端かも知れませんが、
レオナルド・ダ・ヴィンチのモナ・リザなど、絵画や彫刻の世界でも「構え」が見て取れます。
美しく、心惹かれる作品には全て「構え」が見られるような気がして、とても面白いと思います。

武術の構えにも、正面からはとても入っていけない構えや、
一見入っていけるように思ったら、入った途端に自分の進める場所が無くなって、
立ち往生してしまうものなど、本当に様々です。
推手の構えからは、何かとても大きなことを学べるような気がします。
 
11. Posted by タイ爺   2011年05月27日 12:00
>つまり、套路も推手も実際には架式からしか始まらないわけですね・・

なるほど、てことは架式が何によって、どの様に構成されているかが理解できないと推手はただの押し合いへし合いになってしまうということでしょうか。
いや、それを理解するための推手ということになるのかな?

あー、次が気になります。
 
12. Posted by bamboo   2011年05月27日 23:19
四正手に、そのまま相手と手を交えての推手にもなっているという特徴があるとは知りませんでした・・
考案された方も偉大ですね。
腰相撲や壁抜けにも相手はいますけれども、推手にはきっと「推手ならではの関係性の学び」があるのでしょうね‥。
対人稽古を有意義なものにするためにも、一人で架式を整えることをより大切にしたいと感じました。

‥あ〜〜羨ましい!!
 
13. Posted by 円山玄花   2011年06月01日 10:53
☆タイ爺さん
コメントをありがとうございます。

仰るとおり、推手は架式を正しく理解できないと、お互いに腕を回すだけの運動になってしまうと
思います。その運動から発勁しようとしても、拙力の飛ばし合いにしかならないことは明白です。
しかし、太極拳には様々な要求・要訣がありますから、それらのことを忠実に守れば、
或いは守ろうとすれば、実は押すことも引くことも、拙力で飛ばすことも、日常的な動作は全て
出来なくなってしまいます。推手の形を用いると、そのことを心底思い知らされます。(笑)
残るのは、ひたすら架式を整え続ける作業と、整えられた架式によって生じる”勁力”だというわけ
ですね。

本当に、すごい訓練方法が考えられたものだと思います。
 
14. Posted by 円山玄花   2011年06月01日 11:03
☆bambooさん
面白いことに、推手を学んでいると、他の対練も実は関係性の勉強だったということが、
少しずつ見えてきます。きっと、理解するべき太極拳の関係性も、”ひとつ”なのだと思います。
そして、その関係性を体験し、学んでいくためには、やはり自分側が整っていることが必要で、
自分を整えようとすればするほどに、その関係性もはっきりと浮かび上がってきます。
架式は、自分を整えるための大いなる規矩であると思います。
 

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