2011年04月13日

連載小説「龍の道」 第62回




 第62回 入 門(3)


「これより、入門の儀を行う────────────」

 高らかに、場内に声が響きわたった。

 いよいよ、陳氏太極門への正式な入門の儀が行われるのだ。
 単に老師から学ぶことを許されても、それはただの「学生」という立場であり、決して正式な「弟子」とは呼べないのだと王老師に言われてから、宏隆はずっと入門について考えていた。

「入門者、加藤宏隆──────────陳氏太極門外族伝人、王永斌老師に三叩頭せよ」

「はい────────」

 宏隆は、王老師の前に跪き、心を込めて深々と三叩頭をした。

 正式な弟子になることを、中国武術では「拝師(はいし・bai-shi)」という。
 拝師とは、文字上は「師を拝する」という意味には違いないが、そこに存在している内容はとても意味深いものだ。学生の立場とでは指導内容が全く違ってくる、などと言うのは外見的な些細なことでしかない。その真の意味は、拝師を許される老師と「共に在る」ことにより師弟の絆が深く強められていくことにあり、それによって言葉や形にすることの出来ない「無形の内容」に至るまで、正しく伝承していく事を可能とすることにあるのである。

 禅にも、「以心伝心」「教外別伝」「不立文字」「拈華微笑」などという言葉がある。
 本当に大切なものは、口伝の言葉や秘伝書に書き記された文字といった、眼に見えるような形では決して伝承され得ず、師の心から弟子の心へ、伝える者の存在自体から受け取る者の存在自体へと、直接的に伝承されるものであるという教えであるが、それは仏教に限らず、高度な武術体系を有する武門の伝承に於いても、まったく同じことであった。

 宏隆はずっと、そのことについて考えていた。
 宏隆も、小さい頃からずっと京都の大徳寺などに参禅を繰り返してきている。そこで禅師によって語られる「教外別伝」や「不立文字」などの内容は、宏隆にとっても大変興味深い、深い禅の教えであった。

 言葉や文字によらず、心から心へと、直接伝えられること──────────
 中でも、大きく彼の心に響いて止まなかったのは、「拈華微笑」の説話であった。
 
 その「拈華微笑(ねんげみしょう)」の話とは──────────

 ある日、釈尊が霊鷲山(りょうじゅせん)で大勢の人々の前で説法をするために入場してきたとき、ただ黙って蓮の華を手にして歩いてきた。
 そして、いつもの説法の位置に立ち止まると、おもむろにその華を拈って(ひねって=指で摘んで回したり、向きを変えたりしながら)差し出し、ただ黙って人々にそれを示した。
 居合わせた人々は誰ひとりその意味が分からず、ただシーンとして、釈尊が語りはじめるのを待っていたが、釈尊はただの一言も喋らない。
 しかし大衆の中でただ一人、摩訶迦葉(まかかしょう=マハー・カーシャパ)という弟子だけが、顔をクシャクシャにして笑っていた。
 釈尊はそれを見つけて、
『言葉で説いて伝えるべきことは既に多くの人たちに伝えた。しかし、言葉には出来ない、もっと大切なことを、たった今、この摩訶迦葉に、そのすべてを伝えることが出来た』 
───────と言われた。

 この言い伝えを「拈華微笑」という。

 「拈華微笑」の故事は、釈迦の死の直前に書かれた経典である大般涅槃経などの解釈では、釈尊の死の直前期に迦葉が側におらず、釈迦の臨終にも居合わせていなかったことなどが指摘され、この伝説を史実に反するものとする研究もあるが、紀元前何百年という古い時代に、仏陀釈尊の周辺に起こった事柄の真偽よりも、釈迦や仏教がその伝説を以て示そうとした、決して言葉や文字としては表現され得ない、偉大なものの「内容」が如何にして正しく伝承されるべきかと言うことこそが、史実を超えて大切にされなくてはならないのだと思える。

