2011年04月07日

練拳Diary#38 「推手について」その1

                        by 教練  円山 玄花



 推手は、太極拳の訓練体系の中でも套路の訓練とは「表裏」であると言われる、欠かすことのできない重要な練功です。
 およそ太極拳を学ぶ人であれば、その存在や動作を知らない人は居ないと思いますが、現代に於いては、推手と聞くとすぐに推手競技がイメージされたり、相手と二人で手を延々とグルグル回しながら機を見てエイッとばかりに発勁を喰らわしたり、グルグルと手を回した後に、相撲のように組んで相手と投げ倒し合う、といったような印象が強いかもしれません。
 推手競技も、それはそれで大変結構なことではありますが、私はここで今一度、太極拳の訓練体系における推手の役割と学習システム、そして推手が太極拳の戦闘理論とどのように繋がっているのかを紐解いてみたいと思います。

 今回、推手を紐解いて行こうと思った一番の理由は、私の中で套路の型とその学習システムがようやく「太極拳の戦闘理論」に結びついてきたからであり、そこには推手の学習と理解が絶対的に必要不可欠であると切実に感じられるからです。
 また、私たちが実際に推手の稽古を行う際には、推手を訓練する意味や拳理拳学との結びつきについて、膨大な内容を詳細に亘って指導されているのですが、世に出回っている太極拳推手の情報を眺めてみると、自分にとって目新しい形や動きを目にすることはあっても、肝心の推手理論となると、それが専門雑誌や単行本であっても、「化勁」や「虚実」「捨己従人」「人不知我、我独知人」など、見慣れた要訣やお定まりの四文字熟語が並ぶばかりで、なおかつ、それらがただ読み下されているものが殆どのように思えます。
 中には、推手の紹介でいきなり「推手技法」が解説されているものも多く目につきますが、見る限りでは、『相手の腕をどのように押さえ込んでおけば、どの方向へ崩しやすい』とか、『相手のバランスを崩して、後は勢いに乗じて攻撃する』など、なにもわざわざ「推手」の形を取らなくとも練習できそうなことが数多く書かれていたりします。
 これでは一体全体「推手」の目的と意味は何であるのか、なぜ太極拳の訓練体系に推手が必要不可欠であるのかということは分からず、少なくとも私にとっては理解し難いものであり、不満や疑問が多く残ってしまうものでした。
 以上の理由から、私が太極武藝館で学んでいる推手の「もう一つの考え方」を、自分で振り返りつつ、ここに述べてみようと思い立った次第です。


 さて、いきなり小館の「推手学習システム」を事細かに論じるのもおかしなものですから、まずは私が思う太極拳の推手について、幾つかお話ししておきたいと思います。

 そもそも、推手は単純に片方の腕を回すものから、両腕を合わせて複雑な動きをするような、初心者には少々難解に思えるものまで、すべて一対一で行い、しかも終始お互いに向かい合って手を触れている状態で行われます。
 しかし、まず、この状態が、私にはとても不思議に思えてなりませんでした。
 武術なら、一対複数が当たり前ではないのか?・・・なぜこんな風に、ひとりの相手にしか ”対応” できないような形を使って訓練をするのだろうか?・・と。

 今にして思えば、当時は真の武術性が如何にして養われるかということなど知る由もなく、朧気ながらにも一対一の戦いだけを考えていてはイカンのではないか、などと考えはじめていた頃でした。
 そんなときに開いた武術の本には、大抵が「相手を傷つけることなく、思わぬ事故を起こすことなく、お互いの技量を計れる優れた徒手競技法」として紹介されていました。
 たまに「内勁」や「化勁」について書かれていたものには、「推手は化勁の基礎や打撃のタイミングを養成する」とか、「推手で攻防の基本技術を会得する」などということが書かれていましたが、具体的な練功方法としては明記されておらず、馴染みがあるようでいて無い、実際には想像するばかりになってしまう漢文読み下しの要訣文に頭を悩ませ、疑問ばかりが残ったものです。これが本当に太極拳という武術なのだろうか──────────と。

