2011年01月08日

門人随想 「年の初めの例しとて」

                     by 小周天 (一般・武藝クラス所属)


 今年のお正月は、天気に恵まれた。年末にずいぶんと風が荒れたせいもあって、ことのほか気持ちのよい、清々しい一年の幕開けであった。
 元旦から三日間、遠州名物である「カラッ風」が一度も吹かなかったから…とは言い切れないが、心静かにじっくりと、太極拳やそれを学んでいる自分自身を振り返る機会を得た。

 私が太極拳を学ぶ中で一番難しいと感じるのは、「人との関わり方」である。
 他と戦い、我が生き残るための武術なのだから、それを学ぶ上で人との関わり方が難しいのは、ある意味当然のことかもしれない。それに、私だけではなく、誰にとっても人と関わることは難しいのだと思えば、無闇にアタマを悩ませる緊張もなくなり、ただきちんと勉強していくしかない、と思えた。

 「人との関わり」という視点で日常を振り返ると、人の言うことには耳を貸さずに自分の意見を押し通すか、自分の意見は胸の奥に仕舞っておいて相手の意見にただ合わせるかの二種類が見られると思う。そうして、「あの人はこうだ」「この人はどうだ」などという言葉が行き交いはじめ、ついには「腹の探り合い」なんてことまで出てくる。
 学生の頃は、そんなことを耳にする度に ”クダラナイ” と軽蔑していたものだが、いざ自分が社会に出てみて、たくさんの人種と関わる中で、ふとした時に自分もまた、 ”そちら側の人間” になっていることに気がつき、驚いたものだ。

 ところが、太極武藝館で学んでいると、日常で感じられる二種類の関わり方とは全く違う世界があることを思い知らされる。
 もし、指導されている内容ではなく言葉だけを捉えれば、「自分を挟まずにただ太極拳の要求に従え」と、そんな風に聞こえるかもしれない。私自身もまた、そのように思えた時期があったことを覚えている。「太極拳をやっていくのは自分なんだから、自分をしっかり持たなきゃ出来ないじゃないか!」と。今思い出しても余りの青臭さに顔が渋くなってしまうが。

 太極拳の学習を続けていると、「陰」と「陽」の両方を学びながら、実はその真ん中を勉強しているような気持ちになる。その ”真ん中” こそが太極拳の唯一無二の法則であり、この社会にも、人との関わりにも通用する法則なのだろうか、とも思えてくる。
 そう考えると、それを学ぶためには、やはり「自分」を挟まないことが条件であると納得できるのだ。学びたいのは「陰」と「陽」であって、そこに自分を挟んでしまったら、もう学べなくなってしまう。ましてやその学習過程で陰陽の ”真ん中” を勉強したいのだとしたら、尚更のことだと思える。
 因みに、私たち一般クラスの稽古では、太極拳の何が陰で何が陽か…などという講義や説明があるわけではない。また、改めてそんなことを質問する門人が居ないのは、稽古をしている中で自ずと実感されてくることだからだと思う。

 ”真ん中” を勉強することは、人との関わり方に置き換えれば、自分と相手の間にある物事や問題だけを見つめることと同じだと思う。その「問題」に自分も相手も挟まずに、お互いに問題だけを吟味することで、問題はよりスムーズに解決するだろうし、物事は益々発展させていけるのではないだろうか。
 そんな考え方に思い至ったとき、道場において耳にタコができるくらい指導されている、『ものごとを、ものごととして捉えること』という言葉の意味が、ほんの少し分かったような気がした。

 人間は、ひとりひとりが呆れるくらいユニークな存在で、この地球上にひとりとして同じ人は居ないに違いない。それ故に、ひとつの物事に対して感じることも、千差万別である。これでお互いに問題が起こらない方が不思議だし、人との関わり方が難しく思われるのも無理のないことである。反対に、ひとりひとりが違うからこそ、同じ感性を持つ人に惹かれたり、自分と全く正反対の気質の人に憧れを抱いたりもするのだろう。

 問題は、「ひとつの物事」自体は誰がどのように見ようとも決して変わらないということ。変わるのは、人各々の「見方」なのである。各人が持つセンサーも違えば目盛りの幅も異なるのだ。しかし、どれだけたくさんの見え方があろうとも、「ものごと」は変わらない、不変のものであるはずだ。
 一本の同じスコッチ・ウィスキーを飲んでも、そこに感じられる味や香り、アルコールの強さは人それぞれ全く違う。ある人は「これは強いお酒だ」と言い、またある人は「これはそんなに強くない」と言う。そして日常では、どちらの意見がどうなのかということが問題にされ、”ウィスキーそのもの” が問題にされることは少ないと思う。

 その、人によって変わる感じ方ではなくて、元の変わり得ないもの。それを味わった私たちの感じ方を問題にすると、気の遠くなるような人数と論を交えなければならないが、変わらないものはたったひとつである。
 そのひとつを、ただそのものとして皆が見られるようになったら…そのお酒が強いか弱いか、美味いか不味いかではなくて、そのお酒そのものを味わえるようになったら…と考えると、今とは違う、新しくも美しい世界が広がるような気がするのは、私だけだろうか。

