2010年11月08日

練拳 Diary #35 「勁力について その6」

                        by 教練  円山 玄花



 私たちが「勁」というチカラの質について考えたとき、真っ先に思い浮かべるのは、やはり自分が勁を喰らったときの感覚でしょうか。
 その感覚は、至近距離で大砲を撃ち込まれたようであり、槍で突き抜かれたようでもあり、或いはまた、ロープに吊り下げられたまま鳴門の渦潮に放り込まれたようでもあります。
 受けた時の感覚は各々に異なると思いますが、いずれにしても、単純に ”強い” とか ”軽い” というようなチカラではない、ということが言えそうです。


 『・・・勁とは、単純に言えば力という意味なんです。
  だから発勁とは、勁を発することであり、力を出すことを言うんです』

 これは、中国武術研究家の笠尾恭二氏が「対談・発勁の秘伝と極意(BAB出版)」という本の中で語っていることです。笠尾氏はまた、同書の中で「勁力」という言葉についても、『古来より「勁」と「力」の意味合いの差異はなかなか微妙である』とされ、色々な使用例のひとつとして、両方合わせて「勁力」という言葉を使うこともあると言われ、さらに続けて、『これは ”ちから” というのを、やや強調した表現ですね・・・』と、語られています。
 また、40年ほど前に出版された同氏の著書「太極拳技法(東京書店)」には、勁の本来の意味は力であるが、太極拳用語としては単純に「力」を意味するときは少なく、「技」を意味したり、日本武術でよく使われる「気」と同じ様な意味に使うことが多いと記されていました。
 勁については他にも、「秘伝 陳家太極拳入門(松田隆智著・'77年新星出版刊)」の中で、『発勁は「勁(圧縮した強い力)」を発する」という意味である』と、述べられているものもあります。

 しかし私は、勁が「単なる力」や「技」、「強い力」であるという事について、予てより疑問を感じていました。
 確かに自分も、勁というものは「ちから」には違いないだろうと思っていました。しかし同時に、太極拳のように高度な訓練体系を持つ武術が、その根本的なチカラに、わざわざ単なる「力」という意味の言葉を当てるだろうか?、という疑問も生じていました。

 台湾の潘詠周老師(陳発科の弟子)の著書、「陳氏太極拳大全・第二巻」には、『この微妙な勁は太極拳の練法が意を以て気を動かし、気を以て身体を動かすことによる。一挙一動は等しく意を用い力を用いず、意が先に動き、その後形(身体)が動くことであり、意が至れば気が動き、気が至れば勁が動くようにすれば、その動きは軽妙且つ沈着となる』と、書かれています。
 また、武氏や楊氏が太極拳の聖典と仰ぐ王宗岳の「太極拳経」にも、「懂勁(トウケイ=勁を明らかに悟ること)」という言葉が四回も出てきますし、その中には、『由懂勁而階及神明(勁を正しく理解することができるようになれば、技芸のレベルは神明に及ぶ)』と明記されているのです。

 なぜ太極拳独自のチカラを、わざわざ「勁」と称したのか・・・・
 この機会にもう一度、勁という言葉そのものの意味から紐解いてみようと思いました。


 私たちの日常生活では馴染みの薄い「勁」という漢字も、実は人名用漢字として登録されている文字であり、実際に「勁(つよし)」という名前も見られます。
 勁という字には《ピンと張りつめて、つよい。力がつよい》という意味がありますが、これだけでは「強」という字が持つ《つよい。力や勢いがある》という意味とあまり差異がないように思われます。

 ところが、字の成り立ちを見てみると、この二つの文字には明らかな違いが出てきます。

 「勁」という字は、
  《 真っ直ぐに張られた縦糸 》
 というものになりますが、

 「強」という字は、
  《 固い殻のカブトムシ。または、がっちりとした殻を持つ甲虫 》
  《 弓の弦を外した様子。弓の弦を意味し、虫から取った強い弦(天蚕糸・てぐす)》
 という意味となるのです。

 なお、字の成り立ちには諸説がありますが、ここではそれらの説については触れずに、代表的なものを記すに留めます。

 さらに、同じ「つよさ」を表す文字でも「勁」の字に用いられる熟語には、以下のようなものがあります。

 ・勁士 ケイシ(勇気があって性質の強い人)
 ・勁直 ケイチョク(つよく正直なこと。また、そのさま。)
 ・勁草 ケイソウ(風などに折り曲げられない強い草。節操や意志の堅固なことのたとえ)
 ・勁箭 ケイセン(丈夫なつよい矢)
 ・勁疾 ケイシツ(つよくてすばやいこと)
 
