2011年04月03日

門人随想 「今日も稽古で日が暮れる」 その9

 「 カガクする心 探求する心(2) 〜途方にくれて〜 」

                      by 太郎冠者
(拳学研究会所属)


 円山洋玄師父は常々、「太極拳は科学である」として、指導をされている。
 今回、内容に偏りが出るであろうリスクを恐れず、科学について考えていくことにする。
 太極拳について考えるにはあまりに遠回りな気もしなくもないが、時として遠回りこそが最短のルートとなりえることもあるのだ。
 
 今回、そううまくいくかどうかはわからないが・・・。

 もちろん、科学だけについて考えていても、道はどんどん外れていくばかりであるので、そういうときこそ、我らが太極拳に指標として、導いてもらうのである。

 さて、では肝心の話題に入ろう。
 科学とは何か。それは時代によっても変わるし、何をどう定義するかによっても変わってしまう。一言ではなんともいえない。そもそも、このような短い記事の中で全てを語りつくせるようなら、科学哲学などという分野は生まれず、古代から脈々と続く知と考察の体系など、無用の長物となってしまう。

 地球誕生から現在まで、およそ一千億人の人間がこの地上に存在したとされている。その中でも、自分のような凡人が及びつかない天才が、数多く生まれては去っていった。彼らが自身の生涯をかけ追求し、それでも果たせることなく、次代へと引き継がれていく仕事。  
 その仕事の最も根幹となる疑問を、自分のような、この島国の片田舎にぽつんといるだけの若造が、こんな短い文章で語りつくせる可能性など、いったいどれほどあるだろうか!
 いや、ありはしない。

 ・・・はて、いきなり途方にくれてしまった。

 曖昧模糊、あまりに漠然とし、小さな一個人の追及など鼻で笑うかのごとくあしらわれるこの「世界」の大きさ、深遠さ。
 自分がどのようにあがきもがき、苦しもうとも、そのようなものは歯牙にもかけず、この世界は循環し続ける。その中で、ひとりの人間の存在など、塵芥に等しいのだ。

 ・・・しかし、ここで挫折するわけにはいかないのだ。
 それでも僕の命は、僕に「生きよ、追求せよ」と命ずる。自分の中で波打つ鼓動は、僕自身をとどまらせることを許さない。たとえちっぽけであろうとも、いや、ちっぽけであるからこそ。世界を切り開くことを求めるのだ。そうして僕は再びディスプレイに向かい、キーボードを叩き始めるのだった。

 お分かりいただけただろうか。

 「何が?」

 当然の疑問である。

 「これ」が、科学のはじまりである!

 この、とてつもない世界に目がくらみ(そもそも、世界って何?というところから・・・)途方にくれたひとりの人間。それでも、自らの足でもって歩み始める瞬間、それこそが科学のはじまりであるといえるのではないだろうか?
 カガクする心、探求する心の芽生えだ。

 世界は誰にとっても、常に未開のジャングルである。太極拳という道を歩むことを志した我々にとってもそうであるし、また、看護を志したナイチンゲール女史にとっても、そうであったに違いない。進む道は無く、木は生い茂り視界もない。数メートル先も見通すことはできず、足で探り、手で探り、日の光も届かない密林を、少しずつ少しずつ進んでいくことを余儀なくされること、それこそが科学であり、研究である。我々の心にともされた炎は、密林の木々や枝、足元のぬかるみ、そのようなもので止められない力を持っている。
 それでも、どうしても進むのに困難が生じる瞬間がある。そのとき、我々はその手にあらゆる道具を持っていることにはじめて気が付くのだ。
 枝を払う刃物、方位を示すコンパス、先人の残してくれた偉大な遺産の数々。
 それらをどう使うか? そこでもまた、我々は試されることになる。

「ヒントはどこにでも転がっている────────────」

 師父の言葉が、ふっと頭をよぎる。

 科学の志から生じる、科学的技術、技法、知識・・・。
 それらのものが、道具となり、武器となる。

 ナイチンゲールは、統計学をその武器とした。

 では我々は、武術という密林を歩くとき、果たして何がその武器となるのか。
 具体的に考えていくことにしよう。

 引っ張るだけ引っ張って、つづく。


                                 (つづく)

disciples at 02:52コメント(12)今日も稽古で日が暮れる  

コメント一覧

1. Posted by 円山玄花   2011年04月04日 22:16
昔は、”科学”と聞くと、すぐに白衣を着た人が実験室で試験管を持ち、
その試験管から煙を出しているシーンが思い浮かべられたものです。
ですから、師父から「太極拳は科学である」と聞いたときには、
何のイメージも思い浮かばなかったので、さっそく辞書で調べてみますと、
”科学”とは、以下のように記載されていました。

