2010年12月27日

練拳Diary#37「稽古ということ」その2

a                        by 教練  円山 玄花



 太極拳の稽古が「訓練」であることを理解すると、突然、そこに他人と比較しての優劣や、強さ弱さといった観念が生じなくなります。
 それは、太極拳を理解したい、修得したいという大きな目的が、よりくっきりとした輪郭をもって自分の中に確立されるためであると思います。目先の勝負よりも、訓練の先に感じられるもっと高いところに焦点が合ってくるのです。

 この、”目先の勝負” というのが意外と厄介で、学習者の武術に向かう意志に対して壁のように立ちはだかってくる第一関門とも言えます。人によっては、その壁のためにどうしても基本訓練と武術とが結びつかず、場合によっては何年も苦しまなければなりません。
 そこへいくと、日本の古武術の体系には、はじめから個人の優劣や強さを競い合うような、その為に基本訓練が無駄になるようなことが比較的見られないと思います。世界中に存在する優れた武術は、勿論その体系が完成されたものなのでしょうが、中でも日本の古武術などに見られる訓練体系は、私には世界のどこにも引けを取らない日本人の厳格さや繊細さ、そして緻密さを表しているように思えてなりません。
 太極拳については、より大陸的といいますか、ひとつの型を十人が習ったら十種類のバリエーションが出来てしまうような、規矩の精度が緩やかな感覚も否めません。
 もちろんそのようなことばかりではなく、十六世陳鑫老師の時代には、それは厳しい規矩が存在していました。著書である『陳氏太極拳図説』の中には、太極拳を学ぶ者の心得が九つ挙げられており、そのすべては学習者の「在り方」について説かれたものです。
 また、その書の中で、

『・・ある人は、”太極拳はひとつの技芸に過ぎない。あなたの言うようなことであるなら、規則を立てることがあまりに厳しすぎ、たとえ聖賢であっても学ぶことはできないだろう。そのような一芸 で、何故そうしなければならないという事があるだろうか” と言ったが、私に言わせればそうではない。拳術は身を修め、ひいては性命の学を守る手段なのである。
孟子も ”規矩を以てせざれば方円を為すこと能わず” と言っているではないか・・』

 という一文が見られます。
 厳しすぎる規則──────────それこそ私が日本の古武術の体系に感じて止まない、目に見える ”厳格さ” なのです。それは日本民族が育んできたお国柄、民族性と言えるかも知れ
ません。

 さて、何ゆえ厳しすぎる規則のカタマリだった筈の太極拳が、その規矩の精度が緩やかにさえ感じられるようになってきたのかは分かりません。しかし現代の太極拳には「馬歩」という架式一つを取り出しても、シンプルな推手の型を見ても、そこに絶対的な規矩が存在しないようなものが多く見受けられます。
 太極拳を学んだことのある人が見れば、たとえ規矩が分からなくとも架式の共通点や動きの法則を僅かでも見て取ることが出来ると思います。個人の個性やレベルを差し引いて見たときに、そこに見える不動の法則が絶対的な規矩です。それが見えなければ、或いは見えたものが太極拳の要訣と沿わないものであれば「絶対的」とは言えません。かく言う私も、まだまだ絶対的なものとはなっておらず、ようやく規矩の持つ意味が身を以てしみじみと実感できるようになった程度です。だからこそ、余計に思うのです。「訓練」にならないような「練習」をしていては、一生を懸けても分からない、と。

 ところが、日本の古武術と太極拳とを「学ぶ」という視点で比べた場合、太極拳は「訓練」よりも「練習」になりやすいと思うのです。どうしても規矩の精度や目的がはっきり伝わっていなかったり、反復練習をしてさえいればやがて意味も分かるというような考え方が目についてしまいます。やはり、太極拳が隣国の異文化であるためかも知れません。
 極端な喩えですが、禅寺に入って禅の修行を積むことと、山を下りて凡夫衆生の行き交う日常の営みの中で、敢えてそれを実践しようとすることの違いでしょうか。私には、日本の古武術が禅寺での修行だとすると、太極拳は日常衆生の中での修行だと思えてなりません。
 それを学びやすいと取るか、学びにくいと取るかは、人それぞれだと思うのですが。

 私は、日常の中での修行の方がムツカシイと思います。
 そのムツカシイ太極拳が日本人の手に渡ってさらに洗練され、日常の中での修行を可能にする訓練体系が展開されているのですから、【 何を・どの順序で・どう学ぶ 】かが明らかにされているのは、当然のこととも思えます。
 当然のことですが、しかし、それを学ぶ私たちは、そこに大陸で育まれたものとは異なるであろう「新しい訓練体系」が見えなければなりませんし、より精巧な規矩を以て自身を型に嵌める努力が必要です。そうして初めて、陳鑫老師の時代に練られていたような真の太極拳を肌で感じ、この身で体現できるのだと思います。
 あとは、自分の感じる難しさを、太極拳の難しさと混同しないことです。それはただひたすら、自分が何に対して難しさを感じているかが明白でない故に生じる、己の思考のひとつに過ぎないと思います。