 それに対し、「強」の字で用いられる熟語には以下のようなものが知られます。

 ・強者 キョウシャ(つよい人)
 ・強固 キョウコ(つよく堅いこと。しっかりして確かなこと)
 ・強忍 キョウニン(がまんづよいこと。忍耐力がつよいこと)
 ・強情 ゴウジョウ(意地をはり通すこと。頑固で自分の考えを変えないこと)
 ・強気 ツヨキ(気のつよいこと)


 このように、意味と成り立ち、そしてその字が用いられる熟語の二つを比較してみると、「勁」はピンと張られた糸や弦に生じているところの強さを表し、しなやかに動くけれどもクニャリと曲がったり折れたりすることがないものである、と言えそうです。
 それに対して「強」は、弓から外されたところの弦や、カブト虫の固い殻のような強さを表していると言えるでしょうか。

 また、特に「勁」という字については《 垂直のもので、力のはたらく状態を勁という 》と明記されてます。これを初めて知ったときには、まさに太極拳で要求される要訣と見事に一致するではないか!!・・と、大いに驚いたものです。

 実際に、架式が整えられた人に対して触れに行ったときには、どこに触れようとも、突っつけば揺れるようなしなやかさがありながら、押していっても全くビクともしません。
 もちろん、体内で密かに強大な神秘のパワーが蓄えられているようにも見えません。
 それは、ひとたびピタリと密着すると、接点の感覚は何も変わらずに、突如身体が芯から揺さぶられ、とうてい自分ではその格好、その速さでは決して動けない状態で吹っ飛ばされていくのです。稽古では接点に受けた極めて軽い感覚と、自分の身体に生じた激しい衝撃力とのギャップに中々ついていけないことが数多くあり、それが恐しくも面白くも感じられます。

 また、これは多人数で関わった場合も同じです。
 拙力でもある程度なら人を動かすことは可能ですが、例えば5〜6人に一斉に壁に押さえつけられた場合や、グルリと取り囲まれてじりじりと詰め寄られたときなどには、日常的な力ではちょっと無理があります。しかし、「勁力」であれば難なくそれを突破することが可能になるということを、私たち門人は毎回のように稽古で目の当たりにしています。

 たとえ拙力でも、相手の力が自分よりも小さいうちは対抗できますが、自分よりも大きな力が来た場合には、先に述べた「強」の字の如く、まるで甲虫の殻が割れるように、ある時点で限界がきてしまって屈するしかありません。
 それが勁力であると、自分よりも大きな力に対して自分以上の力を出す必要がないために、一人一人に対応することができ、結果として多人数に対してもそれを働かせることができるわけです。
 このようにして、「勁」の字義と実際に受けた感覚とを合わせて検証してみると、なぜ太極拳がそのチカラに「勁」という字を充て、勁を識り、勁を練り、勁を理解するために事細かな訓練体系を確立したのかという、その意味が少し分かってきたような気がします。


 ところで、「勁」というチカラには、もうひとつ「拙力」と異なる点があります。
 それは、拙力では、その力を働かせるには必ず「接点」が必要となるのに対し、勁力ではそれが必ずしも必要ではないということです。つまり、勁は離れていても作用する、ということです。
 私たちの稽古では、推手のように最初から相手に触れて行うものであっても「卵が割れない程度のチカラ」以上にならないことが原則とされます。それは、単に力が衝突しないためだとか、柔らかさを追求するためのものではありません。
 余談ながら、稽古で師父に飛ばされる時は、非常に撓(しな)やかではあっても決して柔らかくは感じませんし、門人同士で崩し合う際にも、柔らかさのために身体の動きを工夫するようなことは全くありません。それはひたすら、「強い力」や「堅い力」ではなく、鞭のようにしなやかで、電気のように、スイッチを入れたら瞬時に通電するようなチカラに感じられるのです。

