2010年12月22日

練拳Diary#36「稽古ということ」その1

                        by 教練  円山 玄花



 今年に入ってから、太極拳は稽古で要求される内容よりも、稽古とはどのようなものであるのかを理解することに難しさがある、と思うようになりました。
 これは、私が后嗣として認証を受けてから約十年の間に、教練という立場で門人の皆さんと共に稽古をする中で見えてきたひとつの確信ですが、今思えば太極拳に限らず、人が何かの芸事を学ぼうとしたときには必ず突き当たる、壁のようなものと言えるかもしれません。

 『太極拳は決して難しいものではない』とは円山洋玄師父の言葉ですが、確かに私たちの稽古では一般クラスや研究會の区別なく【 何を・どのような順序で・どう学ぶか 】が明らかにされており、さらにそこで必要となる情報や考え方に至るまで詳細に説明されています。
 つまり、その理論と方法に則ってコツコツと修練に励みさえすれば、誰でもその正道を歩むことができるというわけですが、そのような環境で学びながらもなお「難しい」と思える理由を、先に述べた「稽古とはどのようなものであるのか」という視点から考えてみました。


 ひとつには、太極拳に武術の可能性を求めて来たが、自分が想う「強さ」を持ち続けているために太極拳の「武術性」を理解できない、という場合が挙げられます。
 このタイプの人は、すでに他の武術や格闘技である程度の成績を収めて来ていながらも、技術的・年齢的に限界を感じ、その解決策を太極拳に求めていることが多いようです。
 また、そのためか、太極拳に感じられる強さを「秘伝のテクニック」だと勘違いすることもあります。
 私たちにしてみれば、太極拳の武術性とは、取りも直さず戦闘の中で「生き残れること」の強さであって、どのような状況下でも相手を渾身の一撃で屠れる、中国数千年の究極のヒデン・オウギなどではないのです。もし太極拳の稽古をそのようなものと捉えてしまったら、もう先はありません。そこから何を見ようと学ぼうと、全て日常の延長、自分の想う強さの延長を可能にしてくれるであろう練功、という程度にしか見えなくなってしまいます。

 私が太極拳を学び始めて間もなく痛感したことは、自分の考えていた強さから、歩き方、拳の出し方から戦い方に至るまで、”何もかも” 違っていたということです。歩き方ひとつを学んでみても、自分は日常的で太極拳はまさに非日常的だと言えます。当り前のことですが、その他、自分が考え得ることは何ひとつ通用せず、だからこそ ”何もかも” をすっかり新しく学ぶことができたわけです。
 門人に於いても、これまでに武術など何もやったことがなかった、普通の会社員や主婦の人がパッと何かを理解してしまうということが往々にして起こりますが、それも武術に対する先入観がない故に、太極拳の学習システムに素直に入って行けたからではないかと思えます。
 もちろん格闘技出身の人でも、自分の考えていた「強さ」と太極拳が求める「武術性」との違いに逸早く気づいた人は、短期間の内に競技的な身体から武術的な身体へと向かう変化が見られます。結局、問題は「学ぶ対象」にあるのではなく、その人が「何を学びたいか」なのだと思います。


 もうひとつは、太極拳を学ぶことが「正しい訓練過程を経てゆく中でのみ可能になる」という認識を、なかなか持てない場合です。
 私が太極拳の稽古を「訓練」だと言うのは、それを「練習」だと思っていては絶対に修めることができないものだからです。
 「訓練」とは、或ることを教え込んで継続的に練習させ体得させることであり、「練習」とは、技能や学問などが上達するように自らがそれを繰り返すことです。
 分かり易く言うと「稽古する」は「練習する」の意で、「稽古をつける」は「訓練する」の意となります。そこから導き出されるふたつの違いは『自分の好き勝手にできるか、できないか』の一点だと言えます。
 さらに、「訓」の一字に見られる「教え・教えさとす」という意味からも、「練習」に含まれる「繰り返す」という意味とは随分異なり、教えを受けて(訓)技芸を鍛え磨く(練)こと に「自分」を挟む余地はないはずです。そのことからも、私は太極拳の稽古は「訓練」だと言えると思うのです。
 何も厳めしく「訓練だ!」などと叫ばなくとも、その意味が学習者に分かるのであれば、稽古でも練習でも修行でも、何でも構いません、好きなように呼んだら良いと思います。
大切なのは学ぶ本人の心構えであって、それを何と呼ぶかではないのですから。