 本当の意味での、トータルな伝承、というものが存在する世界──────────
 それは、言葉や形では決して十全に伝えきれないものを、丸ごと、その存在自体、そのものを次世代へ直截伝達するための、最も偉大な方法なのだと思える。
 
 そして、大いなる武藝文化を継承する人に就いて、その正式な弟子になるということは、自分がそのような形で伝承を受け取るべき立場となる、ということでもあった。
 ただ単に伝統太極拳の真伝を修得するために秘伝の武術三昧に耽るだけでは、本物の弟子とは言えないのである。

 その「正式な伝承」という大きな責任を、自分がきちんと果たせるのか・・・・
 宏隆は、そのことについて、少なからず不安を持っていた。
 言葉で表されたものであれば、もしかすれば、或いは自分にも努力次第では可能なのかもしれない、と思う。秘伝書を良く読んで学習と研究に励めば、きっと理解できることだって多くあるに違いないのだ。

 しかし、あの霊鷲山での摩訶迦葉のように、言葉に出来ないものを師から全的に伝えられるようになるには、一体どうすれば良いのか・・・・

 それについての不安が、宏隆にはずっとつきまとっていたのである。


「次に、王永斌(おうえいひん)老師より、入門に際してのお言葉がある───────」

 ああ、ついにこの時がやってきたのだ、と宏隆は思った。
 ただの学生であった立場から、今日、あらためて正式な入門者として王老師に拝師するのである。これから、何がどう変わってゆくのか・・・・

 叩頭して頭を下げたまま、王老師の足元をじっと見つめながら、師の言葉を待つ。
 期待と不安とが入り混じったまま静かに佇んでいると、神戸南京町の秘密の地下道場で、王老師に就いて学んだ日々が走馬燈のようにグルグルと頭の中を巡ってくる。

「さ、顔を上げなさい────────────」

 師の優しい声が頭上に響き、宏隆は面(おもて)を上げた。

「この度は大変な目に遭わせてしまったが、よく無事で帰って来てくれた。
 私は伝承を託す立場として、また父君から君をお預かりしている立場として、無事にこの日を迎えることが出来たことを、とても嬉しく思う」

 宏隆によく分かるように、師は流暢な英語でそう語りかけた。
 考えてみれば、中華伝統武術への入門式であるというのに、平然と英語で語りかけられるということはある意味では可笑しなことかもしれない。しかし、この台湾・玄洋會にあっては、そのようなことには全く拘らず、常に開かれた方へ、つまらぬ外形よりも確かな内容の方へと物事が捉えられ、実際的に進んでいくことばかりだと感じられる。

「大変ご心配をおかけしました。玄洋會の皆さまのご尽力のお陰で、北朝鮮特殊部隊による拉致からこのように無事に帰ってくることが出来ました。本当にありがとうございました」

「本当によかった。しかし、今回の事件では、まるで武漢班チームの一員のような活躍ぶりだったと聞いているが?」

「いえ、活躍ではありません。ひたすらご迷惑をお掛けするばかりでした」

「ははは・・・まあ兎も角も、無事に戻ったのだから、よかった。
 しかし、いつどんな場合でも、決して自分の命を粗末にしてはならない。人間が真に取るべき行動や義勇の精神と、無謀な行為、暴勇とは全く異なるものだからね」

「はい、肝に銘じておきます」

「・・さて、私が受け継ぐ太極門に入門するための準備は、もうできたかね?」

「王老師の許で本格的に修行をさせて頂く覚悟はありますが、かのマハー・カーシャパが、釈尊の差し出す華に笑えたようには、まだ準備が出来ておりません」

「ん?──────────── ほう・・はははは・・・・・・」

 祭壇の前に居並ぶ他の老師たちも、その言葉を聞いて、顔を見合わせて微笑んでいる。

「君はまだ若いのに、いろんなことを学んできているようだね。これでは、私たちの側からは、取り立ててあまり言うことがなさそうなほどだ」

「済みません。余計なことを申し上げて・・・失礼しました」

「いや、構わないよ。その方が、此方の人たちも君という人間が分かるというものだ」

「はい」

「では、この度の入門に際して、大切なことを言っておこう────────────」

「はい、謹んでお話を伺います」

「入門というのは、言うまでもなく、門から内側へ入っていくことをいう。
 門というのは、ここでは太極拳という伝統武藝の門のことだが、門があるということは、
 その門の外側と、門の内側とがある、ということだ────────────」