 相手と接するときに「力み」が否定されるのは、ひたすら「放鬆(ファンソン)」を理解するためだと言えます。そして、そのことが相手と離れていても勁力が作用するということと、密接な繋がりを持ってくるのです。
 離れていても作用を受けるというのは、たとえば相手に掴み掛かって拘束しようとしたときや、棍や刀で斬りつけに行ったときに、こちらの攻撃が届く前に無効にされてしまう状態を言います。
 かつて当館のホームページで、師父が相手に触れずに崩す動画をコマ送りで公開したことがありました。掲載されたのはほんの一週間ほどの期間でしたが、それをご覧になった外部の方に、「円山老師の空間制御!」などという表現を某掲示板に出されたことがあります。
 その時の ”空間制御” という言葉が、なかなか言い得て妙であると思えたものでした。


 さて、こちらの攻撃が届く前にそれを無効にされた場合は、攻撃すると同時にひどく崩されてしまい、もしその状態のときに反撃を喰らったらひとたまりもないと思えるものです。
 その様子を周りで見ていると、掛かっていった人が師父の周りをひとりで走り回っているようにも見えてしまうのですが、当の本人にしてみれば、もう大変なことです。
 『これは、普通の人には信じてもらえないだろうね』と仰る師父に、勁を受けて走り回っていた門人が息を切らせながら、『いえ、やられている自分にも信じられません!』と発言した時には、皆で大笑いをしたものです。

 また、実際に手を触れずに相手が崩れる状態を、師父は『これは ”気” じゃないからね!』と、わざわざ断って言われます。
 『これは、純粋に太極拳の要求通りに身体を整えた結果であって、いわゆる ”気” の力ではなく、纏絲勁なのです。気は自然に働いているのでしょうけれど、私が故意に身体に気を溜めようとしたり、意識的にそのようなものを相手に向けて発するようなことは一切していません。念のため・・』と言われるのです。

 師父は常々、私たち門人に対し、太極拳を科学の目で観て、深く研究するよう仰います。
 自分にとってワケの分からないことを「気」や「神秘」の衣に包まず、すでに示されている基本の拳理拳学と訓練体系に照らし合わせてみれば、そこには極めて単純明快な、誰にでも解き得る「武術の仕組み」が浮かび上がってくるように思えました。


 ・・・さて、このブログには、六回に亘って「勁力」について書き綴ってきました。
 このシリーズで書いてきたことは全て道場で教えられたことだけであり、「勁」を学ぶにあたっての基本的な認識を述べさせて頂いたに過ぎません。私にとっても、「勁の本質」についての探求は、まだ始まったばかりだと言えます。

 そして、私が勁の本質を理解しようとしたとき、どのような角度からそれを探ろうとも、必ずひとつのことに行き当たりました。それは「架式」です。
 「勁力は、架式の整備なくしては微塵も生じるはずもない」とは、このシリーズの中で幾度となく記してきたことですが、つまるところ、勁の追求とはそのまま架式の追求であると言っても過言ではないと思います。
 そして、架式を追求していけば、自ずと架式の根源である「無極椿」に帰結せざるを得ません。だからこそ、訓練体系は「站椿」に始まり、すべての練功を「形」として練り、さらに相手を含めた「形」として推手や散手を練るという方法が順序よく、効率の良い学習方法として用意されているのだと思います。

 そのように順序立てて「勁力」というものを考えていくと、それは決して自分の中にたっぷりと溜めてから相手に向かって爆発させるようなものではないということが見えてきます。
 「勁」というのは、縦糸をピンと張るように、身体をある状態に整えれば誰にでもはたらく、極めてシンプルなチカラなのだと思います。

 ならば、その整え方、整備の仕方が奥義秘伝として隠されているのかと言えば、決してそうではありません。そのための要求も、整え方も、その全てが、すでに一般に公開されていることばかりです。
 但し、それらの要求をきちんと活かすには、それを正しく読み解く作業と、そこに自分勝手なものの見方や考え方を挟まないということが必要不可欠であると言えます。

 何ゆえに、「無極椿」が最重要である、とされるのか。
 何ゆえに、「無極」の理解なしに太極拳は理解できない、とされるのか。

 私はそこにようやく、私自身の太極拳の始まりを見たような気がしました。


                                    (了)

xuanhua at 22:57コメント(14)練拳 Diary | *#31〜#40 

コメント一覧

1. Posted by bamboo   2010年11月09日 20:50
勁について書いた本は多いですね。入門するまでこれにいくら使ったことか・・ビデオも高い。
結局は(こうかな?)という漠然とした練習のままで、思い切り拙力でしたが。

稽古の中で、まさに勁を喰らってようやく字の意味・質を実感できた気がします。

無極、太極・・老子の道徳経を思い出しました。
無極は何もないことではなく、陰陽(虚実?)が分かれていない状態だと認識しております。
もしそうだとすれば・・フフ・・
 