 しかし、もしも稽古の本質が「訓練」だと思えないと、どうなるのでしょうか。
 おそらく、その人にとって道場はたちまち「講習会」の会場と化し、今日は一体何を教えてもらえるのか、やれヒデンか、ゼッショウか、それとも凄いハッケイか?・・・などという思いがグルグルしてくることでしょう。仮令そこまでいかないにしても、道場に居ながら自分の解決するべき課題があやふやで、なおかつそれさえも教えて貰えるものだと思って待っているようでは、あまり大差がありません。
 また、まだ「訓練」というものがよく分からないうちは、それとは気づかずに自分勝手になりやすいものです。そして、それを指摘されても意味が分からず、とかく表面的な字面だけを捉えがちです。指摘を受けたことに対して「自分はそんなことない」と我を張る前に、「何を言われているのだろうか」と、ハタと立ち止まってみることこそが、何かを学ぶ際の鍵となります。


 ・・・ここで、ひとつの簡単な例え話をしてみましょう。
 ある日のこと、この練功は ”赤色” だという指導を受けました。
 それではと、自分の思う ”赤色” を精一杯出した稽古をしてみました。
 ところが、師匠からは「馬鹿者、それは白色だろうが!」と怒鳴られたのです。
 自分にはどう見ても赤色に見えるそれを、師匠は白だと言われるのです・・・?

 さて、ここが最初の分岐点です。「いいや、これは赤色だ!」と思うこともできますし、「師匠は何を赤色だと言っているのか?」と考えることもできるわけです。
 しかし、実は師匠にとっては、それが赤でも白でも関係ないのです。
 黒だって構いません。問題は「それを赤だと思っていては分からないよ」ということが示されている、ということなのです。
 
 太極拳は武術であり、稽古はすべて戦闘のための訓練なのですから、対練中に限らず、どんな場合にも師匠のひと言は「それを赤だと思っていては敵に簡単にやられてしまうよ」という言葉に置き換えることができるはずです。
 そう考えてみると、それが自分にとって赤に見えることや、白だと言われたからといってそれを白だとメモに取り、そうだと思い込む努力をすることは随分馬鹿げたことに思えてきます。言われていることの核心は赤か白かではなく、「それを赤色だと思っていては太極拳は理解できない」ということなのですから。

 そのようなことを踏まえて、何かひとつのことを教わったら、その練功が何を指し示しているのかを自分で納得できるまで打ち込むことが必要です。稽古で教わることは全て原理を理解する為のものであり、練功を繰り返してさえいれば分かる、というものでは絶対にありません。
 また、師匠が門人の稽古を見て、ひと言声を掛けるその瞬間、そこには弟子が到底推し量ることのできない真理が展開されていると言えます。そこでハッとする、或いは常に何かに気付ける状態にしておくこと、それが最も大切なことです。
 先ほど「”最初の” 分岐点」と表現したのは、本来の学び方としては、そこに何らかの自分の考えを挟むことも間違いであるからです。「師匠は何を言っているのか?」ということすら、入り込む余地はありません。ただ自分を開いていさえすれば良いのです。
 入ってくるものに対して分析をする必要もありません。むしろそのような行為は壁を一層分厚いものにしてしまいます。「自分を開いている」という精神状態にあってようやく何かを学ぶことが可能になるのです。


 何をそこまで・・と、思われるでしょうか。
 しかし、これが「教室」と「道場」の、「スポーツ」と「武術」の、大きな違いです。
 ましてや、高度な伝統武藝を修めようとするのであれば、こんなことなどは門前の話で、「入門」以前に整えるべき、当たり前の姿勢でしかありません。

 私たちが、日夜必死の思いで向かい続けている「太極拳の原理」とは、言葉では到底説明され得ないものです。太極拳は勁力や纏絲勁が当たり前であるとはいっても、目に見えるのは妙な格好で飛んでいく人の姿、耳に聞こえてくるのは己の絶叫だけなのです。原理を言葉に尽くそうとしたところで、言葉にできないものが在ることをただ思い知らされるのみです。
 そのようなものと生涯を懸けて付き合おうとしたとき、ちっぽけな自分の、一体何が通用するというのでしょうか。

