2010年12月06日

門人随想 「今日も稽古で日が暮れる」 その5

    「 受け取ること 」       by 太郎冠者 (拳学研究会所属)


 稽古を終え、深夜に帰宅する。
 部屋に戻り一息つくと、さっきまでの練習内容を思い返し、自然と体は立ち上がり、どうなんだ、これも違う、こうではない・・・と練習をはじめてしまう。

 ふと気が付くと、次第に空は明るくなってきていて、スズメたちがさえずりはじめる。
 太陽の光は、地球上の万物に分け隔てなく降り注ぎ、生きるためのエネルギーを惜しみなく与える。植物は成長するその糧を、光という形でその身に受け取り、どんどんと伸びていく。

  ・成長の糧を、自らに取り込むことを許す。
  ・自身のあり方を自省し、ありのままの姿を見る。
  ・自らを放棄し、委ね、「そのもの」のあり方に身を任せる。

 これらは全て、方向でいえば内向きの矢印になる。自らに向かうベクトルのエネルギーだ。
 受け取る、あるいは受け入れる。自分を挟むことなく物事を受け取ること、なにかを差し挟むことなく、現在の状態を受け入れること。

  『これって本当に…難しいことなのだろうか?』

 ただ単に、難しいと自分で「思い込んでいる」だけなのではないだろうか。
 そう気づいたとき、自分自身を覆っていたベールが一枚はがれ落ち、ほんの少しだけ世界が明るくなったのを感じた…。

 こうして文章にしてみるとはっきりわかるのだが、最近の自分はどうも、稽古以前のところにひたすら取り組み続けているらしい。それというのも、特に研究会に入ってからなのだが、自分自身が稽古の取り組み方の壁にぶつかって、ひたすらそれと葛藤していたからだ。

 師父の動きも見ようとしていたし、言われていることも理解しようとしていた。個人の練習時間もとったし、色々と考えて取り組んでもみた。でも、やればやるほど分からなくなっていった。

 それはなぜか────────────

 受け取る、という視点がなかったからだ。
 自らに向かう方向性が欠け、外側へ外側へと向かい続けていたからだ。

 受け取ることは何も難しいことではない。
 自分から何か『しなければならない』ということもない。ただ、受け取るだけだ。

 これは武術の話に限らない(最近の自分は、いつもそういう視点でいる)。
 日常、普段生きている中でも、自分も含め多くの人は、何かする・しなければならないことで一杯になっている。何かしなければならないことは事実かもしれない。自らが何もしなくては、生きてはいけないのだから。

 ただ、行動することと、自身が「何かしなければならない」状態でいることは、はっきりと違うことなのだと感じる。自分自身がすでに一杯になっていたら、世界の神秘はベールに覆われたままだし、日常に潜む、世界から与えられうる恩恵は、何も自分に降り注いでこない。

 何も難しい話ではない。自分の都合をやめ、誰にでも平等に降り注いでいる恩恵を、「ただ受け取ればいい」だけなのだ。

 植物が成長する様子を考えてみる。水が豊富にあり、日の光が存分に降り注ぐ環境で、彼らが成長するのに必要な要素は何だろうか? するべきことは?

 ただ、全身をもって、与えられうる恩恵を受け取ることなのではないだろうか。


 ぼくたちは幸運にも、太極武藝館という、紛れもない『本物』が、いまも受け継がれているところに出会うことができた。

 いわば、豊富な土壌に、豊かな栄養を得られる状況にいるわけで、もしその中にいて、なにも自分が成長していないな・・と感じられるのだとしたら、それはすべからく、自分自身に原因がある、と考えていいだろう。

 ぼくたちが出来る最大限の努力は、自分自身の間違いを見つめること。
 見つめて、受け入れること。
 間違い、というとネガティブな響きに聴こえるかもしれないが、
 本当は、間違いでもなんでもない。
 自分が成長するのに必要な、大事な大事な栄養素だと考えればいい。
 ありのままの姿を見つめることが大切だ。
 それを認めて、受け取って、受け入れて、そうしてはじめて自らの栄養となって、
 成長することにつながっていく。


 あるとき、ふっと気がつく────────────

 存在が語りかけてくるのを感じる。

 いつも座っているイス。いつも使っているマグカップ。
 昇ってきた太陽のまぶしさ。
 頬をなでる風の中。体をすり寄せてくる愛犬の毛並み。
 愛する人、自分を愛してくれる人たちの瞳の奥。