「はい・・・・」

「門の外では、大勢の人たちが、その門が開かれるのを待っている。
 門の内側の世界が、如何に素晴らしいかということを聞きつけて、
 その門を潜って、門の内側に入りたいと希み求めながら、
 その門が開かれるのを今か今かと待っている人たちは、この世界に山ほど存在している。

 しかし、その門を潜って、中に入ることのできる人は、とても希だ。
 ただ単に、その門を見つけて門前へやって来ても、門は決して開かれはしない。
 自分で開こうと、苦心惨憺してあがいてもどうにもならないし、
 思い切り門を叩いて、内に向かって誰かを呼んでみても、決して門は開かれない。
 どのような門であっても、内側にしか開かれないように出来ているし、
 その門が開かれること自体、とても希なことだからだ。
 
 その門は、外に居る人の ”準備” が出来たときにだけ、そっと開かれる。

 それは、どのような準備なのだろうか────────────
 ただ単に、自分がその気になっているくらいでは、準備とは言えない。
 どれほど強烈に、強い情熱を以てその門の内側に入りたいと願っていたとしても、
 そんなものでは、まったく準備とは言えない。
 
 その門は、春になって花が花弁を開くように、自然に開かれるのだ。
 どの花も、ただ開く準備をしているだけで、
 自分で開こうと努力している花など、どこにもいない。
 それは、時が至れば、自然に開くような仕組みになっているのだ。

 長い冬のあいだ、北風に、枝という枝をすべて打ち震わせながら、
 夏には青々と萌えていた葉が、嘘のようにすべて枯れ落ち、
 死に絶えたように、もはや一枚の葉も、ひとつの木の芽も見当たらない。

 もはや骸(むくろ)としか思えないような、枯れ果てた一本の樹が、凍えながら、
 弱々しい些(すくな)い陽差しを愛しむように受け取り、
 大地からの眼に見えない恵みを閑かに、密やかに受け取りながら、
 根気よく、春が来るのを待って、
 待って、待って、ずうっと待ち続けて────────────

 少しずつ、少しずつ、その樹の中で花が開くための力を蓄えては、
 静かに、おし黙ったまま、またひっそりと蓄えて・・・

 ほんの小さな、とても小さな芽の中に、
 幾重もの花弁を、堅く、強く重ねていきながら、
 暖かくなる日を、ただじっと待つ・・・

 やがて────────────
 さあ、その樹は、もういつでも花が開くための準備が出来た。
 冬という季節は、新しく花が開くための時間として、どうしても必要だった。
 青々とした葉を一枚残らず黄色く枯らせて落とし、自ら骸(むくろ)のようにしたのは、
 ふたたび初めから、また一から新しく生まれ変わったように、
 自分自身の中で、何もかもやり直すためだった。
 
 ある日────────────
 ほんの少し、大地の温もりが感じられるようになった頃に、
 小さな芽の中に、幾重にも堅く、堅く重ねて蔵(しま)われてあった花弁は、
 そっと、その蕾(つぼみ)を弛ませ、花として開き始める。
 自分が開くのではない。
 大自然が自分を導き、それを開かせてくれるのだ。

 それこそが、門が開かれるということだ。
 そのように、その人に門が開かれることを、入門というのだ────────────」



                                (つづく)



   *次回、連載小説「龍の道」 第63回の掲載は、4月27日(水)の予定です
taka_kasuga at 22:40コメント(11)連載小説:龍の道 | *第61回 〜 第70回 