 私たちに残された道は、その「ちっぽけな自分」を打ち破ることだけです。
 すべての要訣と型の稽古は、その為に用意されているとも言えます。
 そこにあるのは、唯ひたすら『自分の好き勝手にはできない』ということ。これは、自分の命をそこに託せるだけのものを修める必要があるときには、至極当然のことなのです。

 誰にとってもやりたいようにやることは楽ですが、それでは躾の悪い子供と同じになってしまいます。自分のやりたいようにやっていては、太極拳の深奥は決して分からない。
 だからこそ、そこに、「自己」を挟む余地のない「訓練」が必要になるのです。



                                (つづく)

xuanhua at 17:02コメント(8)練拳 Diary | *#31〜#40 

コメント一覧

1. Posted by 太郎冠者   2010年12月23日 23:07
今年一年の稽古を通して、武術の追求をする過程において、
人間とは何か、自分は何か?をひたすらに追求していくような、
そんな手ごたえをずっと感じていました。

その問いかけに、太極拳はあらゆる手段を通して答えてくれるような、不思議な感覚でした。

その中で新たな理解が生まれ、また新たな疑問が生じて・・・
終わりのない過程が続くことが、とても嬉しく思います。
 
2. Posted by まっつ   2010年12月24日 06:46
>「ちっぽけな自分」を打ち破ること・・・
その言葉にすれば短い事を、実際に行う事とはなんと難しい事でしょうか。

誰しもが自分はちっぽけと感じられる時はあり、
変えたい、殻を破りたいとは願う筈ですが、
同様に「ありのままの自分」で居続けたいとの、
矛盾した心境にも襲われます。

「何か」を持っていると感じられる分だけ、
そこに引かれて、より強く離れ難く感じられてしまいます。
自分の感じられる世界がその「何か」で染め上げられていれば、
「何か」とは空気のように、在る事の認識すらも難しい事でしょう。
その「何か」が「自分」だと感じられる状態が難しさなのだなぁ・・・と思われます。

その「何か」が、実は「自分」に付いた色なのだと教えてくれる鏡が、
型という確立されて、色の無い形式なのだと思われます。
・・・という事を、理性で認識しようとするのもまた色なのでしょうね。
本当に難しいです。
 
3. Posted by 春日敬之   2010年12月25日 01:16
武藝館での稽古は、ある意味、禅の道場のようにも思えます。
弟子が何かを訊ねても、師はその「答え」を言ってくれるとは限らない。
私たち一般門人には、まるで師が弟子を迷わせているようにも思えてしまいますが、師は質問への「回答」を与えるのではなく、答えを見つけるための「考え方」を示されるのです。

禅寺で言えば、私たち一般が学んでいる辺りは「日曜座禅会」とか「一日写経会」の体験ツアー客のようなもので、少しばかり上達してきた人は「夏休み禅寺体験会」、それがもう少し上になると「無門関ワーキングホリデイ・三年間禅修行三昧」、最後は本当の「発心、出家、剃髪」ってことになる。だからウチの「玄門會」に選ばれた方々は、本当に出家したような人たちばかりなのだと思いますし、そうじゃなくっちゃいけません。

日曜座禅会では、禅師も分かり易く噛み砕いていろいろ話してくれますが、本当に出家した新発意(しぼち)に対してはそんな説明はしない。黙って掃除をせよ、托鉢をせよ、只管打坐、ひたすら座って己を見つめよ、という「型」が与えられるのみです。
日常のヘアスタイルを捨てて、日常の衣服を捨て、日頃の食べ物を否定する・・日常の生活すべてを否定して、掃除、洗濯、食事、作務、座禅、托鉢、睡眠、一日の生活のすべてを経験したことのない新たな非日常の「型」の中で過ごすわけです。

私が経験した時はあいにく雪降る冬の寒さの中でしたが、冬でも一枚のセンベイ布団を折ってその中に身体をアンコのようにくるんで眠る。先輩僧の方が「寒いですか?」って訊いてくれたので、毛布でも貸してくれるのかと思って「ええ、寒くて眠れません」と答えたら、ニッコリ笑って、
「それじゃ、寒さを噛みしめて眠るしかありませんね」・・と言われました。(笑)
いま考えると、これはもう、本当に武術の修行と一緒でしたね。
 
4. Posted by bamboo   2010年12月27日 20:01
取り組む姿勢について省みるところが多すぎる私です。
親としても仕事面でも誇り高い姿でいられるように、正月中に自分を躾け直してきます!

お忙しいなかネット上でも稽古をつけて下さり誠にありがとうございます!
 