 これまでにも拙文で折に触れて述べてきましたが、太極拳の求める「強さ」とは、すなわち「生き残れること」であると思います。それは何も太極拳に限ったことではなく、古今東西どの武術を見ても、本当に戦えることが必要とされる世界にあっては、そこに共通する「強さの本質」を見てとることが出来るものです。
 その「生き残れること」が求められる世界では、当然の如く一対複数の戦闘が前提とされ、しかも相手は必ず複数の武器を所持しているのが当たり前である、という意識でもって訓練に臨むわけです。
 これは、円山洋玄師父の国内外における豊富な戦闘経験を伺っても同じことで、特に海外では相手が金品を狙うような目的を持っている場合には、複数の相手が大小の武器を隠し持っており、尚かつ人気のないところで囲まれて襲われることが多く、日本人旅行者の一人くらい、殺されようが行方不明になろうが、当局はそれほど真面目に関知しない、ということです。
 そのようなお話を聞く度に、武術家はたとえタマゴやヒヨッコであっても、国内外を問わず不穏な情勢の現代を生き残る為に、どの様な意識を持って武術の稽古に臨むべきかが再認識される必要があると、強く思われてなりません。
 「どの様な意識を持って稽古に臨むべきか」というテーマは、それが明白であるか否かで、同じ稽古内容を同じ時間こなしたとしても、身に付き養われるものが全く異なってくるという、大きな問題ではありますが、それについては、また改めて述べることにします。
 

 さて、その絶対的に不利である戦闘状況に於いて、「生き残れる」為には、ちょっとやそっと強い打撃が打てようと、素早いフットワークで動けようと、何ら戦闘能力の足しにはならないということを昔の人は嫌というほど承知していたはずです。そこでは「絶対的なもの」つまり「相手の攻撃は当たらないが、自分の攻撃は当たる」という絶対的な戦闘原理を手に入れるための、想像を絶する工夫や研鑽が為されたのに違いないのです。
 そして、そのような目的のためにこそ、推手が訓練体系に組み込まれたはずであり、それが単に一人の相手と接触してから後の攻防を理解修得するための、接近戦のための訓練方法などであるはずがない、と私は思います。
 先ほど武術は一対複数が前提であると述べましたが、ここで大事なことは、例えば私たちの稽古に於いては、実際にパートナーに複数の武器を所持して襲いかかってもらうような設定をして訓練を行うわけではない、というところです。
 私はこのところこそ、日常と非日常の考え方が、そして武術と格闘技との違いがはっきりと分かれるポイントであると思っています。

 なぜ太極拳の学習は、ゆっくりとした動きから始められるのか。

 なぜ太極拳の訓練では、最初からダンベルや筋力トレーニングをしないのか。

 なぜ太極拳には、動体視力を鍛えるような練功が存在しないのか。

 なぜ太極拳の稽古は、「殴り合い、当て合う組手」を前提としていないのか。

 これらの事柄も全て、太極拳が日常の発想から始まっていないことに起因しています。
 一対複数が必至であるから、同じ状況を設定してその状況をクリアできるように反復練習をする、というものが西洋的・現代格闘技的発想であるとすれば、一対複数が必至であるから、一対一でも一対複数でも変わることのない、何れの場合も「同じ状況」にしてしまえる技法とはどのようなものであるのかを追求し、そこに法則を見出し、その原理を発見していったものが東洋的・陰陽太極武藝的発想である、と言えるでしょうか。
 そして、それ故に老若男女を問わず誰もが戦闘要員としての役割を担うことが可能となり、陳家溝でいえば、一族が一丸となって他部族からの襲撃に備え、誰に屈することなく、戦乱の世を今日まで生き残ることができたのだと思います。

 「推手」の存在の意味が本当に理解されれば、それは決して「一人の相手」に対応するための稽古方法などではなかった、ということが分かります。
 玄門太極の后嗣として十年間の歳月を経た今、これまでに学んできた太極拳の学習を顧みれば、「推手」こそは一対複数で生き残れることを可能にする、優れた高度な武術の学習システムであることが身を以て実感されてきます。