 最後にもうひとつ、太極拳を学ぶ上で大切なことがあります。
 それは「疑わないこと」です。それも観念的にではなく、実際的に疑わないことです。
 教わったこと、観たこと聞いたこと、学んだこと、先輩・後輩からのアドヴァイス、その他諸々に対して、決して「疑いの心」を挟まないことです。
 入門して一年も過ぎれば、物事の判断がつくようになります。と同時に、いつの間にか自分に入ってくる物事に対して取捨選択をし始めていることが往々にしてあります。つまりは選り好みです。これは良い。これは悪い。これは使える。これは今だけで良い…ウンヌン。
 これが始まると、待ってましたとばかりに背後から「疑いの心」がムクムクと湧き起こり、自分の頭上をすっぽりと覆い被さるようになってしまうのです。さあ大変です、何が大変かと言えば、まずは観ること聞くこと全てトータルには入ってこなくなるのです。それだけではありません。お次はやることなすこと、何もかもトータルにはできなくなってしまうのです。
 なぜでしょうか?、理由は簡単です。太極拳そのものが陰陽・開合・虚実などの偏りのない十全なることを学ぶ学問ですから、偏りの素である「疑いの心」を持った途端に、目の見えない、耳の聞こえない人になってしまうのです。これは何も太極拳に限ったことではなく、日常生活の営みの中でも同じことが言えると思います。

 この十年の間に、学習者の様々な「考え方」を見てきました。
 際立って突飛な考え方に思われた例を挙げますと、ある人は、先頭に立って手本を示す教練の動きが、師父とは違うからといって真似しようとしなかったり、またある人は稽古に関わることに対して、「これは意味がないことだ」と自ら判断して稽古を組み立てていました。
 人それぞれの人生があるように、人それぞれの物の見方、学び方があるとは思います。また、その人の真意をそのひと言で汲み取ることは不可能です。しかし、それは稽古としては間違いです。
 この場合、その先輩が正しいか間違っているかではなくて、対象がどのように思えても、そこに「合わせる」という「自分の側の稽古」ができているかどうかが問題なのですから。自分がどのような稽古を行うかではなく、そこに「合わせる稽古」ができているかどうか、それが自身の訓練になっているのかどうか。それだけが問われているのです。
 そこに「これはどうなのだろうか?」という思考を挟むと、途端に訓練体系から外れた処で太極拳を眺めることになります。疑問自体は大いに持ったらよいと思います。しかし、それを「稽古」に挟んでしまうと、もう訓練にはならないのです。

 人一倍疑い深さを自認する私が、盲目的に太極拳をやり込んで来られたのは、ことに当たって生じる疑いの心を自分にこそ向けて、他には一切挟まないできたからではないかと、密かに自負しています。言い換えれば、それは徹底した自己否定であり、その様子は親にさえ自己主張のできない情けない子として映ったことでしょう。
 そうするようになったきっかけは、小さい頃に、当時感じた人間の矛盾、物事の矛盾に対してやり切れなさを訴えたとき、父から『人生は不条理なのだ!』と一喝されたことによります。勿論、フジョウリと言われても、小さい自分には何のことだかさっぱり分かりませんでしたが、それ以来、そのことを理解するために疑いの心は自分に向け、人の言葉は何も挟まずに受け取ることにしたのです。それは、ただ信じることとも、ただ従うこととも異なります。
 もちろんサラリと言えるほど容易いことではありません。その都度疑問も生じれば葛藤にもまみれます。ぐっと唇を噛んだことも度々ありました。しかしその結果、ものごとの善悪、明暗、良否などの全体が、見て取れるようになってきたと思えます。それは見ようと思っても見えるものではなく、向こう側から浮かび上がってくるものでした。つくづく、自分の心の持ちようで、見える世界が変わるものだと痛感する次第です。
 私が選択した学び方が、必ずしも誰にも有益だとは思いません。しかし、太極拳のように、定められている規矩に嵌らなければ何も見えてこない学問を学ぶには、とても役に立つものだと思えるのです。


 本年も、残すところ僅かとなりました。
 今年一年間、この「練拳ダイアリー」をお読み下さり、誠に有り難うございました。
 来年もまた、折に触れてこのような記事を書いていきたいと思いますので、どうぞ宜しくお願いいたします。

