2010年11月23日

門人随想 「力を考える」

                     by 小周天 (一般・武藝クラス所属)


 稽古で対人訓練をしていると、 ”難しいなあ” と思えることが幾つかあります。
 その中のひとつが、「相手との関わり方」です。
 基本功や套路であれば、自分の身体を見つめて要求と照らし合わせながら、ひたすら練り続けることが出来ます。ところが、対練ともなるとそうはいきません。

 たとえば、お互いに右弓歩で構えて立っているところから、「受け」が肩を掴んで崩しに行き、「取り」はそれを返す、という対練があります。
 これは、このブログで一番最初に紹介された「肩取り」とは異なり、「受け」に肩を掴ませた状態から始められ、崩す方向も ”左側へ” と限定されているものです。

 私が”難しい”と感じたのは、「受け」の立場で稽古をしていたときのことでした。
 組ませてもらったのは、確か上級者の人だったと思います。
 日頃から、誰もが『手で押さないこと』『拙力で関わらないこと』を注意されているので、自分が相手の肩を掴んで崩しに行くときには、ことさらに注意を払うものです。
 私などは、注意深くしようとするほど、ゆっくりで小さな力の掛け方になります。

 すると、相手の人から「それは違いますね。それではこちらは崩されませんよ」と注意を受けます。それならばと、もう少し強めに、手の平にグッと感触が来るぐらいの力で崩しに行きます。するとまたしても、「それも違いますね。それでは手だけの拙力になっています」と、注意されてしまうのです。

 さあ、ここで疑問が出てきました。拙力で関わらないようにすると ”崩れない” と言われ、きちんと崩れるような力で関わると ”手の拙力だ” と言われてしまうのです。自分の力が通用しないのならともかく、その手前の関わり方が違うと指摘されるのですから、もうお手上げ状態です。さて、そこからどうしたものか・・と途方に暮れてしまいました。

 実は、このようなことは、これまでにも何回かありました。
 「強い」と言われて弱めると「弱い」と言われ、「速い」と言われてゆっくりにすると「遅い」と言われるのです。それならばと、丁度良さそうなところで関わると、返ってきた言葉は「それは全く違います」でした。(笑)
 もちろん、指摘してくれる人はこちらがそれを正しく学べるように、大切なことに気がつけるようにと言ってくれるわけですが、最初はどうしても矛盾した言葉に聞こえてしまうものです。

 そんなとき、自分の目を開いてくれたのが、対練を指導されていた師父のひと言でした。
 『・・あのね、先ずはキチンと相手に関わることですよ。そもそも、そんなタンスの引き出しも開かないような力で、相手が崩せるわけがないでしょう』・・・と。
 その言葉の前後にも、確かいろいろな話をされていたと思いますが、自分にはその ”タンスの引き出しも開かないような力” という部分が、かなり強烈に残りました。
 ああ、確かにそれは真理だ・・と思えたのです。

 単純に拙力を嫌って「押さないこと」をやっていても、その中に相手を崩せることとか、勁力の理解に繋がるようなことは何もありません。しかし、 ”手では押さない” と言われたり、よく師父が示される、相手が触れる遙か前からコロコロと崩される様子を見ていると、つい勝手に小さな力で相手を崩せないものかと思い、自分なりに試みていました。
 ”相手を崩しに行く” と指示されたら、”どのように” という自分の考えを挟まずに、先ずは実際に相手を崩そうとすることが大切だったのです。

 そうしてひとつの理解を得た後、さらに大きな発見がありました。
 それは、『拙力は、どんなに小さくても拙力でしかない』ということです。
 つまり、この対練で初めに自分がやろうとした、相手に触れるか触れないかのような小さな力も、立派な拙力だったのです。
 私が「矛盾」に聞こえた二つの要素は、実はひとつの「拙力」という中での工夫であり、それではどのように工夫しようとも、正しい稽古にはならなかったわけです。

 それでは、太極拳で練られる「勁力」とはどのような種類の力なのか、或いは拙力でないこととは何なのだろうかと、思いを巡らせてみました。

 そのヒントは、何と「套路」の稽古中に見つかりました。
 それは、何点かの注意点と課題を指導していただき、個人練習の時間になったときのことでした。そして、またしても指導に廻られている師父のひと言によって目が開かれたのです。

 『ああ・・それだと架式が崩れていますね。ですから、もしもその状態で相手に触れたとしたら、もう拙力にしかならないんですよ』・・と。それは何も初めて聞いた言葉ではないはずなのに、自分が対練で悩んでいたためか、その日はとても意味の深い事として浸透してきました。何故なら、その言葉を裏返せば、”架式を守れば拙力にはならない” ということになるのではないか、と思えたからです。