 そして、自分自身の根源からの声。

 肉体という物質、確かな実感を持つ一番身近なこのモノでさえ、流動する確率の波の中で、一時的にその形を取っている存在に過ぎない。

 しかし、聴こえてくる声がある──────────ひときわ大きな声。

 「自分は、ここに存在しているのだ!」という声。

 流動する中にいるからこそ、世界とはなにも分かれていないし、隔たれていない。
 ひとりの夜に感じた孤独こそが、幻想にすぎないのだと理解する。

 自分を自分だと囲っていた枠は、次第に意味をなさなくなり、あらゆる存在の中で息づく呼吸を感じ始める。
 そしてその中に、自らの在り処を委ねるようになっていく。


 ぼくは、こうした生き方をしようと、試み続けている。
 当然、まだまだだ、と感じるところもあるけれど、それさえもまた、栄養になっていくのだろうという予感がある。

 これが武術の稽古とどう関係してくるのか・・・・

 などという、野暮ったい解説はしたくない。

 まず、この世界の中で、自分という人間が確かであるかどうか。
 その中にこそ、本当の強さが生まれてくるのだと、感じるのだ。


                                  (了)

disciples at 23:21コメント(8)今日も稽古で日が暮れる  

コメント一覧

1. Posted by 円山玄花   2010年12月08日 02:05
自分自身の間違いを見つめること。
本当は間違いでも何でもなくて、それを自分が成長するのに必要な、大事な栄養素と考える。
これは、何かを学ぶときにはとても大切な考え方ですね。

時折、「何をどれほど工夫しても、やっぱり違っていると言われる」
・・・というような言葉を耳にします。そんなとき、私はいつもこう答えているのです。
「言われてよかったですね。もし言ってもらえなかったら、それが違うということさえ、
自分で探さなければならなかったのですから」と。

「学びたい」ことが、いつの間にか「間違えたくない」ことになってしまうと、
人は指摘されることを避けたくなるようです。
しかし、土を避けて根を張る木がないように、人も間違いを避けては成長できません。
間違いは成長の糧。それが分かると、ずいぶん前向きになれる気がします。
 
2. Posted by 春日敬之   2010年12月08日 15:43
受け取ること、即ち「受容性=Acceptance」こそカギであると、よく師に諭されました。
「学ぶ」とは、受け取ることに他ならないのだと。
学ぶということを「新しい知識を増やすこと」とか、「自分なりに研究をしていくこと」などと
思っていると飛んでもない・・・受け取るコトというのは、自分の意見をカケラも挟まず、
ただひたすら「盲目的に受け容れていくこと」なのでアル、と言われるのです。

それは「盲目的」でなくてはならないのだと、今では僕もそう思えます。
ほんの少しでも「自分はこう思うけど、師はそう考えるのだな」というのが入ったら、もうダメ。
盲目的と聞いて、その意味を辞書で引くようでは、もっと話にならン・・(笑)
まあ、念のため辞書で引いたら「理性的な判断が出来ない状態=blindness」とありましたが、
まさにその通り、理性でモノゴトを判断しない精神状態で臨まなくては、真伝の修得なンぞ逆立ちしたって出来ないのだ、と声を大にして言われるのでした。

理性というのは、道理によって論理的、概念的に思考判断する能力のことですから、もちろん
「自分なり」に考えている能力のことですね。それが要らない────────
「自分なりって、お前のいう ”自分” って、どれほどのモンだい?」と言われるのです。
「・・理性?、百年早いッ、もっと勉強せイ、勉強とは、オノレを挟まないことを言うのダっ!」
「判断するな、青臭いアタマで、物事の道理を判断してはならン」・・と。

そう言えば、恋も盲目で、英語でも Love is Blind って、言いますね。
反対に、盲目的ではない恋っていうのは、理性的と言えば聞こえが良いけれど、初めから打算が
あるみたいで、考えただけでも気持ちが悪い・・・(笑)
僕は、盲目的でない恋なんか、一度も経験がありません。
盲目的に恋に落ちるのと、太極拳の真伝を受け取ることは、とてもよく似ていると思います。
 
3. Posted by まっつ   2010年12月10日 06:22
太郎冠者さんが表現されるように、
何も根拠は無いのだけれど・・・確かに、強く、「自分」が感じられて、
目に映り、耳に聞こえる全てが近しいと感じられる瞬間はあります。
フト訪れる・・・その瞬間に感じられる存在感の密度は、
喧しい日常の中で、忙しなく動き、働き続ける心身を沈黙させ、
その無音に耳を澄ますよう促してくれるようです。
その静けさの中を通ると、不思議と心身に瑞々しい活力が漲っていて、
不思議な感じがしたものです。
思っていたよりも面白いものですね。この世界は。
 