『ある対象を一定の目的、方法のもとに実験、研究し、その結果を体系的に組み立て、
 一般法則を見つけだし、またその応用を考える学問』

この文を読んで、太極拳が科学であるということに、大いに納得したものです。

太極拳は、ただ教わったことを繰り返し練習していても身には付かず、
ただ教わったことをノートにまとめていても、自分の功夫は伸びませんね。
何かを身に付けるには、或いは何かを修めるためには、そこに自身の理解と実践が必要不可欠で
あり、それ故に太極拳の訓練体系を見出すことが可能になります。

その、やり始めるまでは少々しんどそうに思えることを、
やってみようと踏み出せるエネルギーが、”カガクする心、探求する心”だと言えるでしょうか。

次回のお話を、楽しみにしています。
 
2. Posted by マガサス   2011年04月06日 23:37
よっ、待ってました!
「今日もカガクする心で日が暮れる」の、第二弾!!(笑)

むむ・・しかし、イントロダクションの第二弾のような気が・・・しなくもないですが・・・・
まっ、いいか。ヒトにはいろんな都合ってモンがあるっすよね。 (^^)

科学ってのは、のらさんも「站椿」の最終回で、

 「科学的な態度」というのは、実践することの中で気付いたことを基に、そこから仮説を
 立て、さらなる実践を繰り返しながら検証して行き、幾度となくその仮説を修正することを
 繰り返して行くことに他ならないが、太極武藝館で指導を受けていると、誰もが太極拳の
 中身が非常に科学的なものであることに気付かされ、科学する目が養われていく。

・・・と、書かれていましたね。
私はあの一文がとても印象に残っています。

日頃の稽古に於いて、自分の理解と実践の中で、カガクする心を以て未開のジャングルを
開拓してゆく・・・・さて、その際の武器は何であるのか。

「オトコにはオトコのブキがアルっ!!」

私たち読者を未開の「科学」という、♪白い〜マーットのぉ、ジャーングルにぃ、連れて行って
いただけることを楽しみにしております。(そう言やぁ、武藝館のマットも白だったッスね)

え・・?、まさか、そのジャングルに読者を ”引っ張るだけ引っ張って” 連れて行っておいて、
”途方に暮れて” ご自分だけこっそり帰る・・・何〜んてコトはないッスよね・・(笑)
次回も、楽しみにしておりま〜す。
 
3. Posted by 太郎冠者   2011年04月07日 14:50
☆玄花さん
>ある対象を一定の目的、方法のもとに実験、研究し、その結果を体系的に組み立て、
>一般法則を見つけだし、またその応用を考える学問

確かにそうですね。
太極拳がおもしろいと思うのは、そういった検証に耐えうる体系を有していることだと思います。
そのおかげで、稽古をする身としては大分助けられているのを感じます。

道場の中での実際的な動きだけでなく、様々な要訣、観念なども理解する上での重要な要素になるように出来ていて、
それらが相補的に、修行者を成長させるシステムになっている・・・。

伝統武術、文化というのは、すごいものだと感じます。

>やってみようと踏み出せるエネルギーが、”カガクする心、探求する心”だと言えるでしょうか。

同時に、なにがなんだかわからないけど「やってやる!」
というエネルギーだけがある状態を、
正しい使い方に導いてくれるのもカガクかな、と感じますね。
やる気だけだと、空回りすることが大です(笑)
 
4. Posted by 太郎冠者   2011年04月07日 15:03
☆マガサスさん
>イントロダクションの第二弾のような気が・・・
う・・・。それは、まぁ、気のせいなんじゃないでしょうか??

決して、
>”引っ張るだけ引っ張って” 連れて行っておいて、
>”途方に暮れて” ご自分だけこっそり帰る・・・
なぁんて、そんな非道なことは・・・決して・・・はい・・・。

しかし稽古中、師父に「こんなことブログに書いたら命がないぞ・・・(にやり)」
と言われていることもありまして、そうした面を考慮しますと、これは書いたらマズいなぁ・・・と思うことがいくつか出てきまして、
それにより諸般の都合で検閲が入る、あるいは自主規制を行う場合がございまして、
そうした場合におきましては、当初こちらが想定していた論旨を正しく伝えられない可能性が出てきまして、
皆様方をジャングル上に放り出した上で撤退させていただくことがなきにしもあらず、ということをご了承の方のみ、ここから先に進んでいただければ、と思っている次第でありまして、
これは決して言い訳を最初に言っておこうとか、そういうことではないのでございます。

と、冗談はさておき、こうして引っ張って前フリをすることにも、意味があるのです!
(・・・おそらく!!)