 また、門人の皆さまには、この一年を省みて、いま一度『門人規約』を読み直して頂きたいと思います。入門に際して目を通したまま大切に収ってあることとは思いますが、入門から日を置いて読んでみると、また随分と内容が違って感じられるものです。
 そこには、太極武藝館の門人としての「心構え」が二十七項目に渡って述べられており、まさに太極拳を学ぶために必要不可欠な規矩、心身の在り方が列挙されていると言えます。
 それは、今年一年の自分を振り返って反省し、新しい年の抱負を胸に思い巡らせるための、大きな助けとなるに違いありません。


                                   (了)

xuanhua at 19:40コメント(10)練拳 Diary | *#31〜#40 

コメント一覧

1. Posted by 春日敬之   2010年12月29日 21:33
>私に言わせればそうではない。拳術は身を修め、延いては性命の学を守る手段なのである。

かつて、そっくり同じ言葉を、師父から言われたことがあります。
太極拳は己の身を修め、天から授かった性質と運命を学び識るための手段である、と。

太極拳の原理はそんなに細かいところまで整備されているわけではない、とか、太極拳の基本功がそんなに沢山あるはずがない、とか、馬歩にはそんな規定があるなど聞いたことがない、などといった、この時代に多く存在する安易な解釈の数々を、師父はきっぱりと否定されます。
太極拳の原理自体はシンプルではあっても、その内容は複雑で非常に高度なものである、と。
そして、太極拳は「聖賢さえ学べないだろう」というようなものではなく、むしろ俗人の観念を超えたところのものを理解できる、聖賢であってこそ学べるような崇高な技藝なのだと、陳鑫先生の言葉を引用して私に言われました。

厳しすぎる規則──────────その存在ゆえに、私たちはその「規矩」に合わせさえすればそれを認識し、それを正しく修得していけるのだと、今では心の底からそう思えます。

本年も「練拳ダイアリー」でのご指導、誠にありがとうございました。
 
2. Posted by まっつ   2010年12月30日 08:42
太極拳に限らず、稽古というものに何を見るか次第で、
その稽古の内容も、成果も大きく変わってしまうのですね・・・
人は見たいように物事を見て、成りたい者に成り、
良くも悪くも、求めた処に辿り着くものなのだと、
特に最近になってそのように感じられます。

頑張っているのに何もかもが上手く進まない・・・そんな不本意な状況に陥ったとしても、
実は無自覚の内にその状況を自らが選んでいる・・・のかもしれないと感じられます。
本来、生きる事はとても大変で、『人生は不条理なのだ!』という事が普通なのに、
その大変な事を回避しようとしているが故に、却って上手くいかない・・・
大変な事を引き受ける覚悟こそ、先ず問い直される必要があると感じています。

本年も大変良い勉強をさせて頂きました。
ありがとうございました。
 
3. Posted by 太郎冠者   2010年12月30日 14:20
不条理というと、カフカの小説が浮かびました。
主人公たちは出来事に翻弄され、我々読み手もまた、同じ世界に落とされ、混乱させられます。

出来ることといえばただひとつ、目の前で起こることを真摯に受け止め、
(活字の上でですが)体験することだけです。
そうすれば、不条理に思えるかどうかに関わらず、物事そのものが非常に新鮮味に溢れ、
面白いものへと変わっていきました。

何かを知る・理解するということは、頭での知的な理解という枠を超えて、
全身を持って浴び、味わい、体験することなのだということを、
太極拳の稽古を通じて勉強させてもらったように感じます。
それは太極拳のみならず、僕自身のあり方・人生そのものに大きく響いているのもまた、
感じられます。

本年も、練拳ダイアリーを通じて、多くのことを勉強させていただきました。
ありがとうございました。
 
4. Posted by 円山玄花   2010年12月31日 12:50
☆春日さん
>太極拳は己の身を修め、天から授かった性質と運命を学び識るための手段である。

天から授かった性質と運命を学び識るための手段・・・。
私はまだ、「”個人の”性質と運命」なるものを考え、学ぼうとしていたようです。
まだまだ浅く、狭い捉え方をしていたと思います。

以前は、厳しすぎる規則の「厳しさ」が感じられませんでした。
誰かに厳しくされるわけでもないし、規則はきちんと教えてもらえるわけです。
でも、それだけでは規矩に嵌らないどころか、規矩の所在さえ分かりませんでした。
厳しくされないことの、なんと厳しいことでしょうか!
それもこれも、自分で立つための、自力で見つける力を身に付けるための教育だったのだと、
この身に実感できます。

今は、ようやく認識できた”厳しすぎる規則”の規矩に合わせるために、
一挙一動に大汗をかきながら、稽古を重ねています。
そんな中で、皆さんと道場での稽古やブログを通じて勉強できることの、
なんと嬉しいことでしょうか。