 『コレは、試してみるしかないぞ・・・』そう心に決めて臨んだ対練は、有り難いことに先日と同じ、肩をつかんで崩しに行くものでした。
 迷わず「受け」の側をやらせてもらい、慎重に肩を掴みに行き、相手を崩そうとします。
 手応えは前回よりも強く、そしてその抵抗感はどんどん強くなっていきました。
 そこで、相手ではなく自分の架式を気にしてみると────────嗚呼、崩れていました。自分の架式は、最初に構えた姿勢から見事に外れていたのです。当然、ワケも分からないうちにスッパリと返されてしまいました。

 もう一度・・今度は手応えなどを全く気にせず、ひたすら自分の架式が守られるように、そして崩れないように努めました。
 すると、今度は肩を掴んでいる手に力感が増えてこなかったのです。それは最後まで増えることなく、相手の動きや力も自分の手に来ることなく直に身体に伝わってきたのです。
 今までの稽古では、「取り」の人のレベルによって力が ”ぶつかる” とか ”ぶつからない” ということが起こるのではないか?・・・と、どこかで思っていたのですが、どうやら完全な間違いだったようです。
 「受け」の状態によってもぶつかることは生じ、それは受けの稽古である「相手を崩す」ことが正しくできていないことの表れでもあったのです。やはり、自分の架式を整えることが最重要課題だと言われている通りで、その結果ぶつかる要素が無くなり、非・拙力のチカラを感じ、養うことが可能になるのでした。


 自分の在り方を正して相手ときちんと関われば、そこで何が起こっているのかが分かる。
 これは、現代社会の日常生活でも必要な、人間として大切な認識ではないでしょうか。

 私が ”難しい” と感じた「相手との関わり方」は、実は自分の「在り方」の不正から始まっており、その上でただ拙力を恐れたり、闇雲に相手を動かすことを試みていました。
 対練で提示されている課題は、基本功で整えられた身体の状態を動きながらでも守り、見つめることが出来るかどうかであって、「何をどのようにしたら良いか」を自分で考える余地など、初めから存在しなかったのです。

 今回学んだ教訓をもとに、今後も稽古に励みたいと思いました。


                                  (了)

disciples at 19:18コメント(8)門人随想  

コメント一覧

1. Posted by マルコビッチ   2010年11月24日 23:21
対練での相手との関わり方は本当に難しいですね。
私も、相手の人によって崩せたり崩せなかったり、お互いに動けなくなったりする状態を、
自分の状態プラス何か他のせいにしていたと思います。

先日の対練で、”基本を守って・・構造で・・・” と気をつけていたのですが、
相手が入ってくる瞬間、”負けるもんか!”みたいな気持ちがふっと働いて固めてしまいました。
そうなれば、倒されないにしても、かわせずにやられてしまう、ということが起こります。
何と根深いことか・・・今までに何度となくこういうことをやっていたんだ!、という悔恨の
思いもありますが、”負けるもんか!” という意識が入ってきた瞬間を見れたことは、自分に
対する一つの発見で、次につなげていける希望のようにも感じました。
人間の身体の動きや力の質は、ほんとにちょっとした意識の持ちようで変わるものですね!
基本を守って、相手と合わせることが大事だなあと思いました。
 
2. Posted by 小周天   2010年11月26日 13:17
☆マルコビッチさん

苦労してやっとの思いで基本功で練ってきたものが、たったひとつの対練でフイになってしまう。
これほど悔しいことってありませんよね? 
でもそれは、基本功で練ってきたと思っていたものが、ジツは身体の方ばかりでトータルなもの
ではなかったということですから、本当に難しいのは「相手との関わり方」ではなくて
「自分との向かい合い方」だと思います。

いつどのようなときでも、目の前の相手を取り敢えず動かすことではなくて、
その対練を利用して太極拳の原理が見えるような稽古をしたいと思います。
そしてその為にも、きちんと関わる、きちんと崩しに行くことが大切だと思います。
やっぱり、「ちょっとした意識の持ちよう」なのですよね。
 
3. Posted by とび猿   2010年11月27日 13:17
武藝館では、様々な型稽古を練習しますが、私は最初、型稽古というものは、
なにか不自由なもののように感じていました。
しかし、実際、型稽古を通じて修正をしていこうとしているうちに、型以外の
ことをやっていると、自分ではいろいろとやっているつもりでも、実際には
自分の発想や力に捉われていて、その工夫になっているだけで、結局は自分の
範疇を出ることができない、とても不自由な状態なのだと思うようになりました。
その様な状態では、なにも勉強できないですね。
型稽古というものは、とても面白いものだと思います。
 