2. Posted by タイ爺   2010年11月10日 09:12
そうそう、私も無極の「無」は何も無い「無」と思っていましたが、ある本によると無限「無」であると書いてあり頭を殴られた感じがしました。
無いのではなく無限にそこにあるわけですから、無極を理解しない限り太極は理解できないということになりますね。

また逆に言えば実態が何も無いものを理解するのは難しいけど実態が無限にあるわけですから理解しやすいとも取れるわけで(脳天気思考)・・・。

なんだか「無」ばかり多いお経のような文になってしましました、すみません。
 
3. Posted by のら   2010年11月11日 16:08
「勁」と「強」というふたつの文字の例を出されて細かい解説があり、大変勉強になりました。
私が持っていた感覚は、常に「強」という字が示す「つよさ」の理解でした。「スポ根」物の強さや、我慢、忍耐、頑張る、などという強さが永らく自分の「つよさ」のイメージであり、「勁」という種類の「つよさ」への認識など、太極拳に出会うまでは全く無かったと思います。
稽古で教わる内容が、そのような「強さ」では無いものであるということは大きな発見です。
自分の見識を大きく広げていかなければ、本物の太極拳は理解できないと、つくづく思えます。
「つよさ」にも色々あるわけで、何であれ、その理解の範囲を広げて行かないと本当のことは見えてこないのだと思えました。

また、「無極」というのは「何かが無限に極まった状態」ではなく「極が無いこと」を表している言葉なので、大切なのは「無」の意味よりも「極」が意味することへの認識ではないかと、私は考えています。
「極」の文字は、元は木材の一種を表す文字で、「端から端に渡された棟木」を意味しているそうです。それを知った時には、だから木偏が付いているのかと、ようやく納得させられました。
また、木偏の右側の旁(つくり)は、両端に線を引いた間に人が入っていて、その頭のてっぺんから足先までを表したものだということです。
「無極」とはつまり、何処から何処、右か左か、上か下か、正か負か、剛か柔か、虚か実か・・・などといった、「範囲」「偏り」「極性」そのものが無い状態と言えるでしょうか。
 
4. Posted by 円山玄花   2010年11月11日 16:54
☆bambooさん

>勁について書いた本は多いですね。
確かに多いです。
しかし残念なことに、自分が納得できるものは少なかったです。
それが、今回の記事に書いたような「勁」という字義に辿り着いたとき、
武術家ではなくて漢字学者が説明していることなのに、もの凄く納得できたのです。
なるほど・・・と。
もしかしたらそれは、道場で毎回「無極」の重要性を思い知らされるような稽古を
受けていたからかもしれません。

>無極
これこそ、何百という書物を読んでも理解しがたいと思われているようですが、
それを知る師に正しい説明を1回受ければ、すぐにでもそれを体験し、
実感することができます。自分の身に付くかどうかは、その先の話ですが(汗)、
まずは正しい認識を持たないと、何も始まりませんね。
 
5. Posted by 円山玄花   2010年11月11日 16:58
☆タイ爺さん
コメントをありがとうございます。

「無極」の意味を、「果てのないこと」や「限りのないこと」として解こうとすると、
私などには難しく思えますが、太極拳が武術として、なぜ無極椿のようなただ立つだけの
練功を重要としているのかは、今なら少し分かります。
それは放鬆を体験し、架式を学び、弸勁(ポンジン)を実感することができます。
そこから僅かでも動いたときには拙力ではなく勁の働きを感じられ、
太極拳の原理を理解するに至るのだと思います。
そうすると、無極が何ゆえ「限りのないこと」であるのかも、見えてくる気がしました。

・・もちろん無極椿はサラリと言えるほど容易ではありませんが、
こうも見事なまでに学習システムを表す練功が他にあるだろうか、と思います。
そのシステムの一端に触れる度に、太極拳は「武功の藝術」であるとつくづく思えるのです。

コメントバックのはずが、「無極椿」のお話になってしまいました。(汗)
「勁力シリーズ」は今回で最後になりますが、
今後は纏絲勁や発勁についても書いていきたいと思っています。
今後ともよろしくお願いいたします。
 