 太極拳は、とても全体的な、偏りのない学問だと思える。
 陰も陽も、表も裏も勉強する。しかし、何のためにそうするのだろうか。
 私には、太極拳が陰でも陽でもない、”真ん中” を学ぶためにこそ、陰と陽とを勉強しているような気がしてならない。
 真ん中が分かれば、「物事」の真ん中も見えるだろうし、そこで生じた「問題」の真ん中、つまり核心も見えると思う。そうなれば、問題は問題でなくなるし、人は大事なところを外さずに生きられるのではないか、と思えるのだ。

 お正月早々、そんな風に考えてしまったのは、私が武術家志望ではなくて、主に太極拳の学問的なところに惹かれてこの道を選んだからかもしれない。
 この時代において、武術という非日常的なことを学ぶことが、即ち日常の社会生活に役立つという事はとても希だと思うし、同時にとても有り難いことでもある。
 太極学の学究の卵として今年も稽古に励もうと、心を新たにした一年の始まりとなった。


                                  (了)

disciples at 21:49コメント(6)歩々是道場  

コメント一覧

1. Posted by 太郎冠者   2011年01月09日 02:32
陰や陽にかたよらない、いわばゼロ、無。
これがまた、じつに面白い概念だと思います。

宇宙の成り立ちと真空のポテンシャルエネルギー、あるいは数学のゼロや無限の概念などに思いをはせると、それだけでひとりでエキサイティングできるものですが・・・(ちょっとおかしいかもしれませんが)、太極拳ではそれを頭での理解だけでなく、体験的に知ることの出来るものなのかな、などというふうに感じています。

だから無極であり、太極なのだろう、と。

と、書いてみたら、いかに自分が取るに足らないあり方で稽古に臨んでいたかが見えてきました。
考え方を改めて、もォ~っと大きなところで、また稽古に励みたいものです。
 
2. Posted by まっつ   2011年01月11日 06:29
太極拳を勉強し始めると、
真ん中や平衡といった概念について色々と考えさせられます。

”真ん中”をヤジロベーのような、
両極が均衡する中心としてイメージすると、
一見には動きの無いその支点こそが全体の要であり、
常に揺るがずに働き続けている軸そのものだと理解できます。

とかく人の世の中とは、
「智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。」
の名言通り、衝突して、翻弄されて、鬱屈を溜め込む、住みにくい世界でもあります。
時々刻々と現れては去っていく事物心身の”動き”にすっかり囚われてしまいます。

其処に現象としての”動き”だけではなく、
均衡として働き続けている”真ん中”にも理解が及ぶのであれば、
かなり楽に生きられるのに・・・とは何時も事後に至ってから反省する処です。
とほほ・・・
 
3. Posted by 小周天   2011年01月12日 02:46
☆太郎冠者さん
>宇宙の成り立ちと真空のポテンシャルエネルギー、あるいは数学のゼロや無限の概念などに
>思いをはせると、それだけでひとりでエキサイティングできるものですが・・・

確かに面白いですよね。
ただ、私は以前に陰と陽について、陰の中の陽、そのまた陽の中の陰…などと考えていたら、
とんでもない迷路に迷い込みそうになったので、止めました。(笑)
そもそもそのようにして存在することを、ちっぽけなアタマで考えようとすること自体が、
とっても愚かな行為に思えてきたのです。
それよりは、師父の動きを見て合わせている方が、よほど陰陽を体験できますから。
 
4. Posted by 小周天   2011年01月12日 02:50
☆まっつさん
私は昔から”起き上がりこぼし”や”ヤジロベエ”が大好きで、自分で作ったりもしました。
あの、つっついて傾かせても優雅に戻ってくる、何とも言えない動きを眺めているうちに、
いつしか自分という人間の生き方や物事の法則とダブってきたのです。

人間も、物事も、傾いたり偏ったりもするけれど、傾きはじめたその瞬間から、
元の真ん中に戻そうとする働きが生じているのではないかしらと思えるのです。
今は、真ん中の存在そのものがバランサーであるように感じています。
 
5. Posted by ゆうごなおや   2011年01月12日 22:25
初めてコメントさせて頂きます。拙い文章で申し訳ありません。
皆さん深いですねぇ。先日の内山さんの「酒に心あり」の随想にしても、
常に自分自身を掘り下げていく門人の皆さんの心構えが感じられます。
自分を掘り下げることで自分を中心とした円が広がり、関わっていくことを
深く見ていけるようになるのでしょうか。
それに比べると自分は何て浅く薄っぺらいんだろうと思ってしまいます。
ただそんな自分を詳細に見つめ直す機会を与えて頂けることに感謝したいと思います。
 
6. Posted by 小周天   2011年01月13日 18:08
☆ゆうごなおや さん
コメントをありがとうございます。

>自分を掘り下げることで自分を中心とした円が広がり、関わっていくことを
>深く見ていけるようになるのでしょうか。

私も目下稽古中でありまして、何一つ断言はできないのですが、
自分が関わっていくことや関わりたいことに、もっと深く、もっともっと深く関わりたいと
思ったときには、どうしても自分を掘り下げざるを得ない、と感じています。
その結果は、自分で体験することでしか分かりませんね。

>…自分はなんて浅く薄っぺらいんだろうと思ってしまいます。
私の場合は、そこに”弱っちい”なんて言葉がプラスされてしまいます。(涙)
でも、そんな自分を認められて、尚かつ向上心があるなら、それで良いと思います。
なぜなら、それ以上は浅くも薄くもならないのですから。
 

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