4. Posted by 小周天   2010年11月28日 12:39
☆とび猿さん
>自分の発想や力にとらわれていて、その工夫になっているだけで・・・

武術的にはこれが一番恐いことですよね。
世の中には、自分以上の人などゴマンと居るわけですから。
私は、武術の世界に限らず《不自由=死》だと思っています。
だからこそ、そこに小さい人が大きな人に、力の弱い人が力の強い人に適うような、
自分以上でも自分以下でもない「術理」というものが研究されたのだと思います。

型稽古は、その術理を理解するにはもちろんのこと、
自分の発想や力というものを認識するためにもとても役に立つものだと思っています。
 
5. Posted by まっつ   2010年11月30日 06:39
対練での相手との関わりというものは本当に難しいです。
稽古を離れて勝敗に拘るのは論外ですが、
相互の理解を求めるつもりで馴れ合いになるのも間違っていると思われます。

如何に自分の拙力が強いと感じられて、其れを弱く和らげてみても、
本質的な自らの状態は変わらないので、其れはただ薄くしただけ・・・
薄い分が余計に分からなくさせてしまうように感じられます。

ではどうすれば良いのでしょう?
常の稽古で求められる1つの心得・・・
「出来なくても良いから、分かる稽古にしなさい」
この教えは深いと、今更ですが思います。

技術の拙劣ではなく、「自分」が分かるようにしてみる事が大事なのだと、
自分の力を確かめるだけではなく、また衝突を怖れて無難に生きる態度でもなく、
ただ剥き出しの「自分」が分かるようにする事。
その経験は誰にとっても厳しい筈ですが、
其処に向かい合えるという機会を得られる事はありがたい事だと思います。
 
6. Posted by ユーカリ   2010年11月30日 13:58
「自分と向かい合うこと」
素の自分が、道場でさらけ出され、日頃自分が見たくない部分、見ないようにしてきた部分が溢れてきます。
少し前まで、それが怖くて、〇が欲しくて、稽古することが苦しかったです。
同じ志を持つ方々の、日頃の太極拳に向かわれる姿や、生きる姿勢に刺激を受け、励まされ、
近頃、素の自分と対話することが楽しくなってきました。
きちんと向かい合うことができない時は、「基本通りに‥…」と言われる基本とどう違っているのかさえわからずにもがくだけです。
これから、正解を求めるのではなく、自分がどのように立ちどうしたいのかをきちんと受け止め、示されていることに合わせていける精神状態でありたいと切に思います。
 
7. Posted by 小周天   2010年12月01日 02:29
☆まっつさん

私は太極武藝館で学びはじめてから、武術とは勝負ではなく、勝負にならないことをいうのでは
ないかと思い至りました。
そう考えると、稽古で指導されていることが一本に繋がるような気がしたのです。
だから、勝負に拘るのも、馴れ合いになるのも、拙力を弱くすることも、
もちろん自分の力を確かめるなんてことも、武術の稽古には当てはまらないと思います。

それでは、どうしたら良いのか。
まっつさんは、稽古で求められる1つの心得として、
「できなくても良いから、分かる稽古にしなさい」という言葉を挙げられましたが、
私には「分かる稽古」が分かりませんでした(汗)。
つまり、できないし、分からない・・と。

そんな自分がたったひとつ分かったことが、「型にはまる」ということだったのです。
それは、”どの姿勢のときに、身体のどの部分がどうである” ということを教えてくれますので、
私はそれだけを一生懸命にやろうとしたわけです。
その結果、自分の在り方の不正が見えてきて、対練での相手との関わり方も見えてきたのです。

「型にはまる」こととは、完全な自己否定です。
殻にくるまっていても、剥き出しでも、それが完膚無きまでにパーフェクトに否定されます。
そこには”自分”を分かる必要も、またそんな時間もないように感じました。

「型にはまる」ことは、あの世に行くようなものですね。
この世で手に入れたものは何一つ持って行けず、この身体さえ持ち込み禁止なのですから!
 
8. Posted by 小周天   2010年12月01日 02:32
☆ユーカリさん
コメントをありがとうございます。

自分のことを思い返しても、マルが欲しいとき、その為に稽古が苦しいときはありましたね~。
分からないことよりもできないことが悔しくて、できないからダメなんだと自分で決めて…。
できるとかできないとか、分かるとか分からないではなくて、
稽古をし続けて、分かろうとし続けていくことが大切なのだと思い知ったとき、
ようやく本当の稽古の楽しさが感じられました。

套路でも対練でも、その対象に没頭させてもらえないと言いますか、
それをやろうとしている自分がずっとついてまわるので、とても勉強になりますね。
 

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