6. Posted by 太郎冠者   2010年11月11日 18:33
武術の修練をするにも、「力」の発想からはじめるか、「勁」の発想からはじめるかでは、大きく変わってしまうように感じます。

力を使うものであれば、極端な話、無極椿や架式という考え方など全く必要でなくなってしまうのではないでしょうか。

勁の理解を求めるのであれば、当然の帰結として、無極椿と架式の整備へと行き着くことになるというのは、体系として太極拳を見る際の、面白いところだと思います。

人間に内包されたこういう作用に気づき、体系を作り上げた上で「勁」という漢字を当てはめた。
その発見が、本当にすごいな・・・と、思います。
 
7. Posted by 円山玄花   2010年11月11日 19:37
☆のらさん

もしも太極拳の「つよさ」を「強さ」と勘違いしてしまうと、站椿をはじめとする
数々の練功は、全て方向違いのものになってしまいますね。
今回の記事がのらさんのお役に立ったのでしたら、とても嬉しく思います。

「無極」については、私も「極が無いこと」つまり「偏りがないこと」と認識しています。
それ故に、ひとたび意が働けば自在に動くことが可能になるのだと思います。

>大切なのは「無」の意味よりも「極」が意味することへの認識・・・
ああ、もう、本当にそうですよね。
このような勉強の仕方であれば、自分勝手な考えを挟むこともなく、
太極拳を学問として学ぶことができるのですが、なまじ”武術”という聞いたようなことが
頭に入っていると、なかなか勉強を進めることができませんね。
理解するべきは自分自身であって、
何かを本当に学べるのはその後のことなのかもしれません。
 
8. Posted by 円山玄花   2010年11月11日 19:42
☆太郎冠者さん

発想の違いというのは、面白い・・というよりも、恐ろしいですね。
ほんの小さな違いが、5年経ち10年も経つと、とんでもない間違いに発展してしまいます。
そう考えると、良い師に巡り会えることは、とても大切なことだと思えます。

>力を使うものであれば・・
無極椿で立つよりも、ウェイトトレーニングや走り込み、縄跳びにスクワットをやった方が、
よほど効率が良く、自分に生じる実感も大きいはずです。

>勁の理解を求めるのであれば、当然の帰結として、無極椿と架式の整備に行き着く・・
これは、文章に書いてしまうとただの一行なのですが、
自分がこのことに行き当たったときには、暫く思考が停止したほどのショックを受けました。
オーバーでなく、全身に衝撃が走りました。そうだったのかっ!!・・と。
もっとも、自分で稽古しているとそんなことばかりなのですが。
太極拳は、その解き方によって見え方が異なる、ナゾナゾのように思えます。
 
9. Posted by マルコビッチ   2010年11月11日 22:26
漢字の意味はおもしろいですね!
勁と強の違いがとてもはっきりして、実に面白いです。

私は武術などの本をほとんど読んだことがありません。
あまり読む気になれなかったというのもありますが、
師父に教えていただくことで手一杯だったということもあります。
ですが最近、内を知るには外を知らなければ、自分たちのやっていることが
どんなことなのかわからないと思うようになりました。
たくさん資料映像も出して下さっていることですし、まずは、このHP、ブログで
もう少し積極的に勉強します!
何せ、あまりに恐れ多いような事を、師父にお聞きしたり言ったりしているようなので・・(汗)

しかし、師父の勁を受けた人は皆さん苦痛に顔をゆがめるのではなく、
驚きの表情とともに笑っていますよね!
私なども、何故か声を出して笑ってしまいます。
あれが拙力だったら泣いてますよね!

玄花さん、勁力についてのシリーズありがとうございました!
また1から6まで読み直して、勉強させていただきます!!
 
10. Posted by まっつ   2010年11月12日 00:16
「勁」「強」の意味を字義から読み解くと・・・
「勁」が張られた弓弦に生じている状態(質)を示しているのに対して、
「強」が弓弦自体の強度(量)を意味するという、
その対照的な関係が非常に面白いです!