                                (つづく)

xuanhua at 20:30コメント(10)練拳 Diary | *#31〜#40 

コメント一覧

1. Posted by のら   2011年04月08日 15:16
推手というものを初めて眼にしたのは、ある太極拳の大会を見に行った時でした。
大勢で推手をしているのが、とても不思議に見えました。
何故あんなことをやるのかな、あれが太極拳の戦い方なんだろうか、
手を交差して、密着して、グルグル回して・・・・それっ、発勁っっっ!!・・(?)
でも、あんなので本当に敵に勝てるんだろうか?
たとえば、フルコンの〇〇空手とか、実戦拳法の〇〇拳とかにも、通用するんだろうか?
イザという時に、敵は、あんな風に都合よく自分と手を交差してくれるんだろうか?

そんな疑問を、さる太極拳教室の先生にぶつけてみたら、
「相手が攻撃してきたら、サッと懐に入って、素早く手を組んでしまうのです」
・・・と、ケロッとして仰いました。
「太極拳では、そうやって敵と戦うのですか?」とお聞きすると、
「そうですよ。相手の攻撃をフワリと受けて貼り付き、化勁で相手を倒すのです!」
・・・とのこと。

でも私は、フルコン空手の攻撃をフワリと受けて貼り付き、
化勁でバッタバッタと倒している太極拳を一度も見たことがありません。
そう、もちろん、太極武藝館で見せられているものを除いては、のコトですが。

「推手」は武術の練功として、どのような意味を持つのか。
玄花后嗣の新シリーズで明らかにされていくと思うと、今からとても楽しみです。
 
2. Posted by 円山玄花   2011年04月10日 03:31
☆のらさん
>「推手」は武術の練功として、どのような意味を持つのか。

まさに、今回のシリーズで私が書きたいことがソレなのです。
武術界では、これまでにも推手について様々なことが言われてきましたが、
ざっと見てみますと、
推手を美しくこなすことに焦点をあてている…ものは少ないにしても、
推手から相手を吹っ飛ばすことを強調していたり、
推手は特別練習しなくても、基本訓練や套路を稽古していれば”できる”ようになっているものだ、
としていたり、本当に様々です。

様々なのですが、しかし武術の練功としての意味までは、なかなか述べられていません。
たとえば、推手が”できる”ことと推手が理解されることは、違うはずです。
大切なことは、推手ができるとかできないとか、推手をどのように使えるかではなく、
推手を理解しようとすることによって学べる、太極拳の「考え方」だと思います。
そしてそれこそが、言ってみればひとつの「秘伝」なのではないかと思うわけです。

本文中にも書いたとおり、私自身が”推手が必要だ!”と、感じ始めたところでありますから、
どれほどのことをお伝えできるのかもわかりませんが、どうぞよろしくお願いします。
 
3. Posted by とび猿   2011年04月10日 04:44
以前、日本の柔術を少しだけ学んだことがあります。
二人で正座をして向かい合い、取りと受けに分かれて静かに型を稽古しました。
その時は型が技に見えてしまい、このように掴まれたらどうするかといったことを
練習しているように思ってしまいました。
しかし、相手がそう都合良く掴んできてくれるとは思えないし、
そもそも、突きや蹴り、武器で襲われたらどうするのだろうかと、悩んだものです。

それからしばらくして、太極武藝館で太極拳を学んでいるうちに、
武術というものはその様なものではなく、また、型というものが武術を理解し、
稽古していくためにとても大切なもので、型があるからこそ、武術を理論的、体系的に
学習することができ、訓練することができ、追求していくことができるのだと思えてきました。
すると、推手も型として見えてき始めました。

今では、推手はまるで套路や基本功等と対になるもののようであり、
車の両輪のような関係の練功であるように思えてきます。
 
4. Posted by まっつ   2011年04月10日 09:32
冒頭、推手と套路が「表裏」である・・・とは、
面白い謎掛けだなと思いました。
恐らくその字義の解釈は、受け手の武術観を反映し、
様々な表現に割れるのではないかと感じました。
今後の「推手について」の中で、その謎解きをどのように展開して頂けるのか、
実に楽しみです。
 