遠回りしつつ迂回しつつも、普段は見えない何か新しい景色が見れたらいいなと、
思っております。
 
5. Posted by bamboo   2011年04月07日 23:12
まさに命懸けの原稿ですね!さらに期待しますよ〜^^

たしかに、一歩踏み誤ればたいへんな事を招くこともあるこの世界。どうにもならないことも
ありますが、自身のあり方は我々が自覚している以上に大きく関わっているのでしょうね。
個人的には、追究したい反面、なにかそれに恐怖のようなものを感じることも多々あります。。
特に独り稽古の際に。結局やりきるとあの独特な清々しい狂気に包まれてホッとするのですが。。
お言葉を借りれば、そうした現象も科学することで武器となり得る価値があるのかもしれませんね・・。
 
6. Posted by まっつ   2011年04月08日 00:00
世界の謎、未知にぶち当たった時、
人は驚愕し、畏怖か好奇心かの何れか(あるいは両者か)を抱くようですね。
そこで好奇心を選ぶ人は、未だ知られざるその対象に対して、
光を投げかけ、照らし、「見よう」と試みます。
その光こそが道具としての科学であり、
「見よう」が動因としての好奇心なのかなと思います。
 
7. Posted by とび猿   2011年04月09日 12:33
何かに興味を持ち、その対象に思いを馳せ、やってみて、途方に暮れる・・・
さて、そこから、自分に折り合いをつけて趣味として付き合っていくか、追求が始まるのか。

追求が始まれば、幾つもの困難に出会うだろうし、失敗は付き物。
今まで積み重ねてきたものは崩れ去るし、もちろん何の保証もない。
しかし、その様な事には負けず、情熱を以て突き進んでいく。

過去の偉人の伝記を読んでいると、その偉業に感動もしますが、
どのような困難にもめげずに向かっていく心意気にこそ、惹かれるものがあります。
 
8. Posted by 太郎冠者   2011年04月16日 00:51
☆bambooさん
すみません、返信が遅くなりました。コメントをありがとうございます。

太極拳を追及すればするほど、人間としての構造と自然法則に
沿った体系であるのだ、と思わされ、感動します。
同時に、逆説的ですが、自分自身の意識のあり方によって、如何様にも
動けてしまうところもあるのが、人間なのだと痛感させられます。

では、本当に原理に沿った状態とは、どういうことなのか。
意識のあり方で選べるからこそ、様々な面から追求することも出来、
また、本物を求める価値もあるのだと感じます。

なによりそれが、武術という自分の好きなことであることに、
とても喜びを感じるものです。
 

さて・・・ぼろっととんでもないことをこぼさないよう注意しながら、続けていこうと思います。
よろしくお願いします。
 
9. Posted by 太郎冠者   2011年04月16日 00:57
☆まっつさん
最近、稽古でいろいろと新しいことがみえてきました。
それはとても嬉しく、エキサイティングなことでもあるのですが・・・
不思議なことに、どこかで怖いと思っているのですよねェ。
ビビってる、というか、「こんなことを知ってしまっていいんだろうか」と。
もっとも、我々門人には公開され指導されている内容なので、
取れるぶんには良いのだと思いますけど(笑)

しかし、精緻な体系であり、また思いもよらなかったものがゴロゴロしているので、
もう、すんごい・・・ってなってます。

けど・・・人間の欲望と好奇心は止まらないのです(笑)
もっともっとスゴイものが見られるのかと思うと、やめられないですね。
 
10. Posted by 太郎冠者   2011年04月16日 01:03
☆とび猿さん
我々研究会は、週に五日の稽古に出ていて、改めて考えてみると
「多いなぁ・・・」という気がしなくもないのです(笑)

けど家に帰ってから、あるいはたまの稽古休みの日には、
ああでもないこうでもないどうなんだと、自分で稽古をしている。
それはもう、ふと気が付くと太極拳のことを考えているという状態です。
なんというか、あまりに壮大で、分からないことばかりで、全体像すら掴めていないのですが、
だからこそ余計に取り組みたくなるんですよね。

師父が「やめるなら今のうちだぞ(笑)」と仰ったのが、だんだん実感できてきたような気がします。

けど、たとえ一滴でもその味を知ってしまったら・・・
やめられないですよね!
 
11. Posted by みみずく   2011年04月16日 15:44
師父が太極拳は科学であると指導され、ヒントはどこにでもころがっている、科学の志から生じる、科学的な捉え方が道具となり武器となると言われますが、今ひとつ、自分にはピンとこないものでした。
しかし、コメントで玄花后嗣が「科学」の定義を添えられてあり、自分の問題点を照らし合わせてみると、とても「科学する」にはとてもほど遠い、丼勘定的な状態に思えました。
常に理論的であり、科学として捉えようとする志しを持っていること。
自分には、大変興味深いく重要な問題です。
 
12. Posted by 太郎冠者   2011年04月21日 22:02
☆みみずくさん
コメントをありがとうございます。

自分はこうして、手を変え品を変え、あーだこーだといろいろ書いたり考えたりしていますが、
本当はこんなもの必要ないんだと思います。
そういいきってしまうと、書いてる記事を全否定になってしまいますけどね(笑)

ただ、同じひとつのものを追求するにしても、見る角度によっていくつもの姿が生じてくるのではないか、
切り口はいくつもあっても良いのではないか?
そう思うから、色々とつついて遊んでみようと思ったわけです。

なので、もし良かったらもう少しばかり、自分の遊びにお付き合いくださいませ。
 

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