コメント一覧

1. Posted by まっつ   2011年04月15日 01:16
王老師の言葉には、人為を越えた「道」あるいは「仏性」の世界を、
自らがその間を通ってきたが故に喝破できる凄味が感じられます。

禅語には、
「一華開五葉、結果自然成(いちげごようをひらき、けっかじねんになる)。」
と花開を擬えた(なぞらえた)句があり、呆れるほどに単純な意味の筈なのに、
複雑な人にとっては深さを湛えた表現に感じられたりします。
「人為」を合わせれば「偽」という字に成るように、
人の行為とは、兎角も天然自然からは離れてしまう性なのでしょうか・・・

同じく禅語には、
「老梅樹の忽開花(こつかいか)のとき、花開世界起(かかいせかいき)なり。
花開世界起(かかいせかいき)の 時節、すなはち春到(しゅんとう)なり。」
との句もあります。
王老師の言とも重なる禅の透徹した世界観を前にすると、心は静かに鎮められます。
花は開く、春に到る・・・世界とは面白いものだと思います。

「入門」の意味する処は、
小生の如く凡夫の考えでは測れそうもありません。
ただ・・・
> ”準備” が出来たときにだけ、そっと開かれる。
との斯くの如き明確な指示は示されている訳ですので、
その時に向けて備えるべく精進する事を全うしたいと思います。
 
2. Posted by マルコビッチ   2011年04月18日 00:18
入門ということの真の意味を深く考えさせられ、
また、一本の木が長い冬の間に些い陽差しを愛しむように受け取りながら、
暖かくなる日をじっと待っている・・・大自然が自分を導き・・・という話は、
大自然の秩序というか、大いなる絶対的な愛のようなものを感じ、
何かとても心打たれるような思いでした。
人はなかなかその木のようには待てない。
人任せにして本当に只ぼーっと待っていたり・・
門を力ずくでこじ開けようとしたり・・
その木のように、一瞬たりとも休まず、トータルに待ち続けることは
なかなか簡単なことではないと感じました。

だいぶ以前、オーストラリアの正式弟子の方が武藝館に入ったばかりの時に、
まだ套路もそんなにやっていない時に、師父のあとにぴったりついて套路を
されたのですが、何から何まで師父とぴったり同じで、
見ている人皆が圧倒され、その場の空気がそこだけ異っていたようでした。
それは私にとって忘れられない出来事として、今も目に焼き付いています。
あの時、彼女は本当にトータルに師と共に在ったのだなと思いました。
 
3. Posted by 円山玄花   2011年04月21日 03:36
>自分が開くのではない。
>大自然が自分を導き、それを開かせてくれるのだ。

>それこそが、門が開かれるということだ。

「入門」ということを、このように表現する人がどれ程いるのでしょうか。
ひと言ひと言が心に染み込む、そして今も染み込み続けている、味わい深いものでした。

「自分で開かねばならない」と思っている花は、その為に日々を不安と緊張の中で過ごし、
開かないのは自分が不勉強なせいだと、力不足なのだと焦りを感じ、さらに身を固くします。
…そんな花はこの世に存在しないのですが、人はなかなか大自然に身を委ねられません。
その「身を委ねる」ということこそ、入門の準備が整った状態だと言えると思います。

しかし、そうは言っても、委ねても委ねても、自分の奥深くに根付いていた緊張に気づいては
驚かされているのが自分の現状ですから、準備にはほど遠いように思えます。
ただ、そのようなことを繰り返しながらも、もう一瞬前の自分とは違っていることを感じます。
決して同じところで同じ問題を抱えていないのは、本当に、太極拳のお陰だと思っています。
 
4. Posted by 太郎冠者   2011年04月21日 22:11
>「拈華微笑」
素晴らしい教えだと思います。
奥底で働いている自然の流れを、受け入れ、委ね、任せ、ただ待つ。

何かをすることと、何かが起きることの違い。
結果として物事が動くことには変わりはないけれど、明確な違いがある両者。

それを教わり、自分で味わう道があるということは、本当に喜ばしいことです。
武術としてだけでなく、太極拳は本当に偉大な道だと、ただただ感動するばかりですね。
 
5. Posted by bamboo   2011年04月23日 23:30
心がふわぁっと広がっていくような安らぎを感じました。
いつかの孟子の説明のような・・そんな「大きさ」のようなものも感じました。
自分は一般門人として入門させていただいてから、いつの間にか今までなかったようなことをするようになり驚いていますが、その後でも心がけというものが大切ですね!