今年一年間、ありがとうございました。
 
5. Posted by 円山玄花   2010年12月31日 12:52
☆まっつさん
>実は無自覚の内にその状況を自らが選んでいる・・・

確かにそうだと思います。
実際に、自分で「あ、やっぱり自分で選んでいたんだ!」と思い至ったときには、
かなり愕然としますが、一度それを実感できると、何かを望み選んでいく自分を
見やすくなります。

生きることは大変で、壁を越えても越えても壁しか見えないような、
泥の海の中で、ずっとどこまでも動き続けているような感覚さえありますが、
もしも、壁を越え続けることや、泥の海の中で動き続けることでのみ、
この世の仕組み、宇宙の法則、自分という存在が見られるのならば、
私は立ち止まりたくないと思っています。

私たちは既に大変な苦痛を伴ってこの世に生まれ落ちたということですが、
今もまた第二の産道を通過中だと思えば、母体である大宇宙に感謝の思いが溢れます。

何より、自己の追求によってのみ先が開かれるという、孤独な道を選んだにも拘わらず、
これほど多くの同じ道を歩く同士がいます。
それは、とても幸せなことだと思います。

私のほうこそ、皆さんと共に大きな大きな勉強をさせて頂きました。
ありがとうございました。
 
6. Posted by 円山玄花   2010年12月31日 13:04
☆太郎冠者さん
私は、太極拳ほど自分の人生に影響を与えたものはない、と思っています。
自分がこれまでに歩んできた人生が、太極拳をそのように見せるのかどうかは
分からないのですが。

目を開いていれば見えるし、閉じていれば見えない。
ただそれだけのことなのに、そこで対面することの、何と多いことでしょうか。

とにかく太極拳は大きい!、と感じています。
それは、太極拳の稽古をしているのに、ちっとも太極拳をやっている気がしない故かも
しれません。

こちらこそ、このブログを通じて多くのことを学ばせて頂きました。
ありがとうございました。
 
7. Posted by とび猿   2010年12月31日 14:42
この一年は、学ぶ者の姿勢について考えさせられる一年でした。
学べるかどうかは、学ぶ対象にあるのではなく、自分の在り方、向い方次第であると改めて感じ、
そこから、まだ漠然としていた型という考え方が徐々に見えてきたように思い、
その凄さに驚いた一年でした。

本年も御指導を頂き、誠にありがとうございました。
 
8. Posted by tetsu   2010年12月31日 17:12
一言一言じっくりと噛み締めながら文面を読ませていただきました。武藝館で学べば学ぶほど
「自分との向き合い方」「普段の自分の在り方」を常に考えさせられます。
と同時に「本当の、本物の武術とはこのように学んでいくのだ」と気付かされました。
今年一年御指導ありがとうございました。
また来年もよろしくお願い申し上げます。
 
9. Posted by 円山玄花   2010年12月31日 19:39
☆とび猿さん
>型という考え方

私も、この一年は「型」に対する認識が新たになったり、稽古への取り組みが変わったりと、
発見や変化の多い年となりました。

一番の収穫は、型には隙間がないということです。
以前にも書きましたが、自分が見たいように見るという”隙間”さえ与えられません。
故に、型はそれがそのまま万物の成長の法則となるのだと思います。

「型」は、それ自体が目には見えないものです。
「そりゃあ、武術だもの。相手に見えるようなものを練っていたら、やられるべ」
…と、自分は思っていたのですが、どうも武術に限ったことではないようです。
繰り返しになりますが、「型」は、”万物の成長の法則”だと思えるのです。

人がその型、法則から外れたときにすべての問題は生じるわけです。
暴飲暴食、過労、寝不足で、健康なニュートラルな身体が手に入るわけがありません。
嘘つき、誤魔化し、不誠実で、調和の取れた人間関係が築けるはずもないのです。

しかし、それらの悪癖を避けていれば万事うまく回るかというと、そうでもありません。
だからこそ、日々を全うに生きる。その姿勢が大切なのだと思うに至りました。
ありがたいことです。

今年一年間、ありがとうございました。
 
10. Posted by 円山玄花   2010年12月31日 19:43
☆Tetsuさん
コメントをありがとうございます。

私は、道場での稽古はもちろん、日々自分の課題と向き合う毎日でしたが、
稽古での収穫と同じくらい、門人の皆さまの生きる姿勢、稽古に向かう気魄、
人としての骨の太さを、勉強させていただきました。
それらのことをひとつも無駄にすることなく、今後も稽古に励みたいと思います。

今年一年間、本当にありがとうございました。
また来年も、どうぞよろしくお願い申し上げます。
 

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