5. Posted by 円山玄花   2010年12月27日 21:18
☆太郎冠者さん
>その問いかけに、太極拳はあらゆる手段を通して答えてくれるような、
>不思議な感覚でした。

太極拳にはそれだけの中身がある、ということだと思います。
面白いのは、”問い”が出てくるのも自分からですし、”答え”が出てくるのも自分からであるということ。太極拳を介してその”問答”を繰り返していると、いつしか自分と太極拳との距離がずいぶん短くなっていました。不思議なものです。

それでは、もしも問わなければ答えも出ないのかというと、そうでもない。
ジャカジャカ出てくるんです。まるで、自動販売機にお金を入れていないのに、
ジュースが山ほど出てくるみたいなものです。(笑)
私はただ黙々と太極拳をやっていただけなのですけれども。
 
6. Posted by 円山玄花   2010年12月27日 21:20
☆まっつさん
かつて自分も、「難しさ」の迷路に迷い込んだことが何度もあります。
難しさは解決することなく次の難しさを呼び、溜まりに溜まった「難しさ」を、
ライブラリーに整理整頓しはじめる有様。これでは、目の前が暗くなる一方です。

私の場合は、何かを分かろう、理解しようとすることに一生懸命で、
その物事そのものを、やってはいませんでした。

できようができまいが、分かろうが分かるまいが、先ずはやってみること。
その「ひとつ」に徹底的に打ち込んでみること。
そのものと距離がなくなるほどにのめり込んでみること。
動いていることも忘れるほどに自分の足で歩き、
探していることも忘れるほどに自分の手で探っていくこと。

そうしてようやく、ライブラリーは空っぽだったことが見えてきたのです。

どれほどの問題を抱えていても、どのような壁が立ちはだかろうとも、
常に自分の目を開いていること。
目を瞑って、わぁわぁ騒ぎ立てることで立ち向かっている気にならないこと。
物事をきちんとしていこうとしたときには、そういう気持ちが大切だと思いました。
 
7. Posted by 円山玄花   2010年12月27日 21:52
☆春日さん
>弟子が何かを訪ねても、師はその「答え」を言ってくれるとは限らない。

そうなんですよね。
私が太極拳をはじめた頃は、まだそういうことが何も分からなかったので、
「何も教えてもらえない」と、感じていました。
今なら、何をどのように学んでいくのかを、自分で見つけるための「考え方」を、
教わっていたのだと思えます。

ひとつの問題に対して、”こうすれば良い”ということを教わっても、ダメなんですよね。
その問題は解決しても、次の問題が出てきたときには、また困ってしまう。
だからこそ、「対処法ではなくて、在り方だ!」と、毎回指導されるのだと思います。

そう考えると、自分が教わってきたこと、学んできたことは、本当に凄いことだと思います。
武術とか、何か分けて考えられるものではなくて、人生そのものを修行だととらえることで、
人は成長できるのだということを、家庭でも道場でも、学んできたような気がします。
 
8. Posted by 円山玄花   2010年12月27日 21:54
☆bambooさん
>ネット上でも稽古をつけて下さり・・・

いえいえ、これは私の稽古だと思っています。
…だからbambooさんが”稽古”のように感じられるのかもしれませんね。(汗)

自分の思うところを言葉にするのは大変ですし、それを文字に表すのはもっと大変です。
でも、それをやろうとすることで自分の考え方を見直せますし、自分の外へ伝えることも
勉強することができます。
まだまだキッチリとはいかないのですが、今後も精進したいと思います。
 

コメントする

このブログにコメントするにはログインが必要です。

Categories
  • ライブドアブログ