張られた弓の在り方自身も、自ずから定まる「形」によって、
矢を放つ事が出来るのだと考えると、
日々の稽古で指し示して頂いている内容の意味を、
イメージから直感的に理解し易いと感じました。
漢字の文化とは奥が深く偉大なものですね。
 
11. Posted by 円山玄花   2010年11月12日 17:31
☆マルコビッチさん

「違い」をハッキリさせることは、とても大切ですね。
それは二つのモノの各々を認識できるということと、ひとつだけでは認識できなかったことが、
もう一つを比較対象に持ってくることで、より鮮明に見えるようになるという利点があります。
「勁」と「強」の漢字もそうですし、マルコビッチさんの言う「内」と「外」もそうですね。

稽古でも、「姿勢を比べてください」ということをよく言いますが、見比べて欲しいのに、
師父の姿勢だけを一生懸命見ているような人を見かけます。
自分との「違い」が分からなければ、直しようがないだろうと思うんですけどね。
反対に「違い」が分かれば、たとえその場でできなくとも「わかる」ということが起こり、
それまでの自分からその瞬間に一歩前進しているのです。
そして、二度と元の自分には戻りません。
そのような「仕組み」が分かると、稽古も仕事も面白くなってきます。

勁力シリーズを最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
私自身も勁力に対する認識を新たにするなど、たくさんの勉強をさせていただきました。
 
12. Posted by 円山玄花   2010年11月12日 17:35
☆まっつさん

>張られた弓の在り方自身も・・・
そうなんです。弓がもしあの形でなかったら、あのように矢は飛びません。
また、たとえ勁弓(けいきゅう・張りの強い弓)を用いても、
引く人の姿形が射法(射術の法則)を外れていては、やはり矢は飛ばないのです。

「自ずから定まる形」とは、取りも直さず自分に何も加えないこと、
基本として示されていること以外を持ち込まないことによって、見えてくるものです。
「自然に、あるがままに」ということを、「本能に依存する態度」と捉え違いをしていては、
そこに示されている規矩が見えるはずもありません。

太極拳の学習にまず「無極椿」が置かれているのも、決して身体機能開発のためだけではなく、
学習者の心構えと在り方をこそ、教えてくれるからに違いないのです。
 
13. Posted by 春日敬之   2010年11月13日 00:43
勁力シリーズの最終回に相応しい、大変勉強になるお話を有り難うございました。
漢字は全て象形なので、それが何を表しているのかを解いていくことが出来ますね。
その意味では太極拳の架式や手形なども、とても漢字の構成と似ていると思います。

太極拳では「手偏に朋」と書く「ポン」いう文字が用いられますが、もとの字は「弸」、つまり
「弓偏に朋」と書いたものを、おそらく武術家が手偏に変えて使い始めたのかも知れません。
四正手の全ての文字を手偏で統一したい、などといった観点から生まれたのかもしれませんが、
弓偏を手偏に変えることによって、「弸」で表現される勁のチカラに技法や動作を表す意味を持たせようとしたのだとも思えます。

しかし、「勁」という文字は武術家が造ったものではなく、武術家たちが大いに悩んだ末に、古くから在る文字からそのチカラを表現するのに相応しいと認め、選んだものに違いありません。
その文字に表現されている象形の意味こそ、高度な武術が求めて止まないチカラを十全に表現するものであったのだと思います。

そんな字が「強」という字と同じ意味であるはずもありません。
繭から取った「強い糸」を表す「強」を、敢えてその独自のチカラの表現に用いず、そのような強い糸が「真っ直ぐ垂直に張られた状態」を表す「勁」を、そのチカラに相応しい表現として選び、永い歳月を経た今も変わることなく私たちに示されているわけです。

>撓(しな)やかではあっても決して柔らかくは感じませんし

よく太極拳は ”柔らかいのが当たり前” の如く言われることが多いのですが、「勁」という文字の中には「柔らかさ」という内容は見当たりません。
「撓やかさ」というのは「決して折れ曲がらないやわらかさ」であって、「柔らかさ」というのは「曲げれば折れてしまうような柔軟さ」であると、師父から伺ったことがあります。
 
14. Posted by 円山玄花   2010年11月14日 04:14
☆春日さん
コメントをありがとうございます。

>太極拳の架式や手形なども、とても漢字の構成と似ていると思います。
確かに似ていますね。手形はそれ自体が主体となって架式を決めるわけではありませんが、
手形なしに架式は決まりませんし、架式なくして手形が定まることも有り得ません。
つまり、我々にとっては架式を正しく整えるためのガイドラインになると思います。

そのような意味でも、勁という字や四正手の文字などが今日まで失われずに
伝えられていることは、とても有り難いことですね。
私たちは、それらのことをごく普通の、当たり前のこととして受け取らずに、
自分の手でもう一度読み解く作業が必要だと思います。

それにしても、「勁」という字の意味から字源まで、つくづく美しいと感じます。
「勁力」という言葉の「勁」の文字を他の漢字に入れ替えてみても、しっくりきませんでした。
 

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