「日常」と「非日常」を、いろいろよく咀嚼してみたいと思います。
 
6. Posted by 春日敬之   2011年05月13日 15:00
☆皆さま〜!!

中々コメントバックが出来ず、たいへん申し訳ありません。m(_ _)m
この頃、とっても忙しくって云々・・・・ひいっ!(汗)
でも、遅れても必ず返事を書きますから、どうか勘弁してやって下さいマシ。
 
7. Posted by 春日敬之   2011年05月13日 15:05
☆まっつさん

>「人為」を合わせれば「偽」という字になるように

「人為」はまさに「偽」という文字の成立ちで、ヒトが何かをナセばニセとなる?・・ンでしょうかね。ならば、その反対は「天意」というべきでしょうか。
人が何かを人の思考で為せば、それすなわち偽物であり、天真爛漫に大自然の法に則って天意を汲めば、それすなわち九連宝灯(チューレンパオトウ)・・じゃなくて、天衣無縫、為すこと皆すべて為さざるが如ク、となる・・・というコトかもですね。
???・・・なんのこっちゃ(汗)
 
8. Posted by 春日敬之   2011年05月13日 15:10
☆マルコビッチさん

>オーストラリアの正式弟子の方が武藝館に入ったばかりの時に・・・・

素晴らしいお話ですね。
それこそが以心伝心、本当に伝承が可能となる状態なのだと思います。
今どきの若い人は、テストで威信電信なんて、答えを書くらしいですけど・・・\(◎o◎)/!
 
9. Posted by 春日敬之   2011年05月13日 15:20
☆玄花さん

>委ねても委ねても、自分の奥深くに根付いていた緊張に気づいては驚かされて・・・

きっと、その緊張を解くものが、放鬆なのでしょうね。
師父が常々「放鬆は脱力に非ず」、と言われている所以が明確に理解されてきます。
もし放鬆イコール脱力なら、緊張から解放されることは出来ても、
その緊張そのものを理解することなど、決して出来ないことでしょう。
そして、その緊張の正体が理解されない限り、緊張は再々、度々、何度もやってきて、
私たちを脅かし続けるに違いないのです。
放鬆は、その緊張と闘わない唯一の方法であり、
その緊張を理解できる唯一の方法であるのだと、私は思います。
 
10. Posted by 春日敬之   2011年05月13日 15:25
☆太郎冠者さん

>太極拳は本当に偉大な道だと、ただただ感動するばかりですね

先人たちが太極拳をここまでの「道」にするには、並大抵のことではなかったと思います。
彼らは非常に知的な人たちであり、人間性を大切にし、人が成長していくことこそ武術の上達に
繋がるのだと確信していたと思えます。
私たちは、その遺産を粗末に扱うことなく、心して汲み、日本人の感性による更なる研究発展を
目指して、努力を怠ってはならないと思います。
 
11. Posted by 春日敬之   2011年05月13日 15:30
☆ bamboo さん

武藝館に入門すると、だれもがどんどん変容していくので、とても不思議ですね。
自分も、この道に入ってからは可笑しなことばかり・・・
いやいや、不思議なことばかり起こり続けています。(笑)

「手のひらに立てた棍のように・・」という表現を、師父はよく使われますが、
それをずっと立て続けようとしている状態が、大切なのだと思います。
ちょいとズルをして掴んでしまえば、
まるで、棍がいつでも立っているように錯覚していられるんですけどね。
そんな錯覚が許されない、いつも眼を覚まさせていられるのが「道場」というところ。
何があっても、どんな場合でも、自分が道場で学んでいなければどうにもなりません。
いつも道場があって、いつも道場に通える自分たちは、とても幸せです。
 

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