5. Posted by 円山玄花   2011年04月11日 18:59
☆とび猿さん
推手は、太極拳がどのような種類の拳法なのかを教えてくれる、優れた「型稽古」ですね。
また、「型」はその形がシンプルであるが故に、各々の考え方や発想が如実に反映され、
ときとして「型の使い方」のように誤解されることがあるようです。
大事なことは、型の使い方ではなく、型そのものが何を表しているのかだと思います。

私たちは推手の型を使って何を理解していく必要があるのか。
今回のシリーズでは、その辺りのことを掘り下げていければと考えております。
どうぞよろしくお願いします。
 
6. Posted by 円山玄花   2011年04月11日 19:03
☆まっつさん
私がお聞きしたのは「表裏」という言葉でしたけれども、
「推手と套路は骨と肉の関係である」という記述を読んだこともあります。

実際に推手の稽古をしてみて思うことは、「套路と推手は別のものではない」ということです。
守らなければならない要求も、整えるべき身体の在りようも、何一つ変わるものはありません。
ただ、相手と手を触れているということによって、自分の変化を感じ取りやすくなりますし、
自分と相手とがどのような関係性になっているのかが、とても分かりやすいと思います。
そのような点を考えてみると、套路と推手とは、ひとつのものの中の、質の異なる二つの要素、
つまり、陰と陽、表と裏、などと表現できると思います。

太極拳は、確かに謎解きだと思います。
そして解き明かしていくうちに、解かされていた謎は、
もしかしたら、他ならない自分自身のことだったのかしらと思うことが度々あります。
推手の旅はまだ始まったばかりですが、どうぞよろしくお願いします。
 
7. Posted by マルコビッチ   2011年04月11日 21:39
推手はとても興味深く、私にとっては謎がいっぱいです。
今回のこの新シリーズはなんだかワクワクします。
今までに、何回か推手の稽古をしましたが、
「・・基本功と同じ・・歩法と同じ・・」なんて頭の中でつぶやきながら、
ひたすら師父や玄花后嗣の形を真似しようとするばかりでした。
推手は套路とちがって相手がいますので、私にとってはなおさら難しく感じられ、
化勁ということも、いまだにそのシルエットはまるで私自身のようにうすらぼんやりしています。
あせらず、一つ一つ重ね合わせ、その形がみえてくれば良いなあと思います。
よろしくお願いします!!
 
8. Posted by 太郎冠者   2011年04月12日 16:56
>推手は、太極拳の訓練体系の中でも套路の訓練とは「表裏」であると言われる
なるほど、これは面白いですね。
確かに、この前提条件が間違ってしまうと本文に書かれているような、
腕をぐるぐる回すといったマチガイに陥ってしまうことになりますね。

対複数戦闘の想定が当然である武術で、なぜ推手のように
ひとりの相手に密着して行う稽古が用意されているのか。
考えれば考えるほど、面白くて味わい深いものだと思います。

推手について、話がどのように展開していくのか。
楽しみにしています。
 
9. Posted by 円山玄花   2011年04月14日 02:24
☆マルコビッチさん
>今回のこの新シリーズはなんだかワクワクします。
そう言っていただけると、書く甲斐があります!

勉強でも稽古でも、「ワクワクする心」って、大事ですよね。
何よりも自分が歩を進めてゆくための大きな活力になります。

考え方ひとつで、ムツカシイと思えた事柄が、ワクワクする事柄に変わる。
ワクワクする事柄に変わったら、見え方が変わるし、世界も変わる。
そんな感覚をお伝えできればと思って、今回のシリーズを書きはじめました。
皆さまの勉強や好奇心の一助になれば、たいへん嬉しく思います。
どうぞよろしくお願いします。
 
10. Posted by 円山玄花   2011年04月14日 02:27
☆太郎冠者さん
本当に、味わい深いものですね、太極拳とは。
また自分が変われば、その分味わいも変わりますから、
どれほど味わい尽くせるかは、やはり自分次第なのですよね。

推手は、太極拳を理解するためのもう一つの勉強方法のように思えます。
武術訓練としての推手の意味に迫るのはもちろんですが、
物事を学ぶための方法としても、見ていければと思っています。
どうぞよろしくお願いします。
 

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