4. Posted by 太郎冠者   2010年12月13日 01:23
☆玄花さん
間違いも、正しいところへいたるためのプロセスだと考えれば、むしろ積極的に間違い探しを出来るようになる気がします。

自分を挟むのを否定しなければ学習は出来ないと思うのですが、否定する前にまず、間違っている自分自身を肯定しないことには、その間違いさえも認めることが出来ないのだと、思うようになりました。

さらに言ってしまえば、間違ってようが正しかろうが、もっと先を目指して学習を続けていく過程においては、そんなこと知ったことではないのかな・・・なんて思います。
そういってしまうと、元も子もないのですが(笑)
 
5. Posted by 太郎冠者   2010年12月13日 01:29
☆春日さん
コメントをありがとうございます。
土・日と濃密な稽古をしていく中で、自分でもまだまだ薄っぺらなところでしか見えていなかったな、ということがたくさんありました。

本当に多くのことを見せていただいているのに、自らが限定してしまうことで、その分までしか
受け取ることが出来ない・・・。
仰るとおり、盲目的な態度で、全部をまるごと受け取っていくしかないのだと感じました。

>盲目的に恋に落ちるのと、太極拳の真伝を受け取ることは、とてもよく似ていると思います。
なるほど。それは面白い話ですね。
僕も恋に落ちたら・・・盲目的に突っ走るタイプかもです(笑)
 
6. Posted by 太郎冠者   2010年12月13日 01:34
☆まっつさん
生きるってことは、色々と大変なことはあるかもしれないですけど・・・根本的には、歓びで満ち溢れているんじゃないかと思います。
そうでなかったら、生命はとっくに絶滅してたんじゃないかと思うのです。
だって、ただ苦しいだけの存在なんて、生きていたって仕方がないと思うはずですからね。

その、生きることの根源的な歓びの中であり続けようとすることで、多くのことがみえてくるんじゃないかと、若い自分なりに感じて、生きようとしているところです。
春日さんのコメントではないですが、まったく理性的な判断ではないかもしれませんね。

でも、それくらい盲目的なほうが、人生も武術も恋も(笑)、面白いのではないかと思います。
 
7. Posted by マルコビッチ   2010年12月15日 20:14
コメント遅くなってすみません!

太郎冠者さんはとても深く自分を感じようとしているんですね。
”受け取る”ということ・・・
トータルに受け取ろうとするとき、そこには同時に自分を明け渡すということが
おこる・・・もらう、与えるではなく・・・
受け取る、明け渡す・・プラスマイナスゼロ?いやいや陰陽ですねえ。
(タオイズムで、男女の愛を表すのに陰陽のマークを使っていたのを思い出しました。)
「情熱とは善悪の判断をしないこと」と誰かが言っていましたが、
自分を挟まず、情熱的に盲目的に向かいあったら、それは起こるのではと感じます。
でもそれは、常に自分に注意深くないといつでもなくなってしまうのだとも思います。

太郎冠者さんは、稽古以前のことと仰っていましたが、武藝館で稽古を始めてから感じ
考えていることなのだったら、それは太郎冠者さんにとって太極拳と向かいあうのに必要な
ことなのでしょう!
それもこれもすべて稽古と思うと、太極拳って本当に面白いですね!!
 
8. Posted by 太郎冠者   2010年12月19日 20:08
☆マルコビッチさん
返事が遅くなり、申し訳ありませんでした!
連日、稽古で日が暮れていたもので・・・(笑)
すいません、言い訳でした!

>とても深く自分を感じよう
>稽古以前のことと仰って・・・

あぁ~、これはですね、それこそ入門以前から趣味(?)として取り組んでいたようなものでして・・・。
だから自分の感覚的には、稽古「以前」のこととして感じられたんです。
結局、それが大事だったんだな、と気づくのに時間がかかりました(笑)

上にも書いていますが、強くなろう、やってやろう、と我武者羅やっていても、
それは「我」で、結局何もわからなかったですからね。
もっとも、わからないということがわかったのは、大きな成果でしょうか。
なので今は、情熱の炎に身も心も焼かれながら(笑)
コツコツと取り組んでいるのです。

太極拳って、本当に面白いですね。
 

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